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執拗さから生まれる『羣青』の息苦しさの話

昨日の続きで、『羣青』についてまた少々。読了前提の話なので、未読の方は回れ右が吉。買って読んでもう一度回れ右
が大吉。

羣青 上 (IKKI COMIX)

羣青 上 (IKKI COMIX)

昨日の記事(執拗さから生まれる無二の物語 『羣青』の話 では、この作品は執拗な物語である、と書きました。

とにかく執拗な漫画でした。私が今まで読んだ中で、もっとも執拗に人間のある側面を描きつけた漫画です。不定形にうごめく彼女らの感情は、同じでようでありながら形を変え、あるいは口にする者を変えて何度も表に出され、状況が変化する中でまたその形も変わり、少しずつ少しずつ、彼女らの核心にもぐっていく。

この「執拗さ」というものについてもうちょっと考えてみたいと思います。私はこの作品の執拗さに、息苦しさを覚えました。
執拗であるとはしつこいということ。何についてしつこかったかと言えば、「私」と「あーし」の感情の描写についてです。
何度も何度も何度も何度も、終わりから最後までずっと、揺れ動き続ける二人の感情が描かれます。「揺れ動く」というのも違うかもしれません。揺れ動くというよりは、ぐるぐると回る。好き、嫌い、憎い、寂しい、殺したい、殺されたい、どうにかしたい、どうしようもない。いくつもの気持ちが様々な場面で幾度となく顔を出し、その度にまた別の感情の覆われて隠れていく。そうしている内に感情は渦をなし、あたかも渦の中心がへこんでいくようにして、心の奥の底の底にどんな感情が隠れ続けていたのかが見えてくる(そしてその感情こそが、下巻p532-3の見開き)。
ぐるぐる回るのは、描かれる彼女らの感情に決着がつけられていないからです。決着がつけられないからまた同じことを、わずかに変奏して描かなければいけない。
感情に決着をつけないとは、別の言い方をすれば、感情に理屈・理由・説明をつけない、ということです。現れては消える、対立する感情たちを一つにまとめようとしないということです。
感情をまとめるとは、そこに一つの物語を作るということです。なぜその感情が生まれ、どういう経過を経て、どのように自分の中で収めたのか、という一連の流れ。それが感情の物語。
そうしてパッケージングされた感情とは、つまりは整理がなされたもの・筋道をつけられたものであり、読み手にとっても呑みこみやすいものとなります。でも、この作品ではそれがなされない。現れ、荒れ狂った感情は整理されることなくまた別の感情に追いやられる。そうして未整理の感情が溜まっていく。読んでるこちらとしても、呑みこみがたいものを肺腑に無理矢理突っ込みながら先を読み進めるから、もう息苦しくてたまらない。
未整理の感情の渦とは言ってみれば、息継ぎなしの素潜りみたいなものです。感情がいったん整理されれば読み手もそこで息継ぎができるのに、とっちらかり続ける感情で水面は塞がれ、深みへと引きずり込まれていく。あるいは、未整理の感情というバラストが水面に浮かぶことを許してくれない。
この、未整理のまま居座る彼女らの感情こそが息苦しさの正体であり、何度も執拗に描きつけられことでそれは増え続け、私の心はアップアップになるのです。
ただ、この極限までの息苦しさがあるからこそ、あの見開きの解放感たるや筆舌に尽くしがたい迸りとなるのですな。
とまあそんな感じの、『羣青』に感じる息苦しさの話でした。ちょっと比喩的な話に偏ってしまった気がするので、反省はしている。



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