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漫画の話です。

「とめはねっ!」 「書は人なり」の個性の重要さを体現する望月の話

とめはねっ! 鈴里高校書道部 7 (ヤングサンデーコミックス)

とめはねっ! 鈴里高校書道部 7 (ヤングサンデーコミックス)

先ごろ7巻が発売された『とめはねっ!』。「書の甲子園」編から続く流れで「かな」編に突入しましたが、その過程で、この作品におけるある一つのテーマが浮かび上がってきました。それは「書は人なり」です。
書の甲子園優勝校の豊後高校に馬鹿にされたように思った望月が、かけもちしていた柔道部を辞め書道部一本に絞ろうとしたときに、部長ひろみが言った言葉ですが、曰く、書にはその人の個性が出る、柔道を辞めては望月の個性が薄れる、書道に練習量は大切だがそれだけではなく、自分が本当に書きたい書を見つけることも大事なのだ、と。
ひろみや顧問影山にとっては、彼女が練習量を増やすより、柔道を続けて「個性」を残した方が書道にはいい影響があると判断したわけですが、わたしは別に望月が柔道を辞めたところでそれが彼女の個性の消失に繋がるとは別に思いません。「高校柔道で優勝しながら書道部を掛け持ちする少女」と「高校柔道で優勝する実力を持ちながらすっぱり辞めて書道部に絞った少女」、どちらが個性が強いかなんて比較のしようがないと思います。個性と言うなら両方とも個性でしょう。
まあ個性が何なのかという話は措いといて、練習だけではなく個性・才能・その人らしさ・その人が生まれながらに持っているもの・後天的に獲得したものも、書道にとっては大事だという話は、実はこの望月こそが体現しているのではないかと思うのです。
なにしろ彼女、柔道部と書道部を掛け持ちしているという状況で、柔道にせよ書道にせよ人(一つの部活に真面目に打ち込んでいる高校生、ということですが)並み以下の練習量でしかないのですが、弱冠高校一年生で高校柔道で二度の優勝を果たしているのです。これを才能、天賦のものと言わずしてなんと言いましょう。才能が、個性が努力を駆逐しています。
彼女が豊後高校の倣岸な態度に腹を立て、彼我の練習量や現段階での実力の天地の差を知りながらやる気を燃やしたのも、少ない練習量でも全国制覇をすることはできるという自分の経験からくるものでしょう。というか、それがなくてはあそこまで立派な啖呵を切ることはできません。「やってみなけりゃわからない」というのは若者の特権ですが、それを言えるだけの経験が彼女にはあるのです。
才能は、個性は、練習量を覆せる。少なくとも柔道においては、望月はそれを証明しています。果たしてそれが、書道でも見せられるのでしょうか。ただ彼女は、その気性と運動神経からか、力強い書体や、全身を使って書く大字書に秀でているというのは既にこれまで描写されています。これもまた、個性でしょう。才能でもありますけど。
次巻予告では、かな書で縁が覚醒!とのコピーがありますが、彼の柔和な性格と、祖母の手紙の文字を真似て日本語を書いていたという過去も、また彼の個性でしょう。才能でもありますけど。


ただ、この「練習(=努力)に対する個性(=才能)の優位さ」の強調の仕方は少々過剰なところがあるようにも感じ、このような「ある思想が他の思想より優位にある」ということを少々一方的な形で描くのは前作『モンキーターン』でも見られたものなので、河合先生の、それこそ「個性」なのかもしれませんが、これについてはまた別の記事で。


ちなみに、この作品で三番目にかわいいのは望月、二番目は京都の大槻、一番かわいいのは縁の祖母だと思います。異論はそこはかとなく認めなくもない。
ネウロ」の松井先生も言ってましたが、若い頃が想像できるおばあちゃんてかわいいと思います。




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「宇宙兄弟」に見る、言葉に重みを与えるシチュエーションの話

前巻ではクール・冷血の権化と思われていたビンスが、南波兄弟やJ兄弟同様、(義)兄弟の約束を胸に宇宙を目指している熱いGUYだということがわかった11巻。相変わらず面白い『宇宙兄弟』ですが、今日はその魅力の一つである、警句と実際の体験・行為の結びつきの話を。

宇宙兄弟(11) (モーニング KC)

宇宙兄弟(11) (モーニング KC)

警句・箴言・金言・格言と、人の口の端に昇り人生の指針になるようなフレーズは昔から言い習わされてきていますが、なぜそのような言葉が胸に迫るかといえば、その言葉が実際に自分の身に起こったこと、あるいはよく見知った出来事の側面を言い当てているからです。ですから、どんなに人口に膾炙する言葉でも、それに比せる出来事を知らなければ自分にとってはただの空言ですし、他の誰もが首をかしげるような言葉でも、それが自分のよく知ってる体験に適合するならば、心に強く残るのです。
宇宙兄弟』でも警句、というか印象的なフレーズがたくさんでてきますが、それがなぜ印象的になるかといえば、物語の中で使われているそれらの言葉たちが、きちんと登場人物たちの体験・行動に関係しているからです。
例えば、第三次試験で六太たちのA班が最終試験に進む二人を選ぶ際、その選考方法に六太はジャンケンを提案しましたが、それは恩師である天文学者シャロンの言葉を思い出してのことでした。

迷った時はね 「どっちが正しいか」なんて考えちゃダメよ 日が暮れちゃうわ
頭で考えなきゃいいのよ 答えはもっと下
ほらムッタ下げて下げて
あなたのことならあなたの胸が知ってるもんよ
「どっちが楽しいか」で決めなさい
(5巻 p11,12)

実のところ、「迷ったら楽しいことを選びなさい」という言葉は、それほど物珍しいものではないでしょう。少し気の効いた中学生あたりなら口にしてもおかしくはありませんし、何かの一側面を如実に言い表しているとも言い難い抽象的なフレーズです。
ですが、それでもその言葉が読み手にとって印象的なものになるのは、その言葉を思い出した六太*1のとった行動、すなわち選考方法としてジャンケンの提案が他のメンバーにとっても受け入れられ(ジャンケンを納得させるための、主に古谷やすしに向けての六太の話もその一要因ですが)、且つそれによって転がったストーリーに盛り上がりがあり、その物語自体が読み手にとって印象深いものになったからです。言葉は単独で意味を持つのではなく、後から見れば物語の転機・契機となったと考えられる、ある種後天的な、後出し的な視点でもって初めてそこに意味やニュアンスがつくのです。それを作品という単位で考えれば、警句的な言葉とそれが使われる当の体験・行動・状況を結びつけるのが小山先生は上手い、と言えるでしょう。
他にも、書類選考に受かったものの、一次審査の受験を渋る六太に向かって言ったシャロン

今のあなたにとって……一番金ピカなことは何?
上手くなくてもいいし 間違ってもいいのよ ムッタ まずは音を出して
音を出さなきゃ 音楽は始まらないのよ
(1巻 p71、72)

の言葉は、「宇宙に行きたい」という忘れかけていた六太の思いを呼び覚ましました。
日々人が月面で事故を起こしたときに思い出したブライアン・Jの言葉は

「じゃあ 天国とか地獄は?
俺はないと思うな どっちも」
「なぜ?」
「だって…… 天国も地獄もどっちも……
生きてる時に見るもんだ」
(8巻 159,160)

でしたが、事故を起こす直前に、兄・六太は晴れて宇宙飛行士(正確には、宇宙飛行士候補者)になり、正に天国にいるかのような幸福を味わっていて、日々人自身、月面は子どものころからずっと来たかった場所で、そこに立っていることは天国に来たのと変わらぬ幸せだったでしょう。しかし、月面は生命を拒む死の世界で、宇宙服に身を包まなければ生きていられません。そこで事故を起こすことは、死に直結します。事故を起こした日々人たちは、地獄の縁にいるも同義です。
このように、かっこいい言葉、いかした言葉は、それが活きるためのシチュエーションが必要なのです。小山先生に限らず、上手い作家は言葉の活きるシチュエーションをきちんと構築して表現しているように思います。シチュエーションの伴わない、バックボーンの足りない先走った言葉は宙に浮き、ただただ空回りするだけになってしまうのです。


ビンスの口にしていた「人生は短い」。ピコの口にしていた「テンションの上がらないことにパワーは使いたくない」。何気なく口にされていたこれらの言葉ですが、11巻の最後になって重みが付与されました。こういう言葉の力の持たせ方は、とても好きです。12巻ではいったいどんな言葉がどんな物語の中で飛び出すのか、今から楽しみです。




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*1:作中人物である彼にとって子どもの頃に聞いたその言葉が印象的なものであったというのは、話の前提条件です。このような重大な局面に指針として思い出すほどに、この言葉は六太にとって印象深いものでした。

「へうげもの」天下人秀吉の「非情」とは違う「努力」の話

へうげもの(11) (モーニング KC)

へうげもの(11) (モーニング KC)

戦国時代を生きる数寄大名・古田織部を主役に据えた「へうげもの」。彼が目指すところは天下一の数寄大名ゆえ、武を以って天下を支配しようとする人間は他に描かれていますが、それはご存知、織田信長豊臣秀吉徳川家康。天下自体はどの大名も狙っているのですが、それを実現するのは史実に沿ったこの三人であるようです(まあ、巻末には「この漫画はフィクションにて候。実在の人物、団体等と無関係にて候」と書いてあるのですが)。
最新刊である十一巻の段階では、主役である古田織部が活躍した年代の理由もあり、秀吉が長らく天下人の座にあります。この秀吉、「へうげもの」内での人物像として、剽軽者で女好き、侘び数寄とは程遠い派手好みでもあり、母親、弟、嫁や子どもを愛し、主君信長を奉じ、茶の師匠・利休を父とも慕う人情家でもあり、主君である信長に恩を感じつつも己の天下獲りの欲望を抑えきれず、明智光秀が信長に謀反を起こすよう裏から仕向けるなど、冷徹な策謀家にして野心家でもあると描かれています。
どの姿が本当でどの姿が嘘という事もなく、その姿全てがある局面に対する彼の態度なのでしょうが、それらが競合した時に彼が何を優先するか、そしてそれがどのような葛藤となって彼の身に顕れるのでしょうか。


けしかけた明智により信長の本能寺討ちが行われた際、秀吉は部下と共に忍び込み、自らの手で主君・信長を弑逆したのですが、そのときの彼の心中は

泣けぬ………
ここで涙を流せたなら…… 少しは癒えようものを…… 俺の心中には……
大きな穴が空いたのみ……
(三巻 第二十一席)

と、天下獲りへ熱く滾っていたわけではなく、主君殺しの辛さと虚しさが大きく口を開けていたのでした。
このような負の念が心中を覆うであろうことは、秀吉はわかっていました。

俺も己の止まぬ野心を恨んでおる
(一巻 第九席)

天下獲りのために主君討ちさえ考えてしまう野心を、自ら恨めしく思っているのです。恨めしいのにやってしまう。いえ、やると決めたのに悔いてしまうであろうことが恨めしいのでしょうか。とにかく彼は、ねじ切れそうな板ばさみの結果、信長討ちを決行したのです。
そんな秀吉の心の虚無が埋められたのは、古田織部(当時は佐吉佐介でしたが ※web拍手コメントで指摘をいただき、修正しました)に、自分が信長を殺したと打ち明けた後でした。
秀吉に弓を引き、奴こそ信長殺しの真犯人と吹聴する弥助の助命嘆願をする織部に秀吉は、髷を結い俺の手足になると誓うなら弥助ともども許してやると告げました。秀吉は織部に誓約を迫ります。

「羽柴様の…… 乱世に生きる者としての非情さには感服致しております」
「「非情」……? 「努力」と申せ」
(四巻 第三十三席)

こう織部に告げた後、初めて秀吉の目からは涙が流れたのです。
秀吉にとって、信長討ちを「非情」と評されるのは心外なことでした。決して彼に情けがないわけではなく、信長に恩義を感じていなかったわけでもありません。それらがあるにもかかわらず、胸の中では天下人への執念が膨らみ続ける。両者が鬩ぎあった末に秀吉が選んだのは天下人への道だが、それを達するために信長への恩義を抑えつけるには、壮絶なまでの「努力」が必要だった。その「努力」にもかかわらず抑えきれなかったのは、心中に空いた大きな穴が示すとおりです。


彼が再び「努力」を口にするのは、関東北条氏討伐の際、北条氏に仕えていた利休の弟子・山上宗二が自身と北条当主・氏直の助命嘆願をした時のことでした。
宗二の赦免は、秀吉の実弟・秀長、利休両名から願いだされているも、高野山に詰めていたときに書いた書物により石田三成の怒りを買い、彼からは処刑を進言されている。
肉親と心の父。信頼する懐刀。どちらにも言い分を覚えた秀吉は、宗二に一つの質問をしました。

「この出で立ちを評してみよ 宗二 余がお気に入りの出で立ちを評してみよ」
「当世にはふさわしうないお召し物にて」
「これ以上余に努力・・をさせるな……
やれ」
(七巻 第六十六席)

己の感性に嘘をつくことのできなかった宗二は、正直に酷評し、秀吉は彼を処刑する決心をしました。ですが、その処刑もまた「努力」だったのです。
秀長と利休は侘び数寄のため、特に秀長は侘び数寄が政に必要だと考え宗二の赦免を進言し、石田は逆に侘び数寄が政を乱す原因として宗二の処刑を進言しました。両者の主張は完全にかち合っており、どちらがより豊臣の政のためになるかはこれからの政治の方向性次第であって、この次点ではどちらが正しいと言う事はできないのです。
いえ、侘び数寄を好まない秀吉にしてみれば、石田の主張に耳を傾けたくなっていてもおかしくはないはずです。それでもなお悩んだのは、秀長と利休という二人による嘆願、すなわち情の部分での理由が大きいのでしょう。宗二は気に食わないし、政のためには侘び数寄の芽は摘んでおいた方がいい。だが、秀長と利休の進言を無碍にはしたくない。その板ばさみ。
果たして秀吉は宗二を処刑したわけですが、その時の「努力」とは、秀長と利休、二人の心遣いを抑えつけるための「努力」だと言えるでしょう。


改めて言いますが、秀吉は決して情のない人間ではありません。情を、敬意を払うべきと自分が認めた人間については、きちんとそれを示しているのです。ですが、それに反抗するように彼の胸に湧き上がる天下人の野望。両者がかち合った場合に優先されるのは後者ではあるのですが、そのとき彼の胸には殺された情、殺さなければ天下人の邪魔になる情が確かにあるのです。そうして情を殺すのは、秀吉にとって天下人への「努力」なのです。


へうげもの」の魅力の一つに、己の業に焼かれる人間の生き様をまざまざと描いている点があると思います。主人公の古田織部にしろ、千利休にしろ、織田信長にしろ、明智光秀にしろ、豊臣秀吉にしろ、徳川家康にしろ、石田三成にしろ、山上宗二にしろ、ノ貫にしろ、方向性は違えど、みな己の業のままにいつ殺されるとも知れない戦国の世を生きているのです。いつ殺されるとも知れないからこそ、己の業に従っていると言った方がいいのかもしれませんが。
天下人を目指すも、侘び数寄を目指すも、へうげを目指すも、止むに止まれぬ己の業なのです。
今回はその中でも、秀吉の業と情との板ばさみにスポットを当ててみましたが、他のキャラクターについても考えてみたらさぞ面白かろうと思います。




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20代のささやかな夢がここにある 大人のだべり場「煩悩寺」の話

長年付き合っていた彼氏に振られた小沢は、憂さを晴らすべく浴びるように酒を飲んでいたのだが、帰り道、湧きあがる尿意に抗しきることができず、マンションの自室に辿り着く前に、3F下にある見知らぬ他人の部屋のドアを叩きトイレを借りた。堤防決壊の危機をなんとか乗り越え、落ち着いたところで部屋の主に挨拶をするべくリビングへ通じるドアを開けたら、そこには奇妙な部屋と、部屋の主・小山田がいた。これが小沢と「煩悩寺」の出会いだった……

煩悩寺 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)

煩悩寺 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)

秋★枝先生の新刊『煩悩寺』のレビューです。
そうですね、この作品の魅力を簡潔に言えば、「大学を卒業した20代の人間のささやかな夢が詰まった作品」てとこでしょうか。
怠惰な学生生活を送った人ならわかるかもしれませんが、友人のでも自分のでも、やたらと人が集まる家ってありませんでした?用がないのについつい行ってしまう。行ったらもう誰か別の人がいたりする。そしてだらだら喋ったり酒を飲んだりマージャンしたり本を読んだり横になって寝ていたり。気がつけば一日くらい平気で経ってて、授業やバイトに行かなければならないときは千切れんばかりに後ろ髪を引かれ、千切れるくらいだったらとそのままサボりを決め込んだり。
一種のアジールのように心地いい空間。それは学生の特権のように思えますが、もし社会人になってもそんなサンクチュアリがあったとしたら?
そんなささやかな夢、でも難しい夢の空間を、「煩悩寺」としてこの作品は描いているのです。
煩悩寺」とは小山田の部屋のあだ名。彼の実家がお寺で、30歳になったらそこを継ぐことになっている彼の兄が、「俺は30までに煩悩の限りを尽くす旅に出る」と家を出て、弟が一人暮らしを始めた途端に色々な物品を送りつけるようになり、結果、彼の部屋には煩悩の残滓が溜まり続けている、と。

(p7)
これが小沢と「煩悩寺」のファーストコンタクトシーンです。
飲みすぎた酒のために小山田の部屋のトイレを借りた小沢は、兄が送りつけた荷物の中からお酒を見つけ改めて管を巻き始め、他の荷物も漁って楽しみ、すっかり「煩悩寺」の虜になりました。以後、足繁く「煩悩寺」に通うようになるのです。

(p112)
「ただいまっ!!」がいいですよね。お前さん、ここは他人の家やぞ、と。
小沢にとって、自分の家かと思ってしまうくらい居心地のいい場所に「煩悩寺」はなっているのです。
小沢は「煩悩寺」で、小山田との小学校来の友人・島本とも出会うのですが、彼もまた「煩悩寺」の虜になった人間です。

(p98)
お前ら馴染みすぎだぞ、と。
居心地のいい空間とは、特にそれが他人の部屋の場合、単にその空間快適性だけでなく、部屋の主の人柄が重要になります。「煩悩寺」の主である小山田は、ぼちぼち常識人で、気遣いができて、オクテのくせにいざと言う時は行動力があって、で、「昔から変な人を引き寄せるヤツ」とのこと。まあつまりは類友ということなのでしょうが、自分の場合を省みるに、たまり場になっていた友人の部屋に集まる面子を考えれば、やっぱりそれは頷けることです。どいつもこいつもひどいヤツばかりだった。もちろんいい意味で。


社会人になってこの類のガンダーラがなくなってしまうのは、たいていの人は会社に行く、つまり非在宅の仕事の人が多いからです。会社があれば残業があるかもしれないし、そうなると勝手に家に入るわけにもいかない。相手の出社退社等時間の制約も大きいですから、気軽にだべれないんですよね。
そこへいくとこの小山田君、職種は不明ですが在宅ワーカー。時間にそれほど縛られないくせに、経済的にも問題はないようです。ムキー。そりゃあそんな友人がいれば、私だって日参しかねない。
仕事帰りにふらっと寄って、だらだら喋って酒飲んで遊んで、適当なところで帰れる居心地のいい空間。そんなささやかなくせにハードな夢が、「煩悩寺」にはあるのです。マジ羨ましい。


この作品、1巻の途中から小山田君と小沢さんのラブコメも少しずつ進みだすのですが、やっぱり気軽な居心地のよさとラブ的な楽しさってちょっとずれたところにあると思うのです。でも、そこらへんの微妙なバランスが、オクテな小山田君と、「煩悩寺」の楽しさで彼に振られた憂さを忘れられた小沢さん、という関係性のために、適度な緊張感と適度なダラダラ感がふんわり漂っていて、「煩悩寺」のアジール感を損なわないのです。
いいなあ、こんな20代。なんで俺はこんなじゃないんだろ。ムキー。


だらだらした心地よい空気を羨ましがるもよし、小沢さんのかわいさにゴロゴロするもよし(最初のコマがおしっこ我慢してる顔で、酔っ払ってる顔頻出とか、いいツボ突きすぎ)、ふんわかラブコメにニヤニヤするもよし。いろいろ美味しい作品ですことよ。
俺の部屋もある意味「煩悩寺」だけど、誰か20代の女性、来てみませんかね?いや、20代じゃなくて、10代でももちろんイインデスヨ?


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「おお振り」かきたてられる食欲とキャラクターへの感情移入の話

しばらく前に友人の家で全巻一気読みした『おおきく振りかぶって』を、改めて自分で買いました。やっぱ面白いですね、この作品。
この作品の魅力については、「試合中の選手の緻密な心理描写」「ご都合主義のないリアルな展開」などが各所で言われますが、そういうのとはちょっと違った方向からの、この作品の魅力なんかを書いてみようかと。

おおきく振りかぶって(15) (アフタヌーンKC)

おおきく振りかぶって(15) (アフタヌーンKC)

高校野球を舞台に描かれているこの作品、当然主役は高校球児な訳ですが、彼らはバリバリ体育会系の高校生ですから、とにかく動くし、とにかく飯を食う。腹が減っては戦ができませんし、野球をやるのに身体が大きいに越したことはありませんから、腹いっぱい食べることさえ練習の一環だと言えるのです。*1
で、高校生たちが食事にがっつくその姿が魅力的でしょうがない。魅力的というか、読んでるこっちも「飯を腹いっぱい食いたい!」と思わせる力というか。

おおきく振りかぶって 1巻 p101)
「空腹は最大のスパイス」の言葉どおり、腹が減ってればなんでも美味く感じます。というか、腹が減ってるときに仰々しい料理なんていりません。塩むすびにたくわん、それにお茶があればむせび泣くほど嬉しいですよ。簡単にがっつけるほど、美味しい。『極道飯』の最初のおせち争奪戦では、山中を一昼夜ほぼ飲まず食わずで歩き回った後に最初に食べた、朝食の卵かけご飯の話が満点を獲得していましたが、それも似たようなものですね。
極道めし 2 (アクションコミックス)

極道めし 2 (アクションコミックス)

そして彼らは高校球児。ただ腹が減っているのではなく、運動をして限界までくたくたになりながら、限界まで腹が減っているのです。その状態で食べるご飯が美味くないわけがない。

おおきく振りかぶって 4巻 p147)
そらがっつく。めっさ美味そう。想像するだけで喉がなる。
高校時代から楽器を始めた文化系人間の私には、全力で運動をして、どうしようもないくらい腹が減ってから全力で飯を食うという経験から遠ざかって久しいです。サッカーやってた小学校くらいまで遡らなければたぶんないでしょう。
まず運動でくたくたになってるキャラクターを描写するから、その後に描かれる食事シーンが活きる。この作品で描かれているレベルまでの運動と食欲に身を浸した人はそう多くないかもしれませんが、運動も食事も普通の肉体を持っている人なら必ずしているはずの行為です。そして描かれている運動も食事も、肉体の若さを彼方に置いてきてしまった人には厳しいものかもしれませんが、決して常軌を逸したものではなく、想像の範疇に収まるものです。ですから、「もしかしたら自分もこんな環境に身を置けたのかも」と、追体験をしながら読むことができるのです。
こんなに動けばこんだけ疲れるだろう、こんだけ腹が減るだろう。そんな状況で飯を目の前にしたら……
どうです?腹が鳴りませんか?


で、この食事の追体験が、試合のシーンを読むときにも好影響を与えると思うのです。
追体験をするという事は、キャラクターに自分の身を置いてみるという事です。それは感情移入とそう変わることはありませんし、むしろそれ以上のものでさえあるかもしれません。感情移入というよりは感覚移入ですから、身体的なレベルまでキャラクターに没入できるのです。
なものだから、コミックスで続けざまに読んでいくと、食事シーンでキャラクターに感情(感覚)移入をしたまま試合に突入しますから、選手たちの心理により深く触れられる。ただでさえ定評のある緻密な試合中の心理を、より内面化できるのです。あるいは、この食事シーンがあるからこそ、メンタルの描写がいい、という評価が生まれるのかもしれませんが。


読んでその料理が食べたくなる漫画No.1はよしながふみ先生の『愛がなくても喰ってゆけます。』ですが
愛がなくても喰ってゆけます。

愛がなくても喰ってゆけます。

とにかく腹を減らして炭水化物をかっこみたくなる漫画ランキングでは、本作が一気にトップに躍り出ました。まあ候補作がまだ『おお振り』だけですけど。
とまれ、体育会系高校生男子の「若さ」を追体験するにはもってこいのこの作品。高校では吹奏楽部を選び遊び倒した私も、団体競技の運動部でもよかったかな、と思ってしまいますことですよ。




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*1:実際本作の主役チームである西浦高校野球部は、顧問教師のアドバイスにより、脳内ホルモン分泌の活性化のために食事を利用しています

「嵐の伝説」と笑いのレシピの話

おわ。前回の更新から三週間近くあいてしまった。
まあそれはともかく。
今日は、別冊少年マガジンで連載中、今月第一巻が発売された『嵐の伝説』のレビューです。

嵐の伝説(1) (講談社コミックス)

嵐の伝説(1) (講談社コミックス)

20xx年、地球は環境破壊が引き金となった、裁きの日を迎えた!!
自身・洪水・暴風・火山・寒波・旱魃・大汚染、あらゆる災厄が文明を滅ぼし、急激な変化により生物は異常進化し、異形クリーチャーとなり生き残った人類を脅かした!!
其処に人類の指導者となって戦う男がいた!
名は“嵐文吾”!!
その男は強く雄々しく人類の要となった!!
というのは未来の話。若き日、すなわち現代に生きる文吾は、未来の指導者の片鱗を見せるも、一介の若者でしかなかった……


という体裁のギャグ漫画です。
大仰な前提と、それと対比されるように卑小な現代の文吾の生活。そこを無理矢理結び付けている大真面目さが、私は大好きです。
一話が10〜14pの短い話ですが、その中で、現代の若者のどうでもいいところをどうでもいいままに論い、拡大解釈し、派手に描きつける。まあ百聞は一見にしかずといいますか、こちらのページで試し読みができるの、是非読んでみてください。


さて、このコミックスの帯には、こんな惹句が書かれています。

「売れる気もするし、売れない気もする…」とマガジン営業担当を困惑させた伝説ギャグが遂に世の中に放たれる!!

この「売れる気もするし、売れない気もする…」という文句の理由は、私が考えるに、現代の主潮流とは合っていない、ということではないかと思います。そもそも濃密なギャグ漫画は読み手を選ぶ、つまり、大多数の人に手軽に読んでもらいがたいものですが、かててくわえて、最近のギャグ漫画*1はシュールなネタを基幹としたり、あるいは逆にいわゆる萌え要素をふんだんに盛り込んだりした作品が多いように見受けられます。
そういう作品が悪いという気はさらさらありませんが、私は、その手の作品は少なくともギャグの濃密さ・本気さという点で、真っ向勝負のギャグ漫画に及ぶものではないと考えます。
ひねくれたことを言えば、シュールなギャグは、そのネタを理解できない受け手に対して「そんなことも理解できないのか」と見下す形で批判を封じ込めることができ(るような気がし)、萌え萌えなギャグ漫画は、ギャグが面白くないという意見に「でも萌えるからいいでしょ?」と言い返せる(気がする)のです。
笑いに限らず、誰かを楽しませる広義のエンターテイメントには、目的である「誰かを楽しませる」ことの失敗というリスクが常につきまといます。誰かをわざわざ楽しませることは、それに失敗して誰かに呆れられる・馬鹿にされるという危険と常に表裏一体なのです。
けれど、シュールなギャグ漫画、萌え萌えなギャグ漫画においては、前述の理由から、そのリスクが薄まってしまっています。ギャグが理解されないのは受け手の理解力が低いせい、あるいは、ギャグが面白くなくてもかわいいからそれでオーケー、という言い訳が、「(ギャグで)誰かを楽しませる」という目的の純粋さを濁らせるのです。
全てのシュールなギャグ漫画が、批判を受け流すためにそのネタを選んだわけではないですし、全ての萌え萌えギャグ漫画がギャグが面白くないのをごまかすために萌え要素を入れたわけではないでしょう。絶妙なバランスで成り立つ高度なシュールさを維持したギャグ漫画も、萌えつつ笑えるギャグ漫画も、きっとあると思います。
ですが、真っ向からのギャグ以外に作品の拠り所がなく、それが滑ればもう言い訳のしようがない。そんな背水の陣を敷いたギャグ漫画、言い換えれば、不退転のすべる覚悟をしたギャグ漫画が私は好きで、この作品からはそんな覚悟が感じられるのです。
思い切ったことを言ってしまえば、受けなかった時の言い訳を用意してあるネタが面白くなるとは思いません。誰かを笑わせるというのは、10%の確率でしか渡れない危ない橋を95%の確率で渡り切ることだと思うのです。特に、不特定多数の人間に対して起こそうと仕向けられる笑いは。

[おもしろ発言のレシピ] 自信(大さじ1)と不安(大さじ1)をしっかり混ぜる。できあがり。(※)必ず同じ分量にすること。間違うとおいしくなりません。用意できる人は、なるべくテッパンを使いましょう。
http://twitter.com/dddlc/status/14750363853

twitterでこんな呟きもありましたが、私は全力で同意します。「これは受けるだろう」という自信と、「これ、全然面白くないんじゃ……」という不安。後者は「すべる覚悟」とほぼ同義ですが、これらを等量ずつ胸の内に秘めることで、ギリギリのバランスの上でギャグは成り立つのです。自信が多すぎれば、受け手のリアクションに素早く反応して次のネタを被せる、もしくは滑ったときのフォローをするための謙虚さが欠落し、不安が多すぎれば、堂々と言えば面白かったかもしれないネタがキレを失い滑ってしまう。バランスが必要。


「これが俺の面白いことなんじゃ!」とばかりに全力で濃厚なギャグをかましてくる本作品。そこに逃げ道を用意しないあたりに、私は覚悟を見出します。濃厚さゆえに人を選ぶでしょうが、私は推しますよ。


最後に蛇足。帯の惹句の理由はこの作品が時代に合ってないからか、とは上で書いたけどそれは、後の世にはこの作品こそが世界を席巻するような怪作になるのだ、という作品の設定と絡めたメタ的なネタなのだろうか。たぶん考えすぎだな。




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*1:仮に、作品全体のストーリー性よりも、一話の中でのギャグの精度を優先する作品群、としておきます

男は30越えたら自転車 ロードに乗りたくなる「のりりん」の話

のりりん(1) (イブニングKC)

のりりん(1) (イブニングKC)

「チャリなんて死んでも乗らねーから」
「チャリ乗ってるヤツは死ねばいいんだ」
自転車乗りを毛嫌いする丸子一典(まりこかずのり・28歳彼女なし)は、ある日一人の女子ロードレーサー・織田輪(おだりん)を危うく轢きかける。リンの機転で大事には到らなかったが、自分の車のボンネットと相手の自転車のホイールがイッてしまった。侘びと弁償にリンの家を訪れるノリに、リンの母親は、ロードに乗れば修理代を割り引く、と持ちかけるも、ノリは頑なに拒む。それを聞いたリンの母親は、ノリの車のカギを通りがかりの軽トラの荷台に放り投げ、それを追いかけるために結局ノリはロードにまたがり全力疾走する羽目に……


鬼頭莫宏先生の新作、講談社イブニングで連載中の『のりりん』です。
鬼頭先生の作品といえば性と死の匂いが漂っているのが常ですが、今回は爽やかに疾走するロード自転車の話。鬼頭先生が趣味で自転車をしているのは、先生のホームページ(パズルピースは紛失中)を見ればよくわかるのですが、それをメインに作品を作るのは意外でした。『終わりと始まりのマイルス』に通ずるようなライトなコメディタッチの描写も多く、かなり読みやすいですね。
この作品、読み終わってまず感じたのは、「ロード乗ってみてえ!」でした。もともと私は自転車が好きで、日常的な移動手段として自転車はよく使うのですが、乗っているのは折り畳み自転車かBMX。ロードのようなタイプの自転車に乗ったことはありません。
普通の自転車とロードの違い、乗ったこともない私がそれを言うのはおこがましいのかもしれませんが、それは何のために作られたか、でしょう。
「一馬力にも満たないちっぽけな人間の力を 徹底的に推進力に置き換えることに特化した乗り物」(1巻 p218)と表現されるロードは、単なる日常的な交通手段ではなく、人間の力によるスピードの限界を追い求める「原始的なプリミティブな乗り物」なのです。

予感はあった
世界が一変した
先刻までの日常とは 別の世界
今 何キロ出ているんだろう カラモモさんと走っていた時はたぶん20キロくらい そのくらいにもなってないくらいか
その時には こいつは少し乗りにくいただの自転車だった
でも速度があがった途端 別の乗り物になった感じがした
俺の踏み込んでいる力が ダイレクトに推進力に変換される感覚
速くなればなるほど 車体は安定感を増し この乗り物の棲むべき世界を明示する
回せ 回せ 回せ
(中略)
視界が狭くなる
でも 周囲の状況は把握できている…はず
そうでなきゃコレはやばい 生身をさらしてこの速度
自分の力だけでこんな世界に到達できる
恍惚感と 全能感
(p215〜218)

自転車を忌み嫌っていた人間さえも、本気を出して漕いだ瞬間にあふれ出すスピード。一歩間違えれば大怪我を負う状況は、イヤでも自転車に集中しなければいけない。その感覚に読んでて同調すると、もう自転車に乗りたくてたまらなくなります。実際どんなものなんでしょうね、ロードの走り心地って。


さて、先に「爽やかに疾走するロード自転車の話」とは書きましたが、おそらくそれだけではないでしょう。ノリが自転車乗りを忌み嫌う理由には、何か過去があると思われます。
実は、単行本派の私も鬼頭先生の新作という事で第一話を本誌で読んだのですが、そのときは普通に読み流したのがこのリンを轢きそうになったシーン。

人身て えーと 何点? 免許取り消し確実かよ
バカバカ 俺 まず
相手のこと心配しろっつーの
人殺しなんてやだろ?

(p10)

「人殺しなんてや」なのは誰でもそうです。違和感なく読み過ごしましたが、彼の頑なな拒否と、第6話での

アニキ オヅちゃん結婚しちゃったぞ
もう自転車を拒否する理由もなくなったよ
そろそろ自分のために 前に進みなよ
(p173)

をあわせて考えれば、彼がかつて自転車で「オヅちゃん」を、もしくは自転車乗りの「オヅちゃん」を殺しかけてしまったのではないか。さもなくば、「オヅちゃん」のかつての恋人を自転車にまつわる事故で死なせてしまったか、と想像できます。ま、現段階では想像ですけど。
とまれ、単に爽やかなわけでなく、やっぱりどこかきな臭さが漂っているわけですよ。
その方面の掘り下げも期待したいところですが、それでもこの作品のなによりの魅力は、読み手を「自転車に乗りたい!」という感情に強くいざなうそのプリミティブな力強さだと思うのです。

(p36,37)
のりりん」とリンが差し出した自転車は、ノリだけでなく紙面を越えて読み手にまで届いているような気がします。BMXをもっと練習しようと思いつつ、ロードをどうしようかかなり本気で悩むそろそろアラサーに踏み込む私なのですよ。




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