ポンコツ山田.com

漫画の話です。

twitterに見る、呟きが「面白い」人の源泉と、意味性の薄い呟きから発生する快楽の話

この不肖山田もtwitterをやってるんですが、そこから汲み出そうとしているものってやっぱり人によって大きく違うものだと思います。Twitter(ツイッター)利用状況調査 富士通総研の中の図表7を見ると、8項目並んでいて

  • リアルタイムに情報発信ができる
  • ブログより更新が簡単
  • 新鮮な情報がある
  • 新しいメディアなので面白そう
  • 有名人の情報にアクセスできる
  • 簡単にフォロワーを増やせる
  • 新しい人脈作りができる
  • 他のメディアとの連携が強い

が挙げられ、あとはその他で括られています。
私の主な目的は「その他」の中で、基本的には「面白い人の面白い発言を見たい」です。ですから、私にとってのtwitterは情報共有ツールというより、コミュニケーションツールという方が近いです。
で、じゃあ私はどんな人の発言を面白いと思うのか。面白い発言の人とそうでない人の差はどこにあるのか。
端的に言ってそれは、「自分の発言をどんな人が読んでいるか」ということについての射程の広さだと思います。
呟きの面白い人は、自身の具体的なパーソナリティ、ステータスを知らない人にもわかるような内容、言葉遣いで呟くし、それを知らなければ通じなそうなものにはきちんと注釈をつけています。そういう人の呟きは、話の敷居が低いから、自分に興味がない分野、詳しくない分野でも面白く読めるのです。
ここで言う「面白さ」は、常にネタ的なことを意味するとは限りません。読み応えがある。興味深い。考えが広がる。そこらへんも含意する「面白さ」です。funnyではなくinterestingと言うとわかりやすいでしょうか。常にネタを考えている人、強いて(笑いの意味で)面白くあろうとしている人が面白いとは限りませんし、そんな強迫に駆られることが健全とも思えません。そうではなく、内容ではなく態度から感じられる「面白さ」のことです。
さて、ではその逆は何かと言うと、常に閉鎖的な内容や言葉遣いに終始されること。たぶんそういう人は、自己認識とフォロワーによる自分の認識にはほとんどズレがないと思っているのではないかと推測します。「自分は自分のことをこういう人間だと思っているけど、あなた(フォロワー)も同じでしょ?」みたいな。
それがどこに行き着くかというか、「自分の呟いたこと、(そしてもしあるのなら)呟いた言葉の裏側に忍ばせたものは、読んだ人はみんなわかってくれるはず」という汎通性の低い信憑だと思います。そしてたぶん、そういう人ほど自己認識と他人からの認識のズレがひどいんじゃないかと。
もうちょっと正確に言えば、当人は、自分がtwitter上で表していると思っている全人格(呟きやプロフィール欄、webアドレスの表示先のページなども含む。現実での知り合いならば、そもこでの生活も)を、フォロワーたち、呟きを読んだ人たちが了解していると思っているかもしれないけれど、実際に彼/彼女らが認識しているのはそのごく一部でしかない、って感じでしょうか。
呟きが面白い人は、私の想像では、自己認識に自信がない、というか、他の人が自分のことをどう認識しているかなんて絶対的なところではわからない、という観念が意識してか無意識にか、伏流しているのではないかなと思います。
みうらじゅんは34歳の頃にこんなことを書いています。

確かにボクは自分のことが、だんだんわからなくなってきた。歳をとるごとに、だんだんわかってくるもんだと思っていたら、サッパリわかんなくなってきた。若い頃の方が“オレってこんなヤツ”みたいなイメージというか、夢があったように思う。悩んだりしたのもそのイメージと現実のギャップで“こんなはずないだろう? オレなのに”と思ってた。
でも何だか今はいちばん近そうで、いちばんわからない他人が自分って気がする。わからなくなったのではなく、今までがわかったような気になってただけ。
だいたい自分を知りたければ、まわりに聞けばいい。たぶん自分より正しいだろう。本当の自分を知るには? ボクにはまだその方法がわからない。


(LOVE miura jun rare tracks 1990-2003 p91)

LOVE―miura jun rare tracks 1990‐2003

LOVE―miura jun rare tracks 1990‐2003

誰しも自分が持つ自分自身のイメージはあるでしょうが、それと他の人が持つ自分のイメージが同じとは限りませんし、それどころか似ているとさえ限りません。乖離していてしかるべきものなのです。このことがわかっている人は、他人が自分をどう読むかに自信がないために、twitterのような不特定多数に閲覧される場で、一見さんにも親しみやすいリーダーフレンドネスを示し、それが私にとって「面白さ」として感じられ、また、往々にしてそのような人こそ自己意識と他己意識(そんな言葉はないですが)のズレが小さいのではないかと思います。
リーダーフレンドネスの低い呟きは、読んで、仮に自分に興味のある分野でも「うーん」となってしまうことがあります。きっとそれは、内容ではなく態度の問題。狭量な僕は、極めてプライベートなこと、一般性の低いことを非自覚的に当為とされると、反射的に「知らんがな」と思ってしまうのです。単純に、自分がその射程に入っているか否かではなく、もし自分がそこに入っていても、射程のレンジが余りに近いところでしかないと、いざ自分がそこに入らない話をされたら置いてけぼりになってしまうんだろうなあというのが、呟きの端々から察されてしまうのです。それを感じてしまうと面白くないというよりも、面白くない呟きからはそういう臭いが感じられてしまう、というのが事の順逆。
僕はそういう、面白い人から感じる腰の低い空気や、逆にそうでない人から感じる鼻につくような独り善がりの臭いは、twitterに限らず色々なところからしっかり滲み出てしまうものだと信じてます。もちろん、僕からも、今この瞬間も。
ただ、射程のレンジと言っても限界はあるわけで、プロフィールで確認できるくらいのことはある程度の了解事としておかなければ、140字で一々を気にするのはかなり大変。フォローする側にしても、その人の過去の呟きやプロフィールくらい読むだろうし。
それに、twitterなんて基本的には「嫌なら見るな」がまかり通る場なので、閉鎖的な趣味や団体の輪の中で好き勝手に呟くことももちろん基本的に自由です。自分の趣味について内輪丸出しで放言して、内輪で盛り上がれることも当然許容される場なのです。甚だしく誰かの権利を害することさえなければ。
だから、これは私のスタンスの話。現実に顔を合わせて会話をするような場とは違う、こういう非対面的、非肉体的、非共時的、非限定的な場では、射程の広い人の振舞いが私にはとても面白く思える、ということです。*1
そしてこれは、客観性についての話でもあります。
客観性とは、自分の言ってる事やってる事が、どれだけの範囲の人に理解されうるものかという認識が、どれだけ適切であるかということだと思います。そして、その実証は自分自身では極めて難しい。だから、自分のこれも失笑を買うような的外れの話である可能性も大いにあるのです。ああ恐や恐や。


ところで、私は全然しないのですが、twitter上では誰かのした非@の「おやすみなさい」や「おはようございます」postに、律儀に@を飛ばして反応する人がいます。私は、謝礼や謝罪ならともかく、非対面的な時宜の挨拶はなんだか気恥ずかしくてできないんですよね。
そうじゃなくても、わりかし意味性の薄い(「面白さ」の少ない)@postをする人は多い、ていうかそれがtwitterの圧倒的なマジョリティなんでしょうが、いったいその楽しさは何なのか。
それは、交話的コミュニケーションというやつだと思うのです。
交話的コミュニケーションとはロマーン・ヤコブソンが提唱した概念ですが、簡単に言えば、コミュニケーションの回路を立ち上げるために発される、プレコミュニケーション的コミュニケーションのことです。電話口での「もしもし」「もしもし」や、誰かに話しかける時の「ちょっとすみません」「なんですか」など、「私の声はあなたに届いていますか/届きましたよ」ということをまず確認するために行われるコミュニケーションのことを言います。
で、twitter上での@による時宜の挨拶post、「面白さ」の薄い@postもこれだと思うのです。
twitterという場は、そこにいる人にはっきりと向けられることになる現実の対面的コミュニケーション場と違い、@をつけなければ基本的には不特定多数に晒されることを前提とした発言となります。それは、必ずしも自分に向けられた発言にはならないということではありますが、同時に、自分がそれに反応してもかまわない発言だということにもなります。誰のものでもないかわりに、自分のものにしてもいいのです(発言の対象者としての地位を独占できるわけではなく、その内の一人であると主張することを妨げられない、ということですが)。
宙に浮く形で呟かれたpostに反応することで、「私にはあなたの声が届いていますよ」と声をあげることができる。するとそこに、コミュニケーションの場が立ち上がる。
この交話的コミュニケーションには、意外な快楽があります。交話的コミュニケーションにより場が形成されるということは、「あなたの存在を私は認めましたよ」と言うことと同義です。大なり小なり自己顕示欲は誰にでもありますが、誰かの存在を認める/誰かに認められることは、その欲望を満たしてくれます。
この欲望が充足されるには、逆説的ですが、postの内容が無意味なら無意味なほどいいのです。なぜなら、postの中身が空っぽであろうともそれに反応するということは、「私はあなたの有用性(役に立つか、面白いか等)とは関係なく、全人格的にあなたを認めます」ということになるからです。
ナンシー関は、タレントの格とテレビ内での仕事量は反比例すると実に的確な指摘をしました。最近はもはやそうとは言えませんが、例えば一昔前のアイドルなどは、そのアイドルの格が高ければ高いほど、そこで座っているだけでよいとされました。究極のアイドルとは、ニコニコしているだけでいい人のことなのです。バラドルなどとして出演しなければいけないというのは、逆にそのような仕事(アイドル的ではないリポートやお笑い)を受け持たないとテレビに出る事が許されないってことです。
仕事をしなくてもそれでいい。役に立たなくてもそれでいい。ただそこにいてくれれば、それでいい。
現実的な言動の内容・有無とは無関係に、ただそうであるというだけでよいというのは、twitterのこの話と上手くリンクするのではないでしょうか。
小津安二郎映画でも、カップルがお互いに意味性の薄い言葉を言い合ううシーンがあります。

「やあ、おはよう」
「おはよう。ゆうべはどうも」
「いやあ」
「どちらへ」
「ちょいと西銀座まで」
「あ、それじゃあごいっしょに」
「ああ、いいお天気ですね」
「ほんと、いいお天気」
「この分じゃ、二、三日続きそうですね」
「そうね、続きそうですわね」
「ああ、あの雲、おもしろい形ですね」
「ああ、ほんとにおもしろい形」
「何かに似てるな」
「そう、何かに似てるわ」
「いいお天気ですね」
「ほんとにいいお天気」


(「お早よう」より)

二人は意味のあることをほとんど言っていませんが、実に幸せそうです。無意味なコミュニケーションの往還を繰り返すことこそお互いの全人格的な承認に繋がることを、無意識にでも感じ取っているからです。
交話的コミュニケーションに内容はいりません。コミュニケーションの場を形成できればそれでいいのです。ですから、意味性の薄いpostに、同じく意味性の薄い@postを飛ばして、更に意味性の薄い@postが返ってくる、それが起これば、交話的コミュニケーションは成功しているのです。相互の返信が起こることで、場が立ち上がる。お互いがお互いを認める。それはきっと、一つの快楽。そういうことなのかなと思います。


あ、一応私のアカウントはこれです。
http://twitter.com/ponkotsuyamada
気が向きましたらよしなに。漫画以外のこともよく呟いてます。




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*1:現実に面と向かうような、時間性と肉体性に拘束される場では、これが常に面白さの源泉になるとは限りません。要は、今まさにその場にいる人にさえ伝わればいいのですから、表情、視線の配り方、間のとり方、滑舌、身振り手振りなどの方がよっぽど大事だったりします