前回の続きのようなものを。
体系的に絵の勉強をしたことのない自分が、絵心のある人間とない人間の違いを語ってみる話 - ポンコツ山田.com
今日はデフォルメについての話。
前回の記事内で、私が描いた「HUNTER×HUNTER」のピトーとユピーのデフォルメ絵の模写を晒しましたが、デフォルメ絵がデフォルメ絵である以上、当然元の絵(というかキャラクター)があります。元の絵はキャラクター間で個人差はあるものの、だいたい人間の体格の範疇に納まりますが、デフォルメ絵では一様に二頭身化されています。
元の絵に備わっている特徴を適宜削ぎ落とし適宜残し、「これを描けばそのキャラクターに見える」という特徴で再構成されたものがデフォルメ絵です。
まあピトーとユピーのデフォルメ絵は、実は省略されている特徴はそれほどないのですが、それでも各特徴(パーツと言い換えても可)を元絵のままにもってくるわけには行かず、適宜大きさやバランスを調整したりしてあります。
さあ、こういうことが私には出来ない。つまり、要素の捨象、調整、再構成です。
どこを残せばそれっぽく見えて、どこは別に要らなくて、ある要素をなくした分だけ他の要素をどう変換すればいいのか、それを全体としてどう収めれば収拾がつくのか。そういうことを考えられないのです。
さて、ここで一つの例を挙げてみます。
これは友人が描いた、「ワンピース」の登場人物であるティーチのデフォルメ絵です。
友人曰く、この絵はモデルとしてティーチの絵は見たものの、このようにデフォルメされた絵は特に参照していない、とのことです。つまり彼は、ティーチの絵を見て自分の感覚で各要素を捨象し、あるいは残し、調整、再構成したことになります。
実際このティーチには、色々と元絵から抜けている要素があるそうです。私の手元に「ワンピース」もジャンプもないので確たることは言えませんが、例えば歯は少ないし、銃も単純化されているし、あるいは逆に髭が多すぎだったりもします。それでもこの絵は、最近の「ワンピース」を読んでいる人なら間違いなくティーチだと認識できる絵になっていると思います。
彼に聞いたところによると、この絵を描くにあたって、最初から全体のイメージは掴めていたそうです。細部の詰めや、下半身のバランスなど、何度か描き直した部分もありますが、「こういう風に描こう」という全体像は初めからあったというのです。
これはデフォルメ絵ですので元絵からの参照がありますが、そうではない一般的なイラストでも、最終的にどのような絵を描こうかというイメージは最初にあるはずです。それをどの程度まで意識できるかが、絵心の程度を考えるのに一つの指標となると思います。
つまり、自分が描きたいものをどのように描けばいいかのイメージがあるか、作品のゴールが見えているか、です。
そのゴールには、パーツの具体性もありますし、全体のバランスもあります。個の集合として全が生まれ、全の一要素として個がまた改変されます。自分が描いたイメージを顕微鏡と望遠鏡、両方で精査できなければいけないのです。
まあでもどちらかと言えば重要なのは全体像のバランスなのかな。感じとしては、プラモデルを組み立てるように、イメージの全体像に向かって、各要素を描きだしながら積み上げていくような。絵心がないからよくわからないけど、きっと。
ちょっと話を絵から広げます。
作品のゴールということになると、絵に限らず漫画や小説、音楽、あるいはこのような文章でも大事なことだと言えるでしょう。どのような作品にしたいかというイメージがないままに作り始めると、途中であっちゃこっちゃに迷走した挙句中途半端なところで止まってしまう惧れがあります。
今「ゴール」という言葉を使っていますが、これには「終着点」「結末」などのニュアンスがついてまわります。イラスト、一枚絵なら、受け手が見るものはまさにその絵そのもの、絵単体なので、まさにその「終着点」のみを鑑賞することになりますが、小説や漫画のようにストーリーがあるもの、音楽のように時間経過が必須であるもの、総じて「流れ」が存在する作品形態では、結末のみを味わうわけではありません。それまでの経過を味わわなければ、結末には辿り着かないのです。ならば、そのような作品形態では「ゴール」という言葉はそぐわないのではないかと思われるかもしれませんが、結末の形を意識することで、そこに到る経過をどのように作れば上手くまとまったフィナーレを迎えることが出来るか、ということを考えることが出来るのです。
ハッピーエンドならそれを盛大にするための挫折をどうするか、カタストロフィ的エンドならどのように壊乱的なカタルシスを演出するか、などなど。このような場合、結末が過程を塑型するといえます。
とはいえ、世の全ての作品が最初から結末を想定されているわけではありません。見切り発車と言うものが往々にして世の中存在しています。結末ではなく設定を先に設定して、そこから話を作っていくうちに「こういう風に終わろう」と考えがまとまっていくこともあるのです。
実際、連載漫画、特にジャンプのように人気があれば延命を辞さないような媒体ならば、当初予定していた結末なんて簡単に彼方へ消え去ってしまうでしょう。「ドラゴンボール」があのように終わるなんて、ピラフ一味を描いていた頃の鳥山先生は想像だにしていなかったと思います。この場合は、経過に従って結末が塑型されていったと言えます。
とはいえ、連載漫画もいちいちネーム、つまり話の下書きを作っているわけですから、いきなり描き出しているわけではありません。「これでちゃんと話として成立しているか」という推敲段階を経ているのです。その意味で、各話ごとに区切って考えると、純粋に過程(設定)が結末を塑型しているわけではありませんね。純粋なこういう形のものは、むしろ書き下ろし小説や一話読みきり漫画などの方が多いのかもしれません。
ですから、「途中であっちゃこっちゃに迷走した挙句中途半端なところで止まってしまう惧れ」というのも、この手のものについて言えるわけです。結末が過程を塑型するものよりは、こっちの方が行き詰まりをみせやすいと思います。
後半はちょっと違う方向に話が行きましたが、そんなこんなの絵のデフォルメについてでした。ま、完成像のイメージをどれだけ具体的にかつバランスを考えながらもてるか、ってことですね。
次回は、今までさんざっぱら使ってきた「絵心」という言葉を考え直してみようと思います。
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