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漫画の話です。

『「悪」と戦う』を読んでのまとまらない雑感の話

「悪」と戦う

「悪」と戦う

読了。一時間くらいで一気に読んだ。薄い目の粗い網が白い心の中を漂っているような、不思議な読後感。
つまらなくはなかった。ただ、すげえ面白かったというわけでもない。なんか、漂ってる。
twitter上では、この本が発売される二週間ほど前から作者本人が、作品のメイキングについて呟いていました。
Togetter まとめ 高橋源一郎氏自身による、’’新著『悪と戦う』メイキング’’
そして、発売以降も作者本人のところへ感想postが飛んでいて、それをRTしているので、その一部を見ることができる。しかし、それらをざっと見たけれどどれも強く情動的で、僕にはいまいちピンとこない。*1
まあそれは当たり前だ。本の感想が赤の他人でがっちりかぶることなど、そうそうあることではない。けれど興味深いのは、この本を読んで強い情動的な感想を持った人たちと僕とで何が違うのか、ということだ。
勿論色々違う。共通点の方が少ないに違いない。でも、情動的なその人たちには何か共通するものがあるのか、底流しているものがあるのか。それが気になる。これらの読み手の何が作品と呼応して、強い、かつ曰く名状しがたい情動が生まれてきているのか。
逆に、僕の心の中に広がった薄ぼんやりした網のようなものはなんなのか。この薄ぼんやりさは強い情動を得た人たちとはまた別のものなのか。この網は、いったい僕の何に呼応して生まれたのか。よくわからない。
高橋源一郎のデビュー作「さようなら、ギャングたち」は丁度二ヶ月前に読んだだ。本作の帯で、氏はこう書いている。

29年前、デビュー作『さようなら、ギャングたち』で遣り残していたことが一つだけありました。ラストは、もっと別の形のものになるはずでした。でも、その頃のぼくには書けませんでした。
だから、『「悪」と戦う』のラストを書くために、29年前の忘れ物をとりに行かなければなりませんでした。
忘れ物は回収しました。あとは前を見るだけです。

「さようなら、ギャングたち」は図書館で借りて読んだので、現在手元にはなく、正直ラストはよく憶えていない。というか、内容はひどく一般的な意味でのわかりやすいストーリーはなく、難解といえば難解、イミフといえばイミフ、深いといえば深い、そんな感じだった。
でも、内容はよくわからなくても、文章(言葉)の力でひっぱって読まされたという印象がある。そしてその印象は、本作品でも同じくある。
中身に意味を無限に見出すこともできるし、無内容だと放り投げることもできる。あらゆる作品とはそういうものだと思うけど、氏の両作品に共通しているのは、その傾向が他に比べて強いにもかかわらず、とにかく読ませること。わかんないけど、意味がはっきりしないけど、読む。そんな感じになってた。
意味っぽいものを見出しやすい作品、言い換えれば、読み手各々で見出すものが異なっても、その分布が似通ってくる作品というのはある。どちらかといえば、そういう作品の方が読みやすいと思っていた。意味の傾向が似通うということは、体系的とか整合的とか、「物語」がそういうものになってるからだ。人は意味のあるもの、はっきりしているものの方が憶えやすいし理解しやすい。無意味なものをすらすら記憶できるほど、人間の脳は便利ではない。
上とは逆に、解釈がぶれやすい作品とは、それだけ体系や整合の隙間が大きく、文章(言葉)を追う時に必要な、文章の先に続いていく、文章の先へ読み手を導いていく紐のようなものが弱く、脆い。気を抜けばすぐ千切れてしまう。だから、読み進めるのに、時間も気力も必要となる。
けれど、「さようなら〜」にも「「悪」と戦う」にも、引っ張る力がある。隙間を繋ぐ紐がしっかりしている。なんだろう。作品世界が確固としているという印象はない。やはり隙間だらけだし空白だらけ、見えないところだらけな感じなのに。
それでも、言葉で作られた足場が、よくわからないながらもしっかりしているのはわかる。ランちゃんが乗ってたKUMOみたいに、それが何かは、なんでかはわからなくても、しっかりしているのはわかる。
この作品とは何か。作品を読んだ自分とは何か。作品を読んだ他の人とは何か。『「悪」と戦う』はそんなことを浮き彫りにしてくる作品だと思う。体系や整合の間にある多くの、大きな隙間は、どこからどのように読み手が出てくるかのバリエーションが増えるためのものなのかもしれない。隙間が多ければ多いほど、大きければ大きいほど、そこから人がどう表れてくるかにバリエーションがある。簡単に言ってしまえば、多義的な解釈可能性ということだけど。
さて、「隙間」は作中にも出てきた言葉だ。世界が崩壊する時に、人々が落ち込んでいく、特別苦しさを覚えるわけでもない場所。それが「隙間」。「隙間」に人やいろんなものが詰めこめられれば、いつしか「隙間」は破裂する。そうすると、全ては消滅する。
作中の言葉に拠れば、世界はよく似たものが無数にあるという。その全ての世界に「悪」はいるし、「隙間」もあるし、そして「悪」と戦うものがいる。この時「無数にある世界」を本の読み手と想定するのは、ピントのずれたことだろうか。
読み手は自分だけの一つの世界を抱えている。それは一人一人で似てはいても、同じものは決してない。世界の中には「悪」がいる。「悪」とは世界に生まれなかったものだ。存在しなかったものだ。拒まれたものだ。それが時として世界に牙を剥く。
こう規定される「悪」には、私はフーコーの言った系譜学を思い出した。曰く、過去を考えるのに大事なことは、あることがなぜ起こったのかではなく、あることがなぜ起こらなかったかだ、と。
「私」が今の「私」になるには、それまでに無数の転轍点があった。20年前に曲がった道/曲がらなかった道、10年前に食べた/食べなかったもの、5年前になされた/なされなかった愛の告白。あらゆるところに、選ばれたものと同時に、それ以上の選ばれなかったものが存在している。それはなぜ選ばれなかったのか。
選ばれなかったものは、現在には存在していない。それゆえ、そこには実体はない。だが、選ばれなかった可能性、選ばれていたかもしれない可能性は、永遠に生き続ける。今の自分を自明のものと看做すということは、それらの可能性をなかったことにするということだ。だが、今の自分は偶然の自分に過ぎない。偽りの自明性に安住する時、生まれることのなかった「悪」は、人間はそんなにしっかりしたものではない、と襲い掛かってくる。
「悪」と戦わなければ、世界は生まれなかったものに奪われてしまう。そのとき自分はなくなってしまう。「悪」は弱い。存在していないのだから、そこになんの実体的な力もない。そしてその弱さゆえに、戦うものは躊躇する。自分はこんなか弱いものを倒してまで生きるべき存在なのか、と。
けれど倒さなければ、世界は存在していないものに奪われる。世界はなくなる。世界を存続させるためには「悪」を倒し、壊れかかった世界を修復しなければならない。そこには、生まれなかったものを殺す勇気と、哀れむ優しさとが要求される。
ある世界の住人は、他の世界の住人に支えられている。誰かの世界が壊れれば、全ての世界が壊れてしまう。けれどそれは絶対に証明できない。なぜなら、一度誰かの世界が壊れれば全ての世界が崩壊し、最終的に証明者すらいなくなるから。
ランちゃんが旅した様々なミアちゃんのいる世界は、いまだ到来せざるものではある。しかしそれは、無数の転轍点次第で起こりうる未来だ。それでも現実に選ばれる未来は、その内のどれか一つ。未来は可塑性の只中にあるし、人間もまた同じく可塑性の只中にいる。
多元的な世界と、多元的な人間。多分に観念的ではあるけれど、人と人の繋がり、世界と世界の繋がりはこういうものなのかもしれない。
とかなんとか。


こうして書いてから考えてみれば、私の抱いた印象の「網」というのは、「隙間」と重なるところあるのかもしれない。ないかもしれないけど。
とにかく、なぜ自分がこう考えるのか、なぜ自分と他の人の捉え方が違うのか。そんな根源的な問いかけが思い浮かんでくる作品だったように思う。たぶん、またそのうち読む。
おわりんこ。




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*1:私は本作読了前にメイキングを真剣には読んでおらず、読了後に初めて全部目を通した。メイキングには、作者自身についてのかなりパッシブな内容が書かれていたので、それを作品と、また読み手自身と重ね合わせて、情動的な感想を送っている、というのは理解できる。わざわざ作者宛に感想を送るぐらいだから、それだけ心動かされたって事だし

「ハックス!」「こうしておる場合ではない」みよしから「こうしている場合ではない」みよしへの変化の話

今月発売の4巻で終わりを向かえた「ハックス!」。とても好きな作品ですので、色々思うところはあるのですが、今日はまず、主人公・みよしの最終話での台詞について考えてみたいと思います。

ハックス!(4) <完> (アフタヌーンKC)

ハックス!(4) <完> (アフタヌーンKC)

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「HUNTER×HUNTER」から考える倫理と社会の話 キルア編

ゴン編に続いての、キルア編です。
※27巻までの話を元にして書いてあります。コメント欄等での本誌連載分のネタバレはご遠慮ください。

HUNTER X HUNTER27 (ジャンプコミックス)

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「HUNTER×HUNTER」アナーキーなゴンの内側にある限定的な「公正さ」の話

社会と倫理についてキルア編に入る前にちょっと寄り道して、前回の記事で興味深いコメントを頂いたので、そこから膨らませた小噺を一つ。

masa

ゴンの内的規範ですが、私はもう一つ『公正さ』があると考えます。
ハンター試験でのハンゾー戦での「ちゃんと二人でどうやって勝負するか決めようよ!」発言や、G.I.でのキルアの「プレイヤー同士がルールを決めた上で勝った方がカードをもらえるならアリだろ?」という意見に納得したことなどから、ゴンは互いに納得した上でなら命のやりとりすら認めています。
反対に他人が勝手な都合で自分や他の人のルールや生命を一方的に脅かすとき、ゴンは怒りを顕にします。『自分が決めたこと』を他人に左右されるのが一番許せないから、ルール=互いの取り決めを重んじる。そんな風に感じます。

なるほどと思いました。
そうなると、ゴンの倫理/論理は広範な社会には根ざしてはいないものの、限定的・個別的・クローズドな集団の中で、その都度、集団=場の成員と共有できるものを立ち上げるようなものである言えます。
社会内の倫理/論理は常に意識されるものではなく、それに反するような行為に出会ったときに初めて意識されるもので、その意味で、なくなって初めてそのありがたみがわかる空気と同じようなもの。暗黙のうちに共有を求められる場のコードを「空気」と呼ぶのは実に適切なわけですが、ゴンは社会的な論理を有さずに我を通す者、言ってみれば「空気」を読まない人間です。
で、ゴンは「空気」を読まない代わりに何をするかといえば、別の「空気」を場の成員と共に作り上げようとする。「空気」がなければ人間は呼吸ができませんが、代わりにLCL(@エヴァンゲリオン)を満たそうとするようなもので、「空気」(倫理/論理)が普段とは別物になろうとも、酸素供給ができれば(=コミュニケーションを成立させられれば=場を共有できれば)、少なくともその場においてはそれで問題はないのです。
一般的、汎通的な倫理/論理ではなく、その場の成員間で限定的に共有される一回性の強い倫理/論理をゴンは立ち上げるわけで、その際彼が求めようとする「公正さ」は、広く社会的に「公正」である必要はなく、場を共有している人間が同意できる範囲の「公正さ」であればいいのです。
ゲンスルーと戦う前にも

「オレは 問答無用でカードを奪うってやり方はキライだ
だから ここで約束しろ 先に「まいった」って言った方が 持ってるカードを全部相手に渡す…!」
「勘違いしてないか? お前は条件どうのと言える立場じゃない」
「言ったろ これは最後の譲歩だ
約束がなければただの強奪 そんな奴に死んでもカードは渡さない!!
約束なしじゃ たとえ殺されても もうバインダーは出さない!!」
(18巻 p10,11)

このような論理を立ち上げています。これは、グリードアイランド内では決して常識とは言えるようなものではありません。ゲーム内では、それこそ強奪(魔法含む)こそが常識のようになっていたのですが、それに対して「キライだ」からという実に我が侭な理由で、実力的には遥か格上のゲンスルーにNOを突きつけ、このルールを守れないようなら死んでもかまわないとさえ言っているのです。そりゃあゲンスルーも言いますよ。
「お前も狂ってるな オレとは違うところがだが」
このゴンの論理は、あくまで対ゲンスルーのこの一戦だけです。もし仮に他のプレイヤーと似たような戦闘をしたければ、その度に同様のルール設定をしなければなりません。非常に面倒くさい行為ですが、確実言えば確実。ですが、それを貫くことに命を賭けられるのなら、やはり「狂ってる」という言葉は当てはまってしまいます。


さて、この考え方はゴンの「仲間は大事」の特徴の一つである「仲間の範疇の緩さ」とも繋がり、場を共有する成員とその都度個別的に倫理/論理/ルールを立ち上げられればいいということは、その限定性ゆえに、容易に倫理を共有できるもの/できないものの峻別を行えるのだと思います。

それに 嘘だったらそれはそれで気が楽だし
容赦しなくていいから
遠慮なく倒せる
(23巻 p104)

嘘をついて襲ってくるような相手なら、たとえ一旦信じた(=仲間になった)相手でも、躊躇なく敵へと認識を変えられるのです。


ゴンが空気を読まないのか、それとも読み損なっているのか、あるいは根本的に読む能力がないのか、どれもありそうなところですが、彼は完全に個人的な内的規範のみで動くのではなく、少なくとも限定的・個別的には倫理/論理を作り上げ、ごく小さいクローズドな社会、というか場を作ることはできるわけですが、更にその場を包括するより上位の場(社会)の倫理/論理と競合しうる時がある、というのは前回触れたとおりですね。


ということでゴンの内的規範に関する小噺でした。キルア編は近日中に。
ちゃんと書くよ!




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「HUNTER×HUNTER」から考える倫理と社会の話 ゴン編

先月の記事で「ハンタ」の中で描かれる理念と現実の擦り合わせについて書きましたが、その最後で予告したゴンとキルアの倫理について、ようやく書こうと思います。本当は新刊が出てからにしたかったんですけど、来月になっても発売されないようなので、諦めました。
※本誌を追っていないので、27巻までに描かれている話を基に書きます。コメント等での本誌ネタバレはご容赦ください。

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「百舌谷さん逆上する」に見るコメディの下で渦巻く「濁り」の話

前々回の記事で、キャラクターの生命力を賦活する「濁り」というものを「G戦場ヘヴンズドア」を基にして考えてみましたが、今回はそれを「百舌谷さん逆上する」に援用してみたいと思います。

百舌谷さん逆上する 4 (アフタヌーンKC)

百舌谷さん逆上する 4 (アフタヌーンKC)

百舌谷さん逆上する」は、ただのスラングであったものが漫画やアニメ界隈ではすっかり定着した感のある「ツンデレ」を、「ヨーゼフ・ツンデレ博士型双極性パーソナリティ障害」*1(以下、作中での病名としての「ヨーゼフ・ツンデレ以下略」は、『ツンデレ』と二重カギカッコで示す)なる発達障害と位置づけ、ツンデレツンデレ的テンプレ行動パターンに、ただの性格上のものを越えた、行為と心裡の身を引き裂かれるような葛藤を付与して、ひどい(誉め言葉)ギャグの嵐の中に「コミュニケーションとは何か」という根源的な問いを備えているのです。


作品の一番目立つ設定にはまず「ツンデレ」というテンプレの権化のようなものがあり、それを体現している主人公の少女・百舌谷さんも「金髪ロリツインテール」と属性の塊のような存在。彼女と行動を共にすることになるクラスのいじめられっ子・樺島番太郎は、もっさりした外見と優しい心を併せ持った少年。彼女にちょっかいを出すクラスのガキ大将・竜田もいかにもな悪ガキだし、その兄貴も頭でっかちで理屈馬鹿で内弁慶、陰性のオタクの見本の如し。病院で出会う看護士(♀)は、オタク兄貴とは対極にいるような陽性の腐女子カリカチュア。彼女の病院に入院する番太郎の弟・勇次郎は、女の子と見紛うばかりの可憐な外見をした気弱な少年。他にも学級委員気質の少女や、問題児童に悩む若い女教師など、記号的とさえ言ってもいいキャラクターたちで溢れています。
しかし、その記号性を一皮剥けば、作品世界に与えられた設定や環境の中で苦悩するキャラクターたちの中身があります。彼/彼女は、作品世界に根ざした観念に基づいて真剣に考え、悩み、怒り、悲しみ、その上で行動しているのです。
物語の前面には、『ツンデレ』に端を発するバイオレンスなドタバタ劇が現れています。それは徹底的にコメディであり、テンションもストーリーも上下左右に縦横無尽、闊達に展開していきます。
例えば1巻のシーン、竜田の口からでまかせのせいで彼と百舌谷さんはデートをすることになりますが、その前日、デートの最中に『ツンデレ』の発作を起こし竜田に暴力をふるわぬよう、樺島を呼んで策を練ります。その過程で百舌谷さんは布団で簀巻きにされたり、樺島はぼこぼこにされて顔がぬっぺほふ(妖怪)みたいになったりして、それは実にコメディなのですが、簀巻きにされた百舌谷さんはその格好のままこうまでしなければ竜田を殴ってしまうに違いない自分の業を「キツネとブドウ」のイソップ童話に絡めて皮肉に嘆き、ぬっぺほふ(妖怪)になるまでフルボッコにしてしまった樺島を、明日のデートがあるにも関わらず疲れてその場で眠りこけてしまうまで真摯に看病します。
例えば3巻のシーン、入院中の勇次郎を見舞った樺島は、弟の前で「自分はドMになりたい」と傍から聞けば噴飯モノの演説をぶちかまし、それを盗み聞いていた看護士の二人は卒倒しかけるのですが、彼の演説の内容と己との関係に思いを馳せた百舌谷さん(変装していたので、その場では早川贅子)は感動するのです。ズレながらも本気の彼の演説と卒倒する二人と感動する百舌谷さん、全てこみでコメディなのですが、それがコメディであろうとも百舌谷さんは本当に感動していて、それが影響して彼女は自らある行動を起こすのです。
このように、破天荒でバイオレンスでパロディ満載のコメディがまずは読み手の笑いをひきますが、キャラクターたちはそのコメディと地続きの世界でそのまま生きており、彼/彼女はコメディアンであると同時にアクター/アクトレスなのです。「この世は舞台なり。誰もがそこでは一役演じなければならぬ」と言ったのはシェイクスピアですが、「百舌谷さん」内の彼/彼女は限定された舞台の単一の役を演じているのではなく、まさに「人生」を生き、演じているのです。


コメディと地続きのところにある彼/彼女の葛藤は、まさに「濁り」です。一見、コメディという「濁り」とは無関係なところにあるような、ツルリとしたman-madeの世界を隠れ蓑にしながら、その下にはドロドロと悩み、嘆き、怒り、悲しみ、葛藤するキャラクターたちの「濁り」があるのです。
このへん、以前書いた「百舌谷さん」の記事内の言葉、

篠房先生は、「『道化の仮面をかぶっておどけている哲学者』の仮面をかぶった道化」である気がする。根っこは道化なのがポイント。

や、水上先生の「惑星のさみだれ」について書いた記事の「かっこいいだけではかっこ悪い」というキーワードとも関係していると思います。


「『道化の仮面をかぶった哲学者』の仮面をかぶった道化」を上手く演じきるには、一番上にかぶった仮面がはっきりと作り物めいているほうが好ましい。なぜなら、そうすれば一番下にある仮面の存在が薄くなるから。だから「百舌谷さん」のギャグは破天荒で、そこにはパロディが横溢しているのですが、それだけに哲学者の仮面に描かれる「濁り」がよりどろどろと重さを持ち出すのです。
その重さと濃さゆえに読み続けると非常に疲弊する「百舌谷さん」ですが、面白さは一級品。続きの読めなさも一級品。続刊が気になるのです。




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*1:他者に対する好意や愛情を表明しようとすると、それとは裏返しの攻撃的な行為として発露してしまう遺伝性障害。感情全てが裏返しになっているわけではない

「ハックス!」に見る、漫画空間の立体感ある奥行きの話

明日発売のアフタヌーン六月号で最終回を迎える「ハックス!」。作品の総括は来月発売のコミックスまで待つとして、今回は「ハックス!」から感じる空間の存在感、立体感についてです。

ハックス!(3) (アフタヌーンKC)

ハックス!(3) (アフタヌーンKC)

この作品、舞台は高校のアニメ研究部。アニメ(漫画内アニメ)のシーンも出てきますが、基本的には登場人物たちの高校生活、普通の日常が描かれています。文化系の主人公が主にいるのは校内の教室や部室。広いコートを駆け回ったり、大空を飛び回ったりと、そんな広大なシーンはないのですが、不思議と描かれている空間に奥行きがあり、キャラクターたちがいるのはあくまで広い世界のほんの一部、見えないところにもちゃんと世界があるのだろうなあと思わせるのです。
はて、なぜそのような印象を受けるのか。そこらへんを考えてみました。

一つの空間を複数から写すカメラ

まず一つ目。


(2巻 p49)
これは主人公みよしを含む四人が昼食をとりながら談笑しているシーンで、本当は前にもう1ページ、後にもう2ページで、計4ページに亘って会話をしているのですが、アップのコマが少なく、多くのコマで複数人(特に三人以上)が同時に描かれ、また背景(この場合、キャラクターたちがいる教室)も描かれています。
四人全員が写っていて、かつカメラの視点が全て異なっているので、好適と思いこのページを特に取り上げたのですが、4ページ17コマの内、1コマの中にキャラクターが一人しか写っておらず教室の背景も描かれていないコマが、5コマ(単に背景が描かれていないコマは6コマ)しかありません。統計を取るのは非常に難しいですが、印象論で言えば、これは非常に少ない数だと思います。試しにお手元の漫画の中から、キャラクターが数ページに亘って会話をしているシーンを探してみれば、多くの作品で背景が省略されているのではないでしょうか。
それは恐らく、画面が煩雑になるのを防ぐためという理由もあるでしょうし、実在していない背景、心象風景のようなものを描くことでキャラクターの心理状況を表すという理由もあるでしょう。あるいは、単に面倒くさいからというのもあると思います。それらも立派な理由ですが、この作品のように、カメラの視点を変えるたびに背景を一々描くことで、キャラクターたちがいる世界が書割ではない、きちんと立体的に存在している世界なのだということを表せるのかなと思います。
この例で言えば、三つのコマそれぞれでカメラの視点は異なっていて、それぞれに背景があることで、この教室がペラい書割ではなく空間的に奥行き、立体感のあるものに見えるのです。角度がついて3コマ目で天井も見えているのがポイント高いですよね。


このような、三人以上のキャラクターが1コマ内に描かれ、カメラの視点が連続するコマごとに変わるというのは「ハックス!」よく見られるコマ割なのですが、これは、同じく「ハックス!」によく見られる、1コマ内でのフキダシ一往復分以上の会話進行と表裏一体のものだと思います。
上の例の1コマ目と3コマ目では、フキダシによる会話は一対一の対応では終わらず、三個以上のフキダシによって会話が進行しています*1
三人以上の人間が連続して会話を進めるとき、発言数や発言機会が均等になるわけでは決してなく、多く喋る人間が出たり、会話の流れに割り込む人間がいたりと、不均衡が生じるものです。その不均衡に不自然さを感じさせないようにするために、カメラの位置を変えて、あるコマ内で最初に発言するものをいちばん右側に配置し、なるべく発話の順に右から左へとキャラクターが並ぶようにする必要があるのです。
なもので、カメラの視点変更で奥行きが出るのと、息の長い会話進行は、漫画の合理的な表現上表裏一体となるのです。
同様の例はこんな感じですね。


(3巻 p37)
カメラがレールに沿って移動しているように、くるくると回っていて、発話者の順番も読み進める順序と不自然にならないよう配慮されています。

空間を大きく写すカメラ

これ自体は他の作品でも普通に見られますが、背景以外にもキャラクターが同時に写っているのと、ちょっと面白い角度なのがポイント。

(1巻 p196)

(3巻 p47)
キャラクターを含む空間が遠点に向かって奥行きを持っているのが、前者の例では線路、後者の例では廊下のドアで描かれています。奥行きのある世界に、キャラクターもちゃんと含まれているんだというのがわかるのです。
ちなみに、その類で私がいちばん好きなコマがこれ。

(1巻 p174)
微妙に歪ませた視界、右手奥から左手前へ向かって弧を描くような「ど」の擬音、遠点へ向かう床と天井のスピード線、蹴り上げられた小さなゴミなどが、空間の奥行きとスピード感を見事に表しています。

キャラクターと背景の同質な描線

これはまあ小見出しのとおりなのですが、「ハックス!」では背景とキャラクターの描線に大きな違いがありません。それによるキャラクターと空間の一体感というか、同質の存在感というか。
あとは、直線を引くのにほとんど(全く?)定規を使っていないのも、それに一役買っているかと思います。例で挙げた画像だとわかりづらいかもしれませんが、天井の梁や窓枠、机など、ほとんどがフリーハンドです。コマ枠以外では定規は使っていないのかもしれません。


さてさて、三つの理由を挙げたわけですが、特に「ハックス!」固有のものと言えそうなのは一つ目ですかね。この特徴の裏側である息の長い会話進行というのも、私がこの作品を好きな理由の一つでもあるんですが、とにかく面白いのでみなさんもっとこの作品を読めばいいと思うんですよ。創作物としてのソリッドさを極力抑えるファジー感と、一つの独立した立体感ある空間として存在している作品世界。その中で描かれる熱量たっぷりの創作活動は、なんかこう心を沸々と沸き立たせてくれるのです。
今井先生の次回作を心の底より待ち望みつつ、今日はこの辺で。




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*1:2コマ目については、フキダシは三個以上ありますが、会話そのものは一往復で終わっていますし、三点リーダのみのコマは会話進行には関与していません