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物語の「問い」と「答え」

物語に「正解」はいらない。 (Something Orange)

こちら記事を読んで、思ったことをつらつらと。


「正解」というと意味が限定される気がしますが、作品(物語)の中で、ある「問い」を立てそれに対する「答え」を書く(描く)というのはよくある話だと思います。
漫画を前提に論を進めますが、その成功の一つの形が「寄生獣」ではないでしょうか。種の共存、生命のあり方(実際にはもっと多義的に捉えうる、複合的な問いですが)という根源的な難問に対して、全十巻の中で作者なりの一つの答えを提出しています。

生命とは何か、心とは何か、人間とは何か、社会とは何かなど、容易には答えがたい根源的な難問というものが世の中にはあります。そして、そのような難問に、ただの説明でもって答えとすることはほとんど不可能だと思うのです。具体的な事柄から離れて、抽象的な言葉のみで説明しても、そこにはリアリティが存在しがたいものです。上記の問いの例も、抽象的であるにもかかわらず、それらは自分自身の普段の生活に分かちがたく密着しているものであり、具体的、実際的な事象から離れた言葉では、その問いの答えに近づくことは出来ないと思うのです。
では、どのように答えを出せばいいのかといえば、まず冒頭に述べたように、「物語」でもって語る必要があるのだと思います。

「物語」であるということは、そこに架空のものであれ現実のものであれ、登場人物がいて、事件があって、一つの結末(あるいは未決という結末)がある、つまりは、そこにストーリーが在るということです。そして、ストーリーの存在は、同時にストーリーを解釈する者の存在を意味します。物語った者、つまり作者です。
寄生獣」の例で言えば、この作者は岩明均氏ですが、もしこの「寄生獣」の構造(キャラ、設定、事件など)をそっくりそのまま他の人に渡して作品を作らせた場合、その答えは岩明氏とは違ったものになるだろうし、それどころか問いすら厳密に同一のものとなることは無いでしょう。
基本的に、作品で語られる「問い」は明言されることはなく、登場人物の台詞、行動、作中の設定などから推測するしかないものです。だから、そもそも受け手(=読者)が見出す「問い」すら完璧に同一ではありえないとさえ言えます。

冒頭のリンク先の記事で言う「正解」は、私の言う「問い」に対する「答え」とほぼ同義でしょうが、「正解」という言葉にはどうしても、それ以外の答えを排除するという印象がついて回ってしまいます。
確かに、「問い」を設定したのはその作者自身で、その作者自身による回答なのだから(まさか自分で意図的に「間違い」を書くことはないでしょうから)、「正解」でも間違っていないのかもしれません。ですが、根本的に、人間は自分の言いたいことを過不足なく言えるという事は決して出来ないのです。人間の言葉は、自分の思いに届かず苦しむか、自分の思いに余計な意味がくっついて悔やむか、常にどちらかなのです。
「1+1=2」のような抽象概念による「問い」と「答え」ならばそれが「正解」ともなりますが、人間の思考のようなファジーで未分化なものに、言葉、あるいは絵という、不完全(全一ではない)なピースで形を与えようとしても、その出来上がりはどこか歪にならざるを得ないのです。

その意味で、作品でもって出された「答え」もまた、「正解」たりえるわけではありません。
自分の思っていること、感じていることに言葉、絵でもって形を与えても、それは必ず言い過ぎているか、言い足りないかなのです。
逆に言えば、その「答え」の振れ幅、定まらなさこそが、受け手側の解釈の余地ということなのでしょうが、それはとりもなおさず、「答え」の中に「正解」があるとしても、「正解」以外の言い足りないか、言いすぎてしまった概念も同時に包摂しているということです。それも含めての「答え」であり、「正解」だけを抜き取って示すことは、原理上誰にも出来ないことだと思うのです。あるいは示すだけならできるのでしょうが、それこそが「正解」だと決定することは、これこそ誰にも出来ません。作者自身が言えることでさえ、「その解釈が『正解』に最も近似である」ということまでです。


作者が作品を通して行っていることは、「問い」に対して「答え」を提出していることまでです。その当否の判断は、物語の次元でなされるべきなのでしょうか、それとも現実の次元でなされるべきなのでしょうか。私は、原則的に前者であると思います。
「答え」は、その物語だからこそ、そのような「答え」たりえたのです。他の作品で似たような物語を作り、似たような「答え」を出しても、それはやはり「似たようなもの」に留まらざるを得ません。二つの「答え」を抽象化して一つの答えを導き出しても、その抽象化の過程で零れ落ちてしまうものは必ずあります。もちろん本質的なところを逃すことは無いでしょうから、その抽象化に意味は無いということはありませんが、万能の物差しとして全ての作品に当てはめようとするのには自制が必要だと思うのです。


私としては、「問い」と「答え」を前面に押し出してくる作品は嫌いじゃありません。今集めているものなら「ぼくらの」が一番それが強いでしょうか。概して鬼頭莫宏先生はその傾向が強いと思いますが。
でも、やはりそのような作品に好き嫌いがでるのは当然だとは思います。
なにより、その「問い」に対する「答え」が自分の感覚と合わなかったら、それは作品の優劣とは別に、いい気分にはならないですから。
そして、そもそも「問い」と「答え」を強く押し出す作品には、かなり高度なストーリーテリングの能力が求められます。
一度発生した物語は、既に作者の完全なコントロール化にあるわけではなく(それは不完全な言葉と絵に頼って作り上げられる以上、不可避なことです)、そのような物語の次元に作者の感情を強く込めようとすれば、少し調整を間違えれば物語の方が歪んでしまいます。それはおそらく、「問い」と「答え」の齟齬だと思います。
あらかじめ立てた「問い」、あるいは作者の中で前景化してきた「問い」が、物語と馴染まず、そこから導き出そうとする「答え」も物語から乖離してしまうのではないでしょうか。
この場合の「馴染む」とは、単純にストーリーの面や設定の面ではなく、それらをひっくるめて動いている物語、そして登場人物たちが、作者の「問い」に対して「答え」を出すようには動いて無いということです。

偏見に近い印象では、原作持ちの作品に多いような気がします。原作者と漫画家の間で、「問い」の共有が出来ないゆえにそういうことになってしまうんでしょうか。あるいはメディアミックスの作品なら、原作者の「問い」を見誤ったまま、ストーリーをそのままに漫画化してしまったとか。


もちろん、「問い」と「答え」を意識的に出あれ無意識的にであれ、ほとんど感じさせない作品もあります。今本棚をばっと見回した限りでは、「不安の種」が一番それっぽい気がします。言ってみれば、エンターテイメント性の比重が極めて高いってことでしょうか。


漫画に限らず、ある作品を考えるのに、エンターテイメント性を見るか、思想性を見るかで評価の変わってくるものが結構あります。
私は、小説や漫画、あるいは映画や劇、音楽なども、本来的にはエンターテイメント性に端を発していると思っています。まず、受け手を楽しませてナンボでしょうと。
作品は作者の産物であるという古典的な文芸論にも、私は意味はあると思いますので、作品の内にエンターテイメント性以外のものを作者がこめている(あるいは無意識のうちにこめている)と考えるのもアリだと思います。
ですが、その「問い」と「答え」を評価するのは、作品自体が評価に耐えうることが前提でしょう。娯楽作品が、面白く無いけど思想性としては見るべきところがあるというのは、本末転倒であると思います。
絶望に効く薬」で、山田玲司氏はまだ売れなかった頃に開いた個展(?)で、訪れた漫画の編集者(?)に「そんなに牙を剥いちゃだめだよ。柔らかい漫画の中に刃を隠さなきゃ」というようなことを言われたそうです(今本が手元に無いので、うろ覚えなのはご寛恕ください)。
山田玲司氏は好きではありませんが、その言葉に強く印象を受けたのはそのとおりだと思います。まずはその作品を受け手に届かせてナンボですよ。

それでもやはり、十分にバランスの取れた物語の中に「問い」と「答え」を孕んでいる作品は、私は敬するべきだと思います。鬼頭先生大好きです。





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