- 作者: 田丸浩史
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2009/01/23
- メディア: コミック
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ロリ・オタ・プーの主人公カズフサが衝撃の登場*1をしてからもう九年近く経ち、前巻で彼もついに三十路を迎えました。それでもいまだにロリ・オタ・プー街道を爆走しているのに、この作品のギャグ濃度の高さ(他の要素の少なさ)を感じるわけですが、主にカズフサの三重苦や他作品のパロディ、あるいは作者の田丸先生の蛮行(えろまんがとぴっくす また田丸浩史先生が変なもの売り出した件について)などが話題になりやすい一方で、漫画的な側面について触れた話をあまり見ないような気がします。
なもので書きますが、実は「ラブやん」(他の田丸作品は未読なのでとりあえず除外)、かなり構成のすっきりした漫画なのではないかと思うのですよ。早い話、テンポよく読みやすい漫画。
これのわかりやすい特徴としてコマ数の少なさがあります。「ラブやん」は一ページあたり4から5コマしかなく、それを越すことは滅多にありません。
コマ数が減ることでまず影響が出るのは1コマあたりの面積です。1ページに4,5コマしかないと、かなりゆったりしたコマ作りができますから、複数人を1コマに入れることが容易にできるようになります。細かいコマで煩雑にキャラを描かずに済む分、読み手は状況をシンプルに理解することができます。
同じ面積でコマを分けて、同様の状況を描くことはできますが、そこには分けられたコマの流れを再構成して状況を把握するという(無意識の)行為が必須であるため、どうしても理解には幾許かの負担がついて回ります。それをなくせるというところに、大きいコマによる描写の利点があります。
ですが長所と短所は表裏一体、大きいコマ使いには相応の不利点もあります。それは、絵の面で言えばコマ内のバランスをとりづらいこともそうですが、漫画構成の面では、会話のキャッチボールの量を増やしづらいということ。基本的に漫画の会話はフキダシによってなされますが、一つのコマの中に収めるフキダシの量には限界があります。例えば一つのコマ内にキャラが二人いるとして、その二人による会話はコマの大きさに関わらずおそらく一往復半が限度です。なぜかというに、フキダシによる会話は、単にその会話が進むだけではなく同時に作品内のストーリーも進めているからで、ストーリーが展開するにもかかわらず絵が動いていないというのは、読み手にかなり窮屈な印象を与えてしまうものです。早い話、説明臭い漫画という印象を受けてしまいます。
ですから大きいコマ使いの作品では、少ない会話のキャッチボール(文章量が少ないわけではない)で読み手に十全な理解を与え、かつ一つのフキダシの中の文字数を増やし過ぎないようにして説明臭さを減らす必要があります(裏返して、説明臭さによるギャグもありますが)。さらに「ラブやん」はギャグ漫画なのですから、その中にギャグも入れなければいけないわけで。
これらを成り立たせるために、わかりやすい絵やコマ運びのテンポ、省略できるところは省略する、説明しなくていいものは説明しないスピーディーな展開が普通以上に必要とされるのです。
茫洋さと表裏一体の大きいコマ使い、不親切さギリギリのスピーディーな展開、説明臭さすれすれのところを逆にコテコテなスタイルのギャグとする会話回し。内容のバカバカしさとは裏腹に、かなりタイトロープな作りになっているんじゃないでしょうか。
このスピード感と読みやすさで「ラブやん」は、紛うことなきいい意味で、中身のないギャグ漫画となっています。ギャグ漫画の誉め言葉で「中身がない」以上のものってそうないと思うんですが、それは上でもちょろっと書いた「ギャグ濃度の高さ(他の成分の少なさ)」に通じるものだと思います。ギャグ漫画なんだから笑わせてナンボであって、作品読んでひとしきり笑って、読後に笑い以外を残さなかったのなら、それが大成功でしょう。
そして、本来のギャグ路線からぶれないギャグ濃度、ベタでコテコテな全編通したコント的掛け合い、ぐいぐいリズムを重ねるスピード感をして、「ラブやん」は王道的作品であると言いたいのです。
ま、あんま世間一般に普及して欲しい作品だとは思いませんが、作品構成のタイトさと王道さについては評価されるといいなあと思います。
あ、あと「ラブやん」が「ああ女神さま」のパロディだと言う話*2に、言われて初めてその可能性に思い当たりました。わかるかんなもん。
また違う意味で濃い「百舌谷さん」との比較は、また後日。
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