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キャラという名の免罪符と、その成立過程の話

細かいところまで読んでくださる方ならお気づきかもしれないが、私は文章上では「キャラクター」と「キャラ」を使い分けている。
前者はある一人格(現実の人でも、物語内の存在でも、法人のような仮想的な人格でも)の総体、有人格的な存在の最小単位で、後者は一つのキャラクターからその一側面・要素・特性・特質を恣意的に切り取って言語的・概念的に抽出したもの、と言える。簡単に例をあげれば、『らき☆すた』の柊かがみという「キャラクター」のツンデレという「キャラ」といった感じ。なので「キャラ」は「属性」と言い換えても大差ない。
この二者の関係では、必ずキャラクターが先行する。キャラクターからキャラを切り取ることはできても、キャラからキャラクターを生み出すことはできない。先の例で続ければ、「柊かがみ」から「ツンデレ」や「ツインテール」、「双子の姉」などのキャラを抽出することはできても、これらのキャラを延々と列挙したところで「柊かがみ」を塑型することはできない。それをできる気がするのは、既に「柊かがみ」を知っているからで、『らき☆すた』を一度も見たことがない状態でキャラのリストを聞かされても、アニメや漫画で描かれている「柊かがみ」をそっくりそのまま造形するのは不可能だ。
もっとわかりやすく言えば、もし私が今まで誰にも見せた事のないオリジナルキャラクターのキャラをこの場で羅列したところで、それを聞いて想像したキャラクターが私が描いたものとそっくり同じである自信があるだろうか。私のオリジナルキャラクターなんか誰も見たことがないのだから、どういうタッチで描かれるのかさっぱりわからないだろう。キャラのリストだけから想像したキャラクターは、必ず想像者のバイアスのかかったものとなっている。
とまあそんな感じでキャラには必ずキャラクターが先行するわけだけど、いったん概念化されたキャラは、その発生源であるキャラクターから簡単に一人歩きしていく。例えば「ツインテール」というキャラ。柊かがみツインテール三千院ナギツインテールとラウラのツインテールと南夏奈のツインテール。どれもツインテールと表現される髪形だけど、角度や縛り方、髪を留めているものなど、各々微妙に異なっている。が、それでも彼女らの髪型はみな「ツインテール」と表現される。
キャラは言葉として抽象化されたことでその具体性が薄れ、キャラクターにあった実在性は消え失せる。キャラが再び具体性を獲得するには、またどこかのキャラクターに宿を借りなければならない。


抽象的なキャラには実在性がない。逆に言えば、キャラクターではなくキャラとして名指された存在からは、実在性が消え失せる。
友人がこんなことを言っていた。
「どんなマイナス要素でもキャラクターの一部にできちゃう人間が最強ですよ。これはもうしょうがない。最たるものは遅刻ね。「あいつはルーズだから」で済むんだもの」
マイナス要素をキャラクターの一部にする。これはつまり、キャラクターの切り取り方にマイナス要素(例えば「時間にルーズ」)を加える、人格の一部からマイナス要素を抽象化する、マイナス要素をキャラ化するということになる。
抽象化されたマイナス要素は当人から乖離し、「時間にルーズ」な振舞いを引き受ける・責任を負う実体がそこからいなくなる。まるで、悪いのは「時間にルーズ」なキャラであって、時間にルーズな振舞いをしたその人ではないかのように。
本人とは無関係な(本人は責を負わない)キャラを纏い、批判が当人まで届かないような人。それが「どんなマイナス要素でもキャラクターの一部にできちゃう人」だ。
さて、ではいったいどのような過程を経てそのような人はできあがるのか。本人の態度か。周囲の人間の無意識的な協力の下か。
思うに、その根っこには「どんなマイナス要素でもキャラクターの一部にできちゃう人」(以下、「キャラ人間」と称す)への周囲の人の好意があるだろう。キャラが切り出される以前の人格への尊敬と言ってもいい。まず全人格への好意ありき。なにはともあれその人が好きだから、本来なら(それがキャラとして見られていない人なら)否定的にしか見られない振舞いも、キャラとして当人から遊離させることで、当人にその振舞いの責が及ばないようにしているのだ。
これを別角度から見れば、キャラ人間には「尊敬されるべき(好かれるべき)人」という高次のキャラ付けがまずあると言える。そのキャラ付けを崩さないために、反証となるような振舞いを下位次元でどんどんキャラ化して、「尊敬されるべき人」キャラを守っているのだ。
そもそもキャラが実体から遊離したものであるように、「尊敬されるべき人」キャラも、もはや当人から切り離されたものになっている。どんな反証も当人に累が及ぶ前にキャラ化することで処理しているのが、そのなによりの証左だ。
カンペキな人間などいない、嫌うべきところのない人間などいないのに、そんな人間を作り上げようとする。全方位的に尊敬されるべき人は、空想にしか存在しない。それを現実に生み出そうとするには、抽象的なキャラで当人を全て覆い隠し、実際的に責を負う当人を見えなくしてしまうしかない。そしてそれは言ってみれば、キャラから生み出されたキャラクターという、本来ありえない存在なのだ。


キャラというのは概念であり、言語上の存在であり、認識のための一手段でしかない。キャラとキャラクターは対等の関係ではなく、キャラクターはキャラに優先する。だが、時としてそれは忘れられてしまう。キャラクターの恣意的な区切りでしかないキャラが、キャラクターに優先してしまうことがあるのだ。
キャラクターからキャラを切り取ることで、そのキャラクターの認識は楽になる。捉え方次第で如何様にも変化するキャラクターに、ひとまずキャラというある一視点を導入することで、認識に安定がもたらされるのだ。
逆から見れば、キャラ付けを一切されていないキャラクターを丸のまま認識するのは、非常にタフな知的作業だといえる。消化できないものを丸のまま飲み込めば胃の中で持て余し、ともすればお腹を壊すように、説明できない(してない)ものをそっくりそのまま認識するのは、非常に脳内の場所ふさぎで鬱陶しいものなのだ。
だから、人間に対してもキャラづけをしてしまった方が認識はしやすい。初めて会った人や会って間もない人をこれこれこういう人と認識してしまえば、ずいぶんと印象を憶えやすくなる。しかしそのキャラ付けは、不変のものでなければ普遍のものでもない。関係が深まれば、他の環境での関係を経れば、他の人にしてみれば、今までの認識(キャラ)とは違った面が見えるはずだ。にもかかわらず、初めに作ったキャラを変えようとしないことがある。そのキャラが他の人にとっても同様だというように思うことがある。なぜならその方が楽だから。そして、初めのキャラを変えるよりは後付でキャラを増やす方が楽なので、下位のキャラが増えていく。ほら、いったん貼ったシールを剥がして別のを貼りなおすよりは、新しいシールを上から貼った方がずっと楽でしょ?


これが上で言った、高次のキャラと下位のキャラが生まれる仕組みだ。高次のキャラを脅かさないために、下位のキャラはどんどん生み出される。それでも、それが積もりに積もればいつか高次のキャラごとどんでん返しでぶっ壊されることもあるのだが。
ああ、つまりはそれが「かわいさ余って憎さ100倍」というやつなのだね。「かわいさ」という高次のキャラのために、今まで当人に向かうことなく溜まり続けていた下位のキャラ(マイナス要素)が、臨界を突破することで一気に当人を襲うわけだ。仮想の存在であったキャラの集合(キャラクターではなく)の凝集力が限界を超え、実体が現出したために、キャラのおかげで見えないことになっていた不満が一気に牙を剥くのだ。
「恋は盲目」とは、「恋しい相手」というキャラを相手に押し付けた状態なんですな。どんな不満も下位のキャラに回収され、高次の「恋しい相手」を脅かすことはない。「あばたもえくぼ」も、下位の「あばた」キャラをつけることで不満が本人の実体に行かないようにしているのねん。


大上段から言えば、キャラ化は世界を把握しやすくするための便利な方法だ。ただその便利さは、単純化と裏表であるわけだ。
そりゃあこんだけ情報に晒されるようになれば、キャラ化することで情報処理を簡略化していくのは大事ですよ。人間にとってもっとも認識の負荷が高いものの一つが人間そのものなもんだから、人間をキャラ化するのも一つの必然ではあります。特に、不特定多数の前に身を晒す人、政治家や芸能人などであれば、自分をキャラ化したほうが認識されやすいしね。そりゃあ政治もパフォーマンスになるわ。
まあでも、自分のでも他人のでもキャラが一人歩きして、実体から遠く離れたところまで行ってしまうと、ふとした時に脚を掬われかねんぞ、と。結局のところ人間が最終的に接するのは、実体同士なわけですからの。


関連リンク キャラとハラキリ 3ToheiLog




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