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漫画の話です。

漫画表現の中の、光を反射しない眼について

漫画の中でしばしば見かけられる表現として、「つや消しの眼」、「光を反射しない眼」があります。百聞は一見に如かずと言うことで、例をいくつか挙げてみましょう。

うしおととら 愛蔵版 11巻 p143)

(シンシア・ザ・ミッション 7巻 p66)

GS美神・極楽大作戦 愛蔵版 11巻 p122)
こんな感じのヤツですね。
私たちは特に誰に説明されたわけでもなく、これらの表現を受け入れ、ある一定の解釈をしています。
大体の場合において、眼が光を反射していないキャラを見ると私たちは、「そのキャラは正気を失っている」のように解釈するのではないでしょうか。上で挙げた三つの例は、概ねその解釈に沿ったセレクトになっています。「うしとら」ではこのキャラは妖怪に操られ、「シンシア」では薬物で自由意志を失わされ、「GS美神」では偽物の映像、つまり本人のものではない意思表明となっています。
そこから派生して*1、このような例を挙げられます。

アイシールド21 27巻 p179)

モンキーターン 愛蔵版 16巻 p121)
アイシールド21」ではこのキャラはショックを受けて軽く茫然自失になっている描写であり、「モンキーターン」では(背景のスクリーントーンと共に)このキャラの強さ、威圧感を演出しています。
後者の状況を詳しく説明すると、賞金王決定戦*2で優勝したこのキャラが、試合後に主人公とそのライバルに向けてねぎらいの言葉を投げかけているシーンです。この表情はその二人に向けられていたものであり、圧倒的な存在感を感じた二人の意識と読み手の意識をシンクロさせるために、このキャラの眼から光を取り除いたのでしょう。このとき、光の除去、つや消しの眼は、「自分の理解が届かない相手」、「考えが読めない相手」ということを意味し、二人とこのキャラの実力の距離を表しています。「自分の理解が届かない」、「相手の考えが読めない」ということは、「正気を失っている」相手の考えを読もうとすることと根っこのとこでは同じです。


派生部もひっくるめて一般化した言葉で言えば、「光を反射しない眼を持つキャラは、他のキャラとコミュニケーションの土台を同じくしていない」というようになるでしょうか。両者の意思の次元の高低はどうあれ、普通の眼を持つキャラと、つや消しの眼を持つキャラでは、その瞬間に十全なコミュニケーションをとることができなくなっているのです。
では、いったいなぜそのような解釈を私たちはしうるのでしょうか。実世界にはそんな眼をした人間なんていないのに。

目が「見える」ということ。



まずは、人間の目について生物学的な観点から洗いなおしてみましょう。いつも便利なWikipedia
wikipedia:目
ここからこの論のポイントとなる点だけをまとめて書き出せば、目は光の受容体であるということです。光の受容体であるということは、当然目に光が当たらなければ「見える」という現象は起こらないということ。十全な視力を有している人間でも、光のない真っ暗な場所に行けば何も見えないということです。当然ですね。
そしてそれは裏を返せば、「見える」状態にあるためには目が光を反射していなければいけないということ。ならば、「目が光を反射していない」描写をなされているということは、そのキャラは「見える」状態にはないということ。
これはあくまで理屈の話です。実際「光を反射しない本物の目」が人間に備わるには、眼球の表面にすりガラスのような細かい凹凸や傷がびっしりできなければならないでしょう。私は小学生時代にサッカーボールが強く目に当たり、診察で「表面に箒で掃いたような傷ができた」と言われました。実際それでどれくらい視力が落ち、またその傷の密度、分布はどれほどのものだったのかはわかりませんが、逆に言えばそれくらいの傷ではまるでぱっと見に影響は出ないということです。今でも視力こそ悪いですが、せいぜい0.1を切るかどうかですからね。これくらいなら別に目にボールが当たらなくても平気でなります。

見てるけど「見えて」ない。



そんな理屈の話から、絵としての表現の話に行きましょう。
上記の例では、正面から見たキャラの目が一様に光を正常に反射していません。正常な視力を有しているキャラたちの目がです。
これはつまり、「視界に入っているけれど『見えて』はいない」ということを比喩的に表しているのではないでしょうか。正面からこちらを向いているのに、こちらを「見て」いる気がしない。それを表すための、「光を反射しない目」なのだと思います。
幸いにして私はそんな失礼な人間には会ったことがありませんが、世の中には、その場に一緒にいながらもこちらのことを見ないで、意識しないで、焦点をあわせないで喋る人間がいるとかいないとか。本当にいるのかはわかりませんが、漫画などの中ではしばしばお目にかかります。そんな人間と相対する時に、人は「こいつとはコミュニケーションが取れないな」と感じるのではないでしょうか。
このとき感じるコミュニケーション不全の兆候は、「こちらを『見て』いない」ということで端的に表れます。言葉はこちらに向かっているのに、まるで対象になっている気がしない。対象からの除外は、「見ているのに『見て』いない」から感じるのです。
会話分析のターンテイキング・システムを引き合いに出せば、会話のキャッチボールは、会話の語尾を誰かに投げかけたり、誰かに引き取ってもらうことで進行していきます。相手の自発的な引き取りは、普通の会話では、言葉のイントネーションはもとより、視線の交換などでも発生します。一対一で話している時でも、自分の会話のターンを終えた後に相手の目を見ることで、相手に自分のターンが終わったことを知らせることができます。三人以上での会話でも、誰かに投げかけるように言葉を終えて、その後に視線を配ることで他の人が次の会話を続けるのです。会話において視線の動きは非常に重要な位置を占めています。
ですから「見ているのに『見て』いない」状態というのは、一般的なコミュニケーションにおいて明らかに不調の原因となるのです。そのために、光を反射しない目による「見ているのに『見て』いない」描写は、当事者間のコミュニケーションが健全に行われていないことを表徴しているのです。
上の画像では、「モンキーターン」の例が最もそれを強く表しているでしょう。このキャラと主人公たちははっきりと相対しているのに、このキャラは主人公たちを「見て」いない。そこで表されるコミュニケーションの不全が、このキャラと主人公たちの存在感の遠さを象徴的に意味しているのです。主人公たちとこのキャラは同じ場所にいるのに、コミュニケーションの土台は此岸と彼岸ほどに離れているのです。

実践編。



それの実践編ということで、この画像を見てください。

HUNTER×HUNTER 26巻 p80)

(同書 p81)
これはネフェルピトーのところにゴンとキルアが殴りこんだシーンですが、先の画像で光を反射しているゴンの目が、二枚目ではフラットなものになっています。この間に何があったといえば、ゴンにとっては理解不能な台詞をピトーが吐いたのです。単純な怒りに燃えていたゴンが、(彼にとっては)理解不能な言葉をピトーにぶつけられたために、自身の思考が酷く乱されているのです。
読み手にとっては、ピトーのこの台詞が理解できます。今まで充分にそれを理解させうる描写があったからです。ですがそれを理解できるのは第三者視点である読み手だからであり、物語の中を当事者として生きるゴンにとっては、ピトーの台詞は完全に理解の埒外となっています。冷静なキルアは(ゼノの言葉もあり)なんとかピトーの言葉の真意を量れましたが、それは怒りに燃えるゴンには不可能なことでした。
読み手にとっては、ゴンの考えもピトーの考えも(ついでにキルアの考えも)理解できる。そしてここで相対してる三人の中で最も相手のことを理解できていない、つまりこの場でのコミュニケーションの土台から遠く隔たっているのは、明らかにゴンです。そのために、他の誰でもなくゴンの目がつや消しになっているのです。

結び。



広く使われているこの表現ですが、いったい誰が使い始めたんでしょうね。広まっているからそうとは感じませんが、現実にはまずありえない表現でもって何かを表象するというのは、非常に偉大な先駆です。まさに「目は口ほどにものを言う」というか「目は心を写す鏡」というか「目に物言わしてる」というか。これだから漫画の記号性は面白い。

追記;ブクマのコメントでもありますが、この仮説は男性向け漫画(微妙にいかがわしい響き)に限って書かれています。私は女性向け漫画の造詣が深くないので、そちらに手を出しても意味がありませんから(もちろん、男性漫画での場合を全て網羅できているとも思いませんが)。そちらにも見識のある方が両分野を包括できる理説を述べてくださると、非常に助かります。
無思慮に自説が全てを説明できると考えることは、理説の止揚にとって危険なことだと思います。


追記(2013.4.29):試みに過去記事の英訳中です。
A comic expression of eyes not reflecting light - Ponkotsu Yamada .com






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*1:だれがどのような場面で使い始めたのかが定かではないので、どれが大元でどれが派生かは議論の余地があるのですが、ひとまず暫定的にこの解釈を大元としておきます

*2:競艇で年末に行われる、一年で賞金を多く稼いだ上位12名が出場できるレース。その年の最強を決めるレースといっても過言ではない