先日発売しました『ルリドラゴン』3巻。
読むたびに他の作品ではあまりない不思議な感覚を味わっているのですが、それがなんだと考えてふと思い当たったのが、感情表現のあけすけさ、素直さとでも言うべきものなのかなと。それがどういうことかと言えば、楽しいときには笑い、悲しいときにはべそべそし、怒りたいときには頬を膨らませるように、キャラクターに生じている感情があけすけに表されている、ということです。当然どんな作品だってキャラクターに感情はあり、それが読者に伝わるように描かれているわけですが、その描写に過剰な演出や外連味がなく、さらりと軽やかに描かれていると感じるのです。
換言すれば、キャラクターに渦巻く感情を最低限度にしか整えずに描いている、ともなります。感情に理由はあっても理屈はいらない、とでも言いましょうか。
感情の理屈、理路、機序、因果。そういったものは存在しているにせよ、そこを言葉できれいに整理しすぎては生々しさが減ってしまうので、十全な理解や解決を見いだせるような言葉にしない。あえて高校生らしい未熟さ、感情に振り回される不安定さを残す。未完成にしておく。余地を残す。そんな、まだ未来に向けて変化が開かれているような未整理の状態。それを感じます。
3巻収録の21話では、陰口や面と向かっての悪罵をしてきた蒲田への意趣返しのため、ルリが自らの角を折る、なんてことをしていますが、これなんか本当に、後先を大して考えていない稚気溢れる仕返しです。創作物で見られる、洗練されたぐうの音も出ない報復ではなく、いきあたりばったりでとりあえずやってみっか精神による仕返し。すごく整ってないですよね、いい意味で。
やはり3巻収録の16話にはこんなコマがありました。

(3巻 23p)
ここに書かれている言葉のとおり、まさに人間の感情は「一本の線で繋がって」いるような筋の通ったものではなく、「同時に色んな感情が共存して そうやってアンバランスなまま繋がって」いる、いびつですっきりしないものなのです。
これは、本作と同日に最終巻が発売された『正反対な君と僕』が、キャラクターの感情の動きや内心を非常に丁寧に言語化しているのと比較すると対照的でしょう。
主人公の鈴木や、裏主人公ともいえるほどに内心が描かれていた平は、自分の感情や他人への思いを自問し、自答し、読者にも理解しやすい筋の通った理屈で内心を言葉にしています。それこそ、高校生がそんなに言語化をうまくできるものなのか? とビビってしまうほどに巧み。軽やかさというより重厚さ。素直さというより複雑さ。『正反対な君と僕』は、まるで細密画のように細かく感情の理路を追っています。
その比喩で言うと、『ルリドラゴン』の感情の筆致はとても無垢。思うが儘に撫でつけた筆がキャンバスで踊るよう。無論、本当に無垢ではありません。思うが儘ではありません。もしその通りだとしたら、作品は人に伝わりません。伝えられません。最低限、伝わるように整理している。筆のラインを調整している。でも、それを丁寧にはしすぎないようにしている。「同時に色んな感情が共存して」「アンバランスなまま」を保っている。
この整いすぎない感情表現は、カトウハルアキ先生の『ヒャッコ』でも感じたことのあるものでした。
yamada10-07.hateblo.jp
この記事では笑いの構造という点を書きましたが、読み手を第三者に置かない(=同じ作品世界に参与する者としてみなす)ように「笑い」を描くという日常性の演出には、現実に人間は感情をそう上手く整理して言葉にしないという意味で、『ルリドラゴン』にも通じる感情表現の素直さを覚えますね。そう、『ルリドラゴン』にも、(ドラゴンがいるくせに)読者の世界の延長にあるような日常性が備わっているように思います。
日常系と称される漫画やアニメのカテゴリーがありますが、それは日常的な出来事を淡々と描く作品群が属するとされます。『ルリドラゴン』も、人とドラゴンのハーフであるルリが生きる日常という意味で日常系(彼女は火や雷や毒を出しますが、そういう人間が生きている日常)と言えるかもしれませんが、それ以上に、キャラクターやその感情の表れ方が日常的、すなわち読者の日常の延長にあるような自然さを有しているという点でこそ、「日常系」なのかもしれません。
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