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漫画の話です。

『3月のライオン』原作に忠実なアニメと逸脱の面白さの話

アニメ『3月のライオン』の第一話が先日放送されました。

原作のChapter.1から2の最終盤まで(2全部ではない)という大胆な構成できました。二海堂の存在を次回の引きに使ったわけですが、おそらく、原作Chapter.3の若手棋士紹介までの流れをひとまとめにするのかなあと思います。まあ気になってるのは、原作のChapter.2最終ページで何の躊躇もなくジャンクフードを貪り食ってる二海堂の描写に修正を入れるのかどうかなのですが。カットするまではいかないにしても、後にエクスキューズのききそうな、なんらかの描写を足すのかな、と。
さて、第一話(アニメでもChapter表記をしていますが、放送一回分ということで便宜上そう表現しますが)で私が一番グッときたのは、原作では、朝起きてから対局するまでの流れを描いた中でさらっと挿入されている、零が誰もいない対局室に入ったシーンです。原作ではそこまでの流れの中のほんの一コマに過ぎないのですが、アニメではたっぷり尺をとっていました。それまで流れていたBGMを消し、誰もいない対局室の全景をなめるように映し、音がないからこそさやかにそよぐ光や風の動きが映える。大きく静かな川の流れがこちらを呑みこむかのようなシーンに息を飲み、いっそ神聖ささえ感じました。
原作者である羽海野チカ先生は、12巻封入の新刊ペーパーで本アニメについて「真っ向からガチで忠実過ぎる位に原作を「そのまんま」映像として動かして再現して下さっています」と書いています。確かに、各シーンのカットやセリフ回し、デフォルメの描写などを見るに、原作の空気を極力再現しようという意気込みはひしひしと感じられます。同ペーパーにも「だって原作の空気感まで完ペキなんですもの」とありますし、多少のリップサービスを加味しても、それは原作者も認めるところなのでしょう。
けれど、私がグッときたシーンは、むしろ原作の描写から逸脱したものです。前述のとおり、漫画ではさらっと流されているシーンですが、わざわざ尺をとり、漫画にはなかった意味合いを込めている。アニメ制作サイドに、後々の展開を考えれば、ここで対局室、すなわち主人公が人生を賭けている空間に強い意味を与えておきたいという意思があったであろうことがうかがえます。
原作に忠実に作る中でのあえての逸脱。だが、それがいい
勝手なことを言えば、原作に忠実過ぎるメディアミックスなんて面白くないんですよ。忠実に作れば作るほど、じゃあそれ原作見てればいいんじゃない? ってなりますから。特に漫画→アニメのメディアミックスの場合に、それが顕著になります。
好きな漫画に没入しながら読んでいるときは、白黒の中に色は見えてくるし、微動だにしていない中でキャラクターは動きだすし、無音の中で音声は聞こえてきます。もちろんそれは自分にしか見えないし聞こえないものですが、もしその作品が映像化された場合、原作に忠実に作れば作るほど、そのアニメは私的な幻視や幻聴に近くなるのではないかと思うのです。いや、近くなるというよりは、自分の想像から外れなくなる。アニメを見て、「ああ、そんな感じになるよね」という気持ちになってしまう。そんな気がするのです。
正直なことを言えば、あの対局室のシーンがなければ、一話を見て「まあ、続きは別にいいかな」と思ってもおかしくありませんでした。それほど原作に忠実な映像化でした。つまり、それだけ自分の想像の範疇を踏み越えないアニメでした。
もちろん、忠実だから悪いということはなく、原作を知らない人にアニメを見て作品の面白さを知ってもらうなら、原作に忠実であればあるほどいいのかもしれません。ただ、それ「だけ」だと、私には少々物足りない。そういう話です。やっぱりせっかく別のメディアで味わうのだから、別の作り手がかかわるのだから、その作り手のエゴが見えてほしい。こういう作品にしたいという意思が見えてほしい。そういうわがままです。
ただ、やっぱり不思議だなと思うのが、もともとが、静止した絵と、無音の文字の構成を媒体とする漫画を、色のついた動く映像と、声や音、BGMが入ったアニメという媒体に変えても、原作に忠実に作ろうと思えば忠実に作れるのだな、ということです。「そうなるのか!」という驚きではなく、「やっぱりそうなるよね」という納得。そうなる(できる)のが不思議なのです。
鑑賞する際の時間を自分で操れる漫画と、作り手に従うしかないアニメ。この差は以前から考えているものです。漫画は、絵や文字が書いてあるページを自分のペースでめくることができる一方、アニメは、実際に動くキャラクターや音声など制作側が意図した時間の進め方に従わざるを得ません。このように、作品の受け手はその受け取り方に大きな違いがあるのですが、作り方を工夫すれば(今回の例でいえば、原作に忠実に作るということですが)、物語から受け取る印象を極めて近似のものにできるということがわかりました。それは、受け手の時間の感覚は、物語と本質的なところで無関係であるということなのかもしれません。
最後は少し話がそれましたが、アニメ『3月のライオン』におかれましては、今後も原作を忠実に踏襲しつつ、要所要所で「いや、俺はここをこう描きたいんや!」と熱い逸脱を見せていただければと思います。


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『3月のライオン』想像力と気遣いの成長の話

11巻での重たい父親話も終わり、わりかしライトな話の多かった『3月のライオン』12巻。

指宿観光も兼ねた雷堂九段vs土橋九段の棋竜戦、零vs滑川七段の相筋違い角による順位戦、そしてあかりさんのラブフラグを立てた(?)夏祭りと、このくらいの温度の方が何度も読み返すにはいいよねという感じ。正直、前巻までの父親話は胃にもたれたどす。
それはそれとして、将棋の盤上の状況については、もうちょっと説明があってもいいなと思いました。藤本棋竜が土橋九段の指し手に目を丸くした理由とか、vs滑川戦で横溝が二度見した理由とか、駒の動かし方くらいしか知らない人間にはわからんどす。
さて、今巻でハッとしたのは、Chapter.123のこのシーン。

指宿では何か…ただ びっくりした
れいちゃんはそこではもう プロ棋士という世界の中で生きている一人の大人で
皆の期待を受けとめて ちゃんとまっすぐ立っていて
いつもウチでご飯を食べたり遊んでくれるれいちゃんとは
違う人みたいで
彼には彼の住む別の世界があって そこで築いてきた自分の立ち位置があって
私たちがこう 好き放題何かを頼んだり
甘えてはいけない人なんじゃないかって……
少し 気づいちゃったというか…
――でも
でもね 今の私たちにはわかるんだ
――そんな風に 遠慮して 距離を置いたら 
れいちゃんにとって それが とても 淋しい事なのだと
(11巻 p120〜122)

これは、夏祭りの手伝いをまた零にお願いしてもいいものかどうか悩んでいる川本姉妹、特にひなのモノローグですが、彼女らは、プロ棋士としてプロ棋士の仕事をこなしている零の姿を見て、まるで彼が自分達とは「別の世界」に住んでいるかのように感じてしまったのです。けれど思い直します。そのような扱いは零にとって「とても淋しい事」なのだと。
なににハッとしたって、彼女らが、特にひながそう思ったこと、それ自体です。
別にそれは普通のことだろうと思うかもしれません。誰かの内心を想像するなんて当たり前にすることだろう、と。特にひなは気遣いができる子なのだから、それくらいできて当然じゃないか、と。私も、ハッとした後にそう思いました。そして、思ってから悩みました。ひなはそういう子なのに、なぜハッとしたのだろうか、と。
改めて、引用したシーンでの、ひなの気遣いの想像力を考えてみましょう。
彼女はまず、大盤解説を始めた零を見て、「違う人みたい」「別の世界」「私達がこう 好き放題何かを頼んだり 甘えてはいけない人」という印象を抱きました。にもかかわらず、そう思い「遠慮して 距離を置」くことが、零にとって「とても淋しい事」であり「真剣に 私たちの所に飛び込んで来てくれた 彼に対して とても失礼な」ことだと考えるのです。
つまり彼女は、零が「甘えてはいけない人」であるという印象を抱いた、いわばネガティブな臆断を抱いたにもかかわらず、それで目を曇らせることなく正確に零の内心を推し量ることができたのです。自身の想像力を客観的に検証できているといってもいいでしょう。
神ならぬ人の身、他人の内心を完璧に理解することは不可能です。ですから私たちは、日頃の言動から「この人はこう言うときにどう思うだろう、どう感じるだろう」と推測していく根拠を少しずつ見つけ、地道に想像力を構築していくしかありません。やはり神ならぬ人の身、その構築にも主観が混ざらざるを得ませんが、もしそこに過剰なフィルターがかかってしまったら、築かれた想像力も歪にならざるを得ません。
ひならが目にしたプロ棋士としての零の姿は、彼女らの目にかかる濃い色眼鏡となりうるものですが、彼女らはその色の濃さを把握し、というよりはそこに色眼鏡がかかったことを自覚し、正確に零の内心を見据え、きちんと彼に声をかけようと考えるのです。
従前のひなが見せていた気遣いは、「零とはこういう人物だ」という既存の想像力からそのまま導き出されているもので、おそらくそこには自身の想像に対する疑いの眼差しがありません。自分の想像が歪になっていないかな、と省みてはいないのです。
たとえば彼女と零が出会ったばかりの頃。

<――れいちゃんやっぱり 元気ない……
おねいちゃんはああ言っていたけれど…
だけど>
のむ?
<れいちゃんはいつも静かで大人っぽいけれど>
あのねっ 今日は天ぷらなの カボチャとか玉ねぎとか おねいちゃんが揚げるとすっごくおいしいの
<でも泣き虫な所もあるから心配なの ――だから>
うちにおいでよっ 一緒にご飯たべよ?
(2巻 p37〜39)

このときのひなは、零が「静かで大人っぽいけれど でも泣き虫な所があるから心配なの」で彼を家に誘いました。そこに自分の想像が誤っているかもという客観性はなく、そうされたら彼がどう思うかという一歩先の想像もありません。実際、零はその提案を嬉しがりはしますが、それは結果論です。

「れいちゃんにも食べさせてあげたいね どうしてるのかなぁ…」
「もちっとかかるだろうよ いくらガキでも男なんだ プライドってもんがあらあっっ」
「だからそれがっっ わかんないよ〜
いつまでも来ないともう知らないからねっ
………こっちからおしかけて
口においなりさん 詰め込んじゃうんだからっっ」
(4巻 p11)

後藤九段との戦いに手が届くところまできて、ひなたちの前で熱い啖呵を切ったはいいものの、目の前の島田八段の実力を見誤り、大敗北を喫してしまった零。ひなたちに合わす顔もなくしばらく引きこもっていた彼ですが、それに対してのひなの発言が上記のものです。傷心と気恥ずかしさに悶える零の気持ちは、するりと無視しているセリフです。相米二は零の内心を(自分の男としての過去も参照しつつ)想像していますが、ひなはそこに思い至らず、自分の手持ちの想像力だけで零の内心を思い、不可解さを感じています。
このように、12巻以前(より正確には、父親問題終結以前?)のひなには、まだその想像力に幼い部分がしばしば見られたのですが、より自分達の近くに踏み込んできた零を見て、他人の心情の機微の理解と、それに伴って、自分の(というか人間の)思考が主観によって脆くなることを知ったのでしょう。
そして、その零自身も彼女と同様、想像力に成長が見られます。
たとえば3巻で、神宮寺会長から大量の魚をもらい、川本家に持って行けといわれたとき、「こんなに持たされてしまった さばくの大変そう…… かえって迷惑だったらどうしよう……………」と不安がっています。実際のところは、決して裕福ではない川本家のこと、降って湧いた大量の食材に狂気します。また、ひなのいじめ問題の最中には、あわや自分の通帳をもって他所様の家で予算委員会を開催する寸前まで突っ走っていました。父親問題の際の結婚発言もそうですね。
こうして見るとあんま成長していないようにも思えますが、それでも要所要所で、相手の内心を思い自分はどう行動すべきかを考えるようになっています。
受験期のひなに勉強を教えていたときは、彼女が自分の学校に来てくれれば嬉しいと大張り切りで家庭教師を買って出たけれど、もしその時期に自分が将棋の成績を落したらひなが「自分のせい」と思うに違いないと、「一局一局すみずみまで丁寧に指」し、破竹の八連勝を遂げていました。「将棋の成績が落ちたらひなが自分を責める」と想像し、そんなことにならないよう勝負に集中したのです。
また、10巻で久しぶりに幸田家を訪問したときは、幸田母視点ではありますが、零が幸田家の平穏を思って今まで足を向けなかったことが描かれています。零は、香子や歩の内心を想像し、自分と家で顔を合わせることを厭うだろうと考え、あえて顔を出さなかったのです。
想像力とは少し違いますが、12巻でも、家族が夏祭りに出店するために遊ぶ相手がいないモモのために、さらっと二海堂に頼みごとをしています。「一人じゃどうもにもならなくなったら誰かに頼れ ――でないと実は 誰も お前にも 頼れないんだ」とは、零が3巻で当時担任だった林田から言われた言葉ですが、あの誰かに頼ることをひどく苦手としていた零がなんら気負うところなく二海堂に頼みごとをしているところを見ると、彼も成長したのだと思わずにはいられません。

その時 はっと あかりさんたちが浮かんだ
ぼくは 遠慮する事にばっかり気をつけて 実は
彼女たちに頼られた事って
一回だって
――そうだ… 一回だって…
(4巻 p176、177)

いみじくもここで零自身が気づいていた通り、相手に遠慮をしていては、頼ることを恐れていては、相手から頼られることはありません。成長した零が、二海堂や川本家に頼ることができるようになったから、川本姉妹も同様に、零に遠慮をしそうになったところで思いとどまり、頼ることができたのでしょう。
この作品の主人公は零ですが、変わっているのは彼だけでなく、多くの登場人物が変化していく物語です。人は変化し、その変化がまた別の誰かに影響し新たな変化を生み、そしてその変化がまた波及していく。人と人とのつながりは、良くも悪くも人に変化を強いていく。繋がりの糸で紡がれた織物の中で、零やひなたちは、これからもどんな変化を織り上げていくのでしょうか。
ところで、12巻最終話で見つめ合っていた林田先生と島田八段ですが、あなたたち、見つめ合う相手が違うんじゃないんですかね……



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『シン・ゴジラ』ミニマムな物語とマキシマムな映像の話

シン・ゴジラ観てきた。うおー!うおーーーーーーー!!!!!
ということで感想を書きます。あまりまとめる気も無く、感情の赴くままに。
ネタバレも何もない作品な気がするけど、当然内容には触れているし、そもそも観てないとあんま意味の分からない文章なので、観てない奴はまず映画館に行ってこい。話はそれからだ。

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『ベルセルク』世界を前に立つ「普通」の人間の美しさの話

ベルセルク』38巻が発売されました。『HUNTER×HUNTER』33巻も発売されました。これは今年、何かある。蝕か?

ベルセルク』38巻では、同窓会のようにかつてのキャラクターが登場したり、人間サイズの派手な戦闘があったり、妖精郷にガッツ一行が辿り着いたりと、色々見所がありましたが、何よりの見所は、リッケルト。蝕を生き延びた鷹の団、その中でも贄になっていない唯一の人間リッケルトが、第5のゴッドハンド・フェムトとして転生しながら、現世に受肉したグリフィスと再会しました。そのときのリッケルトの反応。あれこそが、この巻の最大の白眉であると、私は思います。
グリフィスに会い、22巻の、剣の丘での問いの答えを聞かれ、その返答として平手打ちをしたリッケルト。『ベルセルク』の世界において、主役でもその仇でもなく、特異な能力も持っておらず、物語の重要なカギを握るわけでもない、少し目立つだけの端役と言って過言ではない彼が、世界の変革を成し遂げたグリフィス、いわば物語の中心であるグリフィスを前にして、その中身がなんであれ、一つの答えを示したあの姿に、私は強い感動を覚えるのです。
グリフィスとの戦いにより、二度の転生を経て終わりの魔獣と化したクシャーンのガニシュカ大帝が消滅し、理が破壊されてしまった世界。お伽噺に過ぎなかったはずのトロールなどの化け物が跋扈するようになり、民衆から平穏が奪い去られた世界。
世界の在り様が大きく変わってしまうという、非常にスケールの巨大な物語。それが『ベルセルク』です。当初こそ、人外の魔物を血みどろになりながら狩っていくという、ただの血生臭いだけのダークファンタジーという様相でしたが、過去編で語られた蝕とゴッドハンドの存在は、世界の根源に触れるものであり、世界の理、神の定めた運命とでもいうべきもの。しかし、人の身でありながらそれに挑むガッツという、圧倒的な規模の物語が、途中からはっきりと見えてくるようになりました。蝕の中でなす術なく贄となっていった鷹の団の面々は、世界の理に抗えない、抗っても爪一つたてられない弱い人間として描かれており、彼らと対比する形で、運命の大渦に呑みこまれまいとするガッツと、その渦から身を離し世界の側に身を置いたグリフィスという、対極の両者が鮮やかに浮かび上がったのです。
リッケルトは、その両者のどちらにも寄ることのできない、矮小な普通の人間です。物語の、世界の根源には触れえない人間です。それでもその彼が、世界の理を前にして、自分の意志でもって、一つの答えを出しました。憧れと、安寧と、恐怖と、切望と、様々な感情を、グリフィスと言葉を交わす直前まで胸に溢れさせながら、いざ面と向かったときに迸ったものは、自分への怒り、悔しさ、情けなさ。そして、訣別への強い決意。
大きな物語のなかで答えを出す。それは作り手にとって、その舞台を作ることだけで、非常に大きなエネルギーを必要とするものだと思います。それが、主人公ならざる矮小な一人の人間のためのものであるならなおさら。矮小な存在がそれでもなお世界を前にしてで屹立できるようにするには、いったいどれほどの舞台が必要なのでしょうか。物語の文脈。キャラクターの深み。微細な感情を表現しうる画力。語りすぎない台詞回し。そのどれか一つでも欠けてもしまえば、大きな物語の圧倒的な重力は、矮小な登場人物を瞬時に圧潰させてしまいます。
世界を前にして、奇跡のように真っ直ぐ立っていたリッケルト。その姿は、それだけで感動に値するのです。


受肉したゴッドハンドとなり、人間だった時の夢を叶えんとするグリフィス。彼を討ちたい思いとキャスカを助けたい思いに引き裂かれるガッツ。そして、その狭間で生きる普通の人間たち。異なる色の物語が交錯するこの作品、次の巻の発売が来年だというアナウンスには待ち遠しさが止まらないし、それ以上に来年発売とか信じられるかボケェ!という思いがキャントストップ。本当に出るのかなあ……


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理想の嬉し恥ずかしドッキリ怠惰な大学生活『惰性67パーセント』の話

大学生活。それは本人の心がけ次第でいかようにも変わるもの。勉学に励むもよし。交友関係を広げるもよし。海外に出て見聞を深めるもよし。怠惰の極みを尽くしてもよし。そして、なんとなくうすらぼんやりと過ごしても、まあよし。
吉澤、北原、西田、伊東の四人は、講義をさぼるでなく、さりとて真面目に出席するでもなく、なんとなく大学生活を過ごし、なんとなくつるんで、なんとなく飲んだり遊びに行ったりと、なんとなく楽しい毎日を暮らしている。まあ、長い人生少しくらいはこんな日々があってもいいんじゃないかな……

ということで、紙魚丸先生の『惰性67パーセント』のレビューです。男女四人の大学生たちによる、なんら生産性なく毎日を惰性でぐうたら過ごすような、なんとも素敵な日々。もちろん、講義に出席したり学校の課題をやったりと、生産的なこともしていないわけではないのですが、そういうシーンはおおむねばっさり切り落として、モラトリアム此処に極まれるというようなだらだらした人間模様を描いています。
連載第一話が、女性(吉澤)のアパートに初対面の男子二人(西田と伊東)を女友達(北原)が連れ込んで、家主の描いたエロ漫画に登場する男性器について指導を仰がせる、という羞恥プレイにもほどがあるスタート。そこで微妙な空気にこそなれピンク色の空気には発展しないあたり、後の、男女の意識がありそうでないけど実は少しある、雑ながらも居心地のいい人間関係を予想させます。実際、その後の彼らは、アパートでゲームをしたり、まとまりのない具材でカレーを作ったり、エロ本の隠し場所で盛り上がったり、新年をぐでんぐでんに酔っぱらって迎えたり、スキー旅行に行った先に締め切りをぶっちぎっているレポートを持って行ったり、ハプニングエロスに見舞われたり。親友と呼ぶには気恥ずかしく、ただの知り合いと呼ぶには居心地が良すぎる。ふとした拍子にあっさり一線を越えてしまいそうな、でもその一線はやたら太く丈夫そうな。
正直なところ、そのテのモラトリアム大学生を描いた作品はいくらでもあると思うのですが、この作品の不思議な魅力は、それを読んでいる私が、彼らを年上と思っている点です。
大ざっぱに言って漫画は、作品世界に没入する作品としない作品、別の言い方をすれば、登場人物の目線で読む作品と「今・ここ」の私自身の目線で読む作品、とに二分できると思うのですが、この作品はそのどちらにも当てはまらず、大学生である登場人物たちを「いつかこういう学生生活を送りたい」と見上げるという、作品世界の目線でもなければ今・ここの私の目線でもない、十代後半の私の目線が、なぜか浮かび上がってくるのです。
通学途中で寄り道をしてなぜかひと山越えてアイスを食べに行く羽目になったり、炬燵を囲んで蜜柑を食べながらしょうもない話をしたり、思いつきで声をかけて外食に行ったり。そういう彼らを見て、「こんな大学生活を送りたかった」という過去形ではなく、「こんな大学生活を送りたい」という未来形で思ってしまうのです。
幸いこの感覚は私だけではなかったようなのですが、なぜそんな不思議なことが起こるのか。
思うに、誤解を恐れず言えば、この作品で描かれている世界は現実的なくせに全然リアルじゃないんですよ。現実というキャンバスに描かれた大学生活の理想なんですよ、イデアなんですよ。高校生の自分が、大学に入ったらこんな面白くだらない大学生活を送りたいと夢見たような、現実には存在しないであろう、でもひょっとしたら自分の身には起こってくれるんじゃないかそうだきっと起こってくれるに違いないヒャッホー待ってろバラ色の大学生活!と信じていた妄想世界の具現化。それが実に美しく出来上がっている。
話していて楽しいに違いない軽妙な会話だとか、ちょっと声をかければ気軽に集まれる距離感だとか、友情を壊さない程度のハプニングエロスだとか、ありえんありえん、そんなもんはありえん。でも、ありえんもんだからあってほしいと、高校の性の私は夢想した。
そう、この作品を読むときの私は、たぶん高校生に戻っている。純度の高い妄想大学生活が、それを夢見ていた高校時代の私にすこんとはまる。高校生の私が目を覚ます。
いいなあ、いいなあ……こんな生活を送りたいなあ……。
高校時代に怠惰楽しい大学生活を夢見ていた人には是が非でもお薦めしたい。きっとあなたの高校生も目を覚ます。
惰性67パーセント 第1話
ところで、2巻の帯折り返しは、ずいぶん集英社思い切ったなと思いますね。同じ作者とはいえ、それをあわせて紹介するか……


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死が二人を分かつまで 絶望の中のボーイ・ミーツ・ガール 『わたしのカイロス』の話

剣闘刑。それは、大罪を犯した者に科される、己の命でもって罪を雪ぐ罰。「咎人」となった罪人は辺境の星へ送り込まれて、その地の生物と、あるいは別の咎人と、命を賭けて戦うことになる。その戦いは、見せ物として視聴者に届けられる興行となり、咎人もまた,勝ち抜くことで恩赦を得ることができる。
平民として、貧しいながらも慎ましく暮らしていたグラジオラスは、貴族による平民救済プログラムに選抜されたものの、その貴族の耳を噛みちぎって逃走したために、剣闘刑に処されることになった。彼女が送り込まれたのは、機械ばかりが暮らす機械の星。そこで出会ったロボット、カイロスとともに剣闘刑を戦うことになった彼女は、無事家族の下へ帰れるのか・・・・・・

わたしのカイロス 1巻 (バンチコミックス)

わたしのカイロス 1巻 (バンチコミックス)

ということで、からあげたろう先生の処女単行本『わたしのカイロス』のレビューです。かわいいファンシーな絵柄と、一瞬で人の命が消えていく無残さと、ボーイ・ミーツ・ガールのさわやかさ。それらの魅力が渾然となった、素晴らしい作品です。
富と権力を握る一部の貴族階級と、それを支える大多数の平民で構成されている星アルパ。そこで暮らす主人公は、「はかなげ」や「あえかな」と形容するには少々たくましい平民の少女・グラジオラス。早くに父を亡くした彼女は、病床の母と元気な弟の三人で、父からかつて教わった狩りで生計を立てながら、つましくも平穏な日々を送っていました。しかしそれは、彼女が12歳になる誕生日に破られたのです。
「平民救済プログラム」
それは貴族による温情政策。いわく「「恵まれない」「可哀想な」平民の女子を選出し教育 16歳までの教育課程を修了した暁には,貴族に次ぐ地位と自由を与える」というもの。これで家族に楽をさせられると、喜び勇んで参加したのも最初だけ、プログラムに参加すると、家族からは隔離され、連絡も極端に制限されてしまいました。寂しさをこらえながら、同じくプログラムに参加した少女らとともに、数年間のプログラムを修めたグラジオラスでしたが、プログラム修了となる16歳の誕生日のその日、彼女を待っていたのは、バラ色に輝く「貴族に次ぐ地位と自由」などではなく、鮮血に彩られた血腥い惨劇でした。
自分以外の少女らが、プログラムの立案者である貴族、ジギタリス=グロリオーサによって惨殺されるという信じがたい光景。最後に残った彼女を手にかけようと迫るジギタリスに、必死に抵抗したグラジオラスは、彼の耳を食いちぎって逃走しました。
結果、彼女に着せられた罪名は傷害罪。それに科せられた刑は剣闘刑。貴族を傷つけた平民は本来なら家族共々即死刑、だが、剣闘刑を勝ち抜く間は家族も生かしておいてやる、もし最後まで勝ち抜けば、家族とともに恩赦をやろう、とジギタリスに言われたグラジオラスは、自身と家族の命を背負って、ただ一人、命を賭した戦いに身を投じることになったのです。
と、このようにハードな運命に巻き込まれたグラジオラスですが、狩猟生活で鍛えられた気配を読む能力があるとはいえ、それ以外の肉体面はまったくの平凡な少女。一人辺境の星に送り込まれて、勝ち残る自信などつゆほどもありません。
しかし、それでも勝たなければいけない。勝ち続けなければいけない。そうしないと死んでしまうから。自分だけでなく、母や弟さえ。本当にジギタリスが約束を守るかわからない。今母や弟がどうなっているかもわからない。でも、わからないからといって、何もしないわけにはいかない。何もしなければ、死ぬしかないから。絶望と隣り合わせの悲愴な覚悟で、彼女は戦いに臨むのです。
そうして最初に送り込まれたのが、機械の星。人間は人っ子一人いない、住人がロボットのみの星で、彼女が最初に出会ったのが、子供型の小さなロボットでした。なぜか他のロボットから爪弾きにされている彼と、たどたどしく会話をしながらコミュニケーションを取る内に、行動をともにするようになったグラジオラス。彼が寝起きしていた、砂漠に打ち棄てられた宇宙船名にちなんで、グラジオラスはロボットのことを「カイロス」と呼ぶようになりました。
カイロス。それはどこかの星に伝わる、チャンスの神様の名前。いわく、その神様の髪の毛をつかんだ者には幸運を与えてくれるのだけれど、なぜかその髪の毛は前髪しかなく後ろはツルツル、おまけにものすごい速さで駆け抜けていくので、タイミングを一瞬でも逃せば、もう二度とつかめない。そんなへんてこな神様。
そんなカイロスとの家族ごっこのような生活も束の間、剣闘刑開始の合図が顕れると、グラジオラスは彼に別れを告げ、一人戦いの場へ赴きます。
砂漠の真ん中。そこで彼女を待っていたのは、グラジオラスの戦い、という名目の殺戮ショーを一目見ようと、空中モニターの向こうで待ち構える何千という視聴者と、彼女の何倍もある巨大なロボットでした。強力なレーザー兵器を操るロボットに対し、グラジオラスが手にしているのはカイロスが作ってくれた一丁のナイフのみ。砂漠という環境を利用してなんとか一矢報いようとする彼女ですが、相手の圧倒的な火力にはなす術なく、彼女を殺そうとする無機質なモノアイと、嗜虐の色を湛える何千対の目から一身に浴びる視線の前で、死を覚悟しました。
しかし、そこに姿を見せたのがカイロス。恐怖に脚を震わせながら、彼は叫びます。
「僕ハ グラジオラスノ 武器ダ」
まさにチャンスの神様のごとく、グラジオラスの前に颯爽と現れたカイロス。言い伝えどおりに、彼に飛びつくグラジオラス。こうして彼と彼女は、「死が二人を分かつまで」と、ともに戦うことになったのです。
少女の覚悟と、少年の勇気と、それらをいともたやすく吹き飛ばす圧倒的な暴力。行くも地獄、帰るも地獄、行った先にも天国があるかはわからない。そんな絶望的なボーイ・ミーツ・ガール。かわいらしい絵柄の下に渦巻く、圧倒的絶望と一筋の希望。絶望を切り開くときに、痛みは避けられない。恐れてはいけない。
未来へ進むための傷を容赦なく描く力強さに、今後の展開が楽しみでなりません。
試し読みはこちら。
わたしのカイロス/くらげバンチ
今年度のお薦めランキング、上半期でかなり上位に食い込む新作です。是非に。


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こどもはいつかおとなに 少しずつおとなに 『こども・おとな』の話

それはまだ子供たちが、土曜日に半分だけ、学校に行ってた頃。その頃のおはなし。家で、学校で、おじいちゃん家で。家族と、先生と、友達と、おじいちゃんと。一人の男の子・相田サトルが出会うこどもとおとなは、まだこどもの彼を、少しずつ新しい世界に連れ出していくのです……

ということで、福島鉄平先生の新作『こども・おとな』のレビューです。
主人公・相田サトルがまだ子供だった頃のお話(1〜5話)と、最終話の、大人になった彼のお話。冒頭の「それはまだ〜」の文章は、本作帯に書かれている惹句ですが、その言葉通り、この作品は過去を思い返す物語。思い返された過去の持ち主である彼はもう大人になっていて、もうセピア色になっているそれらを胸に去来させながら、最終話の大人である現在を生きている、という形になっています。
少年サトルは、世間ずれしていない男の子。先生や親の言うことは素直に聞くかと思えば、クラスメートの女の子が通るのに邪魔だったら「バカ」と言い放ったりもする。よく言えば素直で天真爛漫、悪く言えば善悪に頓着のないわがまま。そんな彼が、親や祖父、先生といったおとなと、兄のような少しおとなと、同級生のような同じこどもとのつながりを通じて、少しずつ、世界のことを知っていきます。
世界の何を知るかといえば、目に見えないルール。守るべきマナー。知っておいた方がいい不文律。誰かが教えてくれることもあれば、自分で気づくしかないこともある、そんな世界の則。返事をするときは「うん」じゃなくて「ハイ」。
バイクの後ろに乗る時はしっかりつかまっていないと危ない。
トーストにはバターとジャムを一緒に塗ると美味しい。
友達の嘘は気づいていないふりをした方がいい時がある。
挨拶をしたのに返してもらえなかったときは、お天道様にしたと思う。
「ご飯食べてる?」って聞くのは、本当に食べているかを気にしているから。
大事なこと。そうでもないこと。すぐ忘れてしまうこと。死ぬまで頭から離れないこと。世界には、人と人との間にはそんな約束事がたくさんあって、こどもから大人になるということは、その約束を知っていくということなのかもしれません。あるいは、それまでたいしたことないと思っていた約束事が、実はどれだけ大切なものなのか知ったときに、おとなになるのかもしれません。それを知っていくことが、おとなの階段をのぼっていくこと。幸せは誰かが運んでくるものと信じてれば、それはこどもなのでしょうが。
こどものサトルは、大きな感情の起伏を見せません。嬉しいことも理不尽なことも、淡々と受け容れてしまいます。ややもすればそれは、こどもらしからぬ態度かもしれません。でもそれは、約束事を自分の中に収めているところだから。見知らぬことを受け容れるためには、大騒ぎしてはいけない。ただまるっと呑み込む必要がある。きっとサトルはそれをしている。で、その様子を見ている私たちとしては、そこにいろいろな解釈の余地と、余情が生まれます。
彼がいい子なのか悪い子なのか、つかみきれないままにふつっと終る。けれどそこにこそ、もう私たちが忘れてしまった、そして普段見ることのない、こどもの素があるのではないかと思います。こどもは無邪気とか天使とか、そんなふわふわしたことがよく言われますが、自分自身を振り返ればわかる通り、こどもは本当は、おとなと同じかそれ以上に周囲の目を気にして振る舞います。だから、大げさな反応やおとなの望むような振舞なんてのは、こども自身が衝動的に感じたものではなく、周囲の目というフィルターをこどもなりに通したものであることがしばしばです。その意味で、大仰にならないまま自分が出会ったことをじっと噛み締めるサトルの姿は、普段目にしない、というよりも目にすることのできないものなのかもしれません。
最終話では、こどもとおとなのサトル、両方が出てきます。いえ、そこに明確な線はないのでしょう、おとなに見えるサトルもまだこどもだし、こどものようなサトルもおとなのかけらをのぞかせます。過去と現在が断片的に現れ、おとなとこどもが交錯する。それまでの全てのお話が収束してくるようで、非常にぐっとくるエピソードになっています。
前作の『アマリリス』『スイミング』でも思いましたが、やはり福島先生は、こどもとおとなというテーマを描くのが巧みですね。また次回作が楽しみです。


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