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漫画の話です。

好奇心の先には「すこしふしぎ」『好奇心は女子高生を殺す』の話

女子高生。それは世界で一番好奇心旺盛な生き物。話しかけたい人がいれば臆せず話しかけ、見知らぬ建物があれば面白そうだからと行ってみて、しゃべれる動物が捨てられていれば事情を聞いて元の飼い主に文句を言い、世界のためなら宇宙彼方の星でも何のその。頭はいいけど無愛想で社交性の低いあかね子と、社交性が高くて運動神経も抜群だけど壊滅的に勉強のできないみかんの二人は、今日も「すこしふしぎ」に首を突っ込むのです......
好奇心は女子高生を殺す(1) (サンデーうぇぶりコミックス)
ということで、高橋聖一先生『好奇心は女子高生を殺す』のレビューです。
高校入学式の日、青紫あかね子が,後ろの席の柚子原みかんに話しかけられ、窓の向こうに見える謎の建物へ赴くところから第一話は始まります。
「あの建物に興味はありません」
「世界一好奇心旺盛なのは女子高生なんだよ」
そんな会話を交わしつつ、行き着いた先は「初体験館」。春の初体験祭を開催中のそこでは「未体験の出来事を成功させるまでは決して出ることはできません」と謳っていました。体験者としてあかね子は1回500円の体験料を受付で払い、みかんは付添として無料で入り、受付の扉の向こう、暗闇を抜けた先で凸凹女子高生コンビが立っていたのは、なんと絶海の孤島。大きな木が一本立っているだけのそこで、あかね子はいったいどんな未体験を体験しなければならないのか……。
とまあ、古くは藤子F先生、近くは石黒正数先生やつばな先生の系譜に連なるような、「すこしふしぎ」な世界の描き方。日常の中で当たり前に存在する「すこしふしぎ」なことに、当たり前に接して、当たり前のようにトラブルに巻き込まれ、当たり前のように楽しんでいる。そんな世界です。
絶海の孤島に飛ばされた二人も、それ自体を不思議がることはなく、受け入れた上でとりあえず生活を始めようとする。普通ならあり得ないシチュエーションを普通にこなそうとしたらどうなるか。普通ならあり得ない人と出会って、普通に楽しもうとしたらどうなるか。そんな「すこしふしぎ」な世界を、一話完結でコミカルに描いています。
この上手い一話完結ぶりは、最近の作品で言うと山田胡瓜先生の『AIの遺電子』とも通じるところがありますね。一つの話の中で登場させたゲストギミックを軸に、登場人物たちを無理なく動かす感じ。背景や小物にコミカルな情報をいろいろ描き込んでいても、物語を駆動させる描写には余分なものがないから、あるいはそのコミカルな情報の中にさりげなく駆動させる情報を紛れ込ませているから、少ないページ数でも綺麗に物語を落着させています。
主役二人の関係性を見ても、頭でっかちな引っ込み思案のあかね子と、考えるより先に体が動くみかんの二人は、お互いがお互いのいいところ悪いところを補い合い、お互いがお互いに救われ、そして、正反対なのに導き出す答えが同じだったりする、とてもいいコンビ。一話のエンディングで「二人は友達である」という前提を強固に作ったおかげで、以降の話で、二人は当然のごとく仲のいい友達であり、話が進むにつれてもうそれ友達っていうか一歩踏み越えそうになっちゃってね?的なキャッキャウフフ領域まであと少し。
それはともかく、そんな二人が主役なものですから、物語の転がし方やオチは「友達はいいもんだ」というような考え方が強くあるのですが、デフォルメを効かせながら可愛くなりすぎない(具体的には目が小さい)絵柄や、素っ頓狂な設定、小気味の良い台詞回しなどのおかげか、くっさい風にはならず、コミカルにコンパクトにまとまった一話完結となっています。
暇だからなんの気なしにさらっと読むというよりは、あの話が読みたくなったからと狙い撃ちで手にとりたくなるような、山椒は小粒でもぴりりと辛く仕上がった作品です。
好奇心は女子高生を殺す サンデーうぇぶり



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嬉し恥ずかしカウントダウン『初情事まであと1時間』の話

ある者達は幼なじみ同士、ある者達は魔王との決戦直前の勇者と魔法使い、ある者達はフラれたばかりの先輩と彼女を慕う後輩。そんな彼や彼女が、初めての情事に臨むまでの直前1時間を切り取った、嬉し恥ずかしドキドキのオムニバス……

ということで、ノッツ先生の新刊『初情事まであと1時間』のレビューです。
中身は上で書いた通り、いろいろなカップルたちが初めての情事になだれ込むまでの1時間を描いた短編集です。カップルといってもすでに恋人同士であるとは限らず、お互い憎からず思っている幼なじみだとか、仕事のパートナーだとか、冒険仲間だとか、宇宙人に誘拐された初対面同士だとかと、よくありそうなものだったりなんじゃそらなものだったり様々。
そんな中で、どれにも共通しているのは、もうお互いの感情は十分に熟成されていること。あとは、パンパンに膨らんだ風船が最後の一突きを待つばかり。いやさすがにアブダクションされた二人は除きますけど、その二人にしたってつり橋効果なのか、わずか1時間で高まりまくります。
その気持ちが膨らみに膨らむ60分。今手を出すべきなのか。がっついてると思われてしまうんじゃないか。誘ってるように見えるけど気のせいなのか。なんか相手が全然ノッてこないけど実は自分の勘違いだったんじゃないか。一歩踏み出したら今までの関係が壊れてしまうんじゃないか。でも、でも、でも……。
ぐるぐるぐるぐると脳ミソは普段の10倍は高速回転し、そして普段の100倍は余計なことを考えてしまい、心の中で天使と悪魔は取っ組み合いのケンカをして、理性と欲望のシーソーはぎっこんばったん揺れまくる。
そんな感情の嵐が吹き荒れる中で、各ページの上には初情事までのカウントダウンが冷静に刻まれていく。
なんていうのかな、このカウントダウンが、妙にエロイ。
これだけドギマギしてるカップルも、慌てふためいているカップルも、深刻な顔をしているカップルも、あとn分後には合体してるんだなと思うと、ほら、ね?
渦巻く感情と無機質なカウントダウンていうその対比っていうのかな、それがさ、ね?
日本全人口の98%が同意してくれるはずのエロティクスはともかく、それぞれのカップルに十人十色である状況と感情の機微が、60分の中で一つのゴールに向かってぐねぐね動きながら収束している感じが、またよいのです。シチュエーションコメディではあるものの、コメディとは言い切れない、時として暗くさえある感情にも意外性があります。
初情事まであと1時間/ノッツ コミックウォーカー
とりあえず第1話と第10話を試し読みできますが、単行本にはさらにバラエティ豊かな一時間がそろっておりますので、ぜひ手に取っていただければと思います。


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楽しい趣味はいつでも楽しい! 飛び込めサバゲ沼『サバゲっぱなし』の話

父の会社にコネで入社し、受付嬢として日々ぼんやりとすごしている木枯ニコは、刺激に飢えていた。毎日が退屈。毎日がつまらない。毎日同じことの繰り返し。何か面白いことはないかと夜の街をさまよい、ふと目について入ったのがBar FREIHEIT。壁一面に、酒瓶と一緒に銃が飾り付けられているその店は、サバイバルゲームの愛好家たちが集う場所だった。こうしてニコは、店長の輪や常連のナナらによって、サバゲ沼に落ちていくのだった……

ということで、坂崎ふれでぃ先生の新作『サバゲっぱなし』のレビューです。退屈と金を持て余していたうら若い女性がサバゲにで出会い、あれよあれよという間に沼に落ち、全身全霊で楽しみまくる、そんなある意味とてもシンプルなお話です。
本作の掲載誌であるサンデーGXには、同じく趣味に没頭する女の子たちを描いている『放課後さいころ倶楽部』』(こちらはボードゲームがその対象)がありますが、舞台が高校で思春期の心情なんかも描写しているあちらと違って、各々の所属が異なる中で趣味だけでつながっている社会人が登場人物である本作は、だいぶ趣を異にします。1巻時点で断言できるものではありませんが、趣味以外の部分での心の動きも細やかに描こうとする前者と、「そんなのいいからサバゲしようぜ!!」と言わんばかりにカラッと明るい楽しさを強烈な熱量で溢れさせる後者。両者とも、趣味が登場人物の紐帯となっているのは同じでも、「●●は楽しい!」を描きたいのは同じでも、その過程がずいぶん違います。
楽しさの熱量を端的に表しているのが、第1話の直前、目次の隣のページに書かれているこの言葉でしょう。

楽しいことは、準備するときも
妄想するときも、
休憩するときも、
帰るときも、全部楽しい。そんな漫画です。

楽しいことは全部楽しい。何か楽しみがあれば、それが生きる糧になる。退屈の中に刺激を。平凡な毎日に興奮を。楽しいことはいいことだ。
その楽しいことを知ってしまった主人公のニコ。ハイテンションと財力を十二分に所有する彼女は、よっぽど刺激に飢えていたのかはたまた性にあったのか、勧めたナナたちが軽くひくくらいに猛烈な速さでサバゲ沼へと落ちいきます。そのスピードはもはや、はまるというより、沈むというより、落ちる。もがくどころか、自ら潜っていく。
店を訪れたその日にサバゲ参加を表明し、実際に参加したその帰り道には、持った銃の重量感、発砲したときの反動、少し隙を見せただけで敵に狙われるスリル……そのいちいちに感動し、滂沱の涙とともに実感しました。生きる喜びを。うん、言い過ぎた。
とまれ、一日でその魅力にとりつかれたニコは、my better halfとなる自分の銃を買いに行き、勝てないサバゲでカッコよく勝つための作戦を練り、初のインドアゲームに挑み、二本目の銃としてン十万円もするようなものを買い、当然のようにアクセサリーやパーツもセットで買い、サバゲ仲間も増やし……と、順調に沼を落ち続けています。
で、その沼での棲息が実に生き生きとしている。作中に登場するのは、ニコをはじめとしてほとんどが妙齢の女性なんですが、皆が皆、もうとても楽しそうにサバゲ沼に棲んでるわけですよ。ゲームに参加しているときはもちろんのこと、ゲームの打ち上げも、次回のゲームの計画も、新しい銃やアクセを買おうかどうか悩んでるときも、ゲームのための準備をしているときも、目がキラッキラしてる。まさに、「準備するときも、妄想するときも、休憩するときも、帰るときも、全部楽しい」んです。
自分がわっかるなーと感じたのは買い物のシーン。自分の場合はサバゲではなく服や楽器ですが、同好の友人の趣味の買い物につきあいで行くと、元々はその気がなくても、友人が楽しげにアレ買おうかなコレ買おうかなと悩んでいるところに、アレがいいんじゃないコレもいいんじゃないと口を出し、検討に検討を重ねた結果納得したものを買ってご満悦な様子を見ていると、ついつい自分の財布の紐も緩んでいる。「楽しい」の感情は伝染していくのです。おそろしい……(靴が溢れている玄関から目をそらしながら)。
お小遣いを必死にやりくりしていた子供時代から、自分で稼いだお金をある程度自分の好きに使えるようになった大人が趣味にはまると、いやあ沼ですよ沼。どこかで歯止めをきかせなければならない(眼鏡が溢れている棚から目をそらしながら)。
あ、漫画については別腹ですので,溢れかえるのを気にするとかはもうないです。
とにかく、この作品を読んでサバゲをやりたくなるかどうかはともかく、楽しいと心底思えることがあるのはいいなと思えること請け合いです。趣味はいいぞ。
サバゲっぱなし サンデーGX



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漫画の修羅たちは血で血を洗う『狭い世界のアイデンティティー』の話

漫画家のタマゴ・神藤マホ。大手出版社である件社(くだんしゃ)で、年間賞佳作を受賞した彼女にはある目的があった。それは、かつて同社に持ち込みをした際、そのビルの上階から突き落とされ、串刺しになって死んだ兄の敵を取ること。彼女は誓う。暴の力でもってこの世界を邁進すると。編集者、漫画家、アシスタント、書店員。漫画に関わる者達の嫉妬と羨望と欲望が渦巻く嵐の中で、マホは兄の敵をとることができるのか……

ということで、押切蓮介先生の新刊『狭い世界のアイデンティティー』のレビューです。
あらすじからして荒唐無稽な本作、どこか*1でぐつぐつと醸成されていた怨念がこもっているのでしょうか、漫画界を徹底的に虚仮にするかのような物語になっています。もちろん、ギャグとしてね?
いや、ギャグでしかないじゃないですか。だって、出版社に持ち込みに行ったら、ビルの上階から窓を突き破って墜落し、地上に立ち並ぶ串に刺さって早贄状態となる。そして他の串にはいくつもの骸や原稿が……。なんだ、●談社は15世紀のワラキア公国にあるのか。おっと、講●社じゃなくて件社か。
そんな無残な最期を遂げた兄の敵を討つべく、必死で漫画を勉強し、なんとか佳作を受賞したマホ。年間新人賞受賞者の一人として年末の謝恩会に招かれ、他の受賞者が強迫や金による篭絡、毒などでライバルを蹴落とそうと目論む中、壇上での受賞者インタビューで彼女はこう言い放ちます。
「この蹴落とし合いの世界で生き残るには―――― 漫画力だけでは足りません
暴の力でこの業界を 邁進したいと思います…」
そして、壇上に並ぶ他の受賞者たちが慌てふためいた次の瞬間には、目にもとまらぬ連撃でノックアウトしていく。宣言通り、暴の力でライバルを蹴落としたのです。
こうしてマホの復讐は始まります。
ですが、暴力を備えているのは彼女だけではありません。血で血を洗って争い続ける他の作家たちはもちろん、その作家たちのパートナーである編集者にも、当然の如く暴力が溢れているのです。
一例を挙げましょう。一般の会社で「ホウ・レン・ソウ」と言えば、それは「報告・連絡・相談」ですが、件社においては違います。件社の「ホウ・レン・ソウ」とは、「砲撃・連撃・総撃」。社内で下手な振る舞いをした人間に対しては、その場にいた編集者たちが、砲撃を撃ちこみ、連撃を放ち、総撃で襲い掛かってくるのです。
作家の暴に対する編集者の暴。修羅たちの巷は暴力と流血まみれ。おお地獄。ここはこの世の地獄。
珍しく澄んだ目をしてやる気に溢れる漫画家も、濁った眼をして不満と理想ばかり口にし一向に手を動かさないアシスタントたちに邪魔をされ、漫画を売ることに血道を上げる書店は万引き犯を拷問に処し、呼びつけた保護者も拷問に処し、自社の販売棚を増やせと要求する出版社に一歩も引かない。売れた漫画家は売れない漫画家に妬まれ、売れた漫画家が打ち切られればお疲れ様会と称して傷口に塩を塗り込み二度とペンを持てないように心を折られる。新人は先輩漫画家や編集者に取り入ろうとする裏でどうやって老害を引きずり下ろそうかと画策し、大御所と呼ばれるようになった漫画家も新しい芽を摘むことを怠らない。
漫画界とはこんなところだったのか……。
そんな恐ろしい漫画界で発される言葉は、他にも震え上がるものばかりです。
「糞つまらない漫画で紙という資源を無駄にした環境破壊者に死の裁きを…!」
「陰茎と玉袋を潰した後にジワジワなぶり殺すのだ!!」
「この男同士 どちらかが妊娠するまで性行為をさせるのだ!!」
「私はこの飲み会の幹事をしている小泉聖子よ 1人8千円の参加費をいただき その内5千円をピンハネして生活している者なの…」
「ここは漫画家だけの交流の場よ! 漫画家が交流し 褒め合い 傷をなめ合い 性行の糸口をつかむ場であるのよ!!」
「『本 本 数々の本が置かれるこの店は居酒屋でも床屋でもない… そう 本屋である』」
ぶるぶる。こわやこわや。
悪鬼魍魎が跋扈するこの世界、果たしてマホの兄の仇は誰なのか。彼女の復讐は遂げられるのか。それは悪魔さえもわからない……。


第一話の試し読みはこちら。凶悪な世界を目の当たりにしておしっこちびってください。
狭い世界のアイデンティティー/押切蓮介 モアイ


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*1:具体的にはス●エニ

ヘドロ生命体が生み出す善と疎外と寂しさ『黒き淀みのヘドロさん』の話

お嬢様ひかりに仕える執事のジローは、彼女の横暴に振り回されてばかりでため息の毎日。彼の高校のクラスメートであるレーンはそれを見て、得意の黒魔術で、ヘドロを材料にしてお助け新兵器を爆誕させる。その名も、黒き淀みのクラウネッサことヘドロさん。「突然やってきて何もかも解決してくれる白馬の騎士」を期待されたヘドロさんは、まずは執事を助けるべく、彼と一緒にお屋敷へ帰るのだが……

ということで、模造クリスタル先生の新作『黒き淀みのヘドロさん』のレビューです。
何を言っているかよくわからないあらすじのとおり、何を言っているのか、どこを目指しているのかよくわからない作品。それでもなぜか、読んでて心の変なところに入り込む作品です。
ヘドロさんによる人助けという大まかなストーリーラインがあり、1巻ではお嬢様に仕える執事の手助け、ヘドロさんが高校に通うために教頭から出された課題の解決と、一応具体的な事件もあるのですが,その事件の内容や状況も突拍子もないものばかりです。
そもそも彼女が生まれた理由が、「白馬の騎士を自分で作るため」というレーンのある意味で独りよがりなものであり、彼女の生まれ方も、オホーツク海でとれたヘドロ生命体に魔導書クッキーカッターで人間らしさを与えるというぶっ飛んだもの。そこには、当事者なりの理屈はあっても、第三者というか読者が読んで共有できる合理はありません。登場人物たちはそれぞれの理屈を振り回し、それぞれがお互いの理屈を受け容れ、よくわからない理屈に根拠づけもないまま話は進んでいきます。
前単行本の『ビーンク&ロサ』よりもさらにキャラクター造形にかわいげを加えつつ、さらにキャラクター心理から共感できる部分を除く。本作の最大の特徴は、この「読者が共感できる部分の欠如」ではないかと思うのです。
よくわからない世界をよくわからないキャラクターたちがよくわからない理屈で生きている。
「おかしいか? うまく言えないけど でも私には悪から善を作る他に手はないんだ」
「私は自分の命も大切にし 自分も生き延びることで末永く社会に貢献したいと…」
「先生はな 生徒の未来に投資してんだ お前の将来を見るまで安心できねえんだよ!」
なんかいいことを言ってそうだけど、実際いいことなのかなんなのか、その状況そぐっているのかいないのか。挿入されるたとえ話っぽいエピソードも、いまいちピントが合っていないような。
読み手に疑問符をまき散らしたまま、物語は進んでいってしまいます。
けれど、そんな彼や彼女の心情でほぼ唯一共感してしまうのが、寂しさです。自分が世界から切り離されているような、自分が世界と噛み合っていないような、世界が自分を見放しているような、一人の夜中ににふと襲ってくるどうしようもない孤独と不安と寂しさ。よくわからない理屈で生きているキャラクターたちが垣間見せるそれらは、取り残されてぽかんとしているこちらの懐にささっと潜り込んできて、強烈な物寂しさを残していきます。
生まれたばかりのヘドロ生命体と友達になるゲーゲー、ナイトジャスティスとキングバーガーの昔話を語り終えた後のレーンあたりは、すっと心に影を落としてくるし、教頭から出された課題であるりもん先生の謎の解明のラストは、もう目を覆いたくなるようなつらさ。
読んでて、読者は物語から疎外されているような気分になるのに、不意に寂しさだけは伝わってきてしまう。
疎外と寂寥。
模造クリスタル先生の作品にはこの二つが付きまとっているものですが、本作でもそれは例外でありません。
好き嫌いが分かれるのは重々承知ですが、一度読んでもらえば、今まで早々味わってこなかったひんやりと冷た悲しい風が心に吹き抜けるのではと思います。
黒き淀みのヘドロさん
試し読み、っていうか1巻の3/4くらい読めてしまうのですが、まあまあどうぞどうぞ。


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拍手レス

どちらの作品もすきなのでめちゃくちゃ面白かったです。
2つの作品に共通して言えることが人間の進化に悪意は欠かせないものであること、
納得というか感心というか、読んでいてため息が出るほどいろいろ考えさせられました。

こんにちは、ネウロから考えるハンターハンターの人間と蟻のキャラの話、の記事を読んでからこちらの記事を読んだのですが、親に関する点においてもハンターハンターと共通する部分があるように思えます。
この記事も、ものすごく考えさせられる記事でした。そして親が子供に及ぼす影響、押し付ける価値観について考えたとき、ハンターハンターキャラたちの親についても同じことが言えるのではと思いました。
ゴンの母親がわりであるミトさんは始め、ゴンがハンターになることを頑なに認めません。ゴンの父親であるジンがハンターだった、それで自分や周りはたくさん悲しい思いをした、だからからの子供であり我が子のようなゴンには同じようになって欲しくない、というゴンの意志を無視した考えを持っています(最終的には認めてあげましたが…)
そしてキルアの家族が最も良い例なのではないでしょうか。代々続いて来た暗殺が家業だから、キルアには才能があるから、暗殺を教え込みます。だから本人が「嫌なんだよね、レールの敷かれた人生っていうの?」という考えのもと家を出たにも関わらず独房に閉じ込め体罰を加え、思い通りに動かそうとします。自分たちの期待する通り、一人前の暗殺者になってほしい、という思い、価値観を押し付けているのです。
クラピカに関しては、村の長がこれにあたります。外の世界を知りたいと望むクラピカですが、長は外の人間は残酷であるからと一方的な価値観を押し付け村人全員が外に出ることを規制しています。
この点について、ハンターハンターで言う親とは、そして暗殺教室との比較など、軽くで良いのでご意見伺えると嬉しいです。

同じ方からのコメントです。熱いメッセージをありがとうございます。
ハンタでは、母についてや、キルアに関して間接的に家族については書いたことがあるのですが、親をメインに据えて書いたことはないんですよね。コメントをいただいて、考えてはおりますので、気長にお待ちいただけたらと思います。たぶん拍手レスでおさまるような分量にはならないので…w

『亜人ちゃんは語りたい』誰かに頭を預けるデュラハンの信頼感の話

今現在唯一、どころか、ここ数年レベルで唯一視聴継続しているアニメ『亜人ちゃんは語りたい』。

6話Bパートでは、放課後に雨が降ってきたために、高橋先生のいる生物準備室で親の迎えを待つデュラハン町子の姿が描かれました。両親が諸事情で迎えに来られなくなったため、代わりにひかりの父が来てくれたところ、一緒に帰ろうとするも、鞄を教室に置きっぱなしだったので、それを取りに行こうと京子は自分の頭を抱えようとしましたが、ひかりの父がその役をかって出て、「揺らさないよう頭を抱えるのも練習だから」と、京子の頭を抱えて教室に向かったのです。
で、このシーンを見てふと意識されたのは、このような行為、すなわち自分以外の人間に頭を持たれるというのは、生半可な信頼感ではできないことだよな、ということです。
だって、第三者に自分の頭を抱えられたまま、自分の身体から離れた所へ移動されたら、もしそこでなにか起こった時、頭だけでは対処のしようがないんですから。抱えた人間に悪意があった場合はもちろんのこと、もし偶発的な事故が起こった場合でも、自分自身ではそれに一切対応できないまま、その状況に巻き込まれるしかないなんてのは、想像するだけで絶望と無力感でいっぱいになってしまいます。
油性ペンで額に「肉」と書かれようとも、散々嫌がっていた歯医者へ連れていかれようとも、正面から10tトラックが突っ込んでこようとも、頭だけではどうしようもできない。せいぜい助けを呼ぶことくらいですか。ただ、それすらも猿轡なりなんなりで簡単に封じられてしまうし(手がないから抗いようがない)、突っ込んでくるトラックにはあまりにも無力です。
自分以外の誰かに頭を持ってもらう。その信頼は、たとえるなら、全盲の人が足元の点字ブロックの先に落とし穴なんてないと信じるようなものでしょうか。視覚さえあれば見て避けることのできる落とし穴も、全盲だとそれができない。もしそれがなされていた場合、自分ではどうすることもできない悪意に対して、「そんなことはしない」と作った誰かに全幅の信頼をおくことで初めて、視力のないままに点字ブロックの上を歩けるのだと思うのです。
私は以前、ダイアログ・イン・ザ・ダークというイベントに参加したことがあります。それは、大きなホールなどにしつらえられた完全な真っ暗闇の空間で、人工的に作られた草原や森を歩いたり、丸木橋の上を渡ったり、田舎の縁側で寛いだり、バーでなにか飲んだりと、五感の一つを完全に閉じた状態で種々の体験をするイベントです。その空間に入った当初は、今までに味わったことのない完全な暗闇、顔を撫でられてもわからないとはこのことかというほどの真っ暗闇に尻込みし、へっぴり腰でおっかなびっくり歩いていたのですが、次第に何も見えないことにも慣れ、そこには危険なギミックなどないと理解して、ようやく状況を楽しめるようになりました。また、参加者グループを先導してくれたアテンドと呼ばれるスタッフ、この人は全盲なのですが、そのアテンドが的確に参加者たちの状況を把握し、助言などを言ってくれたため、落ち着くことができたというのもあるでしょう。
ダイアログ・イン・ザ・ダークの話を詳しくすると非常に長くなってしまうのでこのくらいにしておきますが、その体験で、暗闇の中を歩くことには、視覚以外の空間把握や白杖の取り扱いなどの単純な能力だけでなく、自分の周りの世界への信頼という、精神的な強さも必要なのだとわかったのです。
京子の場合、頭を抱える誰かという具体的な人間を信頼することになるわけですが、なんであれ、その信頼感というのはとてつもなく強いものです。それこそ、自分の生き死にを任せてしまうほどに。
正直なことを言えば、原作にしろアニメにしろ、自分以外の誰かが自分の頭をもって自分の身体から離れる、という状況のリスキーさをそこまで深く捉えているとは思えないですし(そのリスキーさ、あるいは上述の強固な信頼感に関する描写が見られない)、私自身も原作を読んでいたときには考えつかなかったのですが、アニメでは非常に丁寧にデュラハンの動作を描いているため、ふと思いついたのでした。
そういうことも気づかせてくれる、まったくいい意味での違和感アニメだぜ。


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