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漫画の話です。

三原和人が描く人と世界のつながりの話 『宙飛ぶバイオリン』編

 ようやく三本目の『宙飛ぶバイオリン』に話が辿りつきました。

yamada10-07.hateblo.jp
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 先の記事で、『はじめアルゴリズム』では、人は世界とつながるため、数(学)という分節線で世界を区切り、認識しようとしている、と書きました。
 『ワールド イズ ダンシング』では、人は舞うことで世界を広げ、その中にいる自分の在り方を捉え、同時に世界との調和を目指す、と書きました。
 では、音楽をモチーフにした『宙飛ぶバイオリン』ではどうなのか?

 まず、本作では音楽の始まりをどこに見出しているでしょう。

「し…自然にはそもそも”音楽”はないんだ」
「? どういうことだ? 鳥の声とか木の音とかたくさん聴こえるじゃないか」
「あれは”音楽”じゃなくて”音”でしょ?」
「…… 確かに……」
「多分 昔 誰かが気づいたんだよ この音はいい気分がするな… この音はやな気分… たくさんのいい音をみんなに聴かせたらどんな顔をするだろう…?
…だからなんて言ったらいいのかな…」
「…… なるほど逆なのか…… 感情があるから音楽がある!」
(1巻 p95~97)

 「なぜ音楽で感情が表せるのか?」というテセラの問いから始まった吉田との問答は、このような答えを導きました。すなわち、音楽が感情を表すのではなく、感情があるからそこに音楽を見出すのだと。
 ここで言う「そこ」とは、「音の集合」です。自然界の中から人為的に音を抽出し、恣意的に区切り、音階として形式化し、音の高低や時間的長短をつけてメロディとし、重ねて和音とし、時間的差異や強弱をつけてリズムとする。そんな音の集合を「気持ちを元に組み合わせていった」ものを「音楽」と呼ぶとしています。

 上述のように、音楽の要素となる音は、人為的に抽出され、恣意的に区切られたものです。世界の中で無限に存在する音を周波数で区切り、周波数がある音から2倍になる音をオクターブと定義して、その間をなんかいい感じになるように区切って音階としています。
 この「なんかいい感じ」というのはそのままの意味で、何か明確な絶対の根拠が存在するものではありません。その証拠に、世界各地の文化圏で異なる音階が存在し、その区切り方は各文化圏において「なんかいい感じ」だと思われたから採用されたのです。
 たとえば現代で広く市民権を得ている西洋音楽ではドレミファソラシドの8音で1オクターブの音階を作りますが、日本の伝統音楽では民謡音階(西洋音階で言うレミソラドレの6音)や、都節音階(同様に、レミ♭ソラシ♭レの6音)などがありましたし、琉球音楽はドミファソシドの6音で構成されます。もちろん、西洋音楽が入ってくるまでドレミなどの音名もなく、記譜法も独自のものが発達していました。
 このように、文化によって人為的、恣意的に、音は区切られていたのです。

 さてこの恣意性。なにか見覚えはないでしょうか。
 そう、『はじめアルゴリズム』の記事で登場した、人間による世界の切り取り方です。

世界の中に切れ目を入れて、あれはヒト、これはイヌ、それは木、あっちは山、こっちは海と、区別する(名づける)ことで、はじめて世界を認識できるのですが、その切れ目の入れ方は恣意的で、絶対的な根拠があるものではなく、いわば人間ごとに、あるいは社会ごとに、文化ごとに決められた勝手なルールです。

三原和人が描く人と世界のつながり方の話 『はじめアルゴリズム』編 - ポンコツ山田.com

 人が言葉によって、数(学)によって世界を恣意的に切り取ったように、音による切り取り方も、また恣意的なものなのです。
 恣意的な切り取り方で何かを表そうとする。その意味で、テセラや吉田の言う「感情が音楽を作る」というのは、かなり『はじめアルゴリズム』的、すなわち数学による世界の捉え方に近しいものと言えますが、実は『はじめアルゴリズム』の中に、音楽に触れている個所があります。

「前から思ってたんだけど 数学と音楽って何か似ている気がするんだよね ウチダはどう思う?」
「…確かに 有名な数学者が音楽に親しんだという話も多い お前の印象もそんなに間違ったものじゃないだろう…」
「やっぱり!」
「古代ギリシャでは数学と音楽は近い学問だった それぞれのやり方で世界の根本にある美と調和を探ろうとしていたのだ」
(はじめアルゴリズム 4巻 p98、99)

「数学も音楽も見てる世界が一緒なんじゃないかな? だから気持ちよさも似てるんだよ」
「……そうだな 音楽はそれを音で表し 数学は数で表す なぜか混沌とした世界の中にそうやって調和を見出そうとする人間が生まれた
 人間は無意味に見えるこの世界の中に意味を見出す存在と言っていいかもしれない その表現の一つが音楽であり数学だ」
(同前 p141、142)

 特に西洋音楽は、数学的な思考に基づいて発展してきました。上で書いたように、オクターブの音は元の音との周波数比が1:2の関係(ある弦を弾いて出る音は、その2倍の長さの弦を弾いて出る音のオクターブ上になるという関係)にありますが、そこから2:3の完全五度(ドに対するソ)、4:5の長三度(ドに対するミ)と、美しく響く音は簡単な整数比で表せることを発見していきました。*1
 連載第一作目の時点から、数学と音楽の近さについて三原先生は自覚的だったと言えるでしょう。
 このように、人は音楽という人為的・恣意的なルールで感情を表そうとしている、と言っている『宙飛ぶバイオリン』には、『はじめアルゴリズム』から通じる、恣意的なルールによる世界の切り取り方、という考え方があります。

 しかしそれだけではありません。同時に、『ワールド イズ ダンシング』に通じる考え方も、また見られるのです。

 すでに述べたように、そもそも音楽は感情が先にあって生まれたものです。なんとも表すことのできない感情があるから、言葉じゃどうしても伝えきれないものがあるから、それを音楽で表現するのだ、と。

 たとえば、夕方六時を報せる町内放送で流れてきた音楽を聴いた吉田は、その音楽を聴いて催す感興として「どこか…さみしい感じ? (略) で…でもちょっと違うんだよね さみしいだけじゃないっていうか… 怖いような感じもあるし ホッとするような感じもあるような」(1巻 p100、101)とそれをうまく伝えきれないことにもどかしくなりながら、こう表現しています。
 この曲(作中で曲名の明示なし)の作者が何を思って作曲したかはわかりませんが、そこに込められた感情は、おそらく一言で表せるものではないでしょう。夕焼けに染まる世界に包まれて、一言では、いえ、言葉では表せない感情に襲われて生み出したと思うのです。

 そうして生まれた曲を演奏家は演奏するのですが、演奏でもって曲に込められた感情を表現することは、『ワールド イズ ダンシング』で鬼夜叉が舞について語った以下の部分と呼応します。

身体をもって想いを伝える
それこそが私たち演者の能はたらきではないか
言葉で済むなら私たちはいらぬ
だから私たちは身体をもって舞台に立つのではないか?
(ワールド イズ ダンシング 5巻 p64)

 言葉で済むなら舞はいらぬ。同様に、言葉で済むなら音楽はいらぬ。言葉じゃ済まないから、音楽を作るのです。

 そして、音楽(曲)を広く伝えるためには譜面が重要な役割を果たしますが、特にクラシック音楽では、譜面を細かく読み込み、作曲家がどんな思いを込めてこの曲を作ったのかをイメージすることが要請されます。

そうですね 演奏家の感覚は大事です
では作曲家の感覚を君はどこまで考えていますか?
バッハの曲における感情的な深み それが彼が組み上げた論理的で緻密な曲の構造によって初めて立ち上がってくるものです 吉田君の演奏ではその構造がぼやけてしまうと私は考えます
確かに曲の解釈には人によって幅があります 特に昔の曲となると当時はどう弾いていたのか 今や正確にわかる人などいないでしょう
ですが 一音一音なぜそう弾くのか? 演奏家はよく考え自覚していなければならない
(同上 p170、171)

 個人的な経験で言うと、私のバンドにいるピアニストは長くクラシック畑で演奏してきた人間なのですが、主にポピュラー畑でやってきた私を含む他のメンバーに比べ、曲の意図を楽曲ではなく譜面から読み取ろうとする傾向が非常に強いです。
 それはともかく、作られた曲からそこにある感情を汲み取る為には、通り一遍に譜面をさらうのではなく、前に出てきたメロディと一音だけ違うここはどんな意味があるのか、コードに加えられた9thの音はどういう役割なのか、一瞬だけ変わるリズムは他の個所とどう機能するのか等々、分析的に捉えていく必要があります。分析的とはすなわち言語的ということですから、「言葉じゃ済まないから音楽を作る」の逆のことのようですが、分析は言葉でも演奏は音。言葉イコール音ではなく、音の高低長短強弱が織りなす非言語的なメッセージは、世界に分節線を入れるデジタルな形ではなく、アナログに感情を描き出すのです。

 少し話がそれましたが、音楽を演奏するという行為は、自分の身体を通して曲に込められ感情を非言語的な形で世界に解き放つ行為であり、その点で『ワールド イズ ダンシング』の舞に通じると言えるのです。


 以上から、本作『宙飛ぶバイオリン』は、世界と人のつながり方について、前二作の『はじめアルゴリズム』と『ワールド イズ ダンシング』双方の系譜にあるものだと言えるでしょう。
 今回、改めて連載三作品を読み通しましたが、作者自身に世界の見方・感じ方・捉え方について太い考えがあるなと感じました。それをただ言葉で表現するのではなく、作品の中に溶け込ませたものが種々のフィルターを通すことで浮かび上がってくるこの感じ、とても好きなんですよね。

 というわけで、三原和人作品に関する記事三部作でした。

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*1: 『がらくたストリート』のあるエピソードでは、ギターのフレットの位置(フレット間の長さ)はどのように決められているのかについて、高校レベルの数学知識で解説していましたが(あるフレットを押さえて出る音から半音下がると=押さえるフレットが一つヘッド側に行くと、ブリッジからの距離が元のフレットから約1.06倍(2の1/12乗)になる)、ロックの象徴のようなエレキギターも、それを成り立たせる根底には数学によって導かれる美しい関係性があるのです。