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漫画の話です。

『その着せ替え人形は恋をする』(哀れにも)本当の意味でハニエルとなった海夢の話

 まだしつこく『着せ恋』の話。五条君の後悔については前回こってり与太話をしましたが、今回はそのときの海夢サイドの話。あのときの海夢て、美しくも悲しい存在だったんじゃねという話。

 海夢を依り代に顕れた「ハニエル」を見て五条は後悔と絶望に打ちひしがれた、と前回書きましたが、五条の心がダークサイドに堕ちようとしているまさにその時、海夢は五条の言葉を支えにハニエルとなっていました。

(13巻 p103~105)
 この流れからシームレスに、後悔と絶望が湧き上がる五条の視点へと変わります。
 ここで、海夢の信頼と五条の後悔がパラレルになっているのがとても面白いんですよね。なぜって、これがパラレルで描かれていることで、ある構図がやはりパラレルに浮かび上がってくるからです。
 その構図とは、「愛する悪魔に手が届かなかった哀れな天使」という、溝上が評したハニエル像。このハニエル像が、『天命』の中に描かれている(とされる)ハニエルと同時に、その衣装に身を包んだ海夢にもなぞらえることができるのです。

 『天命』と『その着せ替え人形は恋をする』、両方の13巻冒頭にあるモノローグは、

彼が連れてくるのは
【死】のみだ
愛を求めたところで
返ってくる訳がないだろう
(13巻 p1)

 というもので、これを溝上は「ハニエルを見る俺達有象無象と…ハニエルに対しても言っている」と解釈していました。
 天使であるハニエルは神に仕える者ですが、天界に侵入した悪魔を目にして以来、それに心を奪われ神への服従心を失い、天界を追放されました。人間界に堕ちたハニエルは、愛と美を司るという言葉どおり、会うものすべてを虜にしますが、それらの心など欠片も斟酌せず骸に変えていきます。

 人間はハニエルを愛しても、ハニエルから愛は返ってこない。
 これが『天命』で断片的に描かれるハニエルと人間の関係性であり、五条が海夢に指示したとおりのものです。「自分がハニエルに愛されていないと分かるほどに」「無感情に微笑んで」、「「それでも構わない」と虜にさせるように振る舞って下さい」というやつですね。

 そして同様に、ハニエルは悪魔を愛しても、悪魔から愛は返ってこない。
 これについて、溝上の言葉以上の説明は作中にありませんが、少なくともそういうことになっている。人間とハニエルの間にある非対称性が、ハニエルと悪魔の間にもあるというのです。

 そしてさらに同様に、海夢は五条を愛しても、五条から愛は返ってこない。
 少なくとも、海夢がハニエルになっているこの瞬間は。

 上で引用した画像のように、海夢は自分が愛するキャラクターの衣装に身を包んでいるその時に、それを作った人、すなわち五条の望むとおりに振舞えているかと不安になりますが、まさにその五条から掛けられた言葉を支えに己奮い立たせています。普段彼女がまき散らせている激熱ながらも浮ついた感情と違い、冷静ながらも深く深く思うその気持ちは、愛と呼んで差し支えないでしょう。
 でも、海夢が五条を愛を向けているその時に、五条から海夢へ愛は向けられていない。彼が抱いていたのは、「ハニエル」の実在を目の当たりにして実感した、本当に彼(女)から愛を向けられることはないのだという絶望でした(私の前回の記事を踏まえれば、ですが)。ここでの二人の間にも、残酷なほどの非対称性が立ちはだかっています。
 それゆえにこのとき海夢は、「愛する悪魔に手が届かなかった哀れな天使」であると同時に、「愛する五条に手が届かなかった哀れな海夢」だと言えるでしょう。

 だから溝上は、そんなハニエル=海夢を「可哀そうに」と言った。
 海夢が自身を「哀れな女」を思っていたかと言えばそんなことはないし、溝上が海夢と五条の関係を知る由もないのですが、「でもそう・・じゃなきゃこのハニエルは完成しなかったし ここまで人の心打たなかった」とまで口にした彼には、「そう」である何かを感じ取れていたのでしょう。
 『着せ恋』はキメ絵の説得力が強い作品ですが、このエピソードでのハニエルは出色の出来栄えです。読者も無意識にであれ、人間/ハニエルハニエル/悪魔=海夢/五条の関係性を読み取っていたからこそ、作中に描かれる海夢=ハニエルの無感情な微笑みに、作者の純粋な画力以上の凄みを感じ取っているのだと思うのです。
 そりゃあ何周もしちゃいますよね、このエピソード。たぶん13巻だけで6、7回は読み返してる。

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『その着せ替え人形は恋をする』五条の二つの後悔と、現実になってしまった「手の届かないもの」の話

 13巻での初コミケ、海夢のハニエルコスプレが大いに会場を沸かせた中、その衣装の制作者である五条は、一人浮かない顔をしていました。

 その表情は「浮かない」どころではなく、沈痛や悔恨や、いっそ絶望と言ってもいいほどのもの。
 ハニエル=海夢とそれを囲むカメラマンたちを見ながら、目から光を失くして、彼は一人昏い思いに沈みます。

(13巻 p108,109)
 観衆を文字どおり虜にしたハニエル=海夢の振る舞いや表情はこの巻の盛り上がりの最高潮ですが、それと同時に、海溝のように深く落ち込んだ五条の内心の描写は、物語に強い二面性を生み出し、印象をより強烈なものにしました。

 となると、ここで誰もが疑問に思うであろうことは、この五条の後悔の中身です。

 彼はなぜ「虜にさせるように振る舞って下さいなんて言わなければ良かった」などと思ったのか。
 彼は何に今更気づいたのだろうか。

 この答えを、自分が(無自覚であれ)恋する海夢が遠い存在、手の届かない存在だと気づいたから、と言うのは簡単です。実際、p106での回想2コマ(7巻での読モ撮影シーンと、8巻での麗様コスで壇上に上がっているシーン)は、両方とも五条が海夢が自分とは別次元にいることを思い知らされる(と感じる)シーンですから、その手の感情がないことはないでしょう。

(13巻 p106)
 でも、それだけだというにはその感情を描く布石がなく、何より、自分が全力を尽くして作ったハニエルについて何も触れないのはあまりにも不自然です。海夢を遠い存在だと思うにしても、それを思ったのが彼女がハニエルとなっているこの瞬間である意味が存在するはずです。
 これまでの五条や海夢の描写、そしてハニエルがいかなるものとして描かれているのかを踏まえて、単行本未掲載の雑誌最新話を読まないまま、五条のこの内心を深掘り、あるいは与太話をしてみたいと思います。

ハニエルのコスプレが生まれるまで

 そもそも冬コミハニエルの衣装を作ることになったのは、造形物のあるキャラクターでしたいコスプレはあるかと海夢に問うたところ、彼女がハニエルと答えたからで、きっかけは海夢でしたが、それまで知らなかったハニエルをネットの画像検索で見た五条は、一目でハニエルに心を奪われました。そして、ハニエルから感じた「作った物で人の心を動かす」「圧倒的な力」に挑みたいと思ったのです。それをして五条自身は、「自分勝手で乱暴な動機」と表現しました。
 でも、自分だけではハニエルを表現しきれない、表現するには喜多川が必要だと、「お願いします 力を貸して下さい 俺の我儘に付き合って下さい」と頭を下げたのでした。
 なんとか完成したハニエルの衣装を着た海夢によるコスプレは、想像を絶する結果を生みました。幾重にも広がる巨大な囲みの中心で、カメラを向けられるハニエルは、「自分がハニエルに愛されていないと分かるほどに」「無感情に微笑み」、でも「「それでも構わない」と虜にさせ」たのです。

(13巻 p115)

手の届かない天使ハニエル

 五条はその様子を、囲みの外側から見ていました。彼の指示を完璧にこなした海夢に、彼は「ハニエル」を見たことでしょう。
 ここで「ハニエル」とカギカッコをつけたのは、ただハニエルの格好をした海夢、ということではなく、五条が挑むべき、いわば理想像としての「ハニエル」である、ということを含意させるためです。彼が己自身を賭すようにして作った衣装と、それを着た海夢。その結果降臨した、彼の追い求めた理想像。その意味での「ハニエル」です。

 そもハニエルがどういう存在かと言えば、悪魔に心を奪われ天界から追放された、愛を司る天使です。絶世の美貌で人間の心にたやすく踏み込みながら、その背中に白い羽はなく、かわりの黒い羽織は悪魔の羽に憧れてまとったものだけれどまるでそうは見えない、「どんなに望んでも自分ではどうする事も出来ない なりたい姿になれない」「惨めで 哀れで いじらしい」存在。この表現は旭によるものですが、『天命』の作者・司波刻央の友人の漫画家・溝上将護も「愛する悪魔に手が届かなかった哀れな天使」と表現しており、ある程度的を射たものであるようです。
 ただし、この表現は第三者的な、『天命』作品世界を俯瞰した読み手が言えるもので、『天命』作中でハニエルに直接接した人間たちは(あるいは作品を俯瞰できず没入しすぎてしまった読者も)、ハニエルに群がり、周りの人間が彼女に殺され自分もすぐに殺されるであることが分かっていながら、逃げずに笑いを浮かべて、目の前に天使様がおわす奇跡に感謝するほど彼女に魅了され、支配されます。
 ハニエルが登場する『天命』13巻の冒頭には、以下のようなモノローグがあるとされます。

彼が連れてくるのは
【死】のみだ
愛を求めたところで
返ってくる訳がないだろう
(13巻 p1)

 これが作中(単行本中)に描かれるのは96話の冒頭、すなわち、まさにハニエル(となった海夢)が登場する本巻(=13巻)の冒頭であるわけで、二つをリンクさせるようストーリーの展開をけっこう長めのスパンで練っていたんだろうなと唸らされますがそれはともかく。
 このモノローグを溝上は、「ハニエルを見る有象無象」に対して言っている、と考えています。心を奪われ、支配され、虜になった人間たちは、ハニエルにいくら愛を求めようとも決して返ってくることはなく、ハニエルはひたすら一方通行の、手の届かない、次元の違う存在であるとしているのです。
 ハニエルとはそういう存在。
 そして五条も「ハニエル」をそういうものと捉えていたはずです。なにしろ、以下のような指示を海夢にしていたのですから。

悪魔以外には…カメラには無感情に微笑んで下さい
自分がハニエルに愛されていないと分かるほどにです
でも「それでも構わない」と
虜にさせるように振る舞って下さい
(13巻 p16)

五条にとっての海夢

 ここで、五条から見た海夢について改めて考えましょう。
 前述のとおり、そしてこれまでのストーリーで描かれてきたとおり、五条は海夢を、自分からは遠い存在だと考えています。
 そもそも第1話で「住む世界が違う人」(1巻 p16)、「自分とは真逆の世界で生きている人」(同 p20)と彼女を評しており、関係が進む中で、彼女にも自分と同じところがあるのだとわかりもするのですが*1、コスプレやモデルをしている海夢の姿を目の当たりにするたびに、自分との差を強く感じています。
「皆が憧れるような いい意味で近寄りがたくて 手が届かない」(7巻 p54)とは、海夢が読モをするファッション雑誌の編集者の言ですが、五条もこの言葉に納得しています。おそらく、彼女の内面ではなく外面、精神ではなく能力に触れる場面で、そのような感情を喚起されるのでしょう。
 憧れ。手が届かない。そんなハニエルとの共通点を持つ海夢だからこそ、五条は自分の作ったハニエルの衣装を着てくれるよう懇願し、「ハニエル」が冬コミに降臨しえたのです。

実在してしまった「ハニエル」に何を見るか

 さて、海夢の助力を得て「ハニエル」は顕現しました。彼が一目見て惚れこみ、支配された二次元の中のハニエルが、自身と海夢の手によって、理想である「ハニエル」として現れたのです。
 五条は何度も『天命』を読み込み、「ハニエル」を追い求めました。五条が形にしたそれは、偏屈で有名な原作者の司波刻央の心すら打っており、彼と比肩しうるか、そこまでいかずとも、彼の友人で同じくハニエルのファンである溝上(もちろん海夢のハニエルコスプレに驚嘆している)と同レベル程度には理解が深まっていたと考えていいでしょう。
 そうすると、五条もまた思っていたはずです。「愛を求めたところで 返ってくる訳がない」と。
 そして、そう思ったまま顕現した海夢の「ハニエル」を見て、心から実感してしまったと思うのです。「愛を求めたところで 返ってくる訳がない」と。

理想の実現と希望の消滅

 手が届かないものを作りたいと思って生み出しそうとしたハニエルは、実際に生み出されて目の前に「ハニエル」として現れたら、本当に手が届かないものなんだと心の底から思い知ってしまった。それは、他ならぬ、手が届かない存在であるところの海夢を依り代に現れてしまったから。
 理想は思い求めるべきものではありますが、それが現実には叶えられない限り、理想ではないもの/状況が現実として存在しているということでもあります。「愛を求めたところで 返ってくる訳がない」ような存在が理想だとしても、その理想的存在が叶えられない限りは、「愛を求めたところで 返ってくる訳がない」こともないかもしれない、という希望を持ちうるということです。理想と現実の自家撞着のような折り合いとでも言いましょうか。
 でも、その理想的存在は叶えられてしまった。こうして彼は、「愛を求めたところで 返ってくる訳がない」存在は、本当にその通りの存在なのだと痛感してしまったのです。
 五条自身も、海夢が手が届かない人間だと心の底から思っていたわけではないでしょう。でも、理想の「ハニエル」が生まれてしまったことで、手が届かないハニエルの依り代となった海夢もまた手が届かない人間なのだと、両者が補い合うようにして彼の絶望的な感情を強めてしまった。そう思えるのです。

そして答えへ

 これが、二つの疑問の内の二つ目の答え。
 彼は何に今更気づいたのだろうか。
 それは、「愛を求めたところで 返ってくる訳がない」存在は、本当にその通りの存在なのだということ。

 この答えが、一つ目の疑問の答えにもつながります。
 彼はなぜ「虜にさせるように振る舞って下さいなんて言わなければ良かった」などと思ったのか。
 それは、そんなことを言った、すなわち、そんな指示を海夢にして、理想の「ハニエル」が現れたために、「「愛を求めたところで 返ってくる訳がない」存在は、本当にその通りの存在なのだということ」に気づいてしまったから。

 これが、二つの疑問に対する、13巻まで読んだ時点での私の仮説です。
 話が進めばまったくの見当違いで終わる可能性もありますが、今までずっと裏表紙を飾っていた五条が、初めて背中を向けて何も表情(感情)を見せていないというのは、今回の件が今までにない決定的な出来事であることを象徴するようで、とても印象に残っています。
 13巻が思った以上に深刻な後味を残す話になって、正直驚いています。今後どういう方向に行くにせよ、見逃さないわけにはいくまいて。

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*1:「その人にもやりたくても出来ない事や 上手くいかない事 失敗する事もあって 俺と同じ気持ちだったり」(4巻 p100)

『その着せ替え人形は恋をする』一目惚れへの五条の挑戦と、今更気付いたものの話

 13巻でコミケでのコスプレデビューを果たした海夢と五条。
 いつもどおり、五条の作ってくれた最高の衣装を着て最高の気分をまとい、囲み撮影の終わらせ時もわからなくなるほどの驚異的な盛り上がりを見せた海夢とは裏腹に、その衣装を作り、第三者からも大好評を得ていた五条は、にもかかわらず、沈痛な面持ちでイベントを終えていました。
 コスプレカメコだけでなく、偏屈と名高い原作者すら心震わせた海夢の立ち居振る舞いと五条の衣装という盛り上がりの裏側にある、現時点で理由の明かされていない五条の落ち込み。この強烈な二面性が、13巻をとても印象深いものにしました。
 その二面性両方に関わるのが今回のコスプレですが、それを作るに至った五条の内心を整理してみたいと思います。

 今回五条が作った衣装は、累計6000万部を超える超人気漫画作品『天命』の、13巻のみに登場する天使ハニエルでした。その存在を海夢に教えられ、単行本裏表紙に描かれた彼を画像検索で見た五条は、一目惚れし、あるいは虜にされ、あるいは支配されてしまいました。

…初めてハニエルを見た時
「この衣装を作りたい」「見たい」と思いました
内容も知らないのに 一目で
同時に 初めて雛人形を見た時の
あの時とは違って
心が 完膚なきまでに叩き潰されたような
「作った物で人の心を動かすとはこういう事だ」と 圧倒的な力を見せつけられたように感じたんだと思います
(13巻 p8,9)

 そして、そんな思いに一瞬で囚われた五条が思ったことは

挑みたかったんです
(同 p10)

 でした。
 幼少期に雛人形の「奇麗」さに「心を掴まれた様な感じ」がして以来、頭師を目指してきた五条は、自分で「奇麗」を生み出すことを目指せど、何かに挑戦するような振る舞いはしてきませんでしたが、ハニエルを目にしたときは、明確に「挑みた」くなったのです。「作った物で人の心を動かす」「圧倒的な力」に。

 それに挑むということは、五条もまた「作った物で人の心を動かす」「圧倒的な力」を見せたいということに他なりません。そしてそれは、これまでとは違う、「自分勝手で乱暴な動機」でした。
 今まで五条は、人形にしろコスプレ衣装にしろ、人さまと競うように作ってはいません。人形は自分のためあるいは将来のため、コスプレ衣装は頼んできた人のために作ってきました。でも、今回は違う。「ハニエルの衣装は自分の為に作」ったのです。
 彼がなぜハニエルにそこまで入れ込んだのかはわかりませんが(一目惚れに理由を問うのも無粋ですが)、とにかく五条は挑みたかった。でも、従前から自分には足りないものだらけだと苦悩しているように、今の自分には「何十年も鍛錬を重ねてきた」司波刻央に敵うはずもなく、「ハニエルを表現しきれ」ない。だから、自分の作るハニエルには海夢が必要だと告げました。

ですが 俺が表現したいハニエルは 
喜多川さんがいれば必ず完成します
今まで撮影してきて表情を見てきたからこそ確信しています
俺はハニエルが見たいです
お願いします 力を貸して下さい 俺の我儘に付き合って下さい
(13巻 p11~13)

 ここまで見てきたように、五条がハニエルのコスプレ衣装を作ったのは、ハニエルという存在を生み出した司波刻央に挑む為であり、それは自分勝手で乱暴な動機だと言い切ります。
 誰かの為でなく、自分の為に作った衣装。そして、その衣装ともにハニエルを完成させるために必要なのが海夢。彼の「自分勝手で乱暴な」思いの成就には、海夢が不可欠なものでした。
 そんな海夢に要求した表情は、非常に困難なもの。

悪魔以外には…カメラには無感情に微笑んで下さい
自分がハニエルに愛されていないと分かるほどにです
でも「それでも構わない」と
虜にさせるように振る舞って下さい
(13巻 p16)

 自分にそんなことができるだろうかと怖気づく海夢に五条は、真正面から目をしっかりと見て、単純でいて力強い言葉で勇気づけました。

 そしてその結果。
 彼の思ったとおり、いえ、おそらくはそれを遥かに超えた形で、海夢は五条の要求に応えました。
 初めこそ、数少ないハニエルのコスプレに目を付けたカメコが十人前後でしたが、まずは現地の人が集まり、そして写真がSNSにあげられてからは爆発的に評判が広まって、あっという間に最大級の囲み撮影となりました。
 五条の衣装に身を包む海夢は、今までは本の向こうからしか笑いかけてくれなかったハニエルが本当に世界に降り立って自分に笑いかけてくれたかのようで、カメコたちは魔法のように魅了されていきます。
「異常だ」
「目が離せない 一瞬も見逃したくない」
「あの子と俺達との間に逆らえない上下関係があるような——…」
「どうして 俺はこんなに あの子の 目線が欲しい」
「生きててよかった」
 魔法というよりは、むしろ呪いでしょうか。

僕はきっとこれから毎年コミケに来る
体中に響く自分の心臓の音とこの高揚感が忘れられなくて ずっと今日を追いかけ続ける
けど
あの子を超える子には出会えない気がする
あの子にとって僕は明日には忘れられるような ここにいるその他大勢の一人なんだろうな でも
それでもいいとさえ思う
(13巻 p110,111)

 呪縛、ですね。

 このように、海夢は五条の指示どおり、見る者を「虜にさせるように振る舞」いました。つまり、五条は見せることができました。「作った物で人の心を動かす」「圧倒的な力」を。
 しかし、にも関わらず五条が、不満、悔恨、沈痛、哀切、後悔、絶望、孤独、あるいはまだ名付けようのない暗い感情を抱いたのは、99話に描かれたとおりです。
 向こうにいる海夢が見えないくらいのカメコの囲みを外から眺める五条は、昔見た海夢の姿を思い返しながら、コスプレ前に自分が彼女に掛けた言葉を思い返します。
「虜にさせるように振る舞って下さい」
 でもその言葉を、海夢が実現させた今になって自ら否定しだし、言葉を隠してしまおうとする影の下には、「なんて言わなければよかった」と続きが生まれているのが見て取れます。
 そして、黒い気持ちの中で微かな思いが泡のように浮かび上がってきました。
「今更気付くなんて」
 と。

 五条の言葉を否定したもの。そして五条が気づいたもの。
 それを、嫉妬や恋心などというのは簡単です。ですが、それだけと捉えるにはあまりにも五条の表情は重く、イベントが終わり二人きりになった後も沈痛なままでいる理由にもなりません。
 じゃあそれは一体何なのか。
 その推論を書くにはこのスペースは狭すぎるので、続きはまた後日。今日のところは、その前提となる、ハニエルに対する五条君の思いのまとめでした。どっとはらい

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人間よ、モテたければ生物学を学べ! 『あくまでクジャクの話です。』の話

 男らしくないことがコンプレックスの高校教師・久慈は、まさに「男らしくないから」と恋人に振られたばかり。もののはずみでそれが生徒に広まってしまい、デブ・ガリ・オタの三拍子そろった男子生徒らから「恋愛弱者男子を救う会」の顧問になってくれないかと頼まれる。だが、そこに待ったをかけたのは、校内に留まらず名の知られた女生徒・阿加埜だった。生物「学」部の唯一の部員にして部長の彼女が今、恋愛というものをわかっていない世の愚か者たちを生物学でぶん殴っていく……

 ということで、小出もと貴先生の新作、『あくまでクジャクの話です』のレビューです。
 男らしいとか女らしいとか、そういうことを口にすること自体がナンセンス、どころか多様性に理解のない人非人と消し炭になるまで詰られそうなこのご時世。
 だが待ってほしい。生物とはそもそも種の保存を第一の目的に存在しているのではないか。その目的を無視した口触りの良いおためごかしで恋愛弱者どもをごまかしていいのか。恋をしたいなら、遺伝子を残したいなら、恋愛という戦争で生き残りたいなら生物学を学びやがれこの野郎。
 そんな叫びが聞こえてくるようなコメディです。

 第1話1ページ目からNTR現場を目撃する主人公・久慈というショッキングなスタート。寝取られた、というかそもそも「お前の方が浮気相手だ」と言われた久慈は、昔から男らしくないことがコンプレックスの男性。
 浮気した元カノいわく「最初は色白で清潔感あってユニセックスな久慈くんがいいなって思ったけど… 筋肉質で背も高くて野性味もある元彼と久々に出会ったら「ああ…やっぱりこれが本物の男よね」って思っちゃって…」とのこと。
 もう少しこう何というか、手心というか…
 肌が弱いから化粧水での保湿が欠かせず、体毛が薄いのでわき毛もすね毛も生えず、懸垂が一回もできない程度に華奢で、その上で別に美形ではないという、自称「「男としてイケてない」が切実な男」の久慈。男らしくなくたっていいじゃないかと叫びやすいご時世ではありますが、そう叫ぶことと、男らしくない久慈がモテるかどうかは別の話だし、久慈が男らしさに憧れるかどうかも別の話。

 そう、男らしさ女らしさを声高に主張することが、多様性の名のもとに膺懲の一撃を加えられるような振る舞いだとしても、男らしい男、女らしい女を目指すことは個々人の内心の問題だし、男らしい男、女らしい女を好きになることも個々人の内心の問題なのです。

 モテる人間がいてモテない人間がいる。
 モテる人間像に憧れてそうなろうとする。
 それはどちらも当然のこと。生物学に言わせれば。

 モテに悩める久慈や生徒たちを、生物学部部長にして全国でも有数の学力、スポーツや芸術の8つの分野で賞をとり、モデルもしていてミスコン優勝経験もありSNSのフォロワーもワッサワッサな女子生徒・阿加埜が、生物学の教えでありがたくも導いてくださるのが本作なのです。

 男らしい男がモテるのはメディアにそう刷り込まれたからだと主張する。
 同じ男性を好きになった友人とフェアであろうとして、友人を自分と彼のいるグループに入れてあげる。
 自分が良ければいいじゃんとビッチ戦略をとる。
 そんなのはノンノン。生物学から見ればまったくの筋悪です。

 たとえばクジャクを見ろ。あいつらのオスには長くて派手な尾羽がある。そのせいで飛ぶのは苦手だし、目立つせいで外敵に見つかりやすい。生きる上では実際的な意味は何もない。でも、あいつらにはそれがある。進化の果てに、淘汰の末に、長くて派手な尾羽を獲得している。なぜか。それは、あるやつがないやつよりメスにモテたからだ。なぜメスはそれを好むのか。そんなことはわからない。なぜか好むのだ。だが理由なんか関係ない。それを持つオスがなぜかモテたから、それを持たないオスより多くの遺伝子を残せた。その結果、クジャクのオスの尾羽は役にも立たないのに長くて派手になったのだ。
 それこそが性淘汰。生物学の知見の一つなのだ。

 こう説く阿加埜は、「恋愛弱者男子を救う会」を立ち上げようとした、外見や性格に十分な資本が投下されていない男子生徒たちに、「生まれつき外見が悪いだけで… 何も悪いことはしてないのに… 彼女が作れない人生確定何ですか?」と詰め寄られます。まったく、彼らにしてみれば青春の絶望の中で縋った「多様性」という名の蜘蛛の糸をズタズタにされたのですが、阿加野は言うのです。

「(生物学的には)そうだ」

 と。
 「な…なんて冷酷な女だ」と、人生最初のステ振りに失敗した男子生徒たち(と久慈)は慄くのですが、それに続く阿加埜の言葉は一つの真実ではあります。すなわち

いかなる倫理や道徳…正論を振りかざしても 「好き」という感情までは動かすことができない
(p39)

 「倫理や道徳」「正論」というものは、社会の中から生まれてくるものです。それらが、平等で公平で公正な社会を運営するために必要なことは確かです。ですが、人には感情があります。それは「好き」であったり「嫌い」であったり「こうなりたい」という憧れであったり。それらは、社会で身につく後天的な倫理や道徳、正論などを無視するように、ごく個人的なものとして本能の奥底から湧き出てくるのです(もちろん、正論などに沿った形で現れもしますが)。
 そのプリミティブな感情、感情に基づいた行動は、多くの生物で見られ、それらを研究する学問こそが生物学。
 すなわち生物学を学べば生物の本能が分かる。本能の第一義である生殖もわかる。つまり、モテもわかる。だから、モテる! 嗚呼、生物学に栄光あれ!!

 ……といけばいいのですが、あいにくと生物は、まさに「多様」な性質をもつことで単一の理由による滅亡を回避して、種として生き延びてきました。例外的な振舞いをするものが一定数いることで、群れごと崖から飛び降りるレミングスのような事態を防いでいるのです(レミングスのそれは俗説のようですが)。
 ただでさえ、なまじ知性や精神が複雑化してしまった人間、例外の総数やバリエーションは増え、生物学的知見に従わない例は、それがマジョリティにはならずとも、無視できないくらいには存在するのです。
 なものだから、ヒロインである阿加埜も困ってしまうのです。久慈が全然自分になびいてくれないものだから。
 アプローチがどう見てもポンコツな阿加埜も悪いのですが、教師と生徒という社会的身分に囚われている久慈は、いくらグイグイいっても好意を持ってくれないし、過去にあったはずの自分との接点を全然思い出してもくれない。自分が恋愛の当事者になってはどう生物学を適用していいかわからずアタフタ。かわいいね。
 そう、この作品は、生物学の無茶苦茶な理屈で各種問題をバッタバッタとなぎ倒すコメディであり、生物学でモテの講釈を垂れてくださるくせに自分はからっきし、そんなポンコツ阿加埜のラブコメでもあるのです。

 あとは、他人を罵倒する言葉のチョイスも好きなんですよね。
「こんなしょうもない末代男子」だの。
「お前のようなバカ丸出しは淘汰されて当然だ 恋のライバルをグルチャに招くなど「私は世にも珍しい逆NTR好きの女です」と告白してるようなものだ」だの(それに対する「そんなバカな」というのもなんか間抜けで好き)。
「黙って聞いてりゃさっきからファブルみたいな気の抜けた喋り方で下らんことをペラペラと…」だの。
 好き。
 恋愛やモテの問題を滔々と語る生物学でむりやり解決していくその剛腕は、読んでてとっても愉快。8割の笑いと2割の「なくはないかな…?」の思いで楽しく読めちゃいます。
 第一話はこちら。
comic-days.com
 
 ところでこれは最後に言っておかなければいけないことですが。

※この物語はあくまでフィクションです。
作品に登場する生物学用語は実在しますが、その解釈はあくまで作品独自のものです。
(1巻 カバー折り返し)

 用法用量には十分注意してお読みください。あくまでクジャクの話ですから……

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『きのう何食べた?』シロさんの変化と幸せなサプライズの話

 みなさん、今週号のモーニングの『きのう何食べた?』は読みましたか? 読みましたね?

※CATION※
きのう何食べた?』の単行本未収録話のネタバレがあります。ご注意ください。

 前回のお話で、ケンジによるシロさんへのサプライズウェディングパーティーという、考えるだに最悪級の展開が描かれ、顔面蒼白になりながら次のお話を待っていました。これ、別れ話もありうるなと本気で思っていたのですが、あにはからんや、シロさんは意表を突かれながらも怒り狂うわけでなく、むしろケンジの気持ちを好意的に受け取り、列席者との話や彼らの浮かべる祝福の笑みなどに接して、非常に幸福な気持ちで一日を終えていたのでした。
 本当に予想外。

 なにしろシロさんといえば、かつてケンジが自分のことを話していたお客さんと出くわした後に、掛け値なしに本気でぶちギレた男です。

(1巻 p56)
 この時点ではシロさんも40代前半、最新話からは16,7年も前のことですし、それ以降も自身の性的指向を明かせる人間は少しずつ増え、ケンジと二人で近所に買い物へ行ったり、お茶したり、旅行したり、お互いの家族とあいさつしたりと、カップルとして振舞える範囲も少しずつ広がっていきはしたのですが、それでもウェディングパーティーを、それもサプライズで、となると、いくら器の広がったシロさんでも怒髪天間違いなしだなと思ったのですがねえ……
 そう戦々恐々としていた私の予想を軽々と裏切る展開を描き、しかもその展開に不自然さ、無理やりさをまるで感じさせないのは、今まで積み重ねてきたシロさんの変化のエッセンスをそこかしこにちりばめているからでしょう。唸るぜ。

 また、パーティーの最中、ゲストたち同士が楽し気に歓談しているのを見て嬉しそうにしているシロさんも印象的です。
 もともと社交の狭かったシロさんですが、自分(とケンジ)を起点に集まった人達が、自分たちを心から寿いでくれ、しかもその人たち同士で楽しそうに歓談をしている姿は、今まで味わったことのないものだったのでしょう。なにより、自分の隣で自分と同じように、あるいはそれ以上に喜んでいるケンジの姿。それらに囲まれたシロさんの屈託ない笑顔は、「いい最終回だったな……」と思わせるに相応しいものです。

(♯182)
 いやまだ終わらないんですけど。

 このお話の最後に、二人で帰宅し向かい合ってお茶漬けをすするシーンは、ハレからケへの回帰というか、帰ってこれる日常が存在しているというか、二人の生活は山あり谷ありで続いていくんだなあとということを感じさせ、とてもいいですね。またそれも最終回味があるんですが。

 とにかく、前話の時点での恐れが杞憂に終わり、とてもともて素晴らしいお話となった『きのう何食べた?』の最新話でした。
 これ描いちゃって今後どうするのとは思いますが、現実世界の時間とほぼ同期している本作は、シロさんとケンジの身の回りに加齢とともに様々なライフステージの出来事が起こっています。身内の、そしてお互いの死というのがそろそろ無視できないお年頃です。
 はてさて、ねえ。

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誇り高きポンコツドラゴンとのゆる楽しい日々『ドラゴン養ってください』の話

 大学生の村上は、ある日ドラゴンに出会う。異世界からやってきたというドラゴンのイルセラは、一「竜」前のドラゴンになるための修行として人間界にやってきたという。しかしてこのイルセラ、あまりにポンコツ。人間界でどう暮らすかの算段もなく、会ったばかりの村上に自分を養うよう要求する始末。
 一人と一匹、この奇妙な共同生活はどうなるのか……

 ということで、原作・牧瀬初雲、作画・東裏友希の『ドラゴン養ってください』のレビューです。人間界にやってきたポンコツなドラゴンが巻き起こす、肩の力の抜けたファンタジーコメディ、というところでしょうか。
 村上は、ドラゴン大好きの大学生。「モンスターを仲間にできる」と銘打ったスマホゲーで、仲間にしたモンスターが人間に変身するとスマホを即たたき割るタイプの原理主義者。ただし、三次元はNG。ドラゴンの実物と会っちゃっても困るよね。

(1巻 p7)
 しかも、そのドラゴンが田舎の誰もいない公園で「養なってください」(正しくは、「養」の「良」が「艮」になってる誤字っぷり)と書かれた紙を掲げてたら猶更だよね。しかし凛々しい顔してるぜ、このポンコツドラゴン。

 そんなポンコツドラゴンのイルセラは、本人(竜)曰く、一竜前として認められるための試験に「惜しくも紙一重で失敗し」、「怒った両親に魔力のない世界で己を鍛えるよう言われるまでもなく、自ら進んで」人間界に来たのだとか。ははーんこのドラゴン、見栄っ張りだな。
 というわけで、己を鍛えるために来たくせに初手で自分を養ってくれる人間を探すポンコツっぷりをいかんなく発揮しつつ、自分が人間界に来たせいで村上の身に降りかかったトラブルをマッチポンプで解決してやり(しかも村上に助けられながら)、なし崩しに同居に持ち込むイルセラ。大丈夫か、この同居生活。

 と不安になりながらも、村上は村上であっさりこの状況を受けれるし、イルセラの存在を知った町の人間は町の人間であっさり受け入れるしで、人間の上位種たる気高きドラゴンの修行などというお題目はどこへやら、ちょっと火を吐けたり空を飛べたり雨を降らせたりできるよくわからんけどなんかいいヤツのおちゃらけた日常がゆるゆると描かれています。
 でも、そんなコメディの中にも、ドラゴンはやっぱりドラゴンだなと思わせる素敵なシーンもあったりするから、なかなかに美しい漫画に仕上がっているんですよね。空を飛ぶドラゴンの背に乗るってのは、やっぱりロマンですよ。

 第1,2話はこちらから。
urasunday.com

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『正反対の君と僕』身体感覚の言語化による強い共感の話

 先日6巻の発売された『正反対の君と僕』。

 1巻の帯に「真逆な2人の共感ラブコメディ」の惹句があるように、登場人物たちの心理描写、というよりは心理の言語化が巧みで、それが読者を「わっ…分かる~!!」(1巻帯より)という共感の気持ちにさせるのだと思います。
 でも、この作品の言語化のうまさは心理面だけでなく、身体的な感覚でも表れています。
 たとえば6巻の41話、雨に濡れて帰宅した平が独りごちるこのコマ。

(6巻 p24)
 「ほかほか感」ががどうであるとは明言していませんが、濡れた服を着替えた後に、眠たげな顔で「ほかほか」という牧歌的なワードを使っていることから、そこに快の感情があることが読み取れます。
 多くの人が感じたことがあるであろうこの、冷えた身体が暖かい部屋で乾いた服に包まれたときのホッとする感覚。
 こういうのをサラッと描くと、読んだ人もその感覚を思い出し、「わっ…分かる~!!」になるのです。
 
 それ以外にも、3巻では雨の日の家の中の楽しさや

(3巻 p32)
 雨上がりの秋の風の心地よさに言葉を与えています。

(3巻 p48)
 家の中で落ち着ているときに外で強く降る雨が妙に心躍らせたり、空気を変える秋風に季節を感じたりと、あえて言葉にしなくとも心が動いた記憶がある人も多いのではないでしょうか。

 また2巻では、鈴木が雨上がりの匂いのかぐわしさに喜びつつ

(2巻 p12)
 それを谷と共有できたことで恋心をときめかせているという合わせ技も見せています。

(2巻 p29)
 ここでは、コンビニ前で鈴木が「雨上がりのいいにおい」を感じ取ったときは、そこに居合わせた山田がまったく共感しなかったという前振りがあったので、谷が自発的に「雨上がりのにおい」を「好き」と言ったことが鈴木のハートにより火を着けるのです。
 余談ですが、私も鈴木や谷同様「雨上がりのいいにおい」が大好きなのですが、友人に一人はまるでそこに同意がなく、私が鈴木のような状態に陥ったことが少なからずあります。万人が好きなにおいだと思っていたので、友人のそんな反応はとても意外だったし、全然好きじゃない人もいるんだ!と衝撃でもあったのですが、だからこそ初めてこの話を読んだとき、鈴木や谷が雨上がりのにおいを好きだと言ったことに「同志よ!」と握手を求めそうになりました。「わっ…分かる~!!」となりました。山田に「この無粋な人間が!!」と思いました(なもんだから、私の友人なんかはこの話を読んでも、鈴木や谷に共感が薄くなるのかもしれませんが)。

 たしかに感じてもやもやしているけどまだ言葉にできていない感情に、適切な言葉が与えられているのを見ると、「それっ!」と膝を叩いていっぺんに共感しちゃいますが、感情だけでなく、身体的な感覚でも、なんか好きとかなんか嫌いとか、ぼんやりと感じていたものが言葉で適切な輪郭を与えられると、やっぱり共感しちゃって「好きっ!」てなりますよね。
 言語化による共感て、強いですよ。『正反対の君と僕』はそこが強い。

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