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あめんぼあかいなあいうえお

内田樹氏は、語彙の貧困は情感の貧困につながるとおっしゃっている。

昨今のメディアは、発信する情報の中に含まれている語彙のボーダーラインを、情報の受け手のリテラシーの最低ラインを照準して設定している。

「語彙」は「語い」に。
「範疇」は「範ちゅう」に。
「瀰漫」は「び漫」に。

「び漫」では「瀰漫」のもついやらしさ、思わず顔を顰めるような瘴気の如きニュアンスは感じ取れない。そうなれば、単純に辞書的な意味合いのみでもって「び漫」から「蔓延」や「波及」、「一般化」などの言葉に言い換えられてしまうだろう。

今日はニュースのテロップで「復しゅう」(復讐)と書かれた単語を見て、妙に白けた印象を受けてしまった。「復しゅう」では、「復讐」の持つ禍々しさ、ぎらつく力のニュアンスが届いてこない。

漢字は表意文字(あるいは表語文字)で、ひらがな・カタカナは表意文字。一文字が持つ意味の密度はまるで違う。それを語彙のボーダーを下げ「讐」を「しゅう」と表記しては、元々「復讐」にあった諸々のニュアンスがすっかり抜け落ちてしまう。「復讐」と「報復」と「仕返し」では、意味は似通っていても語の持つニュアンスは大きく違うのだ。

わかりやすい情報と、内容の薄い情報は違う。今のメディアの語彙の選択は、受け手への配慮というお題目の元で、情報の密度を薄めているようにしか思えない。

新聞やテレビ、ラジオや雑誌。かつてのメディアはその立場にもっと誇りを持っていたような気がする。情報を発信する立場、知識人としての立場ゆえの気概とでも言おうか、そのような態度があったと思う。
だが、現在の日本(海外の事例はわからないので)のメディアは、受け手に媚びた上で尊大な態度を取っているように感じられる。尊大というか、より有り体に言って見下した態度だ。媚びているのに。


話が逸れるが、企業が大きくなればなるほど、資本主義が企業全体にあまねく染み渡り、成員の目的が「利潤の追求」に先鋭化していく。
企業が利潤を追求するのは当然だ。利潤を追求しない企業なぞ存在しない。その前提は疑いようが無い。利潤を追求してこその企業だ。
だが、その成員までもが利潤の追求のみを目的にするのはいかがなものだろうか。

企業は法人格をもってはいるが、現実の人間ではない。そして企業自身が相手にするのも、たいていの場合、同じく法人格としての企業であり、それが個人であっても、屋号を持つ商人、商人格である場合がほとんどだ。
だが、実際に商行為を現場で行うのは生身の人間である。インターネットや電話、FAXなどを使い、直接対面することがなくとも、コミュニケーションをとっているのは人間同士である。

企業の活動主体たる自然人にまで資本主義が過剰に浸透すると、自然人同士のコミュニケートに雑味が混じる。いざ自然人同士が交渉をしても、相手を直接見ずに、相手の向こうに透けて見えるお金の額を見てしまうからだ。

本質的にお金そのものには価値がなく、「お金は同額の商品と交換可能である」という信憑が定着して初めてお金に価値が出来るのである。
だから、お金そのものを目的とすることは無意味なことだと言っていい。お金はなにかと交換して初めて価値が発生する。退蔵しているだけのお金はただの金属か紙切れで、預金残高も二進法のデジタル情報でしかない。
お金は欲望充足の手段であり、欲望の目的そのものにはなるべきではなく、同時に自然人の経済活動の最大(というか唯一)の目的となるべきではないのだ。


ここで話がメディアの態度に戻る。
メディアの情報も、それを発する主体としてはテレビ局であり、新聞社であり、出版社であり、ラジオ局かもしれないが、実際に情報を集め、編集し、構成し、発信するのは自然人だ。
そのとき自然人に資本主義が過剰に浸透していると、まずなにより売り上げが第一目標になってしまう。長期的なスパンではなく、短期的に最大の売り上げを目論んでしまうのだ。

するとどうなるか。

物を多く売るには、買い手の母数が多いほうがいい。この場合情報の受け手と同義だが、情報の受け手の母数を増やすには、情報の難易度を低く設定し、リテラシーの最低ラインを照準することで、母数が最大となる。
メディアからの情報の難易度が低くなれば、リテラシーの水準も上がりようが無い。少なくとも、メディアからの情報で上がることは無い。こうして負のスパイラルに飲み込まれて、リテラシー水準は低下の一途を辿っていく。

こうして受け手側の一番下を狙って媚びた態度をとる一方で、送り手としての傲慢な態度(リテラシーの低さを見下す態度)もとる。後者は、昔ながらのメディアの矜持の残骸だといってもいいと思う。情報、そして受け手への誠実さの欠如でもあるのだ。

リテラシー、あるいは受け手の情報の密度を色分けすると、現在はおそらく、上部に少ない割合で濃い情報密度が集中し、ある程度以下には薄い情報が広がっているように思える。
これは情報の量的な問題ではない。むしろ量的には、全体が同程度に浴びるような薄い情報を受けているはずだ。そのような薄い情報へのアクセスは、ボーダーを下げたテレビに新聞、最近でネットもあって、非常に楽になっている。
だが、質の高い情報を得ることが難しくなっているのだ。
質の高い情報へのアクセスまでなら、やはり一昔前に比べればずいぶん楽になった。だが、そこから先、アクセスした先の情報を理解することが、相対的に難しくなっている。情報の質が高くなったのではなく、受け手のリテラシーが下がったからであり、それの要因の一つが、語彙の貧困化なのだ。

こうして負のスパイラルがさらに高次のスパイラルを誘発して、際限の無い知性の貧困化、そして、知性の二極化を招いていく。

もはや実情は大きく異なっているが、幻想として、「メディアに携わっている人間は知的である」というものが残っていると思う。
その賞味期限ももうぎりぎり、というか偽装した上で騙し騙し使っている気もするが、それでもまだしぶとくあるはずだ。
そういう幻想に憧れてメディア世界に飛び込む人間が一定数いれば、そのような幻想は再生産されるのだが(これもまた負のスパイラルだ)、その幻想に甘んじているだけの人間が発した情報こそが、今まで述べてきたような情報になるのだと思う。

多くの不誠実なメディアの人間は「自分は知的だ」という夜郎自大な幻想を捨て、発信する情報に誠実であり、受け手の側は低い水準を狙って発せられた情報に「なめんな」と憤慨するぐらいの気概をもつ。
そんな歩み寄りがなければ、日本の未来はちょいと暗いかもしれない。