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「もやしもん」の、青春劇としての若者/老人、世界/外部の構造について

もやしもん(7) (イブニングKC)

もやしもん(7) (イブニングKC)

web拍手のコメントより

もやしもん、「ストーリー漫画」というほどストーリー重視でもないと思うんですが
都合によってシリアスぶっているものの、実は中身なんかない。
青臭い登場人物の発言を、「大人な」人物が叩きのめす
それだけ。
「フランスのワインに合う刺身の食べ方を見つけたいんだ」→「ワインには伝統ってもんがあるのよ。余計なことすんな」→特に展開はなし
・・・この繰り返し
連載開始以来の全体的な進捗なんかないじゃないですか
タイプとしては「美味しんぼ」に近いんじゃないでしょうか
食事で問題発生→食事で解決→特に展開はなし
数年前に大転回がありましたが、それは「食事」とは関係ない、唐突なものでした

毎回の物語の軸なるもの(食/菌)はあるものの、それは全体大転回に寄与しない
ほぼ毎回、曖昧な勝敗がある

という辺り、この両作は似ていると思われます
で、「美味しんぼ」がストーリー漫画でしょうか

私は、もやしもんはストーリー漫画ではなく キャラクターの造形だけで魅せる「萌え漫画」だと思いますが

お邪魔しました

このようなコメントをいただいたのを奇貨として、今一度「もやしもん」の構造というか、流れというかを考えてみようかと思います。


この物語の主人公は沢木惣右衛門直保こと沢木、その脇を固めるメインのサイドマン(なんか変な言葉ですが)として、幼馴染のゴスロリこと結城蛍(♂)、同学年の除菌女こと及川葉月、先輩の美里薫と川浜拓馬、武藤葵、院生の長谷川遥、教授の樹慶三がいて、あとはさらに外縁の脇役たちという感じです。
七巻現在までの話の流れを大体に区切ってみれば、
入学〜美里・川浜借金チャラ〜武藤帰国〜春祭〜(一話完結いくつか〜)沖縄〜菌が見えなくなる〜学祭〜フランス〜味噌・醤油発酵
くらいなとこでしょうか。
通して発酵や菌に関するうんちく(のレベルではもはやないけれど)が頻出していますが、その裏側、人間たちの世界では、まあなんというか、まっとうな人間関係のいざこざがあるわけです。
以前の記事でも書いたように、この作品のファンタジーの要諦たる沢木の「菌が見える」能力はかなりぞんざいに扱われており、ストーリーの進行にはほとんど寄与していません。直接的に影響したのは、四巻の菌が見えなくなる騒動くらいでしょうか。あの騒動を通じて、長谷川の人付き合いの不器用さが露わになったり、ひいてはフランス編での美里(と川浜)との最終的な和解につながっています。
そうなると、菌の存在(と菌が見えるということ)の物語の中での位置づけを考えてみると、かわいい菌による作品のファンシーさのアップであるとか、菌知識の描き方の新たな方法とか、そのくらいでしかありません。やっぱり彩り的な扱いなんです。
上のコメントでは「美味しんぼ」との比較に言及されていますが、私は両作品が似ているとはそれほど思いません。「美味しんぼ」でのトラブルの解決は食べ物でなされているかもしれませんが、「もやしもん」のイベントの転がりには菌や発酵は深く絡んでこないからです。
例えば菌が見えなくなる騒動では、長谷川と沢木の関係を修復したのは、沢木の菌への愛着であり、また長谷川の不器用な謝罪と歩み寄りでした。
七巻では及川が物語の中で動いていましたが、その原動力は彼女の好奇心であり、秘密があることを匂わされることへの嫌悪であり、最後に彼女を慰めたのは、沢木の(結局は冗談と思われてしまったけれど)及川への能力の告白でした。
物語を通じて描かれているのは「若者の揺れる心情」であり、そこから超越した存在として樹や日吉翁、金城翁の老人'sが配置されています。老人'sは、若者と対立しているわけではありません。時として真っ向から若者とぶつかっているようでも(沖縄での金城優と金城翁の対立然り、騒動の時の長谷川と樹の対立しかり)亀の甲より年の功よろしく、若者たちより一段高いところから物事を見ているために、両者は真っ向からぶつかっているようでいて、その実平面的な若者の動きが立体的な老人'sの動きを横切っているだけなのです。
老人'sのキャラにかなり裏があり、かつ怪しげなことを考えていそうなので(彼らは表情の変化に乏しいので、それがいっそう拍車を掛けています)、妙に彼らの存在が生々しくなっていますが、彼らの役割は、若者たちの世界の外部には彼らがまだ到達していない(存在することを隠されている)領域があることを表すことなのです。
老人'sは若者にとって未知なる領域であり、その実体的なキャラとは裏腹に、若者には決して届かない彼岸のものたちなのです(七巻の最後で、それは象徴的に描かれています)。
六巻のフランス編では、長谷川の婚約者である龍太がワイン文化に対する道化として描かれていますが、このシーンが表しているのは「伝統尊重」や「誤解の盲信」などだけではなく、むしろそれは表層的な部分であり、そこに伏流(というほど隠れていませんが)しているのはマリーのワイン作りへのプライドです。龍太とマリーが対立的に描かれていますが、そこにはそれをとりまくマリーの祖父、龍太側のビジネスパートナー、長谷川の思惑などが入り混じっており、「ワインと刺身の取り合わせ」についての意見の対立だけがあるわけではありません。それとはまた別次元のホストとしての考えであったり、ビジネス上の義理であったりが食卓には交錯していたのです。大人な対応をしていた「大人」たちの間から「若者」のマリーのプライドが噴出したことで、以降の展開への物語の歯車が動き始めました。
作品から発された「ワインと刺身の取り合わせ」についての考えは、マリーの意見が最終案として描かれていますが、直後に描かれている祖父の冷静さや長谷川の謝罪、さらには龍太の怒りの表情で、その考えの「最終回答」としての押し付けがましさは減殺されています。あくまでメインの流れはその場の人間たちの思惑なのです。マリーの意見では、その場はまるで収まってはいないんです。
ワインというとどうしても、俗っぽさというかうんちくくささというかスノッブさというかが出てしまいがちですから(川島なお美のせいか?)、そこで道化的な役回りを描くとなるとどうしても、「美味しんぼ」で描かれるようなステレオタイプな描写に陥りやすいのですが、それでもなんとかそのにおいを消そうとしたのがなんとなく伝わります。それはたぶん、龍太もマリーもまだ「こども」であり、それにこだわり過ぎない(それ以外の要素にも配慮している)周囲の「大人」たちを同時に描いていることだと思います。ホストとしての心構えだとか、ビジネスパートナーとの義理だとか、そういうものをうんちく部とともに描くことで、その消臭を図っているんじゃないでしょうか。
フランス編でも対立項のようなものとしてマリー/父親がありますが、そのさらに外縁にはマリーの祖父がいます。彼女らの対立を見守るものとしての祖父は、彼女らの思いや行動を包み込むような大きな流れとしてあります。老境に達し、達観的なものの見方ができる祖父という大きな川の中で、マリーと父の二匹の魚がぶつかっている(ストーリー的には「すれちがっている」ですが)形なんです。


もやしもん」のうんちくはまさしくうんちくなのであり、物語の中核からは離れたところにその情報の位置づけがあります。うんちくが描かれても、それが鍵となって物語が転がりはしません。物語を動かすのは若者たちの若さ、青臭さであり、それを見下ろせるところに外部たる老人たちがいます。この若者の世界と外部の象徴的な存在階梯の違いにより、「もやしもん」は若者たちの心の動きを描く群像劇だと私は思うのです。


>キャラクターの造形だけで魅せる「萌え漫画」だと思いますが
これについての話はまた後日したいと思います。








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