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漫画の話です。

『SARU』と『SOSの猿』競作作品のキーワードと両者を貫くものの話

漫画と小説の合作、ではなく競作として発表された、『SARU』(五十嵐大介)と『SOSの猿』。

SARU 上 (IKKI COMIX)

SARU 上 (IKKI COMIX)

SOSの猿

SOSの猿

競作とはどういうことかと言えば、同じ出来事をそれぞれ漫画・小説で書くのではなく、あるキーワード、キーになる概念を共有したうえで、それぞれが別個の物語を作る、ということです。どうやら両者とも、一応は同じ時間軸上の物語であるようですが、登場する人物も、場所も、ほとんど別物です(両方で登場する名前・場所はわずかながらありますが、両方で活躍する、あるいはメインとなる人物・場所はありません)。
では、そのキーワード、キー概念が何かというと、両者のタイトルにもある「猿」です。無論これはただの猿、すなわちヒトを除いた霊長目の、生物一般としての猿ではなく、ある超自然的な力を持った存在とされるものです。いわく、「世界のあらゆる秩序を左右する程の」「巨大な力を持つ」「猿のような姿をし」たもの(『SARU』上巻 p141)。それは世界各地の伝説・伝承で、「ハルマンタ」「トラロック」「トゥニアクルク」「ドゥエナー」「内臓を晒す者」「ヘルメス」「ハヌマーン」「トート」と様々な名で呼ばれ、日本で最も有名なそれは、「斉天大聖孫悟空」である、と。そしてそれは単一の存在ではなく、いや、それ自体は単一なのかもしれないが、分身能力(身外身)を持つ「猿」は、ことあるごとにそれを作って活用していたが、ある時二体の身外身が本体へ戻ることなく独自に成長を始めてしまった。本来は本体の劣化コピーであり、本体の元に戻らなくとも時がたてば肉体が滅びてしまうはずだったそれらは、一方は滅びの運命から逃れるほどに肉体を強化することで、もう一方は使い物にならなくなる前に肉体から精神を離し、さらに精神を無数に分割してヒトの肉体に憑依することで生き残った。両作で何らかの事件を起こすもとになっているのは、この異常進化した二体の身外身なのです。
この二体のうち、肉体を進化させた「猿」が世界規模で災害を及ぼしそれをヒトが鎮めようとする物語が『SARU』であり、精神を進化させた「猿」の一つが憑りついた少年を元に戻そうとする物語が『SOSの猿』だと言えます。「猿」から広がる世界を描いたのが前者であり、「猿」から収束する個人を書いたのが後者、とも言えるでしょうか。
では、両作のあらすじをざっと。
『SARU』。ペルーのリマで人知れず行われた、ピサロの反魂の儀式。ロシア連邦サハ共和国の永久凍土で発見された、サルを思わせる巨大な骨格。インドのゴアから消えた、フランシスコ・ザビエルの遺体。世界各地で不可思議なことが起こる中、フランスでは、交通事故から生還した一人の少女・イレーヌが悪魔憑きの兆候を見せたため、バチカン公式エクソシストのカンディドが招かれ、悪魔祓いを行うことになった。イレーヌの中の悪魔に彼は「名を名乗れ」と呼びかけるが、答えたそれが名乗ったのは「斉天大聖孫悟空」。イレーヌの中の孫悟空は、バチカンに保護されたまま、不吉な予言を告げる。そして、そんな流れとは無関係に原因不明の眼痛を訴えていた日本人女性・奈々は、一目見ただけでその原因を呪いと看破した初対面の男性、ナワン・ナムギャルに惹かれ、彼と共にアフガニスタンに行くことになる。しかし、無関係だったはずの奈々は、そこで世界の底流する「猿」の物語に巻き込まれていくことになる……。
『SOSの猿』。家電量販店で働く二郎はある日、子供の頃に憧れていた近所のお姉さんに相談を持ちかけられる。内容は彼女の引きこもりになってしまった息子について。溺れる者は藁をもつかむ如くに彼女は、イタリアへ留学していた時に悪魔祓いの修行めいたことをしていた二郎に、息子のカウンセリングを頼んだのだ。見知らぬ人であろうと困っている人を無碍に出来ない性格の二郎は、気乗りしないままに彼女の申し出を受けてしまう。何度か彼の元を訪問するも、反応は芳しくない。しかしある時彼は、部屋に入って来た二郎と母親を前にして、突然名乗りを上げる。「俺は東勝神洲傲来国は、花果山の生まれ、水簾洞主人にして、美猴王、斉天大聖、孫悟空」と。そして彼の話とは別に、巨額の損失を出した株の御発注について調査をしている、とある会社員・五十嵐真の不可思議な話も語られる。人形劇を外から語るように進められる、夢とも現ともつかぬその話は、ついには二郎の話へと収束していく……。
前述したように、『SARU』は、肉体を進化させた「猿」がもたらす地球規模の災厄を、ヒトと、精神を進化させた「猿」が鎮めようとする話。『SOSの猿』は、精神を分割した「猿」に取りつかれた一人の少年をどうにかしようとする話。物語の規模が、世界と個人で両極になっていますが、その中で「猿」という概念は共に、「ヒトの手には負えないもの」として顕れています。『SARU』の「猿」を鎮めるためには、結局ヒトが培ってきたものではどうにもならず、精神を進化させた「猿」に頼るしかありませんでした。『SOSの猿』で少年に憑りついた「猿」は、彼をなんとか治そうという周りの人間の努力により劇的な解決を見ることはなく、『SARU』での事件解決に伴い「猿」が世界中のヒトからいなくなることで、ようやく奇矯な言動はおさまったのです。特にこちらの場合、登場人物たちは「猿」の存在など知らず、少年から「猿」が消えたこともわからないままに彼の症状が寛解したと思っています。ヒトの手に負えないどころか、人はその存在さえ感知しえない。
ここに人間の矮小さ、ニヒリズムを見ることもできますが、むしろ私は、孫悟空と同じく中国出典の概念として「人事を尽くして天命を待つ」を見たいと思います。人は目の前の難題について、天を仰ごうがなにしようが、結局は自前のものを用いてなんとかするしかない。なにはともあれ、立ち向かわなければならない。『SARU』の人間たちは、科学技術も超自然的な技術も結集し、肉体を進化させた「猿」に挑みました。『SOSの猿』の二郎は、少年の引きこもりをなんとかするためにカウンセリングを続け、「孫悟空」を名乗る彼の語ることの意味を探ろうと奔走しました。『SOSの猿』の中で何度となく登場する、二郎の「困っている人を助けに行かなくてはならない」という、なかば病的ですらある観念は、伊坂先生の別の作品『砂漠』に登場する西嶋が言及する、サン=テグジュペリの『人間の土地』と同根であることは明らかです。

ところが、彼方で人々が発するであろうあの叫び声、あの絶望の大きな炎……、ぼくは考えるだけで、すでにこれには耐えかねる。この多くの難破を前にして、ぼくは腕をこまねいてはいられない! 沈黙の一秒一秒が、ぼくの愛する人々を、すこしずつ虐殺していく。(中略)我慢しろ……ぼくらが駆けつけてやる!……ぼくらの方から駆けつけてやる! ぼくらこそは救援隊だ!
(p163)

人間の土地 (新潮文庫)

人間の土地 (新潮文庫)

『SOSの猿』の前史として、『ゴールデンスランバー』や『モダンタイムス』のような、人の上部に位置するシステム=個人の手におえないものを書いてきた作品があります。その中で登場人物たちは、個人の手には負えないものに抗いながら、目の前を切り開こうとしていました。『SOSの猿』も、その延長線上だと言っていいでしょう(相手は、システムと超自然の存在という違いがありますが)。ですが、前二作にあった、手におえないものに抗うことの無力感はここになく、むしろ『砂漠』のような、何かに衝き動かされるようにして目の前の困難に取り組む(決して乗り気ではないですが)姿があります。
『SARU』にしろ『SOSの猿』にしろ、終わり方が尻切れ蜻蛉というか、終わったのかよくわからないままに終わった感は否めないのですが、両者をどのようなものが貫いているのかというのを考えてみるのは、なかなか面白かったです。
合作ではなく競作、というのは、他の作家でも、あるいは他の媒体でも見てみたいですね。



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