友人と雑談していて考えた話その2。
友人が
「基本ネタバレ絶対許さないウーマンだけど、いい感じになりそうな相手が複数いる恋愛ものだけは、先に主人公がどの男とくっつくか知ってからじゃないと読めない。私は恋愛ものを読むとき、自分ならどの男を好きになるか考えて読むから。もし主人公が別の男を選んだら、解釈違いが過ぎるのでもうダメ。そっ閉じ」
と言っていて、私にはそれがとても新鮮な意見に思えました。なのでそう言ったら、「え? 男の言う『俺の嫁』ってそういうことなんじゃないの?」と返すんですね。
え、そう? 「俺の嫁」ってそういうことなのか? とちょっと違和感があったので、そこで立ち止まって考えました。
私自身はキャラクターに執心する感覚がないので「俺の嫁」という感覚もないんですが、それがあると仮定して、恋愛もの(ハーレムもの)で男主人公が「俺の嫁」以外のキャラクターを選んでも、「解釈違い」とはならないと思うんですよね。
そうか、君はその子を選ぶのか。みたいな。
まあ俺の嫁の方がかわいいけどな、見る目がないな。みたいな。
なぜそんな違いが出るかといったら、友人は本を読んでる自分が主人公に感情移入、というか憑依と言った方が正確でしょうか、それをしているから。
主人公に憑依している(されている?)とき、友人は主人公を内面化しているわけではないのでしょう。主人公が憑りついてるけど、自分の意識(趣味嗜好)も残ってる。だから、自分の好きなキャラと主人公の好きなキャラがずれると気持ち悪い。今まで重なってきた自分と主人公が引き裂かれてしまう。そこで一気に覚めてしまう。
なので友人は、恋愛ものを物語として最後まで楽しめるよう、自分と主人公を最後まで重ねておく必要があるし、そのためには主人公が誰とくっつくか知っておかねばならない。だから、くっつかない方の男は好きにならないよう努めねばならないそうです。難儀だなと思いました。
翻って私の思う「俺の嫁」は、読んでる自分は物語の外にいて(主人公とは別のところにいて)、その上で「俺の嫁」を選びます。選んでいるのは俺で、主人公じゃない。だから、主人公が「俺の嫁」とは違うキャラクターを選んでも、解釈違いとかではない。主人公の嫁が誰であれ、「俺の嫁」は「『俺』の嫁」なんです。
こんなようなことを友人に言ったら、「つまり夢男子*1ってこと?」と言われました。ただ、それも少し違うような気がします。
「俺の嫁」と言っている人たちは、自分がそのキャラクターと付き合ったりすることを想像してはいないような気がするんです。いやもちろん人によるんでしょうが、相手(嫁)のことを愛していたとしても、相手が自分をどう思っているかはどうでもいいというか、別にそこを想像していないというか。次元の向こう側にいる相手がどう思っているかなんかわかりようがない、むしろ自分のことなんて知ってっこないという諦念がある。もしくは愛したから愛されたいという見返りを求めない。アガペー。そんな気がしています。いやもう誰に聞いたわけでもないただの偏見なんですけど。
あるいは別のタイプとして、主人公に感情移入したとしても、そのとき主人公の感覚を内面化している=とりあえず自分の感覚をカッコに入れている。だから、そのカッコの外で(感情移入していないときに)自分が選んだキャラクターが、主人公が選んだキャラクターとずれていても気にならない。私自身はこのタイプですね。
物語の中できちんと主人公の心の綾が描かれていれば、そのキャラクターが選んだヒロインが誰であれ、私自身の好みと違っていようとも、問題なく主人公の選択に納得できます。彼の解釈が私の解釈です。彼の嫁が俺の嫁であり、それとは別に「俺の嫁」がいる感じ。
別に友人の読み方が女性一般の読み方ではないでしょうし、「俺の嫁」と言っている人(そもそも、そんな人もうだいぶ見なくなったけど)にもいろいろいるでしょう。この話は、「俺の嫁」なんて言わない私の推測です。
ただ、友人の「恋愛ものでは時として主人公と自分で解釈違いが起こる(だから先にだれとくっつか知っておく)」という読み方がとても新鮮に聞こえたので、それがどういうものなのかなと考えてみた話でした。感情移入と憑依の違い、キャラクターを内面化するかしないか。そういう読み方の違いなのかなと。
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