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「HUNTER×HUNTER」から考える倫理と社会の話 キルア編

ゴン編に続いての、キルア編です。
※27巻までの話を元にして書いてあります。コメント欄等での本誌連載分のネタバレはご遠慮ください。

HUNTER X HUNTER27 (ジャンプコミックス)

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キルア初登場 当初の彼はどんな奴だったか

キルアの初登場は第6話。“新人つぶし”のベテラン受験者・トンパが用意した強力下剤入りジュースを、何かしこまれているのを承知で飲み干し「オレなら平気だよ 訓練してるから 毒じゃ死なない」とニヒルに言い放つ、カッチョイイお披露目シーンでした。
それからも試験の最中のゴンとの会話で

オレ? 別にハンターなんかなりたくないよ ものすごい難関だって言われてるから面白そうだと思っただけさ
(1巻 p158)

そんなことよりヒソカから離れた方がいい あいつ 殺しをしたくてウズウズしてるから 霧に乗じてかなり殺るぜ
なんでそんなことわかるのって顔してるね 
なぜならオレも同類だから 臭いでわかるのさ
(1巻 p176,177)

と、危険な匂いを振りまいていましたが、そんな彼の家庭環境が明かされるのが13話。

「キルアの父さんと母さんは?」
「ん――? 生きてるよ――多分」
「何してる人なの?」
「殺人鬼」
(中略)
「オレん家暗殺家業なんだよね 家族ぜーんぶ
そん中でもオレんすげー期待されてるらしくてさー でもさ オレやなんだよね 人にレールしかれる人生ってやつ?
『自分の将来は自分で決める』って言ったら親兄弟キレまくりでさ―― 母親なんかオレがいかに人殺しとして素質があるかとか 涙ながらに力説するんだぜ
結局ケンカになって母親の顔面と兄貴の脇腹刺して家おん出てやった! 今ごろきっと血眼さ!!
ハンターの資格取ったらまずうちの家族とっ捕まえるんだ きっといい値段で売れると思うんだよね――
(2巻 p95,96)

家族丸々暗殺家業に手を染めている一家。どう逆立ちしても、それを真っ当な家庭環境とは言えません。「ハンタ」の世界、特に職業としてのハンターの世界では生命の価値が現実の私たちのものより低く設定されている(生命が至上価値とは呼べない)とは前回の記事でも触れましたが、それでも殺人行為が反社会的であることは疑いようがありません。「(ハンターになれば)人を殺しても免責になる場合が多いしね」(4巻p119)とはヒソカの弁ですが、これは裏を返せば、基本的に殺人行為は責を問われるということです。現実世界よりも命が幾分軽かろうとも、決して社会通念として路傍の石と同価値と看做されているわけではありません。
とまれ、そんな家庭環境で育ち、現実に自分自身暗殺に手を染めているキルアにとって殺人行為は心理的抵抗が極めて低く、それはクラピカの「キルアにとって殺しは日常のことで 倫理的抑制が働かなくても不思議はない」(5巻p35)という言葉通りでしょう。三次試験移動中の飛行船内で身体がぶつかっただけの受験者を惨殺、三次試験の対ジョネスと、人を殺すことになんら痛痒を感じぬキルアの性質は明確に描かれています。

暗殺者キルアの変化

にもかかわらず、最終試験でレオリオと対戦中のボドロを殺して以降キルアが人間を殺した描写は存在せず、アリ編に入って初めてヒト型の生物を殺傷するのです。*1天空闘技場でサダソに殺気をこめた脅しをかけたり、一旦捕まった旅団から逃げ出そうとする時に念糸を切ろうとマチを殺そうとしたりしますが、結果的には一人も殺していないのです。
二度目のハンター試験の際には、他の受験者を一人も殺すことなくわざわざ気絶させ、ネテロに「ずいぶん成長して戻ってきた」と言わしめました。腹立ち紛れに人を殺していた一年前とは大違い。「これ以上ないという程正確かつ素早く首に対して衝撃を与え」るくらいだったら、そんな手加減せずに殺してもかまうもんかと攻撃をした方が遥かに楽でしょう。この時キルアの心理には、「殺しをしない」という規制が強く働いていたはずですが、その様子を彼は感じさせません。天空闘技場でズシを助けたときには「殺しやめるのって けっこう大変だな」(7巻p55)とやりにくそうにしていた彼が、1500人弱の人間に面倒くさい一撃をいちいち与えた後だというのに、少し大儀そうな笑顔を見せるだけなのです。これは確かに「成長」でしょう。
さて、このような心理がいつ頃から生まれたかといえば明らかに、ハンター試験を終えて一度家に帰り、改めてゴンと合流してからです。家に帰ったキルアは獄に繋がれ、「反省はしてないけど悪いとは思ってる」ために甘んじてミルキの鞭を受けていましたが、冗談交じりに彼が「執事に言って三人(ゴン、クラピカ、レオリオ)を殺させる」と言った瞬間、それまでの余裕を消し去ります。

三人に手を出したら 殺すぜ?
(5巻 p131)

前々回の「ハンタ」についての記事の中で、ゾルディック家の「身内は大事」の理念の特徴としてこんなことを書きました。

仕事のためには自分の命を当たり前のように投げ出し、また身内の命を当たり前のように奪おうとする。
(中略)
そんな彼らも仕事を離れれば、子どもを思い、兄弟を思い、親を思う「身内は大事」の理念が顔を見せます(その「大事」の仕方が歪だとしても)。この二元性と二面性が、ゾルディック家の倫理観の特徴です。

一家揃って暗殺家業のゾルディック家にとって仕事の優先順位は不合理なまでに高いですが、仕事さえ絡まなければ親密度の高い家族であり、それはキルアも例外ではなく、「反省はしてないけど悪いとは思って」実力的には遥か格下であるはずの兄・ミルキの鞭を甘受していたのです。
ゾルディック家が一般人、というより家族以外の人間とのプライベートな交流がほぼ絶無であるというのは、作中で明言されています。

キルア様に友達などいません
(中略)
ゾルディック家は暗殺を生業にしている 自然 敵も増える 
余計な外敵から主を守るのは執事われわれの勤め
(5巻 p91、93)

「お前 新顔だな」
カナリアと申しますキルア様」
「これやるよ」
「いいえ お気持ちだけで十分です キルア様」
「様とかつけんなよ キルアでいいよ」
「そうはいきません 私は使用人 キルア様は雇い主ですから」
「なんだよー いいからさー オレと友達になってよー」
「申し訳ございません キルア様」
(5巻 p127)

でも 暗殺者としては失格だよ ムラっ気があってさ
友達なんか作ってる奴にゾルディック家は継げないよ
(5巻 p134)

家族以外の知り合いなどほぼいないゾルディック家*2で成長したキルアに初めてできた友達、ゴン(とクラピカとレオリオ)。彼(ら)はキルアにとって、初めてできた友人だけに、それまでの唯一の係累であった家族を殺すことさえ厭わないほどに大事なものになっていたのです。
初めてできた友人からキルアが得た影響が小さいものであろうはずがなく、それはイルミの言うように「まぶしすぎて測り切れない」ものなのです。
イルミに今の望みを問われて、搾り出すようにキルアは吐露します。

ゴンと… 友達になりたい
もう人殺しなんてうんざりだ 普通に ゴンと友達になって 普通に遊びたい
(5巻 p13)

ゴンと同い年の少年が苦しげにそう言う姿は、レオリオとクラピカに彼の今までの生活の凄惨さを想像させるに十分なものでした。
キルアのこの言葉は、家を出るときのシルバとの会話においてさらに強化されます。

「もう一度聞く 仲間に会いたいか?」
「うん!!」
「わかった お前はもう自由だ
だが 一つだけ誓え
絶対に仲間を裏切るな いいな」
「誓うよ 裏切らない 絶対に」
(5巻 p142,143)

噛み切った親指同士を合わせる、まさに血の誓いでもってキルアの言葉は誓約されました。シルバのこの行為が、心からキルアを思ってのことなのか、それとも大局的にゾルディック家の行く末を慮ってのものなのか、確たることは言えませんが、おそらくそれは両方で、前者の感情が皆無ということは言えないと私は思います。


ゴンと行動を共にするようになったキルアが最初に赴いたのは、天空闘技場でした。ここは強ければオールオッケーの野蛮人の聖地、カストロを殺したであろうヒソカに観客や審判から非難や警告を与えられる描写が一切なかったことからも、ここでは(試合中なら)殺しさえも容認されていることがうかがえます。それでもキルアは殺しをしなかった。サダソを殺すこともしなかった。その方が手っ取り早いのに。

ふう―― カタギはつれーぜ
殺しやめるのって けっこう大変だな――
(7巻 p55)

キルアは、暗殺家業の家族から抜け出て、ゴンたちのいる表社会に所属しようとした(カタギになろうとした)ことで、殺しをやめました。
前回の記事で「倫理観とは社会的なもの、つまり、自分が属している社会を維持するためにその社会内で承認・推奨されている様式」と私は言いました。キルアが今まで所属していた社会はゾルディック家。何度も書いている通り暗殺を生業としている彼らにとって、他者(非身内)の生命は奪う対象でしかありません。一般社会の倫理観では容易に肯うことのできぬ殺人行為も彼らにとってはただの仕事。畑を耕したり、料理を作ったり、株を売り買いしたりするのと変わらないのです。
キルアもそれに則って12年近い歳月を生きてきたのですが、家から離れゴンと行動を共にするからにはその倫理観を持ち続けることはできません。ゴンが決して倫理的な存在ではないとは前回書きましたが、それとは無関係に、社会の中で生きる以上倫理は彼の周りに常に存在します。郷に行っては郷に従え。表社会の住人と付き合うには、自らもその倫理を受け入れざるを得ないのです。

暗殺者に必要なもの そしてその意外な副産物

さて、ここで少し不思議に思えるのは、なぜキルアは表社会の倫理をすぐに理解し受け入れることができたのか、ということです。

お前は熱をもたない闇人形だ
自身は何も欲しがらず何も望まない 陰を糧に動くお前が唯一歓びを抱くのは 人の死に触れたとき
お前は親父とオレにそう育てられた
(5巻 p11,12)

実の兄がこう宣うほどの歪つな家庭教育。にもかかわらず、キルアが表社会の倫理を受け入れられたのはなぜか。
ゾルディック家が独特の社会/倫理を構成していて、それが表社会の中で通用するものではないと言っても、そのゾルディック家自体、表社会がなければ存在できないものです。暗殺を生業とするには、それを依頼するものがいなければ商売として成り立ちません。いくらゾルディック家が反社会的でも、それは社会が存在するがゆえの「反」社会なのであって、主がなければ存在できない従の地位。決して表社会に対して優越していたり、それどころか対等に伍している関係ですらないのです。
そんな彼らが表社会からの依頼を遂行するには、表社会の倫理を知らなければいけません。倫理というと奇妙かもしれませんが、表社会の仕組みやルール、マナーなど、そのテのことを知らなければ確実な任務達成は難しいのです。現に、十老頭暗殺をクロロから依頼されたイルミらは、十老頭をただ殺すだけではなく、集まったマフィアの頭領達を宥められるように殺した十老頭の一人を操りました。これはその社会の倫理/論理を知らなくてはできない芸当です*3
つまり、暗殺者として仕事を遂行するためには、表社会の倫理についてある程度以上知っていることが必要とされるのであり、ために、ゾルディック家を抜けたキルアが表社会の倫理に属そうとして、それに苦労を覚えながらも成功しているのは、決しておかしなことではないのです。


こうして考えると、ゾルディック家の倫理を骨の髄まで叩き込まれたキルアが、実は複数の社会の倫理に精通し、その社会に沿った振舞いを意識的に選択できるのがわかります。
アリ編での対ユンジュの部下にて、ボドロ以来実に14巻ぶりにヒト(型の存在)を殺したキルアは、その際にこんなことを考えています。

迷わず 殺せ!
久々に スイッチ 入れるか
(19巻 p90)

殺すことを自ら禁止していても、それは意識してのことに過ぎない。心のスイッチさえ切り替えればいつでも、誰かを殺すことを厭いもしないゾルディック家の倫理を適用できる。キルアは己の振舞いを意図的に、意識的に、選択的に、環境に応じて切り替えることができるのです。

空気の読めるキルア 読めないゴン

この点は、彼の裏側とも呼べるゴンと実に対比的です。ゴンはどんな状況だろうと自前の倫理/論理を押し通し、環境/社会に対してそれを応じさせようとはしません。
前回の記事では、ゴンの限定的な公正さという話をしました。彼は、その場その場に応じて、限定的で一回性の強い倫理を場の成員と共同で立ち上げる、と。ですがそれは、もともと通用していた倫理を一旦破棄すると言うことでもあります。他の人間は暗黙の内に/無意識の内に従っている倫理を自分が納得してないからという理由で否定し、新たな倫理を打ちたてようとする。
ハンター試験の最終試験での対ハンゾー戦、真っ向から戦えばどう逆立ちしても勝ち目のないハンゾーに対し、生殺与奪の権を握られながらもゴンは、己の論理を貫きました。

「脚を切られちゃうのはいやだ! でも降参するのもいやだ!!
だからもっと別のやり方で戦おう!」
「な…っ てめ――自分の立場わかってんのか」
(4巻 p154)

残った九人の中で落ちるのはたった一人、組み合わせが偏っているとは言え全員に複数回のチャンスがある、一風変わった、いっそ優しくさえ思えるようなシステムだけれど、残った面子のことを考えればその実とんでもない決闘システム。拷問にも似たハンゾーによる一方的な戦いの中、試合会場は張り詰めた空気に包まれますが、ゴンのこの発言でそれは一変します。「さっきまでのあの殺伐とした空気が 一瞬にしてこんなにゆるん」でしまったのです。「強い方が勝ち」ではなく「まいったと言わせた方が勝ち」というルールを逆手に取ったゴンの作戦勝ちのようにも見えますが、見方を変えればこれは、試合の、会場の空気に従うことなく己の論理を貫いたゴンの頑固さ、空気の読めなさとも言えます。なにしろ、みずからギブアップしたハンゾーに向かって

「要するにだ オレはもう負ける気満々だがもう一度勝つつもりで真剣に勝負をしろと
その上でお前が気持ちよく勝てるような勝負方法をいっしょに考えろと
こーゆーことか!?」
「うん!!」
(4巻 p162)

こんなことを言えるわけですから。そりゃあハンゾーだって絶叫しながら殴る。
(ゴンに比べれば)普通の人間に描かれたポックルが、後の対ハンゾー戦では、ゴンと同じ状況になったにもかかわらずあっさりギブアップしたことを考えれば、ゴンの異常さがいっそう際立ちます。
他にも、旅団に囚われノブナガと腕相撲をしているときに、脱出方法やこれからの身の振り方を考えるよりも、目の前のノブナガの涙に怒りを覚えたり、ゲンスルーとの決戦の最中、自身の、そしてチームの命運のためにもビスケからの指示に従うべきところを、自己満足のために片手を失うほどの負傷さえ省みずゲンスルーに一撃食らわせたりと、存分に空気の読めなさを発揮しています。
明らかに自分より優勢な論理を前にしても自分の論理を曲げない。これを意志の固さととるか、頑迷さととるかは人と状況によって違うでしょうが、ゴンが空気を読めない、そもそも読もうとしないのは確かな事実です。*4
かたや、家に縛られながらも仕事で他の社会の倫理に触れていたキルア。かたや、島で暮らしながら、外から来た漁師たちによって別の倫理を知ったゴン(「マニア」の女漁師とデートしたりもしていますし)。クローズドな社会で生きながら外界との接点がある程度あった二人ですが、そこから身につけた倫理観とそれへの身の処し方は実に対照的です。

暗殺者キルアから仲間思いのキルアへ 根っこは変わってもなくならない

さて、キルアは複数の社会の倫理に身を処すことができ、また社会ごとにその倫理の「スイッチ」を容易に切り替えられるとは書きましたが、それでも彼の根本の倫理は暗殺者の倫理であり、それから逃れることは容易ではありませんでした。それは「キルアに対する過剰な」「いびつで利己的なゆがんだ愛」によって幼い頃から父と兄によって叩き込まれ、「それだけに強く重く非対象者に絡み付く」。

それは親父の理屈… オレはもう殺し屋じゃない…!!
ハンターだ!!
(13巻 p161)

と、キルアは内心で吼えたりもしましたが、対ビスケ戦や対シュート戦、対ラモット再戦では、骨の髄まで染み込んだ「暗殺者の理屈」が顔を出しています。が、それが染み込んでいたのは骨ではなく脳。キルアが相手を自分と互角以上と判断した時に本能的に働く防衛機構としての「暗殺者の理屈」は、イルミによって脳味噌に打ち込まれた針によるものでした。対ラモット再戦で、ゴンとの友情と「暗殺者の理屈」に揺れたキルアは、激情に任せて針を頭から抉り出し(なぜ針に気づいたのかはよくわかりませんが)、本能的なところに根ざしていた(根ざさされていた)「暗殺者の理屈」をそこから遊離させることに成功したのです。「完全に目が覚めた…いや 解放された」ような感覚に身を包まれたキルアは、さっきまでは怯えに怯えていたラモットを瞬殺します。
この段階でキルアは初めて、倫理観の主体的な最終選択権を手に入れました。時として「暗殺者の理屈」に対峙する「仲間は大事」の理念を優先的に選択することができるようになったのです。
例えば対イカルゴ戦。彼は「命と引き換えに仲間の情報をよこせ」とイカルゴに取引*5を持ちかけますが、イカルゴは「仲間は売れねぇ…!!」と自ら死を選びました。それに対してキルアは

「なっ… なんで」
「かっこいいから
違うカタチで会えてたら 友達ツレになれたなって思うくらいな」
(23巻 p48)

イカルゴを助けるのです。これは戦略上明らかに不利な行為です。森の中の戦いでは何者(フラッタ)かによる監視に気づき、自分の手の内を極力見せないように行動していたキルアが、敵(イカルゴ)を助けるために武器の一つであるヨーヨーを見せました。イカルゴを助けた時のキルアは、彼が今後仲間になってくれることを期待していたわけではないでしょう。あくまでイカルゴの漢気に心打たれて助けたのです。イカルゴを助けたキルアは、その直後サメのアリ(変な言葉)に襲われ、さらにオロソ兄弟の念攻撃に襲われました。「暗殺者の理屈」に従った彼なら避けられたかもしれない襲撃です。キルアの理念、というか美学は、「暗殺者の理屈」を超克したのです。

友達ツレ友達ツレ助けるのは当然だろ
これから協力して何かやってく時があるだろうけど サポートし合うのは特別なことじゃねーからな
(24巻 p128)

この台詞の「友達」を「家族」に替えれば、ゾルディック家の理念にピタリと当てはまりますが、それが決して「友達」にはならないのがゾルディック家のゾルディック家たるゆえん*6です。にもかかわらず、なのです。
また、それでも仕事のためには家族(含む自分自身)を殺すことさえ厭わないのもゾルディック家の倫理ですが、宮殿に突入したキルアは、一人別行動でパームを助けに行ったイカルゴの行く手に見えた兵隊蟻を殺すために、自らの役割を一旦放棄して蟻の元へ向かいました。「個々の役割を守れと誰よりも厳しく周りに説いた張本人」が自分なのにもかかわらず。
「個々の役割を守れ」というのは、格別「暗殺者の理屈」というわけでもなく、チームで行動する場合には必須のルールです。つまり暗殺者の理屈を超克できたはずのキルアならずとも守るべきものなのですが、むしろ彼はそれを超克できたために、イカルゴのヘルプに行ったのだと思うのです。任務(=仕事)のためには仲間(=家族)の命も辞さないはずが、いざそれを目の前にしたら仲間を優先してしまった。なぜなら、彼はもう「暗殺者」ではないから。「暗殺者の理屈」以上に優先すべき理念を手に入れてしまったから。
ハンター試験で出会ったゴンとの関係がキルアにとって何にも替えがたいことは、対ラモット再戦での刹那の葛藤でまざまざと見せ付けられました。その葛藤で以って「暗殺者の理屈」の超克を果たしたキルアにとって、ゴンは、そして「仲間は大事」と言う理念は、本来なすべき理性的な行動、言ってみればチームが任務を果たすための倫理を越えてしまうものになっているのです。
こうなるとむしろ、先に書いた「倫理観の最終的な選択権」というのも適切ではありません。彼はイカルゴの手助けを主体的に選択したのではないのですから。かつて強敵と出会ったら本能的に逃げ出そうとしたように、今のキルアは仲間の危機に対して本能的に助けに行ったのです。*7
複数の社会の倫理に則って身を処すことができたはずのキルアの根っこには「暗殺者の理屈」があって、それから脱出できたと思ったら、代わりに「仲間は大事」の理念がそこに入り込んだ。いえ、むしろ、「チームの倫理」と「仲間は大事」の理念が現実において競合した場合に、キルアは後者を選んだ、という方が正確でしょうか。いつ何時でものさばっていた「暗殺者の理屈」と違い、そこにはキルアの葛藤があるのですから。*8

キルア、異なる人間間における同一の理念の競合を生まれて初めて実感してユピーに八つ当たりするの巻

ついにピトーと対峙したゴンが激昂し、コムギを治療しているピトーに今にも殴りかからんばかりのところを、キルアは冷静に事態を観察し、実に的確な推論を披露し、怒りに我を忘れかけているゴンに水を差そうとします。しかしその態度は、ゴンから心無い言葉を引き出す結果になってしまいました。

「ゴン!!
そいつ殺したら カイトは元に戻らねーぞ」
「…… ……
キルアは…… いいよね
冷静でいられて
関係 ないから」
(26巻 p96,97)

この前後のキルアのなんとも味のある表情は、単にゴンから暴言を吐かれたからだけなのでしょうか。
「仲間は大事」の「仲間」とは誰なのか。どうすれば「大事」にしてやることになるのか。自分にとっての「大事な仲間」は、相手から自分を見た場合でもそっくりそのまま「大事な仲間」なのか。「大事な仲間」が別の「大事な仲間」のために見せている振舞いが、自分が見せるべきと思っているそれと違う場合、どうすればいいのか。
「仲間は大事」という理念は、これだけではただの言葉です。それを現出させようと思えば、必ずなんらかの行為が必要であり、その行為が自分ではない/他人である「大事な仲間」に向けられる以上、齟齬が発生する余地がある。必ずある。それをキルアは強く実感しているのではないでしょうか。
一旦ピトーの前から離れたキルアは、ユピーと対峙し、こう言い放ちました。
「悪いけど これからアンタにすること全部 ただの八つ当たりだから」
任務のためではない、私怨である、とキルアは明言したのです。初めて見るゴンの態度から生まれた、自身どうしようもない感情。それをユピーにぶつける、と。
現実と理念の競合。あるいは同次元に存在する理念同士の競合。もしくは、ある状況においての異なる人間間における(言葉面だけは)同一の理念の競合。以前の記事のクラピカの例で見たように、そこに「緊縛に似た現状を解決する奇跡の様な手」などあるわけはなく、何かを生かすために何かを諦めなくてはいけない厳しい現状が存在しているのです。

そろそろまとめ

さて、いい加減〆ましょう。
繰り返しの言葉になりますが、暗殺者として育ったキルアは、その特殊な環境ゆえに異なる社会の倫理について知っていて、かつ、その倫理に素早く適合することもできました。一般社会の倫理から外れていたはずのキルアは、「スイッチ」さえ切り替えれば、実は「倫理的に」振る舞うことができたのです。
しかしというかなんというか、家族から教え込まれた「暗殺者の理屈」はキルアの考えていた以上に骨身に染み込んでいた、というか脳に突き刺さっていました。それから解放されたキルアは、「暗殺者の理屈」に代わり「仲間は大事」の理念が強く根ざし、それは「倫理的に」振る舞える彼の行動さえ本能的に変えてしまうほどのものになったのです。
そして、ピトーを前にしたゴンと自分の「仲間は大事」の理念の競合。おそらく生まれて初めてであったであろうこの競合に、やはり生まれて初めてであったに違いない複雑な感情の生起を自覚したのです。
ゴンにとっての倫理は、基本的には社会と共存しうるが、根本的には極めて自分本位のもの。対してキルアは、異なる倫理に応じて自身の行動を律し、自分の倫理を通すだけではどうしようもない事態に直面すれば葛藤が起こるもの。やはり、非常に対照的な二人なのです。

蛇足

オーケー長くなりすぎた。でも「ハンタ」というか冨樫先生についてはまだ書きたいことがあるのです。それも二つほど。
とりあえずその内、ゴンから見たキルア/キルアから見たゴン、というようなテーマでまた書いてみたいと思います。「惑星のさみだれ」と「ハックス!」の新刊が今週出るので、おそらくそっちについて書くのが先になると思いますが、よろしければ気長に待っててください。




お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

*1:たぶん。もしあったらごめんなさい

*2:ゼノとネテロ、イルミとヒソカ、カルトと旅団など、例外はありますが

*3:マフィア社会も表社会とはいえませんが、彼らの社会もゾルディック家の社会とはまた別の倫理/論理で動いています。ゾルディック家にとっての生業である殺人が彼らにとっては威嚇の手段でしかない、ということが端的に倫理の違いを物語っています

*4:これを進めると、ゴンが読むのは空気ではなく人の感情である、という話にもなるのですが、それを追っていくと話がずれる上に長くなるので割愛

*5:ゾルディック家における「取引」の重さは、くじら島帰郷編でのミルキとの会話で見せ付けられました

*6:ミルキ「友達なんか作ってる奴にゾルディック家は継げないよ」(5巻 p134)

*7:ただ、この場合はイカルゴが直接的な戦闘力に乏しく、彼一人で危機を脱出することが難しそうだったから、という理由もあるでしょう。「合理的な」な推測からイカルゴが危険と判断できたために、彼を助けたのだと思います。もしこれがゴンや他の登場人物のように、直接的な戦闘力に信頼のある人物、危機に対して自分ひとりで対処できそうな人物であれば、逆の見方をすれば、他人の助けがなくても切り抜けられるような事態であれば、キルアは任せたはずで、そこには彼なりの合理的推測が働いていたと思うのです

*8:その部分が非常に色濃く描かれているのが、シュートのために、モラウのために任務に反する行動をとったナックルでしょうか。彼は今回の任務中、何度も「自分勝手」な行動をとりますが、そこには全て身を引き裂かんばかりの葛藤があります