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漫画の話です。

遺伝子の海で生きる、ヒトとヒトならざるものと『螺旋じかけの海』の話

遺伝子操作が産業化し、複数の遺伝子を掛け合わされた生物・キメラ体が多く生み出された世界。そしてそこは、ヒト種優生保護法により、ヒトとしての人格を持ちながらヒトではないとされ、差別や迫害に苦しむ、あるいは金持ちの玩具として売買されるものが生み出された世界でもある。
音喜多涼彦(おときたすずひこ)はそんな世界で、遺伝子操作を生業とするモグリの生体操作師として生きていた。半分水没した都市に浮かぶ船上で、居候で助手の雪晴と暮らす彼の下には、治療を待つ傷ついた動物や、ヒトならざるヒトが身を寄せる。
ヒトとはなにか。ヒトではないとはどういうことなのか。境界のあわいを生きるヒトたちは何を思うのか……

螺旋じかけの海(1) (アフタヌーンKC)

螺旋じかけの海(1) (アフタヌーンKC)

ということで、永田礼路先生『螺旋じかけの海』のレビューです。
時は近未来。遺伝子操作が発達した世界で、その技術は医療のみならず、嗜好娯楽のためにも利用されていました。すなわち、遺伝子を操作した生物が愛玩用に飼われているのですが、問題なのは「生物」のカテゴリが人間にまで及びかねないことです。
倫理や道徳が技術に追いつかないのは世の常。ヒトとそうでないものをいかに分かつか。社会が庇護するべきヒトとは誰なのか。
その問いに一定の解決を与えるために制定されたのが、ヒト種優生保護法です。異種遺伝子が組み込まれ、ヒト以外の種の組織が15%以上含まれている存在をヒトではないものとし、人間を対象とする法の庇護から外しすことにしたのです。
外観がいかにヒトのようであっても、ひとたび遺伝子と体組織の割合が基準から外れれば、それはもうヒトならざるもの。それを殺したところで、殺人の罪に問われることさえありません。それゆえ、もし秘密裏に人間へ遺伝子操作を施し、遺伝子や体組織の割合を変えてしまったら。胚の段階で調節をして、後天的に非ヒトの部分が発現するようにしたら。
こうして、世には、持つ者のために不法な遺伝子操作を施されてしまった持たざる者、ヒトならざるものが生まれてしまっているのです。
音喜多は、そんな世にモグリの生体操作師として暮らす中年男性。不真面目でちゃらんぽらんな性格で、不安定な社会の中で、時として警察に追われながら、遺伝子の操作による整形術や治療を生業としています。
そして、彼自身もまたヒトならざるもの。普通は、本来の種以外に一つの遺伝子しか掛け合わされないものを、彼には一体いくつの遺伝子が組み込まれているのか、ちょっとしたことがきっかけでさまざまな種の遺伝子が発現し、鱗が形成されたり粘液が染み出たり尻尾が生えたり。当然それら体組織の割合は15%以上。法的に彼は、ヒトではありません。しかし、彼が生体操作師として暮らしていけているのは、まさにその体質のおかげです。自分自身の体質と長く付き合ってきたからこそ、他者の遺伝子操作にも熟達するし、異なる遺伝子の発現に苦しむヒトの気持ちもわかる。彼の周りには、そんなヒトやヒトならざるものが集ってきます。
この、人の道徳や法が少しささくれてしまった世界で、ヒトはどう生きるのか。ヒトであったはずなのにヒトでなくなってしまったものはどう生きるのか。ヒトの意識を持ちながらヒトでない形を選んだものの人生は。
そんな難度の高い問いを、静かに問い続けていくような物語です。たとえば第三話では、中島敦の『山月記』を下敷きにしたと思しき話が描かれています。人里はずれた川べりに住むワニ、ウドーは、かつてヒトだったもの。スラムで食い詰めたところでワニの形質が発現し、研究所の人間に捉えられ、人権の剥奪された被験体として生きていたのですが、別の研究所に移送される途中で事故に遭い、たまたま通りかかった音喜多に連れられて、彼の船へ身を寄せました。ウドーを治そうとした音喜多でしたが、ワニの体組織が余りにも多く発現してしまい、恐竜人間と見まごうばかりになってしまったウドーを人間に戻すことはほぼ不可能で、結局彼に三択を突き付けることしかできませんでした。すなわち、施設に戻るか、死ぬか、あるいはワニとして生きるか。
最終的にウドーが選んだのは、ワニとして生きることでした。ヒトとしての意識を持ちながら、生体としては完全にワニになる。ただ、人工声帯だけはつけることで、人間、といっても音喜多と助手の雪晴くらいしかいないのですが、会話をすることを可能にしました。それと、歌。周りに鳥や魚や植物しかいない孤独な自然の中、ウドーはヒトの意識を保つために、歌を歌っていました。そしてそれは、彼が研究施設で過ごしていた時に身に着けた習慣でもあります。歌を歌っている時だけは、彼は自分が人であると思えたのです。
しかし、ワニの身体と生活は、いつしかヒトの意識を薄れさせます。ウドーの経過を見るため定期的に彼の下を訪れる、恩人にして友人である音喜多や雪晴に対してさえ、次第に見る目が変わっていってしまうのです。
完全にヒトの意識がなくなってしまう前に、ウドーが選ぶ道は。音喜多らが選ぶ道は。
乱雑な社会の中で、さびしいものたちが寄り添うように、傷を舐め合うように生きている。ちょうど今時分の冷たく乾いた空気が漂っているような世界の雰囲気がいい感じです。自身もヒトから外れている音喜多が、この先ヒトと、ヒトならざるものとどうかかわっていくのか。彼はどうなっていくのか。今後の描かれ方が気になる作品です。
第一話の試し読みはこちらから。
螺旋じかけの海/永田礼路-モアイ


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『亜人ちゃんは語りたい』性質と「らしさ」の話

亜人ちゃんは語りたい(2) (ヤンマガKCスペシャル)

亜人ちゃんは語りたい(2) (ヤンマガKCスペシャル)

意外に早く感じた、『亜人ちゃんは語りたい』の第2巻。でも、1巻発売はまだ今年の3月と思うと不思議な感じもする。もっと前の気がするのはなぜ。
それはともかく、2巻で私が心に残ったのは第11話です。双子のバンパイアの姉を持つ小鳥遊あかりが、その姉(を含むデミたち)に興味を持っている主人公の生物教師・高橋鉄男とたまたま下校のタイミングが重なったので、かねてより気になっていた、姉と親しく接している彼は、姉そものではなく姉のデミとしての部分に興味があるだけなのではないか、という疑念を晴らすべく、かまをかけるようにして「姉の『人間性』についてはそれほど興味はありませんか」話を振ってみたのですが、それに対して鉄男はこう答えました。

確かにあいつは『バンパイアの性質』に即した行動はあまりしない
だがそれでバンパイアらしくない・・・・・と言われると
…それは違う
ひかりは人から血を吸いたい気持ちはあるがパックで我慢している
またバンパイアの嗅覚を上回ってなお匂いの強い食べ物が好き
そういった『人間性』があいつのバンパイアらしさ・・・・・・・・であり人間としての個性・・・・・・・・
らしさ・・・は生まれ持った『性質』ではない 『性質』をふまえてどう生きるかだ
(中略)
亜人デミの性質』だけ見ていると個性を見失う
人間性』だけを見ていると悩みの原因にたどり着けない
どっちも大切だ
バランスが大事なんだ
オレはそう考えている
亜人ちゃんは語りたい 2巻 p28〜31)

この彼のセリフを念頭に置いて、改めて1巻から読み返してみると、随所にそのような描写があります。すなわち、亜人の性質とはあくまで体質的なもの、たとえば海苔を消化できるのは日本人だけとか、ヨーロッパ系の人種はお酒に強いとかそういう類のものであり、各々の性格や趣味嗜好、その人らしさとは、性質そのものを指すのではなく、性質を踏まえた上で、そしてその他の体質や環境等も踏まえて発露しているもの、という描き方がされています。
たとえば、第4話でデュラハンである町から、頭部を抱きしめてくれないかとお願いされた鉄男は、彼女のことをこう分析しています。

デュラハンは頭だけでは身動き一つとれない
移動するには自身の身体にしろ人肌に触れる必要がある
つまり孤独を嫌うこと自体がデュラハンの性質であり
言い換えればさみしがりであり
デュラハンちゃんはまだまだ甘えたいのだ
(1巻 p62)

デュラハンは、頭部とそれ以外の身体が分離しているデミです。それゆえ、上で鉄男が思ったような身体的な性質があり、そこから、さみしがりで甘えたがりという「町らしさ」が導かれています。
町自身もその点を自覚していて

デュラハンだから…… こうやって抱えられてるときが一番安心できるっていうか……好きなの
だから その… 好きな 人に… 抱えられてぶらぶらできたらいいなって…
(1巻 p70)

と、希望のデートプランを語っています。甘酸っぺえなあ。
また、気を抜くと他者を催淫してしまうサキュバスの早紀絵先生は、その性質ゆえに、恋愛に対して懐疑的になっています。

世間で言う恋愛関係を構築するのは難しくない… それこそ派手な格好をして外を歩けば―― 異性は好意を持ってやってくる…
ただそれは本当の恋愛ではないと思う
その好意はニセモノだと…
……
でも私が異性を好きになったとき その気持ちは異性が私を想う気持ちと何か異なるのだろうか……
何も違わないとすれば……
私の気持ちもまた――……
(1巻 p89,90)

「性欲の亢進」という性質から、人付き合いに対して臆病になっている早紀絵先生。それもまた彼女らしさです。
このように、町や早紀絵先生は、自身の性質と、そしてそれを踏まえた上での自分の性格に自覚的なのですが、雪女のデミである雪はそうではなく、2巻ではそんな彼女にスポットが当たりました。すでに1巻の時点で、彼女がデミである自分自身に苦しんでいる話は出ていましたが、いわばその解決編です。
高校に入学するときに田舎から上京してきた雪は、急変した新しい環境に不安を覚え、鬱々とした気分で入浴していました。すると気がつけば、湯船の中に氷の小片が。それはすぐに融けたものの、彼女は恐怖に駆られました。ひょっとして自分が発する冷気は、お湯を凍らせるほどのものなのでは、と。

……怖いんです 結局自分がどれくらい・・・・・危険なのかわからない……
それがわかって他人に伝えられれば 胸を張って“私は雪女だ”と言えるのに……
(2巻 p43)

自分が知らぬ間に誰かを傷つけてしまうかもしれない。自分がどういう人間かがわからない。その恐怖、不安が、彼女をひどく傷つきやすいものにしていました。
自分の陰口を偶々聞いてしまった雪は、その誰にも起こりうる事件に大きく心をえぐられます。もちろん、誰にも起こりうるかとら言ってそれが人を傷つけない理由にはなりませんが、傷ついた彼女の様子は、それなりの期間教師生活を続けてきた鉄男から見ても、度を越しているようでした。落ち込む彼女のフォローをしようとする彼の言葉を食うようにして、「私が亜人だからですかね…?」と、苦悶の言葉を絞り出しました。

ひかり 町 そして佐藤先生もそうだろう
今まで出会った亜人たちは その性質を受け入れて生活していた
だが当然 亜人であることに折り合いがつかず苦しむ子もいる 当然だ
(1巻 p109)

この、デミであることと折り合いがつかない雪に、うまく折り合いをつけさせたのが、2巻最大の山場だったのですが、その時の鉄男の説明も、雪が悩む雪女としての性質を具体的に明らかにするものでした。雪はその説明を聞き、自分の性質を踏まえられて初めて、雪女として胸を張って生きられるようになったのです。13話ラストの、自信に満ちた笑顔で「私 雪女ですからっ!」と言った彼女の姿が、その何よりの証左でしょう。


ところで、サキュバスの早紀絵先生や、雪女の雪は、名前と亜人の関連性を見て取れるのですが、ひかりと町はなんなのでしょう。ふと思ったのが、町の場合は、「町」という漢字が、頭部(田)を持っている人(丁)を横から見た象形文字なのではという仮説。2巻の表紙とか、それっぽくないですか?


ところでその2、地味かわいい女子高生に辛い話を音読させながら足湯をさせるって、ちょっとした女子高生リフレですよね。どこでいくら払えば体験できますか?



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彼女はのぼる みんなは見つめる 『のぼる小寺さん』の話

高校一年生の小寺さんは、クライミング部に所属する女の子。大好きなボルダリングに毎日精を出しています。明るい髪の色や、他人と群れない性格もあって、クラスメートらからは少々遠巻きにされていますが、誰に対しても優しく気を遣え、存外素直な性格からか、好感度は高いです。体を動かすことにはつい一生懸命になってしまう彼女を、みんなみんな、気がつけば目で追っているのです・・・・・・

のぼる小寺さん(1) (アフタヌーンKC)

のぼる小寺さん(1) (アフタヌーンKC)

ということで、珈琲先生『のぼる小寺さん』のレビューです。
ボルダリング大好きな小寺さんが、のぼる、のぼる、ただのぼる。一生懸命に、ひたむきに。周りの人はそんな彼女を見て、憧れたり、見習ったり、我が身を振り返ったり。主人公は確かに小寺さんなのですが、今のところ彼女の内心が直接描かれることはなく、あくまで他の人間が彼女の振舞を見てどう感じるかが中心となっております。
なんとなく入った卓球部の練習中に、同じ体育館の中で小寺さんが真剣にボルダリングをする姿を見る男子学生。
友達とのつきあいについ流されてしまう自分に嫌気がさしてきたところで、周囲の目を気にしていないかのように日々を送っている小寺さんを見るクラスメート女子。
学校にも行ったり行かなかったりのだらだらした生活を過ごし、自分の夢と真剣に向き合えずにいたら、自分の好きなことを素直に口に出せる小寺さんに出会ったちょいヤンキー女子。
自分に自信のないまま小寺さんに告白したら、そのときなぜか泣いた彼女が流した涙の意味を知りたい中学の同級生。
小寺さんに何かを感じた彼や彼女は、どうにも小寺さんから目が離せないのです。
決して小寺さんが特別なのではなく、また彼や彼女が特別なのでもないでしょう。ただ、彼や彼女の抱えていた何かに小寺さんがぴたりとはまり、目が離せなくなってしまったのだと思うのです。
最後にリンクを貼りますが、最初に第一話を試し読みした時は、その話の主な視点となっている男の子(上で書いた卓球部の男子学生)がメインキャラクターで、以降も彼を中心に小寺さんと絡んでいくストーリーが展開するのかなあ、それだとなんだかなあと思っていたのですが、実際のところは前述のように、彼の他にも複数の人間らによって、あくまで小寺さんを見ることが中心となる作品なのです。
そして、それがよい。
小寺さんの内心が描かれないということは、彼や彼女が、彼や彼女の目で小寺さんを見て、彼や彼女なりの理解を得るように、読んでる私たちも、彼や彼女の目を通してのみ小寺さんを知っていくことになります。彼や彼女は、あくまで自分一人で見ている小寺さんしかわからないのですが、私たちは、複数の人間の目を通して彼女を見ることで、いろいろな側面を知っていくことができます。
そうして形作られている「小寺さん」という一人の女の子。
ボルダリングが大好き。体動かすの大好き。でも授業とかサボっちゃう。かわいいのも好き。素直。食べるの大好き。でも食は太くない。
みんなの目があるから浮かび上がってきた,小寺さんの姿。彼女のいろいろな面を少しずつ知っていって,かわいい彼女が見えてくるのが楽しいのです。
かわいいよね、小寺さん。そりゃあ目で追うわ。
以下のリンク先で第一話が試し読みできます。
のぼる小寺さん/珈琲-モアイ
第一話から少しずつ形作られていく小寺さんをぜひ見守れ!


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科学者は気になるあの子の夢を見るか?『決してマネしないでください。』の話

某工科医大に在籍する掛田君は、中高と男子校に通い、ようやく入った大学は、一学年60人のうち女性がたった二人の物理学科。女性に免疫のないそんな彼が食堂のおねえさんに恋をして、一世一代の告白をしました。
「僕と貴方の収束性と総和可能性をiで解析しませんか?」
無論、撃沈。
でも、それでへこたれてはいけない。夢を見るのが科学者の仕事。諦めるのは何度も実験をしてから。大体のことは一度や二度や三度や四度、失敗する。勝負はそれからなのだ!
理系魂に燃える不器用な掛田君の明日はどっちだ……

決してマネしないでください。(1) (モーニング KC)

決してマネしないでください。(1) (モーニング KC)

ということで、蛇蔵先生『決してマネしないでください』のレビューです。
某工科医大の学生や教授や食堂のおねえさんらが、日常に転がるちょっとした科学の疑問を実験で説明したり、科学の歴史を語ったり。食堂のおねえさんこと飯島さんのハートをつかもうと掛田君が奮闘する中で、科学のあれやこれやを学べます。
ナチュラルボーン不器用こと大学生の掛田君が、飯島さんの前で空回りすること風の如し。冒頭の告白と思ってすらもらえなかった告白を筆頭に、それを踏まえた上でわかりやすさを念頭に置いた殺し文句が「先に示された意思疎通の可能性を追求するために、共同研究という体験の共有を提案します。この実験により期待されるものは、警戒心の低下と高感度の上昇です」。さすが、好きなものが物理と関数電卓素数の17で、幼少のみぎりには積み木で因数分解をしていた男は違う。
けれど、学友の有栖君や留学生のテレス君、ゼミの高科教授らの助力を得ながら、なんとか飯島さんの興味を惹こうとします。
飯島さんは、工科医大で働いているけれどあくまで食堂のおねえさん。科学についてずぶの素人です。でも、「専門的なことをウェイトレスにもわかるように説明できない時は、原理のほうに問題があるのだ」という、原子核の発見者ラザフォードの言葉を実践するかのように、彼らは飯島さんを誘い、数々の実験を行います。
映画で火だるまになるスタントマンはなぜ火傷をしないのか?
どうして飛行機は飛べるのか?
ハードディスクを復旧できるダメージの限界は?
古来より科学の力は、不可能だと思われてきたことを少しずつ現実のものとしてきました。
火だるまになってもぴんぴんしているスタントマン。
大空を翔る鉄の塊。
膨大な量の情報を記憶し、計算を行う箱。
人間が一歩ずつ拡大してきた領域のその最先端だけを見せられると、知識のない人はまるで魔法のように驚きますが、研究者たちにとってそれは、先人たちの成果という大地の上に立てられた確固とした存在。保水性の高いポリアクリル酸ナトリウム(おむつに入ってるアレ)が主成分のジェルを服にべったり塗り込めば、炎に包まれても短時間なら問題ないし、ベルヌーイ効果という流体力学の原理を発見したから、ただ速いだけの車は飛べなくても翼を持った飛行機は飛ぶことができるし、またその効率を追求することができます。精密機器だしこれをされたら駄目だろうと思うようなダメージを与えても、その機器のどこが大事でどうならなければ平気なのかわかっていれば、復旧できるのです。
嗚呼、知識って素晴らしい。その素晴らしさを、少しでも多くの人と分かち合う。これこそ科学の啓蒙です。食べ終わった後の骨で骨格標本をつくろうとケン〇ッキーのパーティーバレルを買ってきたり、授業できのこの山たけのこの里にする機械を発明したり、個人でスパコンを作ってCIAに呼び出されたりする人たちでも、やればすごいんです。
さて、やってることは面白実験でも、その実験を危険性なく成功させるためには、先に書いたとおり、幾多の失敗を乗り越えてきた先人たちの成果がなくてはなりません。この事実は何度かいても書き足りないくらい大事な事実だと思うし、それについては折に触れ作中で描かれています。
たとえば第一話では、酸素はなぜそう名づけられたのかの説明をするために、名づけ親である18世紀の科学者ラボアジエに至るまでの2000年近くにわたる「空気」の捉え方の変遷を描いています。また、細菌がまだ人間の目には見えていなかった19世紀、病院での産褥熱の発症を抑えるために様々な要因を比較研究し、手を洗うという、現在では常識以前のものですらある行為を医療関係者の間に広めようとして、認められないままこの世を去った医師ゼンメルヴァイスの話もあります。
それらエピソードの中で私が出色だと思うのは、第七話での、コンピュータが発明されるまでの話です。コンピュータを発明した人ととしてしばしば名前を挙げられるのが、20世紀最大の頭脳と謳われる物理学者(であり数学者であり経済学者)のジョン・フォン・ノイマンですが、実際のところ、「彼がコンピュータを発明した」と言い切るのは少々憚られるのです(そもそも、そのノイマン型コンピュータにしても、彼一人で作ったわけではなく、彼を含むチームによる製作です)。なぜというに、彼の前に機械式計算機 が考案され、パンチカードコンピュータが考案され、「命令を読んで自己改変する万能機械」というコンピュータのアイデアを生み出したものがいて、プログラム式コンピュータが考案され、電子式コンピュータが考案され、それらの積み重ねの上に、現在のコンピュータの原型となるノイマン型コンピュータがあるからです。
このような「発明」のイメージを作中では「水を入れたコップに石をだんだん加えていき こぼれた所が「発明」」というように表現しています。一人の天才が大きく歩みを進めることはあり得ますが、その天才が生まれおちた世界には既に、その天才が活躍できるだけの土壌が、彼の与り知らぬところで形作られているのです。
「大学の研究ってなんの役に立つのかと思ってたんですけど すぐに成果は見えなくても こうやって何かの礎になるものを作ってたんですね……」
科学の素人たる飯島さんのセリフです。すげえいいセリフ。日常のあらゆるところに、私たちの生活を便利なものにすべく学問の成果が潜んでいるのです。決して科学は日常と無縁のものではないのです。メートル法暦法など、形のない概念も同様のことが言えますね。
身近な科学知識と、その知識が生み出されるまでの壮大な人の営みを学べる、「楽しく知的な、大人の学習マンガ!!」という2巻帯の惹句は伊達じゃありません。おすすめ。
一話と七話がこちらで読めます。
決してマネしないでください。 第一話/蛇蔵-モアイ
決してマネしないでください。 第七話/蛇蔵-モアイ


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『GIANT KILLING』わかりやすい試合展開の秘密の話 後編

前編からの後編です。
後編では、前編で述べた漫画におけるサッカー描写の難しさを踏まえて、『GIANT KILLING』ではどんな特徴が見られるかを書いていきたいと思います。

GIANT KILLING(35) (モーニング KC)

GIANT KILLING(35) (モーニング KC)

まずはさらっと前編を復習しておきましょう。
漫画におけるサッカー描写の難しさは、おおまかに二点。コートの広さと選手の多さ。そして、フィールド上で360度どの方向へも動くボールと選手です。この二点を有するために、サッカーというスポーツの描写には、他のスポーツに比べ試合展開が不明瞭になりやすいという問題が生じるのです。
では、『GIANT KILLING』はいったいいかなる描写でもって、それらを防いでいるのでしょう。

1,フィールドの目標物

前編で私は、サッカーのフィールドは広いために、選手やボールがどこにいるのかわわかりづらくなると書きました。ならば単純に、今どこにいるのかわかりやすくすればいい。つまり、フィールド上、またはスタジアム内で位置を変えないラインやゴール、あるいは監督やコーチ、特定の観客などの、不動の目標物をコマ内に描くことで、相対的に選手やボールの位置がはっきりさせることができるのです。

(33巻 p16)

(33巻 p25)
一枚目には広告の看板と、見えづらいですがタッチラインが、二枚目には交わるタッチラインゴールライン、そしてコーナーフラッグが描かれています。たったこれだけで、フィールド上での選手やボールの相対的な位置が見えてきます。
一枚目がフィールド中央でなく右サイドであること、二枚目が相手陣地の右サイド深めの位置であることが、目標物のおかげでわかるのです。
ためしに、それが一切ない画像を見てみましょう。

夕空のクライフイズム 5巻 p53)
フィールド上でのポジショニングが不安になるくらいわかりません。
もちろんあらゆるコマは、前後のコマとの関係性の中にありますので、一つのコマに目標物となるものが描かれていなくても文脈で判断できる場合は多々ありますが、コマ内にある方がわかりやすいことは明らかです。

2,効果線

GIANT KILLING』では、ボールや選手の動きに沿った効果線を入れることで、試合全体がいまどちらの方向へ進んでいるのかを表しています。

(35巻 p176)
これがあることで、ボールがどう動き、それに対してハウアーがどういうポジショニングをしているかがよくわかります(背後にあるゴールも、ハウアーのフィールド上での相対的な位置を表しています)。

(35巻 p177)
さらに、先に引用したコマの効果線の方向と併せて考えると、このコマでボールの動いた方向が効果線の向きと異なっていることで、ハウアーが左を向いてパスを後ろにはたいたこと、ボールが志村からのパスとは違う(ハウアー-ゴールの軸から傾いている)方向へ動いたのが非常に明確になっているのです。
試合(動き)の流れの基準となるような効果線を描くことで、それに沿う流れ/横切る流れが見えてくると言えます。

(34巻 p182)

(34巻 p183)
この2pの流れなどは、1と2の両方が実によく活きたシーンです。石神がボールを奪ったコマは、コマ右奥にコーナーフラッグが見えることで彼の位置が自陣半ばほどの右サイドだということがわかりますし、次の画像では、前線のガブに送られたボールが、一旦椿へマイナスに折り返され、そして前へ走るガブにワンツーで再びパスが出たことが、効果線のおかげで明瞭に見えてきます。

3,俯瞰とアップの連携

前線へのロングパスや大胆なサイドチェンジなど、フィールドを大きく使うプレイはサッカーにおいてしばしば見られるものですが、その際にボールがどのように動いたかを一望的に描くためには、俯瞰的あるいは鳥瞰的な構図にならざるを得ません。また、相手のボールを奪ってカウンターを仕掛ける時など、フィールド上のどこに各選手がいるかというのが重要な情報になってきますが、それらもやはり、先の構図の絵によって表現しやすいものです。
しかし、そのような構図の弱点は、全体を描くことに秀でるために、逆に個々の細かい動きの描写が犠牲になってしまうことです。長所と短所は表裏一体というやつですね。

(32巻 p99)
少々極端ですが、こんな感じの構図ですね。誰がどこにいるのか、何をしたいのか、これではわからない。
では、この構図のメリットを生かしつつ、デメリットを補うにはどうすればいいか。
まあ簡単な話ではあるのですが、俯瞰構図で細かいところが見づらいなら、そのすぐ後に細かいところ、つまり重要な選手のアップを描けばいいということになります。

(35巻 p151)
大阪の片山から畑へ、逆サイドへ大きく振ったパスが、その軌跡や選手の位置がわかるように俯瞰で描かれていますが、その次のコマの流れで、ボールを受けた畑とプレスに行った赤崎が描かれています。また、この画像の直前にも、パスを出す片山と彼へプレスに行った世良が描かれています。こうして、俯瞰構図を補うように、あるいはアップの構図(=狭い範囲しか描けない構図)に包括的な連続性を与えるために、俯瞰構図とアップの構図が続けて描かれているのです。

(34巻 p156)
この画像もそうですね。俯瞰で描かれた構図の前後に、パスの出し手の村越と、受け手のガブのいるコマを配置し、誰が、どんなパスを、どのような体勢で出したかというのを明確にしています。

4,選手の心理描写

純粋に画面構成の面以外にも、『GIANT KILLING』では、試合中に選手が何を考えているかということを細かく描いています。
パスを出すときの気持ち。受けるときの気持ち。ドリブルを待ち構えるときの気持ち。ドリブルで攻め込むときの気持ち。先制点を叩きこんだときの興奮。相手の猛攻を凌ぎ切ったときの安堵。退場者が出て10人で戦わざるを得なくなったときの切迫。終盤になっても逆転の糸口を掴めないときの焦り。
選手の感情は、彼らがどのような動きをしたからそう感じたのか、次にどのようなことをしたがっているのかを教えてくれます。それらは、試合の展開について具体的な描写をするわけではありませんが、選手の行動により詳細な意図を与え、結果的に試合状況の意味もはっきりしてくるのです。

(35巻 p149)
相手の起点を潰したいという夏樹の意図が見えるために、司令塔である志村へ積極的にプレスへ行った夏樹の動きがより具体的になります。ただ漫然とした動きではなく、目的のある、意思のある動きなのです。一つ一つは細かいことかもしれませんが、それらが積み重なっていくことで、試合がただの場当たり的なボール蹴っ飛ばしでなく、22人(+α)の意図が複雑に交錯する知的なゲームとなるのです。


以上、思いついた4点を、試合展開をわかりやすくしている特徴として挙げてきましました。無論のこと、これ以外にも様々な面でわかりやすさを生み出す特徴があるでしょうし、他の作品との比較によって見えてくるものもあるでしょう。また思いついたら何か書きたいと思いますが、今日のところはこの辺で。



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『GIANT KILLING』わかりやすい試合展開の秘密の話 前編

一度読み返すとついつい連続して巻を追ってしまう作品に『GIANT KILLING』があります。どこか適当な巻から読み始めると、その試合が終わるまで読むのを止められないのです。試合の結末は知っているのにそうなってしまうのは、試合の盛り上げ方が上手いのはもちろんのこと、試合展開がわかりやすい、すなわち、今現在描かれているプレイが、ピッチのどこで、どういう流れの中で行われているものなのかを理解しやすい、ということも大きいでしょう。試合展開が手に取るようにわかるため、読んでて集中力が途切れないのです。
GIANT KILLING』の試合展開のわかりやすさはどのような点に起因するのか、それを前後編に分けて考えてみたいと思います。
前編ではまず、漫画表現におけるサッカーという球技のネックについて。

GIANT KILLING(35) (モーニング KC)

GIANT KILLING(35) (モーニング KC)

そもそも、漫画というメディアでサッカーを描くにあたって、他の球技と比べて問題になる点は何でしょう。
大まかに言ってそれは二つ。
一つはコートが非常に広く、プレイヤーも多いこと。
もう一つは、ボールや選手の動く方向が、微視的に見た際に、360度いずれの方向にも限定されないこと。
いずれか一方ならともかく、この二点が複合することで、サッカーの描写には大きな困難が生まれます。
まず一つ目について。
コートの広さと選手の多さは、フィールド全体の情報量と、それに対する一コマ内の情報量の割合に影響します。
サッカーのフィールドは、タッチラインは90〜120m、ゴールラインは45〜90m(国際大会では、前者は100〜110m、後者は64〜75m)と規定があり(2015年現在)、同時にプレイできる人数は、レッドカードによる退場等がない限り、もちろん1チームにつき11人。国際大会準拠で単純計算をすると、22人で7350平方メートル(105m×70m)を走り回るため、一人当たり約334平方メートルが割り当てられることになります。これはすっかすか。もちろん現実には選手やボールが常に動いているため、選手が334平方メートルの中で一人ぽつねんとしていることはありませんが、広大なスペースと大勢の選手を漏らさず描き切るには非常な無理があります。ある選手を細かく描こうと思えば、他の選手やそこ以外のフィールドの状況は見えなくなりますし、全体の流れを描こうと思えば個々の選手の詳細な情報が犠牲になります。
一コマ内で描ける情報量はスポーツの種類でそう変わらないでしょうが、その情報量が、それと同時間軸上にある試合総体の情報量に対してどれくらいの割合になるのかと考えると、フィールドが広くなればなるほど、選手が多くなればなるほど、その割合は減じていってしまいます。一対一(あるいは二対二)で行うテニスや卓球、人数に比してコートが狭いバレーボールなどは、その点で有利であり、広いコートで多くの人間が動き回るサッカーというスポーツは、それだけで、試合展開(今どこで誰が何をやっていて、試合全体はどう動いているか)の明確な描写という点でビハインドを負うのです。


しかし、それだけならまだいいのです。ここに二つ目の問題が絡んでくると、描写の困難が跳ね上がります。すなわち、ボールや選手がどこへでも移動する可能性があることで、その描写の意味する展開が不明瞭になりやすい、とうことです。
もちろんサッカーは相手ゴールへボールを叩きこむことを目的とするので、マクロに言えばボールの動きに方向性はありますが、その大目標を達成するために、ボールはフィールド上のどの方向へも向かいます。左右へのショートパスか、前線へのロングパスか、サイドチェンジか、落ち着くためのバックパスか。ボールはどこにでも、どんな軌跡でも移動する可能性があるのです。
選手自身もまた然り。FWは攻撃だけ、CBは守備だけということはなく、あらゆる選手が攻撃のため、あるいは守備のため、フィールド上を駆けまわります。さすがにサイドの人間の左右を交換することはまずないでしょうが、それでもフィールドの中央くらいには平気でやってきます。
また、サッカーは攻守がシームレスに変化することも特徴です。野球などのように攻守がはっきり切り替わる=点を取れる機会が区別されているスポーツならば、ある時点におけるボールがもつ意味ははっきりしていますが、サッカーはオンプレイ中に攻守が目まぐるしく切り替わるために、攻撃側によるボールの動きが即座に相手側の攻撃に移るなど、ボールの動きの意味も変化していくのです。
これはAチームがフィールド中央付近からいったん右サイドへ落ち着くためのショートパスを出したのか、それともBチームが速攻のために左サイド後方から前線へロングパスを蹴ったのか。相手の裏へ抜けるパスなのか、ワンツーなのか、ゴールを直接狙ったのか、ポストプレーを図ったのか。千変万化です。
たとえばアメフトやラグビーなど、サッカーと同様、長方形の広大なフィールドと多くのプレイヤーで点数を競う球技がありますが、この二つのスポーツは、各プレイの中でのボールや選手の動きにわかりやすさがあります。
アメフトならばプレイ一つ一つが小さく区切られるために今どのようなプレイが行われているのかがわかりやすく、選手もその中でどんな役割を担っているのかが明確です。オフェンスでいえば、壁になるライン、司令塔になるクォーターバック、ボールをもって走るランニングバック、ボールをキャッチしに走るレシーバーなど、各人が何をするかはっきりしています。
ラグビーはアメフトよりもオンプレイの時間が長くなり、選手の役割も曖昧になりますが、ボールの動きには、投げることによる前方へのパスの禁止という非常に重要なルールがあるため、手でのパスが行われればそれがボールがマイナス方向へ動いたことになるし、逆にキックであればプラス方向への動きとほぼ確定します。
野球も、広大なフィールドの上、人数も多いですが、プレイごとの状況や選手の役割にはアメフト同様の明確さがあります。
サッカーの、ボールや選手の動きの流動性の高さは、メジャーなスポーツの中では群を抜いていると言えるでしょう。バスケも流動性は非常に高いですが、サッカーと人数は大差ないにもかかわらず、コートがだいぶ狭いため(縦28m×横15m)、試合の情報が散逸しづらくなります(あくまで比較的ではありますが)。


以上、二点を併せ持つサッカーは、広大なフィールド上で一つのボールと大勢の選手が入り乱れ、ボールや選手の状況がシームレスに変化し、360度あらゆる方向にそれらが移動する可能性があるという、恣意的に視点を切り取れる漫画というメディアだからこそ非常に厄介になる特徴があるのです。
一般的に漫画は、ある状況を描き手が恣意的に切り取り、任意の絵として一つのコマに落としこみ、それらのコマをページ内に配置し、連続的なストーリーを生み出すものです。肝はこの恣意性の按配で、状況を好きなように切り取っていいために、ともすれば独りよがりな、自分にしか意図が解らないコマ(絵)が生まれてしまいます。すなわち、この選手はフィールド上のどこにいるのか、このボールはどこに向かって蹴りだされたのか、この選手やボールの動きはいったい何を目的としているのか等、それらがわかりづらいコマです。
散漫に試合の描写をしていると、今、フィールド上のどこでどんな意味を持つプレイが行われ、それが次にどのような展開へつながっていくのかが、簡単に見えなくなってしまうのです。
では『GIANT KILLING』ではどのようにそれが防がれ、明瞭な試合描写を生み出しているのでしょう。後編ではそちらについて書いていこうと思います。




追記:ということで後編です。
『GIANT KILLING』わかりやすい試合展開の秘密の話 後編 - ポンコツ山田.com


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「もしや私が異常なのか」いえ、みなさん異常です 『お尻触りたがる人なんなの』の話

「おい フェラって知ってるか」
「斉藤 おまんま見せてくれね?」
「じゃあどうしたら尻をなでさせてくれるんだよ!!!」
「沢城嬢は己の女陰の内を見たことが無いそうだ」
衝撃的な発言から始まる、数多の卑猥な話。お下劣にお下劣を重ねながらも不思議と嫌悪感は生まれず、ライトなギャグとそこはかとないエロスに溢れた、珠玉のコメディ短編集。「溢れた」とかエロイな……

お尻触りたがる人なんなの

お尻触りたがる人なんなの

ということで、位置原光Z先生の新作『お尻触りたがる人なんなの』のレビューです。白泉社の雑誌「楽園」本誌とweb増刊で掲載されていたものを実に四年分。一回当たりの掲載ページが少ないのでこれだけかかったのもむべなるかなといったところですが、めでたく単行本してやれうれしや。
基本は高校生、たまに大人の下品な人間たちが繰り広げる、下世話にまみれたコメディ。帯には「もしや私が異常なのか」「安心しろ」という本文から抜粋したセリフがあるけれど、何に安心しろというのか。お前もあたしも誰も彼も、みんな異常だから安心しろ、ということなのか。たぶんきっとそうだ。そうとしか思えないくらい、異常な人間と異常な会話で満ち満ちている。「満ち満ちている」とかエロイな。
異常だの正常だのいったい誰が決めるのだと嘯きたくなるような世の中ではあるけれど、まあこれだけ下ネタが乱舞するような世界は異常と言って差し支えはあるまい。たとえ人類遍く須らく異常であり、あとはその濃淡だけだとしても、女陰を連呼する女子高生たちは、たぶん濃厚に異常だぞ。
けれど、人前でするには憚られるアレな話も、軽妙なテンポで展開される会話のおかげか、不快の念も湧かず、するするすると受け入れられる。それどころか、笑える上に、ちょっとちゃんと、エロイ。すごいぞ、なんで四白眼のむにっとしたデフォルメ顔であんなにエロイんだ。むちむちした体のせいか。乳袋のように過剰に強調されていない分だけ生々しい肉感のせいか。白ワイシャツのシワのせいか。シワすごいな。あれのおかげでエロさが五割増しだ。下手にボディコンシャスな服より現実に着られているようなゆったりした服の方がシワの入り方が生々しくていやらしいって沙村広明先生が言ってたけど*1、そういうことか。
あんまりエロイ方面に話を振ってもなんなので笑い方面に戻したいけれど、こちらも実に驚嘆すべきものだ。ここまで低俗な下ネタ祭りをなぜ笑えるものに昇華できるのか。他人の生々しい下ネタ話なんて自分がどうやって生まれたかレベルで聞きたくないものだけど、この作品にはそれがない。笑える。真顔で言う「しかし女性器を見て食欲を増進させるという可能性も残っているな……」とかひどいにもほどがあるのだが。……いや抜き出してみると本当にひどいな。本当にひどいのだが、ハイテンポで交換される会話の中に潜り込んでいるとそれが可笑しいものととらえられてしまう。飛び出てきた言葉がどんなに下品でも、聞く方も言う方も、それに対して下卑た笑いを浮かべるでなく、意味するところを本気で考えたり、あるいは困ったように照れたりしていると、つまりは真面目であると、嫌悪感催すいやらしさはどっかいってしまい、見ているこっちには面白さが強く残るのだ。真面目なら真面目な分だけ、面白い。
面白さで好きな話は「お嬢様とオレ」。なんだよモレ寸て。いや漏れる寸前の略なわけだけど。「先生だってムラムラする」。自分のケツを他人に顔でぐりぐりなすりつけられると本当に惨めな気持ちになるものなのか、そして他人にそれをするとやばい程に楽しいものなのか、報告が待たれるところである。
エロさで好きな話は「もみかた」。コマ数を贅沢に使って揉む方揉まれる方両者のじりじりした心の動きを描いてるの、ホントエロイ。「処」。これはエロイっていうか、オチが愛しい。
楽園 白泉社
リンク先の「web増刊へGO!!!」4/13付で、収録作の一つである「ゴーヤ」が読めます。
ああ、位置原先生の次の新刊はいつになるのか……


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*1:シスタージェネレーター p100