先々月に発売された、若林稔弥先生の『僕はお姫様になれない』。
- 作者: 若林稔弥
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/アスキー・メディアワークス
- 発売日: 2014/09/26
- メディア: コミック
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本作は、シンデレラや白雪姫など、童話の登場人物をモチーフにしたキャラクターたちが主役を張り、それらが連作短編的にからみあっていきます。ストーリーの展開の仕方は、前述のとおり、『徒然チルドレン』とほぼ同様。
- 作者: 若林稔弥
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2014/08/16
- メディア: コミック
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勘違いや妄想で暴走しすれ違い、ドタバタとラブラブコメコメする作品です(1巻の段階ではコメディの成分が大きいですが)。内容は大差ないこの両者で、なぜ読んだ印象に大きく差が出たのでしょう。
私の仮説は、4コマ漫画と通常の体裁の漫画、という漫画としての構成の違いに由来するのではないかというものです。一般的な漫画のコマ割りで描かれた『僕は〜』と、4コマで描かれた『徒然〜』。そこに、ネタやノリが同系統でも読んだ際の印象を変えるものがあるのではないかと。
では、4コマ漫画とそうではない漫画で、どのような差があるのでしょう。
一般的に4コマ漫画は、コマが画一な大きさで区切られ、規則的に配列されます(2本のネタが縦に4コマで並び、1ページ内にネタが2本、というのが多くの場合でしょうか)。その画一性・規則性にメリットデメリットはいろいろあるでしょうが、『徒然〜』の場合はメリットとして強く働いたように思います。画一的・規則的に配列されたコマは、その無機質性ゆえに、『徒然〜』のコッテコテでベッタベタな部分を緩和してくれたように感じるのです。
コマの大小は、情報の重要度や情報量、目線の移動などに大きく影響を与えるファクターですが、4コマ漫画は前述の特徴のとおり、それらに関与することがありません。ボケをさく裂させるコマもそれを冷ややかに見るコマもあるいは盛大に照れるコマも、コマの大きさという外形的な面からは情報の重要度は等価となり、熱いコマは冷め、冷たいコマは逆にぬるくなることで、コマの温度は平準化されます。そしてそれこそが、コッテコテでベッタベタなネタをくどすぎないレベルにまでまろやかにしてくれたのだと思うのです。
で、それはとりもなおさず、『僕は〜』の方はコッテコテでベッタベタなやつが希釈されず、それどころかコマの大小によりブーストがかかってしまているということで。
思惑のすれ違いや妄想による暴走がネタの肝なのですが、緩急のついたコマ割りでそれが描かれると、妙につらい。他の作品との比較はいざ知らず、『徒然〜』と比べるとひどくつらい。有体に言って、ニマニマではなく苦笑いになってしまいます。「そりゃないわ」と。
また別の観点として、通常の漫画としてストーリー性を高めたというのも、負の側面として表出しているように思えます。これも4コマでなくなったということと無関係ではないと思うのですが、一つの話の中で主要キャラクター以外にモブが多く登場するようになり、また背景も描きこまれるようになったことで、作品世界に広がりが与えられました。そういうストーリーとは一見無関係なものが作品世界やキャラクターに奥行を与えるの確かなのですが、『僕は〜』の場合、世界が広がった分だけ、「なんで他のキャラクターはこのずれっぷりを変に思わないの?」という方向に考えが行ってしまったのです。すれ違いは、当人たちばかりがわかっておらず周囲はそれを生温かく見守る、という構図が面白いと思うのですが(『徒然〜』の「仮面」などはそれが上手く出ています)、『僕は〜』は当人以外の周囲の人間もあまりにも不自然なすれ違いを見過ごしており、そのためにギャグを通り越して嘘っぽくなってしまっています。設定をとやかく言うのも野暮かもしれませんが、女子が男子生徒の格好をするのを百歩譲ってありとしても、中高にわたって他の生徒どころか教師まで皆が皆性別を勘違いしているというのはあまりにも強引。トイレや体育の授業、旅行などはどうしているのか。
すれ違いからのドタバタコメディは一点突破要素が強いネタな分だけ、その一点突破にどれだけ隙を作らないかが大事だと思います。無駄に焦点を広げては、突破するだけの鋭さが失われ、読み手のテンションを下げてしまう。それが『僕は〜』で出てしまったのかな、と。
うん、まあ、ええと、『徒然チルドレン』2巻の発売はいつかな。お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
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