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漫画の話です。

笑いの「場」の違いによる、ボケとツッコミの質的変化の話 あるいは人を笑わせるのはそんな簡単なこっちゃないぞという話 

前回の記事の続きと言うか補足と言うかで、笑いの「場」の関する話を改めて。
笑いが起こる「場」の構造と、そこから考える「ヒャッコ」の魅力の話 - ポンコツ山田.com

まずは前回の復習的なものを。

前回の記事内で、「場」の構成状況にあわせて笑いを「舞台的笑い」と「日常的笑い」の二種類に分けました。
舞台的笑いとは、いわゆるプロの人間が生み出す笑いで、その「場」が、「私」と「あなた」と「第三者」に分けられているものです。この三要素は「私」と「あなた」/「第三者」に区別できます。前者が舞台の上にいる笑わせる側=演者、後者が笑わせられる側=観客です。演者側が「私」と「あなた」の二要素になっているのは、コンビのお笑いの舞台をモデルにしているからで、ピン芸人なら「私」と「あなた」はその一人の内にまとめられますし、トリオ以上の場合も「私(たち)」や「あなた(たち)」のような形になるわけで、基本構造は変わりません。あくまで観客は「第三者」の位置からは動かないのです。そしてこの笑いは、本質的に「第三者」を笑わせるために存在し、「私」と「あなた」が笑うこと、面白がることについては二の次となります。
対して日常的笑いは、普通の人が普通の会話の中で生んでいる笑いです。この「場」の要素は「私」と「あなた」のみになります。こちらは「私(たち)」になろうが「あなた(たち)」になろうが、「第三者」は発生しません。「私」と「あなた」の関係で「場」は完結しています。そしてこちらの笑いは「私」と「あなた」が笑うためのもので、(否定的な意味でなく)閉鎖的なものとなっています。


「私」と「あなた」/「第三者」の違いは、「場」のコミュニケーションのコード形成に能動的に参与できるか否かです。前者はでき、後者はできません。
コードとは文脈とほぼ同義で、「このコミュニケーション内ではこんな話の流れがありますよ、こんなタブーがありますよ、こんな言葉遣いが奨励されますよ」というような、暗黙の約束事とでも言えるようなものです。今風に言えば、「KY」の「空気」ってことです。
舞台的笑いの中の「第三者」=観客ができるのは、演者のコミュニケーション(コントや漫才)を見て笑うか笑わないかの反応をするだけであり、そのコミュニケーションのやり取りそのものに関わることはできません。そもそもコントや漫才はあらかじめ内容が決定されているのが普通ですから、コードも事前に形成されきっています。そのコードと普段の会話(日常的笑いが生まれる普通の会話)のコードとにギャップがあり、かつそれが理解の容易さと突飛さの絶妙なバランスの上に成り立っていると、観客は演者のコミュニケーションを見て笑うことができるのです。前記事でも言った「誰でも理解できるが誰もぱっと思いつかない」コードということですね。
対して日常的笑いは、普通の人による普通の会話の中での出来事ですから、その「場」を構成する成員全員が、コードの形成に関わります。成員が「私」と「あなた」の二人だけでも、10人以上いようとも、成員が皆コミュニケーションに参与しているなら、同時にそこでのコード形成にも参与していることになります。
ですから、理屈の上では日常的笑いの「場」にいる人間でコードがわからない人間はいないことになります。「第三者」がいないということです。

ボケとツッコミの意味。

復習はこのくらいにして、今日はここに「ボケとツッコミ」という観点を導入してみましょう。これは一般的に使われている意味での「ボケとツッコミ」です。ボケに対してツッコンで、という構造のアレです。
さて、ここで私が言いたいのは、日常的笑いの中ではボケとツッコミは存在しないのではないか、ということです。
そんなことはないと言う人もいるでしょうからより正確に言いましょう、日常的笑いにはコード変更をせまるボケもそれを修正するツッコミも存在しないのではないでしょうか。


ボケと言うのは突飛な言動、つまりコードから逸脱した言動です。今までしてきた会話の流れとは結びつかない言動が唐突に挿入されたために、他の成員が意表を突かれたわけです。
ツッコミは、コードから外れたボケを、それまでのコードに繋ぎなおせるように解釈するためのものです。ボケで「え?」と思った成員の意識を「ああ、そう解釈できるのね」と安心させるものと言ってもいいでしょう。
ボケとツッコミによる笑いの構造は、コードから外れることとそれをまた戻すこと、というように単純化できると思えるのです。

日常的笑いの構図と効果

日常的笑いの中では、特にボケもツッコミもされていないのに笑いが起こる、ということが実によく起こります。
「○○って××だよね」「わかるわかるー」「アハハー」
「でもΔΔって□□だし」「マジでー」「アハハー」
みたいな。
まあこの書き方だといかにも頭の悪そうな女子高生会話のテンプレですが、別に女子高生でなくとも似たような会話はなされます。ちょっと普段の会話を思い返してください。前述したようなボケとツッコミの構造とは関係のない形で笑いが起こるのが普通ではないでしょうか。
これは、成員全員によるコード形成により、「なにが笑いのポイントになるか」ということが(理屈の上では)成員全員に共有されているから起こることです。「これこれこういうことに、こんな感じで言及すれば笑いが起きる」という約束が暗黙のうちに作り上げられ、それを履行した形としての笑いなのです。
そのような笑いが起きるのは意表を突かれたではありません。そこで笑うことになっているから笑うのです。
若年層によく口にされる「それってチョーウケる」のような言葉にそれは象徴されます。彼らはこの言葉を口にする際、笑い声を上げているにもかかわらず、時としてひどく醒めた目をしています。まるで「本当は別にそんな面白くないけど」とでも思っているかのように。
実は、この言葉の後ろにはカッコ書きでこんなことが挿入されているのです。「それってチョーウケる(ことになっている)」と。
彼らは面白いから笑っているのではありません。コードによる約束を履行したことを証明するために笑い、「チョーウケる」の言葉を口にするのです。そのため、笑い声はあがっていようとも、目は面白がってはいないのです。
日常的笑いはそれが起こる度にその「場」のコードが復習され、補強されていく、つまり「場」の紐帯が強くなっていくのです。それが日常的笑いの効果です。
日常的笑いの中にも、ボケとツッコミのように一見思えるものも存在していますが、それは本来的な意味でのボケとツッコミではありません。日常的笑いの延長線上のボケは決してそのコードから逸脱することなく、意表を突かれない程度の意外さ(意外という言葉を使うのもなんか違いますが)でしかないのです。必然的にそれに対応するツッコミも、逸脱したコードの補正力を有する必要はなく、「そこにボケがあった」ということを形式的に指し示す役割でしかありません。
「なんでやねん」とか「なんだそりゃ」などといった極めて汎用性の高いツッコミの言葉は、その汎用性の高さゆえに日常的には非常に形骸的な言葉となってしまっています。つまり、「その言葉を使えばツッコミとなる」=「そのツッコミに対応している発言はボケだったのだ」というただの形式でしかない構図ができあがってしまうのです。日常的笑いのボケとツッコミは、実質的なコード逸脱を含まない形式的なものでしかないのです。
こう書くと、日常会話の中のボケとツッコミが須らく形式的であると誤解されかねないので、コード逸脱と再解釈を含まない形式的なボケとツッコミが「日常的ボケ/ツッコミ」である、と定義する方が正しいのでしょう。日常会話の中でも本質的なボケとツッコミもありますし(滅多にないですが)、プロがやるものでも日常的ボケ/ツッコミでしかないものもあります。これは状況ではなく実質で判断されるものです。


日常会話の中の「本質的ボケ/ツッコミ」(「日常的ボケ/ツッコミ」との対比としてこう表現します)を簡単に見たければ、ちょっと形は変わりますが、「ダウンタウンDX」や「恋のから騒ぎ」などのトーク番組を参照してください。ああいうのはボケはその発言者が意図的に使っている場合は少ないですが、ホスト役がそこにツッコミを入れるために笑いが起きます。要は「いじる」というやつです。
まあこの場合、ボケ(とみなされる発言)はコードからは特に逸脱せず、ツッコミ(いじり)が別解釈(別コード)を強引に、でも他の人にも理解できるように当てはめた、という方が正しいのですが。

危ない!本質的ボケ/ツッコミ

日常的ボケ/ツッコミに対し、本質的ボケ/ツッコミはリスキーです。特に日常会話の中では。
なにせ、本質的ボケ/ツッコミはコードの逸脱と再解釈という行程ですから、他の人にそれが理解されないというリスクが常につきまとってしまうのです。有り体に言えば、「スベる」可能性から逃れられない、というかスベる可能性のほうが遥かに高いです。
上にも書いたように、ボケとツッコミは「誰でも理解できるが誰もぱっと思いつかない」ことが肝となります。誰も理解できないようなものではコードの再解釈とはなりませんし、誰もがぱっと思いつくようなものでは意表を突かれはしません。
この絶妙なバランスを見極めるために芸人たちは日夜頭を悩ませているのに、脊椎反射で喋るような日常会話でボケとツッコミをいれようとなんかしたら、そのバランスを見誤るのがオチです。普段から一緒にいるような友人たちを相手にするのなら、語彙や頭の回転などの具合もある程度わかっているでしょうからまだやりようがあるでしょうが、そこまで親しくない人相手にそれをするのは、リスキー以外の何物でもないでしょう。
「○○君て面白いよねー」とおだてられている人はたいてい、いえ、ほとんどの場合において、日常的笑いの中での面白い人に過ぎません。「場」の成員全員がコードを共有しているという前提があるから、その「場」の人間を笑わせることができるのです。また、この笑いの意味も先に述べたように「場」の仲間意識を強めるためのものである場合がほとんどです。言ってしまえば、「場」の成員であるから笑ってもらえているのです。
このような日常的笑いから脱しうる面白い人というのは、「場」のコードを素早く読み取れる人、あるいは立ち上げられる人だと言えるでしょう。ここでコードを「空気」と読み換えてしまうと、似たようなものではあっても色々なものがばっさり落ちてしまう気がするのであまり使いたくはないのですが、理解の一端になればと一応挙げておきます。
芸人は他人を笑わせているのか、それとも笑われているのかとは時々聞く話ですが、私はそれはどちらも正しいのだと思います。ただ言えるのは、笑ってもらっているようでは芸人にはなれないということです。身内にしか受けないと言うのは面白いってことじゃないぞ、と。




とまあ、笑いの「場」とボケ/ツッコミの関係性についての試論でした。






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