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『ぼくらのよあけ』特異点を超えたナナコの「変化」と生命の話

12月に入って書いてきた、今井哲也先生『ぼくらのよあけ』の記事もこれで3回目。今回と次回で作品のテーマと言える題材について考えて、一つの区切りとしたいと思います。

ぼくらのよあけ(1) (アフタヌーンKC)

ぼくらのよあけ(1) (アフタヌーンKC)

では、テーマとは何か。それは、「変化」と「友達」です。
主人公悠真らが見つけた宇宙船「二月の黎明」号は、1万2000年もの時をかけて惑星「虹の根」から地球へと旅してきたのですが、その目的は、外の世界を知ること、繋がることでした。

“虹の根”最初の知的生命体である“彼ら”が地殻変動で滅んだ後も――
“彼ら”の残したたったひとつの命令はその子や孫に――次世代の知性体に記憶として引き継がれた
“外の世界はどうなっているのだろう”
“知りたい” “繋がりたい”
――それがこの星にやってきた探査船「二月の黎明」の使命でもある
(2巻 p4,5)

それは同時に、原始の生命体の本能を刻印された「二月の黎明」が、生命の本質を確認する旅でもありました。

生命の本質は変化することそれ自体だ
私は そもそもそれを確認するためにこの星に来たんだよ
(2巻 p191)

そして、その目的をわかりやすく言うとどうなるかというと

つまり……わかりやすく言えば こうだ
私は きみたちと友達になるために来たんだよ
(2巻 p241)

実際「二月の黎明」は、彼を見つけた悠真らと「一生の友達」となり、28年間に出会った悠真の母親・沢渡(旧姓遠藤)はるかと出会うことで生命の変化を知るなどして、目的を果たしました。
さあ、今回はまず「変化」について考えてみます。
「二月の黎明」との出会いで、多くのキャラクターは変化しました。ですが、もっとも大きく、もっとも根本的なレベルで変化したものが何かと言えば、それはオートボットのナナコです。
この時代、人工知能は発展を遂げ、その会話インターフェイスは人となんら違いがないほどです。ですが、その成果はあくまで過去からの延長線上にある物で、常識を突き抜けたものではない。作中の言葉を借りれば、「特異点」をまだ経験していないものなのです。

「――なあ 技術的特異点て知ってるか
(中略)
例えばさ 人間よりも頭のいい人工知能は作れないか 今 世界中でいろんな人が研究してる
コンピュータの性能は1,2年ごとに倍になってるって法則があるんだ だからいつかはそれで可能だって言う人もいるけど おれ やっぱムリだと思うんだよ ――もっとこう 何かインパクトみたいのがないと」
「――宇宙人と会うとか?」
「そう! インパクト! そういうんだよ それまでの常識をぽんと飛び越えるさ」
(1巻 p249,251)

まさに地球外知性である「二月の黎明」と出会ったSH3、そしてナナコは、特異点を超えたと考えられます。そして、その結果はどんなものなのかと言うと、嘘をつくこと、感情を持ったこと、ひっくるめて言えば、プログラムを超えた動きをするようになったということです。
本来、ナナコ、そしてSHシリーズのAIは、感情を持つようには設定されていませんし、嘘をつけるようにもなっていません。

――怖いか怖くないかという感情の問題については 答えは簡単だ
SHシリーズのAIはそういう感情を抱くようにプログラムされていない
(1巻 p238)

宇宙船と出会って人工知能がウソをつくようになった
(中略)
ウソをつくAIなんて 大人から見たらただの欠陥品だろ
(1巻 p252)

けれどナナコは、プログラムされていないはずの感情を抱くようになり、嘘さえつきました。

――おかしいデスよね 
ナナコはオートボットなのに…… すぐに言ったほうがいいはずのことを 今までずっと言えマセンデシタ
(2巻 p209)

「そ……そんなのナナコともう会えなくなるってことだろ それでいいのかよ! ナナコ」
嫌デス・・・!! けど ナナコ記憶が消えちゃうのも嫌なのデス
こんなの……オートボットなのにおかしいデスけど ナナコは消えたくないのデス!」
(2巻 p219)

人間はウソをつけるのにつかないからすごいんデスよ
それがどんなに大変でつらいことか ナナコはやっとわかるようになったのに なんでゆうまサンはわからないんデスか!!
(2巻 p221)

「おれさ……ナナコが家来たとき ほんとうれしかったんだ だってオートボットって超すげーもんな」
「ハイ! ありがとうございマス ナナコもゆうまサンのこと大好きデスよ」
(2巻 p229)

「嫌デス」「大好きデス」と、本来ありえない感情を発露することになったナナコ。プログラムを超えたナナコは、一体どんな存在になったなのでしょう。
作中では、人の死についての考えが、それなりの紙幅を割いて述べられています。

例えば1個の知的生命の思考や人格のはたらきを完全に再現する人工知能があるとする 見かけ上は人間となんら変わらない―― そして実際そのような人工知能は技術的に可能だが するとこのときそこに芽生えているものと知的生命の自我とは果たして同質だろうか?
(中略)
十全な機能を有している脳 いくつかの障害を抱えていはいるが意識はある脳 意識がなく自力での生命維持が困難な状態 かろうじて数個の細胞だけが培養されている場合 いずれも生命体としては活動を持続しているが ではそのどこに「人の死」の境界線はあるだろう?
(1巻 p239,240)

これは「人の死」についての議論であると同時に、人間とはなにかの議論でもあります。人間によって制御されているはずのプログラムを超えたナナコの知能は、人と何が違うのか。
「生命の本質は変化することそれ自体である」と、「二月の黎明」は言いました。ならば、プログラムを超えて可変的な独自の思考、感情を得たナナコは、もうそれは生命であると言えるのではないか。
常に変化の過程にありながらも一定の秩序のもとで同一性が担保される、そういう状態を「動的平衡」と福岡伸一氏は表現し、「生命とは動的平衡ダイナミック・イクイリブリアムにある流れである」と定義しました。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

「二月の黎明」が言っていることもそれと同じでしょう。
特異点を超え、変化しうる人工知能となったナナコは、従来の生命という概念を拡張する存在となったと言えるのです。「変化」がナナコを生命あるものたらしめたのです。


さて、「二月の黎明」は、「人が死ぬということが結局どういうことなのかはわからないのか」という銀之介の問いに、

だが――そうだな 論理的ではないが 自分が生きていることについて確認したいのなら割合簡単だよ
(1巻 p241)

と言っていますが、その「割合簡単」な内容については明言していません。発言の次のシーンは、悠真らが缶けりで遊んでいるシーンとなっていますが、明言は無いのです。
ならば、自分なりに推測するしかない。
生命の本質が変化であるという発言と、それまでの重苦しい会話から、雨上がりの空の下で走り回る舞台への転換から推測するに、自身が現在において、過去のある時点から変化したことを実感することが、生きていることについて確認することになる、と「二月の黎明」は言いたかったのではないでしょうか。
この会話の前後で悠真たちは

…………
だいたいさ…… どうすんだよ
このままじゃコアもナナコも元に戻んないじゃん
(1巻 p233)

と、降り出した雨の下で落胆していたのですが、

――なあ きっとなんとかなるよ
コアを取り戻してナナコも元に戻して それでみんなで宇宙船を宇宙に帰そう
それでいいだろ? 宇宙船も
(1巻 p247)

と、夕立後に遊び回った放心状態で、前向きになるのです。特に後者の発言は、空気の読める聡明な銀之介によるものですから、さっきまでの息詰まる空気が変わったことを、悠真や真悟の表情と一緒に実感しているでしょう。
変わりながらも自己同一性を保つ存在。それが生命です。ならば、自分が変化したことを、過去と現在の同一性を保ちながら実感したことが生の実感であると推論するのは、さほど的外れではないでしょう。
「変化」の認識が、人の意識を人たらしめているのです。


ということで、ナナコの「変化」と生命について考えた記事でした。宇宙船という、従来の概念からは生命と呼べない「二月の黎明」と出会った、人間である悠真らと、オートボットであるナナコ。けれど、そこに「変化」という要素が導入されることで、「二月の黎明」も、悠真らも、ナナコも、拡張された生命の概念として同次元に立ったのであり、だからこそ、この三者は「友達」になれたのだと言えるでしょう。
ということで、次回のキーワードである「友達」をつなぎとして、今日はここらへんで。



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