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漫画の話です。

『ワンダンス』世界を分割して乗るダンスの話

5月にして今年の俺マンに食い込むことがほぼ決定の『ワンダンス』。
ワンダンス(1) (アフタヌーンKC)
レビューはこちら。
踊る彼女は自由に踊る『ワンダンス』の話 - ポンコツ山田.com
高校のダンス部を舞台にした漫画である本作では、ダンスのコツもそこかしこに出てくるのですが、その中でフックがあったものの一つが、リズムのとり方の話。

初心者がダウンに比べてアップのリズム取り(引用者註:ダウンは伸びた身体を屈ませることでリズムをとること、アップは逆に、屈ませた体を起き上がらせることでリズムをとること)が難しいのはね
1(表)&(裏) 2(表)&(裏) 3(表)&(裏) 4(表)&(裏)
ってリズムがあるでしょう?
表のカウントをダウンで取る場合 こう直立した状態から
予備動作なしで沈めば音に乗れる
ダウン
でも 表で浮かぶアップで乗ろうと思ったら
まず一回予備動作として沈まなきゃいけない つまり
アップで踊る場合は「1」から入るんじゃなく 実はその前の「&」から入らなきゃいけない
これはつまり 普段から「&」カウントを意識してないとむずかしい
よく「日本人は表のビートで踊りがち」って言われてて 黒人ダンサーなんかは&から入るって言われてる
慣れれば意識しなくても&から音にはいれるから
ひたすらリズムトレーニングね
(1巻 p137~139)

これは、部内でも頭一つ抜けた実力者と見られている、恩ちゃんこと部長の宮尾恩の説明ですが、ここのなにが引っ掛かったかと言えば、リズムにかっこよく乗るためには、ただの「1・2・3・4」ではなく、「1・&・2・&・3・&・4・&」に分解する必要があるということ。音楽にあわせて単に「1・2・3・4」と感じるのではうまく乗れず、「1・&・2・&・3・&・4・&」と、「&」の裏拍を各表拍(=1・2・3・4)のあいだに入れることで、より細かいリズムを感じて、より本場らしい裏のビートで踊れるというのです。
これを記譜的に表現するなら、4拍(四分音符4つ分)を四分音符4つではなく、八分音符8つで感じる必要があるということなのですが、このような、感じ方をより細かくすることで精度を上げる、という考え方は、ダンスや音楽に留まらないものだと思うのです。
たとえば映像の話。4k8kと進歩たゆまぬテレビも、その画素数が増すことで、映像がより美麗に、より精緻にり、大画面にも堪えるものとなっていきます。これも上の考え方とある意味では同様です。四分音符一つを八分音符2つに割るように、画面内にある画素をより細かく割ることで、映像をより美しくしているのです。
さらに言えば、人間の世界の見方・感じ方・捉え方。語彙を増やすことで、世界をより細かく、より精緻に見ることができるようになることとも同様です。ある現象を説明する言葉が1個なのか5個なのか10個なのかそれとももっと多いのか。その言葉が多ければ多いほど、その人間にとってその現象がより細かく、より精緻に感じ取れていると言えます。
今の自分の感情は「ヤバイ」や「エモい」の一言で説明しきれてしまうものなのか、それともそれ一言ではとても言い切れぬ複雑な何かなのか。自分の感情を正確に捉えるには、相応の語彙が必要です。別の言い方をすれば、「ヤバイ」や「エモい」についてそれがどのような感情なのかいろんな言葉を尽くして説明できるかが、その人の感情の深さと言えるでしょうか。
比喩的に言えば、ある対象にどれだけ多くのラベルをつけられるかが、その人の語彙の多さだと言えるでしょう。このラベルは対象の説明だけでなく、その対象を想起する際にも使われます。たとえば「リンゴ」を思い出すとき、「果物」という分類、「赤い」という見た目、「甘酸っぱい」という味、「パイ」という調理法、「青森」という産地、「富士」という品種、「apple」という他言語での表現など、ラベルが多ければ多いほどリンゴが思い出される機会が増え、その認識が役立つことが増えます(もちろん、稀には邪魔をすることも)。
分野をまた近づけて音楽の話。私が趣味でやっているバンド活動でも、メンバーで演奏の細かい点を詰めるときには、「そこの八分音符二つをもっとはっきりと」や「音のダウンは2拍目の裏まで」、「十六分音符のひっかけを溜め過ぎないように」など、メロディやリズムを細かく割ることで、感覚的でしかなかった個々人の感じ方を、理屈で、あるいは数値で、デジタルで理解できるようにします。
また、演奏の曲想、合わせ方をそろえるためにも、音楽関係にとどまらないいろいろな言葉を費やして、各人のニュアンスを統一していきます。ここでも語彙が多ければ多いほど、各人の考え方を漸近的に統一させられるのです。
音楽を、世界を細かく割ることで、よりかっこいい、イカシた演奏にしていくのです。
あえて意識をしたことはありませんでしたが、ダンスも音楽(リズム)に乗って行われるものである以上、器楽演奏での感じ方と似通るのは当然ともいえましょう。
ダンスという一つのアクティビティからも、深く考えることで、他の分野にも通じるなにがしかの本質とでもいえるようなものが見えてきます。それをさらっと気づかせてくれた本作。他にも、即興でのアクセントの考え方なんかも、ジャズのアドリブとの考え方にも通じてて、考えを新たにさせられるところがあったんですよね。
『ワンダンス』、いい漫画やでぇ……



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踊る彼女は自由に踊る『ワンダンス』の話

東京の流行が5年遅れて入ってくるような田舎の高校生活。吃音に悩む高校一年生・小谷花木(こたにかぼく)は、目立たず、周りに逆らわず、普通であることを自分に強いて人生を送ってきた。でも、そんな彼が出会ったのは、同級生の湾田光莉(わんだひかり)。人目も気にせず、周りに合わせず、自分がやりたいことを好きにやる彼女が踊る姿は、花木に「普通」じゃなくなる一歩を踏み出させた……
ワンダンス(1) (アフタヌーンKC)
ということで、珈琲先生の新作『ワンダンス』のレビューです。悩める少年のボーイ・ミーツ・ガールにして、熱い部活漫画。読んでいる時に音楽がかかっていれば、知らず知らずにリズムを感じようとしてしてしまうような、そんな吸引力を持っている作品です。


主人公の小谷花木、通称カボは、吃音のために誰かと話をすることが苦手です。吃音にも種類がありますが、彼の場合は、単語の一部の音を連続して発声してしまう連発型と、発声するまでに時間がかかってしまう難発型の併合。そのため、誰かと話すのが得意ではなく、会話の輪の中では、周りをよく見て、話を聞いて、空気をよく読んで、言いたいことがあっても結局何も言わないままというのもしばしば。ひいては周りから注目されたり、人前で目立つことも苦手でした。
なものだから、「変に目立たず逆らわず 普通にしなきゃ なにもいいことなんてない」と、自分を殺すような振る舞いが身についてしまっています。
けれど、高校に入学して間もないある日、校内の人気のない場所で、ガラスに向かって一人踊る少女がいました。後に知ることになる彼女の名は湾田光莉。ダンスには苦手意識しかない自分でもわかるような動きのキレに、カボは目を奪われました。
たまたま移動教室で隣り合ったワンダと話をするうちにカボは、ダンスが大好きな、というかダンス以外には全然興味がないかのような彼女に、そして彼女のダンスに強く惹かれます。吃音ゆえに口頭での表現にコンプレックスを感じるカボにとって、非言語表現であるダンスは、言葉がなくても伝わってくるワンダのダンスの自由さは、とても魅力的に映ったのでした。
周りを気にして自分の気持ちを押し殺し、頑張って「普通」でいようとする自分と、周りの目なんか気にせずに自分のやりたいことを真剣にやるワンダ。
そのあっけらかんとした、自由を感じさせる態度に心動かされたカボは、彼女と一緒にダンス部へ入ることを決めたのでした。


「自由さ」。これがこの作品に強くあるテーマかなと思います。
吃音のせいで上手く口で表現ができないカボ。周りの目を気にして窮屈にしか振る舞えないカボ。自分がどうしたいのかもよく分からなくなってしまったカボ。
そんな彼が、上手に、楽しそうに、奔放に、なにより自由そうにダンスをするワンダを見て、自分もそうありたいと強く望む。
たとえば作中で、カボが誰かに見られながら踊る時、「根が張ったみたいに足が地面から離れ」ないとプレッシャーに苦しむシーンがあります。一旦それを自覚すると負のスパイラル。自分の動きがどんどん不自然に感じてきて、それがまた焦りを増幅させ、いっそう体が動かなくなって、となったところに、「(流れている)音楽のことだけを意識してみて」とアドバイスを受けます。偶然その音楽が彼の知っている曲だったので、そのおかげもあってか音楽を意識して聴け、それにのって体も自然に動くようになりました。
緊張という桎梏から解き放たれて、「自由」に踊れるようになったカボ。それは彼にとって、一つのカタルシスであり、壁を越えた瞬間でもありました。
他人の目からの自由。緊張からの自由。自分を圧し殺す抑圧からの自由。少しずつ、行きつ戻りつしながら「自由」を獲得していくカボの成長の姿が楽しいし、その成長が、ビートを感じさせるダンスシーンと同時に描写されるので、読んでてスコンと気持ちいいところに物語がはまるのです。
自由になった瞬間の解放感、気持ちよさ。そういうものが、この作品には横溢しています。その何よりの象徴が、ワンダの言う、彼女がダンスをやる理由。それは「自由になれる感じがする」から。
なにをやってもいい。どう表現してもいい。自分の体一つで、自分の思いを形にする。そんな自由さ。
とどのつまりは、楽しいから踊る。気持ちいいから踊る。そんな自由さ。


また、ちょっと目先を変えた話をすると、バスケをやっていたもののダンスは大の苦手だったカボが、目覚ましいスピードで上達していく理由づけがいいなと思うのです。
その理由付けが何かと言えば、彼の耳の良さ。部内でも一目置かれている部長から「ちゃんと音楽のニュアンスを汲もうとしている「意思」が見える」と評されているのカボの耳ですが、それはきっと、カボの性格、というか性質に由来していると思うのです。つまりは、上でも書いた「周りをよく見て、話を聞いて、空気をよく読」む彼の性質。それが人の話だけでなく、音楽にも当てはまって、曲想のニュアンス、テンポの緩急、リズムのアクセント、ビートの振幅、音質のイメージを自分の中で十分に咀嚼して、それをどうダンスに活かすか、ということを考えている、あるいは無意識にダンスへ反映されているのです。
こういうところ、うまく説得力になっているなと思うし、そういう、ある意味で理屈に拠っているカボのダンスの上手さと、ワンダの感覚的なダンスの上手さが、効果的に対比されているなと感じられます。


作中でも「同じ音を同じアクセントで取ればダンスは揃う」と言われていますが、この作品自体が、ストーリーのアクセントと、描写のアクセントが、気持ちいいタイミングでビシビシと当たっていくような印象で、読んでいてワクワクと気持ちが弾んでいくのです。
前々作の『のぼる小寺さん』もそうですが、珈琲先生はひたむきな人間、わき目を振らない人間の描き方がとてもよいですね。そして、それに引っ張られる周りの人間の描き方も。
初心者のカボに、それと一緒になって踊るワンダ。メンターの部長。そしてライバル候補のキャラクターも存在感を出してきているので、登場人物にも色がついてきました。続きがすげえ楽しみ。
第一話はこちら。
ワンダンス/珈琲 第1話「湾田さんのダンス」 - モーニング・アフタヌーン・イブニング合同Webコミックサイト モアイ



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気になる相手は一つ屋根の下の26歳OL でも彼女は……『水は海に向かって流れる』の話

熊沢直達は、遠方にある高校への進学を機に実家を出た。下宿先はおじさんの住む家。しかし、春雨の中、降りた先の駅で待っていたのは、おじさんではなく、榊と名乗る妙齢の女性だった。彼女とおじさんの関係を邪推し、自分がおじさんの家に住んでいいのかと不安がる直達だったけど、話を聞いてみれば、どうやらその家とは、シェアハウスだった模様。一安心して新生活を始める直達だけど、実はそのシェアハウスには、彼と榊の家族の過去にまつわる秘密があって……
水は海に向かって流れる(1) (KCデラックス)
ということで、田島列島先生の新刊『水は海に向かって流れる』のレビューです。
前単行本の『子供はわかってあげない』からはや五年。待ちに待った新刊です。うひょー。
前作は高校生同士のひと夏のボーイミーツガールだったわけですが、今作は高校一年生男子と26歳OLが主役二人。ボーイからガール(ガール?)への色恋めいた感情はあるようですが、フレッシュで甘酸っぱい恋愛感情が瑞々しく描かれた前作とは違い、今作は二人のあいだに、当人らの与り知らぬ因縁があり、すっきりした青春ラブストーリーとはいかないようです。
それは、上でも書いた「家族の過去にまつわる秘密」。その中身とは、10年前に直達の父親が、榊の母親とW不倫をしたこと(ネタバレにつき白字反転)。この事件を直達は知りません。それがあったことすら知りません。彼の叔父(母の弟)である茂道は、事件自体は知っていますが、榊がそれの関係者であることを知りません。榊も茂道と同様に、その事件は知っていても、直達や茂道がその関係者であることは知りません。つまり、茂道と榊は、過去の事件についての近しい関係者であったけれど、お互いがそれであることは知らなかったのです。直達が来るまでは。
茂道が榊に直達を迎えに行くよう頼んだ際のやりとりで、榊は直達が事件の関係者であることを知りました。この瞬間、シェアハウスは小さな爆弾を抱え込んだのです。
この事件に関する各人のスタンスや動きを軸に物語は進んでいくのですが、この作品で面白いなと思うのは、登場人物たちの間にある情報格差が、読み手に対して詳らかにされている点です。
直達は事件について何も知らない。茂道は事件があったことを知っている。榊は、直達や茂道が事件の関係者であることを知っている。この三者情報格差は明確に描写されており、その格差があるゆえに、ある出来事について、三者三様の振る舞いをし、それがどういう思惑によるものなのかが、読み手には理解できるようになっているのです。
物語が進み、情報格差にも変化が生まれ、登場人物は、この人はこれを知っていることを知ったり、あの人はあれを知っていることを知らなかったりしだします。さらに言えば、事件に近しい関係者であるこの三人以外の登場人物も、様々な形でその過去の事件について知り、三人についてどう振る舞おうかと色々悩んだり悩まなかったりします。
事件の存在や各人の思惑がここまで明白に描かれていると、読んでてついつい登場人物も自分と同じように、描かれたことはすべて知っていると思ってしまうこともあるので、「あれ、なんでこのキャラクターはこんな悩み方してるんだっけ」と訝しむこともありますが、読み返すことでちゃんと理解できます。その意味で、連載を一話ずつ追うのではなく、単行本という形でまとめて読めるのはありがたいです。
また、キャラクターの造形で好ましいのは、主人公である直達です。彼は榊から何度となく「いい子」と形容されるような人間で、事件の存在や、榊がそれの関係者であることを知っても、自分が事件について騒ぎ立てることで榊や叔父の茂道、ひいてはシェアハウス全体の空気が悪くなってしまうのではないかと心配し、事件の追求について非常に抑制的です。
この態度について、そりゃあそうだよなあ、と私などは思ってしまうのです。ぴちぴちの男子高校生が親元を離れてシェアハウスに放り込まれて、むやみにそこへ波風立てるようなことはできませんよ。
ですが、ミスター自制心ともあだ名される直達も、少しずつ事件について知り、榊がどういう立場だったかを知り、その立場ゆえにどういう行動をとったかを知り、どういう行動をとらなかったかを想像することで、あえて動き出そうともします。この、少しずつ、でも確実に、まさに水が海に向かって流れていくように、一人の人間の心や行動がある方向へと形を成していく様。ここに、直達というキャラクターの立体感が強く現れます。あたかも実在する人間の内面の変化を具に見てとれたような、納得感があるのです。
直達のまわりの人間たちも、事件についてなんらかの形で知り、その特異点になっているシェアハウスの人間関係を少しでも良くしようと、当人なりに考え、動き、働きかける。その様相は決して突飛なものではないですが、突飛でなかろうと平凡であろうと、描写に十分な丁寧さが備わっていれば、それだけでとても上質なドラマになるのです。うん、すごい上質。
丁寧な描写の中にも、前作からおなじみの軽妙な地口やとぼけた台詞回しがするりと入っていて、物語は重苦しくなりません。「26歳OLがフツーにうろうろしている家に住んでるから 何かいろいろにぶくなってきているのかな……」とかすごいいいですよね。俺もいろいろにぶくなりたかった……
あくまで静かに、穏やかに、でも軽妙に、そして非常に丁寧に描かれる、男子高校生と26歳OLの関係性。1巻では直達が主に描かれていたから、次巻では榊の内面や過去によりスポットが当たるのでしょうか。とても楽しみです。2巻は2019年12月発売予定!!
試し読みはこちら。
水は海に向かって流れる - 田島列島 / 【#1】雨と彼女と贈与と憎悪 | マガジンポケット

P.S.
子供はわかってあげない』の記事 を以前書いた時に、キーワードとして出てきた「ポトラッチ」や「レヴィ=ストロース」が、本作の序盤で(本筋とは関係なくですが)登場したので、「オレは間違ってなかったんだ……」という気になりましたね。
『子供はわかってあげない』交換によって生まれる人と社会のつながりの話 - ポンコツ山田.com



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文学の世界と世界の中心の女の子『児玉まりあ文学集成』の話

校舎の隅っこ、地学部の部室を乗っ取った文学部。そこにいるのは唯一の部員、児玉まりあ。まるで詩のような話し方をする児玉さん。彼女が言葉を紡げば、そこには文学が生まれる。文学部に入部するため、僕こと笛田君は部室まで毎日通う。彼女の入部テストは厳しく、笛田君はなかなか入部できない。なんとか合格すべく、今日も今日とて笛田君は、児玉さん直々の入部テストに付き合うのです……
児玉まりあ文学集成 (torch comics)
ということで、三島芳治先生の新作『児玉まりあ文学集成』のレビューです。
いつも難解な言葉を口にする謎めいた美少女・児玉まりあと、信奉するかのように、崇拝するかのように、彼女のいる文学部へ通う笛田君。ある時は比喩、ある時は語彙、ある時は記号、またある時は語尾。いつも彼女は、煙に巻くかのように、楽しむかのように、文学に関する難解な話をあふれさせ、笛田君はなんとかそれを理解しようと躍起になる。でも、いくら頑張っても児玉さんの影すら踏めず、彼は文学の前に崩れ落ちるばかり。
この物語は、笛田君がひたすら児玉さんから文学の薫陶を受け、文学の真理の一端に触れ、文学の難解さに愕然とし、そして一人の女の子である児玉さんがかわいい漫画です。
この作品における文学。それは以下のセリフで端的に示されています。

木星のような葉っぱね」
「それはどこが」
「意味はなかった でも今私が喩えたから この宇宙に今まで存在しなかった葉っぱと木星の間の関係が生まれたの 言葉の上でだけ これが文学よ」
(p6,7)

文学とは、言葉で意味を生み出すもの。言葉で関係を創造するもの。
この宇宙に今まで存在しなかったものも、言葉にすることで生み出せる。それが文学だというのです。
世界は言葉によって認識されている、言葉によって構成されている、言葉によって形作られている。ならば、世界にない言葉が生まれれば、世界にはその言葉に対応するモノコトを生み出すのではないか。
ある話の中で、児玉さんがありもしない言葉を口にしたせいで、世界に新たな物質が生まれました。
児玉さんは言います。
「案外神様もこんな風にこの世界を作ったのかもね」
その昔、神様は天地を創造した後に「光あれ」と世界を形作っていったそうですが、本当は「言葉あれ」とおっしゃったのかもしれません。
そんな絵空事、あるいは文学が、軽妙にそして玄妙に、なによりかわいらしく描かれている作品です。
児玉さんは、笛田君が文学部へ在籍するに足る人間であるかどうか、テストをしては彼を落とし、そしてまたテストを繰り返します。そんなことをもう一年ばかりも繰り返していたりして。彼女が笛田君に向けて発する言葉、あるいは文学は、世界に意味を与え、世界のモノやコトに新たな関係性を与え、時には新しい存在だって生み出したりして、笛田君の世界をどんどん複雑にしていくのです。
でも、その中心にいるのは、ただの女の子。少し変わっていて、少しかわいい、たまに不思議な言葉を口にする、その他大勢から見ればどこにでもいるような女の子。
でもきっと、文学部に入りたくてたまらない笛田君にとっては、彼女はまるで文学のように、あるいは世界のように、複雑で、難解で、神秘的で、超常的な、唯一の女の子。世界でたった一人の女の子。
誰にでもある勘違い。どこにでもある特別な感情。ひょっとしたら文学は、そんな気持ちを表すために生まれたのかもしれません。
なんちゃって。
難しいことを言っているようで、大事なことを言っているようで、空疎なことを言っているようで、哲学的なことを言っているようで、その実ありふれたエンターテインメント、でも唯一無二のエンターテインメント。まさに文学。それがこの作品です。
試し読みはこちらから。
トーチweb 児玉まりあ文学集成
読んで!



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めがねを忘れてあの子が近い『好きな子がめがねを忘れた』の話

クラス替えで隣の席になった三重さんは、いつもぼうっとしている、めがねの女の子。いつもぼうっとしていて、口を開けば少しずれたことを言って、でも、そんな彼女のことが気になってしかたがない。そんなある日、三重さんはめがねを忘れて登校してきたのでさあ大変。文字通り距離感のつかめない彼女の一挙一動に小村君はもう目が離せないのです……
好きな子がめがねを忘れた(1) (ガンガンコミックスJOKER)
ということで、藤近小梅先生『好きな子がめがねを忘れた』のレビューです。
内容はタイトルそのまんま。隣の席の好きな子が眼鏡を忘れたせいで(おかげで)、男の子がドッキンバクバクするラブ(?)コメです。
まあこのコメディの何がいいって、ド近眼の三重さんがめがねを忘れるものだから、そして三重さんが小学校低学年レベルで恋愛感情が育ってないものだから、小村君に近い。とにかく近い。鼻と鼻が触れ合いそうな距離まで顔を近づけてくるし、それどころか平気で手まで握ってくる。純情な中学生男子が、そんな攻撃に抗えるわけがありません。自分の好きな人の顔が、文字通り、目と鼻の先にあって正気を保てる男子が何処にいましょう?そりゃあ焦点をぼやけさせて意識を半分飛ばして、機械的に受け答えをするしかない。
やってる三重さんにしてみれば、目が悪いんだから相手の顔を認識するために顔を近づけるのは当然だし、道案内してもらうのに手は握ってもらわなきゃだし、待ち望んでいたケーキはは「あーん」てしてもらわなきゃ食べられないし、授業中居眠りして寝ぼければ隣の男子をお父さんと間違えて肩に寄りかかって眠るくらい当たり前です。そうか?
いちいち心臓が跳ね上がり、顔も真っ赤になる小村君と、涼しい顔で目つきの悪い(めがねを忘れたから)三重さん。このギャップこそコメディですね。
さらにこの作品、セリフ回しが妙に癖になります。
ちょっとしたことをしてもらって「このお礼はいつか必ず」だの、めがねを忘れたままドッヂボールの内野に入って「敵も味方もわからない」だの、給食当番を代わろうかという申し出に「私がやる…ううん 私にやらせてほしいの」だの、やけに武士めいた言葉遣いをする三重さんに、三重さんの手を握った自分の手を見つめて「手を洗わないわけにはいかないけど今日の手の皮脂を綿棒などで拭って保存しておきたい」だの、三重さんと一日遊んだ後に「この星の言葉では伝えくれないくらい楽しかった」だの、ちょいちょい気持ち悪いことを口にする小村君。
基本的には、男を惑わす三重さんのド天然思わせぶりワーディングとそれにあたふたする小村君なのですが、その中グッとくるセリフをするっと入れてくるのが楽しいです。
まああとは、毛量の多いスッとした顔の女の子はかわいいという一般常識に踏襲しつつ、めがねを外すとやぶにらみになって、顔を近づけて焦点距離が合うととたんに柔らかい表情になる(目と鼻の距離で)という、宇宙の真理に触れた三重さんはとてもかわいいですよね。必要以上に、と言ってもいいほどに、カメラに近い三重さんの顔が描かれるのは、めがねを忘れてドッキンバクバクという本作の趣旨にのっとっているのです。
試し読みはこちらから。
magazine.jp.square-enix.com
つい何度も手に取って、うふふふふとニヤニヤしてしまういいラブ(?)コメ。おすすめどす。



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俺マン2018の話

今年も開催されている俺マン2018.
oreman.jp
例年通り乗っかって、今年読んだ漫画のお薦めを挙げたいと思います。
企画自体のレギュレーションは「その年自分が面白いと思った作品」と至極緩いものですが、俺ギュレーションとして、「今年発売された作品5つ」というものを付け加えます。まああんまり昔の作品を漁ってはいないんですが、例年のこととして。
それではレッツゴー。
月曜日の友達 コミック 全2巻 セット
私の胸をざわつかせてやまない作家・阿部共実先生の放ったボーイ・ミーツ・ガール。男の子と女の子、青春と青春未満、孤独と友達、独りと二人、現実と幻想、現実と夢。色々なもの境界線を行きかい、融けあい、子供が大人になる階に手をかけるその瞬間を、ポップな絵とリリカルな言葉で描き出した傑作の完結巻が、今年の2月に発売されました。
同じようで違う孤独を抱く水谷と月野。誰もが人に見せたり見せなかったりした、でも誰もが必ず感じていたに違いない、いつの間にか変わってしまった(と感じた)周囲とどこまでいっても変われない自分の戸惑いが、この二人の中学生を通して瑞々しく、それでいて痛々しく、その上で美しく語られているのです。
当然これを読んだ私はもういい大人であり、自分の中学校時代の不安を思いだすように、あるいはそうであったかもしれないと糊塗するように読みましたが、果たして現役の中学一年生が読んだら、つい数年前までその立場であった高校生が、もしくはそうなるであろう小学生が読んだら、いったいどのような感想を持つのか、それが非常に気になる作品でもあります。もし私が中一の時分にこの作品に出会っていたら、と想像すると空恐ろしくすらありますね。良くも悪くも今とは少し違う自分になっていただろうなと思わせる、それだけの力がある作品です。孤独に寂しさを感じる心を指し示し、自分を理解してくれる人の存在の嬉しさを見せつけ、その人とも必ずいつか別れが来るという現実を見せつける、そんな力。
試し読みはこちらから。
comics.shogakukan.co.jp
amazarashiが本作にインスパイアされて作った楽曲「月曜日」もまたドチャクソいい曲なので、あわせて聴いてほしいです。
www.amazarashi.com
シネマこんぷれっくす!(2) (ドラゴンコミックスエイジ)
映画好きが昂じて、映画みたいな青春を過ごせる部活に入りたいと思っていた男子高校生・熱川鰐人。しかし、その映画好きが祟り、数々のトラップに誘い込まれるようにして彼が辿り着いたのは、学内の変人が集まる、死ね部こと映画研究部だった。かくして、フ○ース(とおっぱい)に導かれて死ね部もとい映画研究部に入部することになった鰐人は、なんとか青春らしいことをしようと映画製作を始めたいのだが、曲者ぞろいの死ね部の説得は一筋縄でいくわけもなく……
という、ビリー先生の商業デビュー作『シネマこんぷれっくす!』が俺マン2018にランクインです。私自身は映画を人並み以下にしか嗜まないのですが、それをすっとばすようなスラップスティックコメディがとても楽しいです。
洋画は字幕か吹き替えか? B級映画の楽しみ方は? マッドマックスの最高傑作は? HIGH&LOWはパリピのための映画なのか? 漫画原作映画の是非について。洋画の砲台の是非について。そんな話をテーマに繰り広げられる、畳みかけるようなギャグ台詞の応酬、派手なリアクション、コマ割りによる間のとり方は、まるでよくできたコントのようで、すいすいケラケラと笑いながら読めます。
今年のギャグ枠ベストは確実にこの作品。
第一話の試し読みはこちらで。
シネマこんぷれっくす! 無料漫画詳細 - 無料コミック ComicWalker
銀河の死なない子供たちへ(下) (電撃コミックスNEXT)
作品の幅を広げている施川ユウキ先生が送りだした、生と死について真正面から取り組んだ作品。
比喩でなく永遠の命を持つπ(パイ)とマッキの幼い姉弟は、同じく永遠の命を持つ母とともに、人間が滅びた世界で三人仲良く、何も変わらない、変われない日々を過ごしています。しかし、そんな不変の日常で出くわしたのは、不時着した宇宙船。ただ一人搭乗していた瀕死の乗組員は妊娠しており、なんとか無事に子供を産んでから、この名前だけを告げて、事切れました。とりあげた赤ん坊を二人で育てていこうと決心した不死の二人は、人間と、変化する人間と、成長する人間と、いつか必ず死ぬ人間と、初めて共に暮らすことになったのです。
生と死という、真正面から取り組むにはあまりにも重く、真正面から取り組まなくてはあまりにも軽くなってしまう問題。そこに唯一の答えなどなく、未来永劫でないかもしれません。ならばできるのは、問いの答えを出すことではなく、問いの解き方を残すこと。私は生と死についてこう考えると記すこと。その在り方について物語ること。たったの2巻という短い冊数の中で、不死のものは生をどう思うのか、定命のものは死をどう思うのかについて、一つの物語を描いています。
良い作品は、受け手に答えをもたらすのではありません。問いを突き付けるのです。
私はこう考えた。ではあなた(受け手)は?
問いを突き付けられた受け手は、問いに対して何らかの答えに辿りつこうと、解法を探します。他の人間の解法を参考にし、それがしっくりこなければ自分なりに調整し、私はこう思うと形にせずにはいられないのです。
少女終末旅行 コミック 全6巻
ほぼすべての人間が滅亡した世界で、ケッテンクラートに乗って旅するチトとユーリ。僅かに生きのこった人間に、滅んだ文明の残滓に、世界の最期を看取るものを通り過ぎながら、二人が最後に至るのは……
という、つくみず先生の終末ものです。遅まきながら、本作を本格的に読んだのは最終巻発売後だったのですが、いやはや結末まで猛然と読んでしまいましたね。どうしようもない世界を、どうしようもないままに、絶望を忘れずに描き切ったこの作品は、何度読んでも最終巻で心震わされずにはいられません。
ディストピアの果ての果て。もう手の施しようのない世界を、ただひたすらに進む二人。そこには目的があるようでないようで、言ってしまえばまだ生きてるから進むのです。人間だから進むのです。他に誰もいない世界でも、消え去る世界を惜しむことしかできなくても、ゴールに救いがあると信じていなくても、まだ生きてるから進む。人間だから進む。
そう、それは本当に進むだけの物語。前に進むだけの物語。続いてくのが未来じゃなくても、救いじゃなくても、前に進めるから進む。進めるところまで進む。
じゃあ、進み切ってしまったら? 旅のどん詰まりには何があるの? 終わることしかできない世界の果てには何があるの? 私たち以外に、何が。
残酷で、絶望的で、希望なんてなくて、救いなんてなくて。でも、隣には、あなたがいて。あなたがいなければ、前になんか進めなくて。
派手さなんて微塵もない、でもとてもかなしくうつくしい、世界の店じまいの物語です。
試し読みはこちらから。
kuragebunch.com
BLUE GIANT SUPREME (6) (ビッグコミックススペシャル)
テナーサックスプレイヤー・宮本大が、世界一のジャズプレイヤーを目指す物語。
とにかく演奏シーンが熱い作品。音が聴こえてくる、とは言いません。曲を知らないのにその音が聴こえるというのは、なにか違うと思うのです。けれど、熱が届いてきます。演奏前の緊張、上手く演奏できない焦りや不安、ギアが噛み合ってきたテンションの高ぶり、共演者とフィーリングが一致した瞬間の興奮。プレイヤーとして、あるいはオーディエンスとして、演奏がなされているその「場」の空気を体全体で味わうような表現は、今まで読んできた音楽をモチーフにした作品の中でも屈指のものであると断言できます。
私事ながら、私も大と同様テナーサックスを吹いており、この作品で描かれているような熱を、自分も共演者も聴衆も味わえるような演奏ができたらと思っています。
試し読みはこちらから。
bluegiant.jp
以上、俺マン2018のノミネート作品でした。
他の候補作品には、『金剛寺さんは面倒臭い』、『異世界おじさん』、『かぐや様は告らせたい』、『へうげもの』、『プリンセス・メゾン』、『僕の心のヤバいやつ』、『映画大好きポンポさん2』、『Dr.STONE』などがあります。
来年もまた、心震わせられる作品に出会えることを祈って、良いお年を。



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『Dr.STONE』と『人間の土地』科学と人間と責任についての話

次にくるマンガ大賞2018」第2位に輝き、2019年7月からのアニメ化も決定している『Dr.STONE』。
Dr.STONE 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)
ある日、世界中の人間(とツバメ)が何らかの理由により石化し、およそ3700年の時を越えて復活した主人公の石神千空。人為は自然に還り、野生が蔓延っている世界で、高校生離れした科学知識と精神力を持つ彼は、他の人間を復活させつつ、かつての科学文明を再興させようと奮闘する、というのが主なストーリー。映画『オデッセイ』(原作『火星の人』)のような、サバイバルアクションでありSFでもある本作ですが、随所に登場する科学への姿勢や登場人物の描き方は、私には別の作品を思い起こさせました。それは、『星の王子さま』で有名なサン=テグジュペリのエッセイ集、『人間の土地』です。
人間の土地 (新潮文庫)
作家であり、同時に飛行士でもあったサン=テグジュペリは、航空輸送機のパイロットとしての自身の経験をもとにいくつかの作品を上梓しましたが、本作もその内の一つです。
この作品は、一言でいえば人間賛歌。彼の活躍した戦間期は、まだ飛行技術も通信技術も確立しきっておらず、新たな航空ルートを開拓することも、開拓されたそのルートを飛行することも、まったく安全なものではありませんでしたが、それゆえ彼は、飛行することに、飛行した先で巡り合う人びとに、飛行を可能にする人間の技術に、その技術を会得した技術者たちに、深い畏敬の念を抱かずにはいられませんでした。人間とは偉大で気高い存在である。そんな感情が溢れている本作は、『ジョジョの奇妙な冒険』に負けず劣らずの人間賛歌であると私は考えています。
で、そんな作品のどこが『Dr.STONE』と通じるのかと言えば、前述したように、科学とキャラクターの描き方。
たとえば科学について。
『人間の土地』は、こんな一節から始まります。

ぼくら人間について、大地が、万感の書より多くを教える。理由は、大地が人間に抵抗するがためだ。人間というのは、障害物に対して戦う場合に、はじめて実力を発揮するものだ。もっとも障害物を征服するには、人間に、道具が必要だ。人間には、鉋が必要だったり、鋤が必要だったりする。農夫は、耕作しているあいだに、いつか少しずつ自然の秘密を探っている結果になるのだが、こうして引き出したものであればこそ、はじめてその真実その本然が、世界共通のものたりうるわけだ。
(p7)

石化から復活した千空がしていたことは、まさにこれです。
なぜ人間の石化という事態が起こったのか。どうして自分の石化が解けたのか。
この取り付く島もないような疑問にさえ、彼は持ち前の観察眼と科学知識によって、トライ&エラーを繰り返し、ついには石化を人為的に解く方法を見つけました。
石化という「障害物」に対し、科学知識という「道具」でもって対峙し、その「秘密」を探っていった結果、石化の解除方法を見つけ、「その真実その本然」を「世界共通のもの」(=偶然ではなく再現性のあるもの)としたのです。
また、地球上の全人類が石化した後で、ゴニョゴニョの理由で存在している生き残りの村に合流した千空。当然、科学知識は新石器時代レベルにまで退化しています。そんな生活では冬を越すだけで一苦労。寒さと食料不足は直接的に生命を脅かしてきますから、100人にも満たない村では毎年、いかにして冬の間に死者を出さないかが悩みの種となっています。
そこにやってきた千空は、滅びる前の科学知識を持っている男。既に数々の科学の成果物をもたらした彼は、冬のあいだに、マンパワーで負ける敵対勢力に対抗するため、携帯電話を作り出して情報戦を仕掛けようとしました。その携帯電話に必要なのがプラスチック(フェノール樹脂)で、そのプラスチックに必要なのが石炭のカス(と水酸化ナトリウムとホルマリン)。その石炭のカスを大量に作るために千空は、村の各戸に暖炉を設置し、結果として村民は、冬の間の寒さを凌げるようになったのです。また、各種薬品や電球をを作る過程で必要になったガラスは、瓶詰の容器としても活躍し、冬の間の食糧事情にも一役買いました。
『人間の土地』では、飛行機、つまりは人間が得た技術についてこう言っています。

単に物質上の財宝をのみ希求している者に、何一つ生活に値するものをつかみえないのは事実だが、機械はそれ自身がけっして目的ではない。飛行機も目的ではなく一個の道具なのだ。鋤のように、一個の道具なのだ。
(p60)

機械は、人間の技術は、それがどんなに高度なものであれ、それ自体が目的ではない。それは目的に達するための道具であり、人の生活の資するためのものなのだと。
このように、科学とは人間に資するものだと強く語られているのが『人間の土地』。では科学に資されている人間とは、いかなる存在なのでしょうか。
『人間の土地』には、こんな一節があります。場面は、飛行中の事故で雪のアンデス山中に不時着し、5日後に救出された、サン=テグジュペリの僚友・ギヨメが、山中を彷徨っていた時の苦難の思い出を語っているところです。

だがぼくは、自分に言い聞かせた。ぼくの妻がもし、ぼくがまだ生きているものだと思っているとしたら、必ず、ぼくが歩いていると信じているに相違ない。ぼくの僚友たちも、ぼくが歩いていると信じている。みんながぼくを信頼していてくれるのだ。それなのに歩いていなかったりしたら、ぼくは意気地なしだということになる。
(p52)

そしてこんな一節もあります。サン=テグジュペリ自身がサハラ砂漠に不時着し、同乗の機関士とともに、万分の一の可能性も無い助けを求めて、砂漠を歩くシーンです。

――ぼくが泣いているのは、自分のことやなんかじゃないよ……」
(略)
<自分のことやなんかじゃないよ……>そうだ、そうなのだ、耐えがたいのはじつはこれだ。待っていてくれる、あの数々の目が見えるたび、ぼくは火傷のような痛さを感じる。すぐさま起き上がってまっしぐらに前方へ走りだしたい衝動に駆られる。彼方で人々が助けてくれと叫んでいるのだ、人々が難破しかけているのだ!
(略)
我慢しろ……ぼくらが駆けつけてやる!……ぼくらのほうから駆けつけてやる! ぼくらこそは救援隊だ!
(p162,163)

両方とも、自分が助けを待つ立場にも関わらず、自分を心配してくれる人たちのために、自分こそが動かなければいけないと信じています。自分こそが、心配してくれる人を安心させるための救援者だと、そう心を奮い立たせているのです。
この二つのエピソードを連鎖的に思いださせたのは、『Dr.STONE』の8巻、司たちに捕まったクロムが、千空たちが助けに来てくれていると知ったはいいものの、自分が閉じ込められている牢の前には罠が設置されていることも知ったシーンです。

ダメだ 罠だ千空 俺を助けに来てくれちゃ…
千空たちに知らせねえと 誰か……


ヤベー 何言ってんだ俺は
「俺を助けに来てくれ」る? 「誰か…」?
パパママ助けてのガキかよ
違うだろ
俺が助けるんだろが 千空たちをよ……!!
(8巻 p186)

あるいは、千空の父である百夜も、石化の異常に襲われた地球を宇宙から目にして、こう吼えました。

「戻ろう 地球に」
「オホー! なに言ってんの百夜まで! 言ったでしょ 70億人もいるんだからきっと誰かが助けに…」
「違げーよヤコフ 
俺達は 人類最後の6人だ
助けを待つ? 違げーだろ 俺たちが助けに行くんだよ 全人類 70億人を…!!」
(5巻 p186,187)

自分が助けに来てもらう立場にも関わらず、その救援者である千空らを助けようと考えるクロム。資源も情報も時間も無い状況で、貧弱な立場にいるはずの自分達こそが救援者だと表明した百夜。『人間の土地』のギヨメやサン=テグジュペリらと見事に重なります。
このような人間の態度について、サン=テグジュペリはこう書いています。

彼の真の美質はそれではない。彼の偉大さは、自分に責任を感ずるところにある、自分に対する、郵便物に対する、待っている僚友たちに対する責任、彼はその手中に彼らの歓喜も、彼らの悲嘆も握っていた。彼には、かしこ、生きている人間のあいだに新たに建設されつつあるものに対して責任があった。それに手伝うのが彼の義務だった。彼の職務の範囲内で、彼は多少とも人類の運命に責任があった。
(略)
人間であるとは、とりもなおさず責任をもつことだ。人間であるということは、自分には関係のないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。人間であるということは、自分の僚友が勝ちえた勝利を誇りとすることだ。人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。
(p57,58)

責任を感ずるものこそが人間であると、サン=テグジュペリは言いました。自分を助けに来てくれている千空や村の人間たちの安全に対して、それを自身の責任と感じているクロムは、まさしく人間なのです。
また、牢に入れられる前に、滝つぼの上で吊り下げられて、千空を裏切り他の村人ともども自分らの仲間にならないかと司に誘われたクロムは、迷いなく拒否し、動揺の一つも見せずに死を選びました(結果的に助けられましたが)。このシーンもまた、『人間の土地』の一節を思い出させます。

ぼくは死を軽んずることをたいしたことだとは思わない。その死がもし、自ら引き受けた責任の観念に深く根差していないかぎり、それは単に貧弱さの表れ、若気のいたりにしか過ぎない。
(p58)

やはりクロムは、科学の再興と、それに不可欠な存在である千空に対して、自身の責任を感じたために、粛々と死を受け入れたのでしょう。
責任という観点で見れば、過去から連綿と受け継がれてきた科学知識を絶やしてはいけないという責任を千空は感じているでしょうし、司は司で、「汚れた人類を浄化して 新世界を踏み出すために そのためなら俺は この手をどれだけ汚すことも厭わない…!」と、新たな世界の指導者としての責任を感じています。その方向性や種類は違えど、誰に頼まれたのでもなく自ら進んで、他者や世界に責任を感じていることは同じです。科学王国も司帝国も、そのトップの双肩には、自らしょい込んだ重い責任がのっているのです。


Dr.STONE』の巻末には、多くの書籍が参考文献として載っていますが、『人間の土地』も実質参考文献みたいなものでしょう。
『人間の土地』には上記引用の他、「愛するということは、おたがいに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだ」や「完成は付加すべき何ものもなくなったときではなく、除去すべき何ものもなくなったときに達せられるように思われる」などといった、人口に膾炙している名言も入っている、激しくお薦めの本です。たぶん、人生で一番多く読み返した本。年末年始の暇のお供に、ぜひ読んでたも。



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