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漫画の話です。

この世界を生きる それはとても優しく悲しく辛く楽しく、そして強い日常『この世界の片隅に』の話

映画『この世界の片隅に』を観てきました。いい……とてもいい……
身も蓋も無い程号泣するかなとも思ったんですがそういう風でもなく、じんわりぐっと涙がこみあげてきて、頬をつうと伝う感じの落涙。いい……
以下、ネタバレ上等の感想。でも、ネタバレで魅力が薄れるタイプの作品ではないので、読んでもらってもいいのかなと思います。一応隠しておくけど。

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『アリスと蔵六』フキダシによって近づいた漫画とアニメの表現あるいは時間の話

アニメ化!
大事なことなのでもう一度言います。
ア ニ メ 化 ! !

アリスと蔵六 7 (リュウコミックス)

アリスと蔵六 7 (リュウコミックス)

ということで、2016年も終わりに近づいてきたところで飛び込んできた大ニュース。『アリスと蔵六』のアニメ化です。twitter上で作者本人があげた動画での発表を見たときには、あまりに驚いて「ホフェッ!?」などと変な声が出ました。あとは群馬でも視聴できることを祈るばかり。
さて、そんなアニメ化話に便乗するわけではないですが、本作『アリスと蔵六』を改めて読み返して思ったのは、「この漫画、つくりがとても映像的だな」ということです。
漫画のつくりが映像的。
それが何を意味するかというと、漫画と(アニメなどの)映像作品の質的な違いの話になってくるのですが、端的に言って、本作は時間の表し方について非常に意識的な描写がなされているのです。
拙ブログでは今までにも何度か、漫画(や小説)とアニメ(などの映像作品)の根本的な違いとして「時間」の扱い方がある、という話はしてきていますが(最近してなかったけど)、簡単に言えば、漫画や小説は受け手が鑑賞の際の時間をある程度恣意的に操作できるけど、映像作品では受け手は作品側の時間に支配される、という違いです。本のページをめくるスピードは読み手に委ねられますが、映像作品は作り手が設計した時間通りにそれを見るしかないということです。30分のアニメは30分TVの前に、120分の映画は120分映画館の椅子の上にいなければなりません。録画をすればn倍速での視聴は可能ですが、それによって味わえる音声やセリフの間は、作品本来のものとは別物になってしまいます。
以前のブログ記事では、本では作り手が凍結した作品の時間を読み手が解凍するが、映像作品では生のままの時間を受け手がそのまま視聴する、という表現をしたことがあるかと思います。たぶん。
で、そんな漫画とアニメの違いを踏まえた上で、『アリスと蔵六』がどのような点で時間についての特徴的な描写をしているかと言うと、それはセリフ、とくにフキダシです。一つのフキダシは一つのコマの中に収める(他のコマにはみ出さない)、という一般的なルールをあえて破ることで、本作には特徴的な時間表現が見られるのです。
まずは具体例を。

(1巻 p51)
見てのとおり、この二つのコマには、一つのフキダシがかかっているわけですが、一般的なルールを破ったこの描写によっていったいどんな効果が生まれているのでしょう。
それを説明する前に、少々長いですが、まず音声としてのセリフと文字としてのセリフの違いを説明します。
本来セリフというのは音声であり、すなわち強く時間的な存在です。波である音が聞こえる(受け手が受信する)ためには時間が流れなくてはならず、その音の高低や長短、強弱、音と音の間などによって人は音を任意に分割して、一定の意味を持つ言葉であると理解するのです(たとえば「橋」と「箸」は音の高低、「在る」と「アール」は長短で区別されます。「あっ、高い」と「温(あった)かい」は、「あっ/たかい」の間によって意味が異なります)。
ですが漫画においては、セリフは文字によって表現されているため、その受信に時間は関係ありません。より正確には、受信時間は受け手それぞれの裁量にあり、受信(読解)時間の長短によって語義は異なりません。「ありがとう」の五文字を読む時間の長短に意味はなく、さっと読もうがじっくり読もうが、読み手の頭の中には「ありがとう」という文字情報(あるキャラクターが発声した「ありがとう」というセリフの情報)が入ってきます。口にすれば一秒にも満たない「ありがとう」という音声は、「ありがとう」という文字列にされたことで時間的な意味を失い、読み手がそれを読んで再び読み手の脳内に「ありがとう」という音声が流れるのです(これが、上で言った「時間の解凍」の意味するところです)。
漫画は基本的に絵(静止画)と文字を媒体とするメディアであり、また日本の漫画のほとんどは、枠線で区切られた一つのコマの中では一つのシーンをのみ描く(もちろん例外はありますが)というルールで描かれています。ですから、あるコマ内で書かれるセリフはそのコマ(シーン)内でのみ発されている音声である、別の見方をすれば、そのセリフが流れている時間は、それが書かれているコマのシーン内で閉じている、ということです。

よつばと! 9巻 p75)
たとえばこの『よつばと!』の一コマでは、一枚の静止画の中に「じゃあジュラルミン乗っけて?」「こお?」「そうそう」というやりとりがなされており、このワンシーンには、少なくともこのやりとりがなされるだけの時間が流れていることがわかります。
さて、ここで『アリスと蔵六』に戻りますが、コマを越境して書かれたフキダシは、かかっているコマ両方、つまり二つのシーンにわたってその音声が発されている、という意味合いを与えていると思うのです(このシーンの場合、より正確には、かかっているフキダシのセリフだけでなく、それも含む、黒髪の刑事が発している一連のセリフが、ということですが)。端的に言えば、複数のコマ(シーン)に連続性を与えて一つのシーンにしているということです。
で、これが映像的という話にどうつながるかと言えば、このような描写、すなわち連続的な音声によって複数のシーンに連続性を持たせる技法は、動画や音声といった時間的なメディアだからこそ可能なものだったはずなのです。動画という視覚表現に、それとは別の次元で流れるセリフやBGMなどの聴覚表現をリンクさせることで、映像のシーン(カメラ)が切り替わったとしても、切り替わる前後で連続しているということを明確にできるのです。

こちらの動画、『日常』1話の冒頭は、校舎の遠景のシーンから教室内での二人の会話シーンへ一気に飛びますが、遠景シーンの時点から二人の会話は始まっており、教室内のカットになってもその会話が続いているため、この二つのシーンに明確な連続性が与えられています。二つの異なるカット(視覚表現)が、連続する会話(聴覚表現)によって、直接的にリンクされているのです。
翻って漫画は、実は、隣接するコマの間の連続性を担保しているものは文脈しかなく、一般的なルールに則っていれば、絵やセリフといった非時間的なメディアと次元を異にした媒介によっては結びつけられてはいません。またコマ間には、それがほんの一瞬のものであれ、必ず時間的な断絶が存在しており、そこを埋めるのはひとえに読み手の読解力にかかっていて、その断絶が大きければ大きいほど、要求される読解力の比重は高まります(アニメなどと違い、マンガには「読み慣れる」必要があるのはこれが一因です)。
そんなコマ間の断絶、実は極めて薄かった隣接コマ間の連続性を強く結びつけるのが、このコマを越境するフキダシなのです。

(5巻 p71)
この一連のコマも、結合しているものも含めて三つのフキダシを、それぞれのコマにかけていることで、この三つのコマがひとつながりのシーンであることを読み手に強く意識させます。
たとえばこのシーン、映像作品であれば、カメラアングルを移動させることで、キャラクターが辺りを見回した後に膝から崩れ落ちる動作をシームレスにワンカットで作れますが、静止画(固定されたカメラアングルによる一枚の絵)しか使えない漫画では、そのようなシーンを描こうと思っても、分断された複数のカットを連続して配置するしかありません。ですが、そのカット=コマにかかるようにフキダシを配置することで、かかっているコマは連続しており、そのセリフが発されるだけの時間が経過している、と読み手に思わせられます。つまり、複数のコマを疑似的にシームレスにしているのです。

(1巻 p10)
このコマでは、越境したフキダシが別のフキダシにもかぶさることで、最初のフキダシによる発声が終わった直後もしくは終わったと同時に、下になっているフキダシの発声が行われたことを示しています。フキダシを重ねることで時間的な懸隔が極めて少ないことを表しているのです。

さて、再び1巻p51のコマに戻って改めて考えてみますと、実は他のニュアンスがあることにも気づきます。フキダシがかかっている複数のコマは、時間的に連続しているという解釈以外に、このセリフが発されている一つのシーンを複数の視点から描いているものである、と考えることもできるのではないでしょうか。つまり、p51のコマは、黒髪の刑事が喋っているシーンなのですが、そのシーンを刑事主体のカットと蔵六主体のカット、両方から描いたものである、すなわち二つのカットは連続したものではなく、同じ時間軸を二つのカメラで切り取ったもの、同時的なものである、と。
それがよりわかりやすい例がこちら。

(7巻 p76)
歩が「はあちゃん!!」と叫んだフキダシが三つのコマにかかっていますが、特に左側二つのコマにおいて、歩のカットと、羽鳥のカットは、歩が「はあちゃん!!」と叫んだ瞬間を二つのカメラで切り取ったものであることは明白です。同じシーンを、別のカメラアングルで捉えたものなのです。
以上のように、本作では、フキダシをあるコマから別のコマへ越境させることで、コマ間の時間的連続性を強固にする、あるいは一つの時間軸への異なる視点の導入をスムーズにする、という効果を生み出しています。どちらも、無時間メディアである漫画では極めて難しいはずの効果です。
無時間メディアの漫画で、有時間メディアであるアニメのような描き方をする。それをして、漫画のつくりが映像的であると表現したのでした。
さて、『アリスと蔵六』のセリフ・フキダシについては、また別の話もあるのですが、だいぶ長くなってしまったので、今回はこのへんで。



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二人のこびとはどこへ逃げる 『ヨルとネル』の話

人目を避けて旅をする二人のこびと、ヨルとネル。研究所から逃げ出した二人は、南へ、南へ。その道程は、辛くて、厳しくて、楽しくて、不安で、でも二人は旅をする。逃避行の息つく先はどこなのか、何なのか、二人は知らない。でも二人は旅をする。なんかふざけたことをしてふざけたことを言い合いながら……

ということで、施川ユウキ先生の新作『ヨルとネル』のレビューです。本作は、施川先生の作品にしては珍しく設定がシリアス。普通の人間からこびとになってしまった二人の少年が研究所から逃げ出し、あてどなく旅をするというものです。本気の逃避行なので追っ手もかっているし、二人も見つからぬよう路傍の片隅や主のいない家などで人目を忍んでいます。
でも、そんなハードな状況にもかかわらず、二人の会話はいつもの施川節。詳しくは最後のリンクで試し読みを読んでほしいのですが、上手い言い回しとそれをスカす半畳、日常を突然異化するセリフと、施川先生の読者にはおなじみのヤツです。でも、やっぱり設定を反映してか、一話分の終わりはちょっぴりビターに締めています。終わりの見えない逃避行を続けなくてはいけない少年二人。その道のりが楽しいだけのものであろうはずがありません。人目を忍ぶ旅だから、移動は基本夜ばかり。明けない夜はありませんが、果たしてそれがいつになるのか、当の夜の中にいる自分達にはわからないのです。一日の終わりに彼らが発する言葉。そこには不安が常に仄見えています。
全1巻で完結する本作、二人がこびとになってしまった理由も、この逃避行が最後にどうなるのかも、すべて描かれています。この結末は是非読んでほしいです。今までの施川先生の作品にはなかったシリアスな物語が、いったいどのような形で終わりになるのか、一読の価値ありです。私はビビりました。そして心揺さぶられました。是非皆さんも、心揺さぶられてください。
ところで、施川先生の他の作品で世界設定だけは妙にシリアスなものとして、『オンノジ』があります。あらゆる生物がいなくなった世界で出会った少女とフラミンゴ 『オンノジ』の話 - ポンコツ山田.com
少女とフラミンゴになった少年以外誰もいなくなってしまった世界で、二人(一人と一羽?)が生きていくというのが『オンノジ』の設定。実際に、他に生き物は誰一人何一つ登場せず、延々二人だけの世界が描かれています。しかしこちらの作品は、登場人物の性格ゆえか、悲愴感があまり漂っていません(さすがに皆無ではないですが)。
自分と相手以外誰も頼る者のいない世界。そのような共通点を持ちながら、作られる物語は大きく違っています。
実は、作者である施川先生によると『ヨルとネル』と『オンノジ』は、ルーツを同じくする作品であるとのことです。

家にあった『自虐の詩』をたまたま手に取り読み返した所、「これはキャラクターが役割から解放される話なのでは?」と唐突にひらめきました。そのひらめきを元に描いたのが、前作『オンノジ』と本作『ヨルとネル』です。どこがどう関係しているのか、感覚的な部分が多いので説明は省きます。ただ『自虐の詩』がなかったら、両作品ともに、おそらく今あるようなカタチでは描けませんでした。
(ヨルとネル あとがきより)

とのことです。
これについても、改めて両作品を読み比べた上で、何か書きたいところです。
『ヨルとネル』の試し読みはこちらから。
ヨルとネル/施川ユウキ
『ド嬢』アニメが放映されるわ、本作が出るわ、『ド嬢』3巻も出るわで、今月は施川ユウキ先生のアタリ月ですね。


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拍手レス

3月のライオン一話の感想を探す中でここに来ました
私も一話を見て原作再現にこだわっているなということは感じていました
特に、ぷるーんやつやーみたいな効果音を入れる事にこだわって少しテンポが悪いかなと一話を見て感じていたので
対局前の入室にあのような意図があるとは気づかず目から鱗でした
これからの、話の中でどのような解釈を取り入れてくるか視聴する楽しみが増えました

忠実なのが悪いわけではありませんが、やはりアニメだからこその演出とか、アニメ制作側としての解釈とか、そういうのを積極的に見せてほしいと思いますね。原作が好きなだけになおさら。

『GIANT KILLING』不遇不屈の天才・持田 傲慢の裏にある連帯の話

一か月遅れで発売された『GIANT KILLING』42巻。
A代表に呼ばれた東京Vの持田選手と、海外で活躍する現A代表10番の花森両選手の因縁から、ETU対東京V東京ダービーへ続いていく、非常に熱い巻となっています。序盤から激しく球際で競り合い、両者一歩も譲らぬ展開です。

さて、そんな熱い東京ダービーもいいのですが、今巻でちょっとグッと来たのが、持田と花森の因縁話です。
既にジュニアユースの時代から、同世代の実力筆頭と目されていた持田と花森。攻撃的ですらある明るさを露わにする持田と、陰にこもった空気を常に醸し出す花森は、パッと見の印象は正反対にもかかわらず、プライドの高さも実力も非常に高い水準で競り合っており、出会った当初からライバル意識をむき出しにしていました。
けれど、同じチームで戦うようになってからは、10番はいつも持田のもの。お互いに活躍はしても、首脳陣からの評価は持田の方が上だったようです。
それでもアイツに負けているとは思っていない花森は努力を怠らず、活躍を続ける。でも、彼と同等かそれ以上に持田も成長する。二人の差はこのまま差は埋まらないのかとも思われた矢先に起こったのが、持田の怪我でした。「ダントツに上手かったから周りに削られまく」るという持論を持つ持田。それ自体は事実でしょうが、その持論通りに削られた彼は何度も負傷し、大舞台の度に怪我に泣かされ、海外移籍も実現せず、結局いまだにW杯の舞台に立てていません。
そんな持田が、花森が海外ブンデスに行く直前にした会話が、以下のものです。

「これで花森も海外組かー 下手なのに」
「お… おまえだって移籍の話はあっただろう
怪我ばかりこじらせ続けてるから駄目なんだ… その時点で二流だと気づけ
だから早く治して…」
「ははっ! それは違うね!
俺がダントツで上手かったから周りに削られまくってこうなってんだ いわばこればトップの証
俺がいなかったら 代わりにお前がぶっ壊されてるぜ
ははっ! 相手からしたらそこまで怖い選手じゃないか! 花森は」
(こいつ… どこまで減らず口を…!!)
「貸しといてやるよ 俺の10番
五輪に引き続きレンタル延長だ A代表まで貸してやるからお前がつけろ
「……
それって俺が決められるもんじゃないのだけれど…」
「いいな? 俺が戻ったら絶対返せよ」
(42巻 p60〜62)

ここでの持田の言葉は、一見すると自分が一番上手いという傲慢に溢れたものにも思えますが、その実、長年の好敵手であった花森のことを認めるものでもあるのです。
そもそも持田は、今回の東京ダービー直前に椿へ向かって言ったように、その相手を意識しているからこそ、敵意剥き出しの言葉を投げつけます。つまり、花森を意識しているからこそこのような挑発的な言葉を言い放っているのですが、それ以外の感情も混じっています。
持田が怪我をしている間、代表で10番をつけている花森。その事実に対して「貸しといてやるよ」と言うことは、花森を自分のつけるはずだった10番を貸しておくに足る人物だと思っている証左に他なりません。その上で、「俺が戻ったら絶対返せよ」と言うのは、それまで他の奴に奪われるな、(俺がいない間の)1番でい続けろ、という言葉の裏返しです。これから海外に旅立つ友人に向けた、持田なりの激励なのです。
花森は花森で、そんな持田の言葉の裏側をしっかり読み取ったからこそ、「けなしだからだけど嬉しそうに昔話は沢山しゃべ」り、今回の持田のA代表復帰を喜んでいます。まさに、「花森ほど… 持田の実力を理解していて 奴の復活を心待ちにしていた人間は他にいないってこと」なのです。
高いプライドとそれに見合った実力を持ち、にもかかわらず怪我に泣かされている持田だからこそ、五体満足で漫然としたプレイをする選手たちには辛辣だし、逆に相応の実力を持つ人間に対しては負けん気を燃やします。そして、ごくごく稀には、激励すらするのです。
今まで傲慢さと貪欲さが尖っていた持田の、また別の内面が覗いたエピソードとして、なんだかグッと来てしまいましたね。
さて、予定では来月43巻が出るはずなのですが、それはちゃんと出版されるのか、ちょっと心配。楽しみにしてるんだから。



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拍手レス

文章が鋭く、キレッキレですね。内容も的確ですが、表現もわかりやすいので、すっと腑に落ちます。こんな達意のテキストを、苦渋の跡も見せずに書けるなんて。久しぶりにサイトに来ましたが、お気に入りに入れてて、本当に良かったです。
応援してます。頑張ってくださいね。

ありがとうございます。久しぶりの更新にも関わらず、見捨てず読んでいただいた上に、そのようなお言葉、大変うれしいです……
もうちょっと頻繁に読んでいただけるよう、なるべく、ええとまあ、なるべく更新していこうと思います、ハイ。

『3月のライオン』原作に忠実なアニメと逸脱の面白さの話

アニメ『3月のライオン』の第一話が先日放送されました。

原作のChapter.1から2の最終盤まで(2全部ではない)という大胆な構成できました。二海堂の存在を次回の引きに使ったわけですが、おそらく、原作Chapter.3の若手棋士紹介までの流れをひとまとめにするのかなあと思います。まあ気になってるのは、原作のChapter.2最終ページで何の躊躇もなくジャンクフードを貪り食ってる二海堂の描写に修正を入れるのかどうかなのですが。カットするまではいかないにしても、後にエクスキューズのききそうな、なんらかの描写を足すのかな、と。
さて、第一話(アニメでもChapter表記をしていますが、放送一回分ということで便宜上そう表現しますが)で私が一番グッときたのは、原作では、朝起きてから対局するまでの流れを描いた中でさらっと挿入されている、零が誰もいない対局室に入ったシーンです。原作ではそこまでの流れの中のほんの一コマに過ぎないのですが、アニメではたっぷり尺をとっていました。それまで流れていたBGMを消し、誰もいない対局室の全景をなめるように映し、音がないからこそさやかにそよぐ光や風の動きが映える。大きく静かな川の流れがこちらを呑みこむかのようなシーンに息を飲み、いっそ神聖ささえ感じました。
原作者である羽海野チカ先生は、12巻封入の新刊ペーパーで本アニメについて「真っ向からガチで忠実過ぎる位に原作を「そのまんま」映像として動かして再現して下さっています」と書いています。確かに、各シーンのカットやセリフ回し、デフォルメの描写などを見るに、原作の空気を極力再現しようという意気込みはひしひしと感じられます。同ペーパーにも「だって原作の空気感まで完ペキなんですもの」とありますし、多少のリップサービスを加味しても、それは原作者も認めるところなのでしょう。
けれど、私がグッときたシーンは、むしろ原作の描写から逸脱したものです。前述のとおり、漫画ではさらっと流されているシーンですが、わざわざ尺をとり、漫画にはなかった意味合いを込めている。アニメ制作サイドに、後々の展開を考えれば、ここで対局室、すなわち主人公が人生を賭けている空間に強い意味を与えておきたいという意思があったであろうことがうかがえます。
原作に忠実に作る中でのあえての逸脱。だが、それがいい
勝手なことを言えば、原作に忠実過ぎるメディアミックスなんて面白くないんですよ。忠実に作れば作るほど、じゃあそれ原作見てればいいんじゃない? ってなりますから。特に漫画→アニメのメディアミックスの場合に、それが顕著になります。
好きな漫画に没入しながら読んでいるときは、白黒の中に色は見えてくるし、微動だにしていない中でキャラクターは動きだすし、無音の中で音声は聞こえてきます。もちろんそれは自分にしか見えないし聞こえないものですが、もしその作品が映像化された場合、原作に忠実に作れば作るほど、そのアニメは私的な幻視や幻聴に近くなるのではないかと思うのです。いや、近くなるというよりは、自分の想像から外れなくなる。アニメを見て、「ああ、そんな感じになるよね」という気持ちになってしまう。そんな気がするのです。
正直なことを言えば、あの対局室のシーンがなければ、一話を見て「まあ、続きは別にいいかな」と思ってもおかしくありませんでした。それほど原作に忠実な映像化でした。つまり、それだけ自分の想像の範疇を踏み越えないアニメでした。
もちろん、忠実だから悪いということはなく、原作を知らない人にアニメを見て作品の面白さを知ってもらうなら、原作に忠実であればあるほどいいのかもしれません。ただ、それ「だけ」だと、私には少々物足りない。そういう話です。やっぱりせっかく別のメディアで味わうのだから、別の作り手がかかわるのだから、その作り手のエゴが見えてほしい。こういう作品にしたいという意思が見えてほしい。そういうわがままです。
ただ、やっぱり不思議だなと思うのが、もともとが、静止した絵と、無音の文字の構成を媒体とする漫画を、色のついた動く映像と、声や音、BGMが入ったアニメという媒体に変えても、原作に忠実に作ろうと思えば忠実に作れるのだな、ということです。「そうなるのか!」という驚きではなく、「やっぱりそうなるよね」という納得。そうなる(できる)のが不思議なのです。
鑑賞する際の時間を自分で操れる漫画と、作り手に従うしかないアニメ。この差は以前から考えているものです。漫画は、絵や文字が書いてあるページを自分のペースでめくることができる一方、アニメは、実際に動くキャラクターや音声など制作側が意図した時間の進め方に従わざるを得ません。このように、作品の受け手はその受け取り方に大きな違いがあるのですが、作り方を工夫すれば(今回の例でいえば、原作に忠実に作るということですが)、物語から受け取る印象を極めて近似のものにできるということがわかりました。それは、受け手の時間の感覚は、物語と本質的なところで無関係であるということなのかもしれません。
最後は少し話がそれましたが、アニメ『3月のライオン』におかれましては、今後も原作を忠実に踏襲しつつ、要所要所で「いや、俺はここをこう描きたいんや!」と熱い逸脱を見せていただければと思います。


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