『ワンダンス』ダンスの自由と動かされる感覚の話

三度あることは四度ある。『ワンダンス』のお話です。
今回は、ワンダの言うダンスの「自由」と、カボの感じたダンスの「動かされてい」る感覚の話。
ワンダンス(1) (アフタヌーンKC)
ワンダはカボからダンスが好きな理由を聞かれ、その一つとして「なんか「自由になれる感じがする」と答えました。その答えは、周りの目を気にして自由に振る舞えないカボにとってひどく魅力的に映ったようで、彼がダンス部に入る大きな一因となります。
そして、入部してしばらく。6月に行われるコンテストのオーディションで、他の部員の前でワンダと踊ったカボは、ワンダの踊りを見て、「音を聴く」という、当たり前のようでなかなか意識できないコツに気づき、「動かなくていい 音楽に動かされていればいい 何も考えなくていい」と感じながら気持ちよく踊ります。
さて、この「自由」と、「動かされてい」る感覚。一見正反対のもののようですが、両方ともがカボにとって腑に落ちているものであるというのは、どういうことなのでしょうか?
これを考えるのにもまた、前回の記事でも参照したこの本が参考になりそうです。
どもる体 (シリーズ ケアをひらく)
この本の、「ノる」ことについて書いた章でこんな記述があります。

「勢い」とは、まさにパターンを繰り返し使うことによって生じる、推進力のようなものだと考えられます。運動が単純に継起するのではなく、現在の運動のうちに過去の運動が含まれ、さらには未来の運動が予感されている。これが「勢い」です。
(どもる体 p165)

引用内で触れられている「パターンを繰り返し使う」という行為。これはまさにダンスです。基本単位となるようなパターン(振り付け)を組み合わせてダンスは行われますが、その組み合わせは単純なものでなく、それまで踊ってきたものを変奏、展開していき、表現の幅を広げていきます。よくできた変奏の仕方は、過去の運動を参照し、未来の運動を予感させ、出てきたものが意外な振り付けであろうと、見てるものにある種の納得を催させる関連性を内包しています。つまりは、「勢い」があるのです。
そして、そんなダンスが必然的に伴っているリズムについては、こう述べています。

バフチンはこう述べています。「リズムは、志向、行動、体験がある種のあらかじめ決定されたものであること(…)を前提としている。」。
つまり、リズムにおいてはベクトルのようなものが生まれ、自分ですべてを決めなくてもよい。法則の力によって、運動の進むべき方向がおのずと決められ、進んでいく。
それは決められているという意味では「絶望」かもしれませんが、運動そのものは、なかば「法則任せ」にできる。ヴァレリーも、リズムが十全に作用すると、存在が「自動的になる」と語っていました。ボールが物理法則にしたがって繰り返し弾むように、まさに弾みを得たことによって、リズミカルな運動はおのずと進んでいきます。
(同書 p165)

「自分ですべてを決めなくてもよい」。
「法則任せ」。
「自動的になる」。
ここで述べられていることは、カボの感じた「音楽に動かされていればいい」という感覚と見事に符合します。
たとえば私が趣味でやっているジャズのアドリブ。リズムセクションが演奏するリズムパートの上で、ソロ楽器がアドリブをとるのですが、このときリズムにノれていないと、自分のカッコ悪さが気になり、気ばかり焦り、次にどんなメロディをだせばいいかわからなくなり、今何を吹いているのかもわからなくなります。
それはまさに、『ワンダンス』で部長が言った、「早取り」が起きる状態。

人前に立つ 一斉に注目を浴びる カメラなんかも向けられる そして音楽が流れてくる 踊らなきゃならない
そうするともうテンパって 視界はどこ見てんだかわかんないし 聴覚はシャットダウンして何も聴こえない
そうすると頭の中はこんなことでいっぱい
「次どんなステップを踏めばいんだっけ?」「こっからあの動き どうやって繋げばいいの?」「あっ 練習したあの技も使いたい…!」
「てかこのポージングダサくね?」「てか今顔ブスじゃね?」
…と 身体ばかりに意識がいってとにかく焦る
そうすると何が起きるか
「早取り」が起きる
(ワンダンス 1巻 p153,154)

書いてて、アドリブでしくりまくったときを思いだしてブルっちゃうのですが、ノれてないと、こうなってしまうのです。
でも、勢いがあれば、リズムにノれれば(『ワンダンス』内の言葉を使うなら、音楽をきちんと聴ければ)、運動の進むべき方向を「法則」に任せられるので、その「方向」の中で、自分ができることに集中できるようになります。
実際カボは、きちんとリズムにノることで、手持ちの振り付けがまだまだ少ないながらも、簡単な動きをうまくつなぎ、魅せるダンスを踊ります。
このときのカボは、自分が次にどんな動きをしようか、具体的に考えていません(「何も考えなくていい」)。意識は音楽を聴く方に集中し、体の方が、次にどう動けば一番いいのか、手持ちの動きの中から「自動的」に答えを出しているのです。こうして彼は、音楽に「動かされてい」るのですな。


さて、ここまで述べてきた「動かされるてい」る感覚。ここから「自由」に飛躍するには、以前書いた記事がヒントになりました。
『バガボンド』『戦国妖狐』決定された運命と自由の話 - ポンコツ山田.com
この記事では、『バガボンド』、『戦国妖狐』、『極東学園天国』を例に出し、自由と決定された運命という、相反すると思われる二つのものについて書きました。
その中でも、沢庵の言う

それによると―――― わしの 
お前の 生きる道は
これまでも これから先も
天によって完璧に決まっていて それが故に――――
完全に自由だ
バガボンド 29巻 #256)

という言葉。
そして

人は無限だ
それぞれの生きる道は 天によって完璧に決められていて
それでいて完全に自由だ
根っこのところを天に預けている限りは――――――――――
(同 #257)

という言葉。
この二つをキーにしてみましょう。
思うに、ここで沢庵が言っている「天」は、リズムにノった状態に、そして「生きる道」はどう踊るかということに相当するのではないでしょうか。
すなわち、ある人間がどう踊るかは、ノったリズムによって決定されているのだ、と。
それがなぜ自由なのかと言えば、上で私が、カボは「自分が次にどんな動きをしようか、具体的に考えてい」なくて、「意識は音楽を聴く方に集中し、体の方が、次にどう動けば一番いいのか、手持ちの動きの中から「自動的」に答えを出している」と書いたように、リズムによって「完璧に決められ」た踊りとは、あるリズムに一対一で常に対応する唯一の踊りがあるのではなく、今・ここにおいて、あるリズムで踊っているある人間が、手持ちの振り付けの中で、その時点での習熟度に応じて、最善として導かれる動きが自動的に出てくることを意味するからだと思うのです。
つまり、常に変化する「今・ここ」と、常に変化する人間においては、最善とされる動きも常に変化するのです。ある「今・ここ」における最善が、他の「今・ここ」においても最善であるとは限らないのです。
踊る当人の状況次第で、無限に近い最善手がありうるという意味で、自由なのです。
これは、前掲の記事でも引用していた、『戦国妖狐』の足利義輝の発言にも通じるものでしょう。

時と可能性には無限の揺らぎがあり 選択は常に自由だ
同時に運命も全て決まっていて 決めたのはわし自身だ
戦国妖狐 9巻 p13)

「無限の揺らぎ」の中で、その揺らぎ(「今・ここ」)に応じた最善の踊りは一つしかない(=決まっている)けれど、どの揺らぎ(「今・ここ」)で踊るかを選択することに自由は存在している、ということです。


長くなったのでまとめますが、カボの感じた「動かされてい」る感覚とは、彼がリズムにノっている状態であり、その状態で踊れる最善手は、ある「今・ここ」においては一つしかないのですが、「今・ここ」とは常に変化し、「今・ここ」を選ぶ人間も常に変化し、そしてどの「今・ここ」を選ぶかはそれぞれの人間に委ねられているので、その意味で自由でもあるのです。
もちろん、常に「今・ここ」を自由で選べるものではなく、その意味でダンスの「自由」も、多くの場合、理想的な状態からはどこか欠けているものですが、それはそれとしても、一見相反しそうな二つの感覚はこのようにしてつながるのかなと考えます。



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