前回投稿した記事について、記事内のリンク先の方がトラックバックした私の記事に応答する形で、新たな論を書いてらっしゃいました。今日の記事はさらにそれを受ける形で書きたいと思いますので、kaienさんの
物語に「正解」はいらない。(Something Orange)
ぼくが「正解」をほしくない理由。(Something Orange)
および前回の私の記事
物語の「問い」と「答え」
を併せて読んでいただくと解りやすいかと思います。
はじめはkaienさんのコメント欄に書いていた記事だったんですが、あまりにも長くなりそうなので自分のブログに書くことにしました。
では、以下本論です。
さて、いきなり補足説明から入りますが、17日付の記事(物語に「正解」はいらない。)を読んだ段階では、私はkaienさんの言う「正解」と私の言う「答え」をほとんど混同していたのですが、今日の記事(ぼくが「正解」をほしくない理由。)の
>> 「「正解」という言葉にはどうしても、それ以外の答えを排除するという印象がついて回ってしまいます」とあるが、まさにそうだからこそ「正解」という言葉を選んだのである。
を読んだら、どうやらそれは誤解だったようです。
17日付の記事の
>>「正解」とは「このように行動すれば良いのだ」という、その作家なりの結論のことである。
という記述(定義)からは、私は(kaienさんの言う)「正解」から「他の『答え』に対する排他性」を強く感じとれなかったために、その誤解が生じたのかと思います。
改めて「答え」と「正解」の関係性を私なりに示せば、「正解」は「答え」の中の一形態であり、形式的には、「答え」の最終形態、完全形態、いわば「真理」と昇華した「答え」だと言えると思います。
それは真理であるがゆえに、他の類似した「答え」を許さず、もはや公理に近い存在であり、「問い」と「正解」の関係は、「『1+1』=『2』」のような抽象概念としての「問い」/「答え」の関係になっているのです。
この場合、「正解」だけでなく、「問い」さえも一つの抽象的存在となっています。
本来ならば、物語に即しての「問い」として、極めて具体的、実際的な存在としての「問い」だったはずなのに、そこから導き出された「答え」が「正解」として普遍化してしまったために、「問い」自身も、他の物語における類似した「問い」(あくまで類似であり、決して同一ではない「問い」)を包摂し、取り込み、抽象化した普遍性のある「問い」となってしまうのです。
「寄生獣」の例で言えば、私は前回の記事で「寄生獣」の発した問いを
>>種の共存、生命のあり方(実際にはもっと多義的に捉えうる、複合的な問いですが)という根源的な難問
と書きましたが、この括弧内をそっくりなくしてしまうことが、「問い」の抽象化ということです。
「寄生獣」の発する「問い」は、「寄生獣」を読んだ各々が読み取るもので、それの最大公約数的な私なりの表現が上の文章であり、それをただ「生命のあり方とは?」と単純に過ぎる形で収めて一般化してしまうのは、読解の縮減に他なりません。物語に即した「問い」の微妙なニュアンスは読み手に委ねられるものであり、原理的には、上の「問い」とは全く違う「問い」を読み取ることさえ不可能ではないのです。
最大公約数としての「問い」に「正解」を出すような物語は、私も好むところではありません。
ある「答え」が「答え」たりえたのは、それがある物語を通じて提出されたからであり、他の物語の中の類似した「問い」に対しても同様(同一)の答えが出されるわけではありません。
それを、類似した「問い」を抽象的にまとめて真理のごとく(つまり「正解」として)提示されるのは、堅苦しく、息苦しく、なにより押し付けがましいものです。それは、他の物語の他の「答え」を「間違い」と断じてしまうものですから。
「答え」に客観的な正しさなどなく(=「問い」に「正解」などなく)、あるのは物語の中に対する「答え」としての、極めて限定的な解釈です。その限定性を理解し、自分の「答え」を万能の物差しとすることに自制を効かせられたものが、「寄生獣」などの「名作」(思想性と物語のバランスが極めて上手く取れているという意味で)と呼ばれる作品なのではないでしょうか。
私は、そのような「名作」は、作品を作る段にあって、「問い」をプロットの段階で設定しても、「答え」(作者としての「正解」)を決めてはいないのではないかと思います。
無論ある程度の漠たる形で存在はしているでしょうが、それを具体的に(あるいは抽象的に)「これ」と明示することは出来ないと思うのです。
「答え」は作品が進む中で、絵と言葉、あるいはコマ割さえも通じて形を成していくのであり、「正解」に沿って物語が進んでいくわけではありません。
かといって物語ありきというわけでなく、少しずつ形が見えてきた「答え」に影響されて、物語もその在り様を変えていくのです。
さらに、後付の説明となりますが、最初に立てた「問い」もその時点では最大公約数的なものでしかなく、それが物語の進行とともに、具体的な形を伴っていくのです。
大雑把な構造として整理すれば、まず「問い」と物語と「答え」の曖昧模糊とした形があり、物語が進むことで「問い」の輪郭が定まり始め、「答え」の具体的な形もおぼろげながら見え出し、それに影響されて物語も方向性と在り様が固まっていく、というものになるのだと思います。
実際「寄生獣」の最終巻を読むと、岩明氏が連載を進めながら物語の展開に何度も悩んだということが書かれています。物語の中の「答え」のあり方に悩み、物語の展開を変えることで、「答え」をまた当初とは違う形としたのです。
初めから「正解」を用意していないのならば、当然「答え」は物語に即した限定的なものとなり、その物語の中の「問い」に対する「答え」としての限定的な存在としかなりえません。
限定された「問い」に対する限定された「答え」。
それが、自制の効いた「名作」の条件だと思います。
余談ながら、思想性を強く持った上で、「名作」にとどかなかった作品には二種類あると思います。
それは、「問い」を持て余した作品と、「答え」に弄ばれた作品です。
前者は、初めに設定した「問い」に対して「答え」が追いつかず、夜郎自大的に膨れ上がってしまった作品です。
根源的な難問を設定したにもかかわらず、その「答え」が余りにも一般的に過ぎたり、独自の解釈がなかったり、あるいは読者が理解を拒むような荒唐無稽な「答え」だったり、惜しいところでは、物語の質(ストーリーテリングの能力)が落ちるために「答え」に共感できなかったりしてしまうようなものです。
後者は、「答え」に「正解」を用意してしまったことで、物語がご都合主義の如くに「正解」に落着してしまうような、ともすればデウス・エクス・マキナとしての「正解」がオチになってしまうような作品です。つまり「正解」ありきの物語ってことです。
私はまだ槇村先生の作品を読んでいないので、その点からは今回全く触れられませんでした。ひとまず何かしら読んでおこうかと思います。
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