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「物語」に関しての覚書

最近自分の記事内でよく出る単語「物語」について、軽く整理してみる。他の人が使う「物語」にまで該当するものではなく、あくまで、自分の記事内で「物語」と使ったときの意味であるということに留意されたい。
一般的に使われる物語(カギカッコなしの物語)は、yahoo!辞書から引用すれば

1 さまざまの事柄について話すこと。語り合うこと。また、その内容。「世にも恐ろしい―」
2 特定の事柄の一部始終や古くから語り伝えられた話をすること。また、その話。「湖にまつわる―」
3 文学形態の一。作者の見聞や想像をもとに、人物・事件について語る形式で叙述した散文の文学作品。狭義には、平安時代の「竹取物語」「宇津保物語」などの作り物語、「伊勢物語」「大和物語」などの歌物語を経て、「源氏物語」へと展開し、鎌倉時代における擬古物語に至るまでのものをいう。広義には歴史物語・説話物語・軍記物語を含む。ものがたりぶみ。
4 歌舞伎・人形浄瑠璃の演出の一。また、その局面。時代物で、立ち役が過去の思い出や述懐を身振りを交えて語るもの。

とあるが、以前の記事の脚注でも書いたが、カギカッコつきの「物語」は、とりあえず「誰かに何らかのメッセージ/概念を伝えるために体系立てられた情報の集合」とする。この違いは、「物語」の場合、文学形態という区切りにとらわれず、漫画や映画、演劇など、ストーリーを伴う創作物全般に亘り、また、創作物だけでなく例えば歴史のように、特定の出来事群に意味を見出して、それらを因果関係で結びつけて体系だてたものも「物語」と呼びうる。この時、過去に起こった出来事は事実だとしても、現在の視点よりそこから見出す因果関係・意味の大小は創作、あるいはフィクションだと言える。つまり、その因果関係や意味の大小は、実体的・実定的なものではなく、出来事の流れを説明するのに理解しやすいように、恣意的にまとめられたものであるということだ。歴史の教科書とは、権威ある恣意性、筋の通った虚構に他ならない。
ここから、人間が自分の過去について語ることも「物語」だと言える。過去を語る人間には必ず「自分はこの出来事をこのように語る人間であると思われたい」というバイアスがかかっている。今まで生きてきた起こった出来事全てを一切の毀損なく列挙することは、人間にはできない。それは、自分が生まれた瞬間から撮ってある全てのビデオテープを早送りのできないビデオデッキで見直すようなものである。ために、人が語る自分の過去は、恣意的・主観的に編集されたものになる。過去に起こった出来事は事実なのかもしれないが、それが現在の当人にとってどのような意味を持っているかということは、現在の当人により自由に決定されるものである。その自由さ・恣意性ゆえに、人間の語る過去は「物語」である(ここらへんの話は、フロイトの知見とほぼ合致している)。




作品の形態をとったストーリーを伴う創作物としての「物語」について考える。小説や漫画、映画、演劇など、そういうものだ。以下、断りがある場合を除き、「物語」は作品の形態をとったものを意味する。
「物語」には作り手(送り手)がいる。作り手の手から放たれた「物語」は、受け手の元に届いて受け手が解釈することによって初めて、そこで編まれている情報が意味を成す。
だが、作り手は「物語」について100%熟知しているわけではない。むしろ、「物語」を作ることで、初めて自分はこういうことを考えていたのかということを知る。それは、ロラン・バルト以降の文学批評理論の基礎である。かつてモーリス・ブランショはこう言った。

作家が自分が誰であるかを知り、自己を実現するのは、その作品を通じてである。作品以前には、彼は自分が誰であるかを知らないばかりか、彼は未だ何ものでもない。作家は作品を通じて存在をし始めるのだ。
(火の部分 より)

私はこの知見に同意をするが、ここまでラジカルにはなれない。人が作品(「物語」)を作るときに、それを動機付けるもの、それをどのような形にしようかと意図するものがゼロであるとは思えない。ただそれは、「作品を作る」という行為が開始される段階をどこに設定するかで変わりうるものでもある。例えば小説なら、実際に文字を書き始めたところで創作開始なのか、それとも「これを書こう」「あれを書きたい」と思った瞬間が創作の第一歩なのか。後者であるのなら、確かに創作の開始と共に作家が生まれだすと言える。
ともあれ、作り手が作品について全知ではないということは、変わらない。言葉とは常に言い過ぎるか言い足りないものであり、それは言語が当の言語体系の中で欠性的にしか意味を成せないものであることから、宿命的に逃れなれないと言える。作り手が「このようなものを書きたい」と思って書いた作品*1は、「常に言いすぎるか言い足りない」言葉によって、当人の制御下にはどうあっても置けないものとなる(ただ、その絶対に充足されぬ満足感への渇望により、作り手のエンジンは駆動されるものだ)。
これは小説に限らず、絵や音声、動作による作品でも事情は同じなのだが、こうして作られた作品は文字や絵などで一つの形(形式)をなしている(=体系として成立している)。作品は作り手から独立している。作品は作り手と主従関係にあるのではない。そして、受け手が作品を享受するのだが、受け手には多かれ少なかれ「誤読」がやはり宿命的に決定されている。
言葉に辞書的な意味があっても、そこから離れた経験的な意味がある。意味というか、ニュアンスか。受け手各人が経験してきたこと、文化的な環境、人間的な環境で、言葉の持つニュアンスは大きく変わる。例えば子どもの頃は心躍らせていた「雪」も、大人になれば煩わしいものと感じる人もいるし、豪雪地帯の人間にとっては、はなから敵ですらあるのかもしれない。「海」も群馬のような海無し県に住んでいれば憧れの対象となるが、海辺の人間にとっては日常のものだろう。このように、作品の中で使われている言葉の解釈の幅は受け手で変化し、そこから読み取るトータルの「物語」も、そこかしこでズレが生じる。単語の水準だけでなく、修辞の水準、描写の水準、ストーリーの水準と、様々な水準で、受け手の今までの経験によって解釈に幅は生じる。バルトの言葉を引用しよう。

テクストは(いわば神学的な)唯一の意味を発する語の連鎖から成るのではない(そうであれば、その意味は「作者=神」からのメッセージであることになる)。そうではなく、テクストは多次元的な空間であり、そこでは多用なエクリチュールが睦み合い、またいがみ合っている。そのいずれのエクリチュールも起源的ではない。テクストは文化の無数の発信地から送り届けられる引用の織物である。
ロラン・バルト著作集 より)

「テクスト」は「作品」、「エクリチュール」は、非常に多義的なものだが、「読み方」くらいの意味で簡単に理解してほしい。
一つの体系として形を与えられた作品は、作品として形があるにもかかわらず、その解釈には人の数と同じだけの幅があるのだ。定形があるのに定義(一律の解釈)が存在しない。それが「物語」だ。
つまり、作品は受け手からもまた独立している。作品と受け手は主従の関係にない。作り手と作品と受け手は、それぞれが誰にも属していない点で、同格の存在である。つまり、作り手は作品の全知者ではなく、作品が作り手から独立したものであるのなら、作り手すらも受け手と同じく、作品を「誤読」する運命にあるのだ。


とりあえず、

  • 恣意的な因果関係により編まれた「物語」
  • 作り手-作品(「物語」)-受け手 の等格性
  • 受け手だけでなく、作り手にも宿命付けられている作品(「物語」)の「誤読」

ということをこの覚書のキーワードとしておく。バルトのテクスト論にほぼ拠ってるのは公然の事実。






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*1:小説を書くという行為は、頭の中にある、最初から最後まで既に出来上がっている文章を現実に言葉にする行為ではない。現実に言葉が書かれたその瞬間に、「ああ、自分はこのようなことを考えていたのだな」ということがわかるのだ。