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感想と批評の違い 〜"why"と"how"の壁

このブログで主に漫画の感想やらなんやらを書いている私ですが、カテゴリーには「雑記」と「レビュー」、二つあります。前者は批評性の強いもの、後者は感想の性格が大きいもの、という風な差があるんですが、この二つの違いってなんなんでしょうね。
感想と批評。ともすれば混同されそうなこの二者ですが、私はそこには大きな隔たりがあると思います。

じゃあ、まず「感想」ってのはなんだね。



わかりやすい方から説明しましょう。感想とは何か。日本人は、小学生の頃から読書感想文なるものを書かされてくるわけですが、基本的にはアレと同質のものです。ひとまず弊ブログの本旨に沿って、漫画を例に挙げて説明していきますが、ある漫画を読んで、そこから何を感じたか、文章にすること。これが感想文です。
このとき書かれることは、当然「私がどう感じたか」。「面白かった」でも「つまらなかった」でも「感動した」でも「死にたくなった」でも、なにはともあれ主語は「自分」です。読んで受けた印象から派生して、他の作品との類似性や、あるいは属時代的な特質を述べることもできますが、そのときも結局は、「〜であると私は思う」というように、自分自身の考え、経験、知識に即した話になります。
つまり、感想とはあくまで「『私が』どう感じたか」、"How did I feel to read the book?"なわけです。

なら「批評」は?



対して批評とはなんなのか。端的に言ってしまえば、「作品の中から、あるテーマやタームを前景化させること」だと思います。それは、一般的な読みでは見過ごされがちな事柄、特殊な技法・法則などによる効果などを、言葉にして指摘するということです。
これが感想とどう違うかといえば、このような指摘をするためには、「自分がどう感じたか」ではなく、「自分はなぜそう感じたのか」ということに留意しなければいけないということです。上の例と比較すれば、"how"ではなく"why"。「私はいまこの作品を読んで『面白い』と感じたが、それはどういう理由によるものなのだろうか」と考えなくてはなりません。そしてこのとき「読んで」いるのは、作品そのものではなく、作品を読んだ自分自身の心中なのです。漫画を構成しているもの(絵であり、台詞であり、コマ割であり、ストーリーであり)を細かく腑分けして、吟味し、自分の考え方・経験・知識などと照応させ、再構成する中で、自分にある種の感興を催させたものの正体をはっきりさせる。それが批評だと思います(なお、このとき「自分」は「一般人」へと一般化されるわけですが、この「一般人」が実際に客観的に一般性を有しているかは、批評の的確性でもって担保されることは付言しておきます)。

なら両者の有用性はどう違う?



例えば誰かにある作品を薦めるときに、批評文と感想文のどちらが役に立つか。それは圧倒的に後者です。なにが面白い。どこが面白い。どのキャラがいい。このエピソードがいい。誰かに作品を薦めるときに大事なことは、その人の好奇心を如何に喚起するかです。感想の優れた点は、それが実体験であること。その作品が面白かったという生の声は、解釈の再構成を挟んだ批評よりも、遥かに人の心に訴えます。また、作者にとっても、自分の作品について感想を書いてもらうというのは、とてもモチベーションが高まるものです。


逆に批評は、「どう面白いか」ではなく「なぜ面白いか」を説明するもので、いわばそれは、手品の種明かしのようなものです。手品の面白さを人に薦めるときに、「あの手品の種はこれこれこうで、すごく面白いんだよ」などと言おうものなら、フルボッコはまぬがれないし、下手すりゃ訴訟ものです。棄却判決くらっちゃうかもしんないけど。
また、批評は、読み手と作品との間に、前景化させたタームを発生させるわけですから、既読の読者、特にその作品を好む読者と作品との間に、余計な介在物を挟ませることになります。好き嫌いの感情は、本来的に理屈より前に発生するものだと思いますから、好きなものと自分とは、ごく近接した、余計な言葉の必要ない蜜月関係にあるわけです。そこに余計な理屈を挟むことは、恋人同士に「あなたがその人を好きなのは、これこれこういう理由によるものなんですよ」と説明するようなもので、その作品を好きな人からしてみれば、「余計なこと言ってんじゃねぇよ」ってとこでしょう。


読み手にとっては余計なものとなりかねない批評ですが、作り手にとってこれは逆に、痛いほどに有用となるものです(無論その批評が適切なものであるという前提つきですが)。作り手は自らの作品についての全能者ではないというのは、バルトのテクスト論ですが、これは一定程度以上に説得力あるものだと私は思います。詩や小説よりも漫画、漫画よりも映画と、作品に関わる作り手が増えるにつれ、「誰がその作品の『作者』であるのか」ということに疑義が生じる割合が増えるわけですが、最小単位で作(ら)れる詩や小説でさえも、作者が作品の生成について全てを知っているわけではないのです。
「なんとなくこの方が面白そうだからこう描いた」、「こういう構図にした方が迫力がある気がした」など、その確たる理由もわからずにある技法・法則を作者が用いるというのは、しばしばあることです。批評は、そのような「なんとなく」に形を与える作業であり、批評を読むことでそれを自覚した作り手はフィードバックを得て、その表現に磨きがかかるのです(その意味で感想は、あくまで作り手のモチベーションに寄与するのでしかなく、そこから作品の内実を直接的に高めるなにかを得られるわけではありません)。
もちろん批評は肯定的な言説をとるものばかりではなく、「こうすれば面白くなった」、「こうすればもっと効果がでた」など、作り手側の無自覚ゆえの効果の手落ちを指摘することもあります。それが、上で述べた「痛いほど」の意味です。誰でも、自分のミスを突かれるのは気持ちいいことではありません。その指摘が的確であろうとです(あるいは、的確なほど、でしょうか)。ですが、「失敗は成功の母」と言うように、短所を伸ばすことは、長所を伸ばす以上に全体の底上げをなしえます。的確な批評は、確実に作り手の技量に資するものなのです。


上で「読み手にとっては余計なものとなりかねない」と書きましたが、それはあくまでその作品に限定した状況の話で、読み手が、人生の上で常に「読み手」であるわけではありません。何らかの形で「送り手」になることもあるでしょう。そのときに、このような批評的観点は、必ず役に立ちます。自分が送る「作品」について批評的に見られるということは、「作品」そのものに対する客観的な視線を得られることを意味し、その「作品」が漫画や小説などの物語性・情緒性をもたないものならなおさら、「作品」のクオリティをあげることにつながります。
また、そうでなくとも、読み手としても批評眼をもつことは決して損ではありません。批評眼をもっているからといって、常に作品を批評的に見るということはなく、「批評的に見よう」と意識しなければ、基本的に批評眼は発揮されないものだと思います。面白い作品ならば、そんなことを考える暇もなく作品の中に読み手を取り込んでしまうのです。


面白い批評も、面白いレビューも、それはともに有用なものであり、あくまで用途が違うだけです。ですから、そこで使われている用語やエクリチュールで、その文章が批評か感想かが分けられるものではありません。小難しい言葉を並べた感想文もありますし、平易な文体の批評もあります。根本的に"how"と"why"という、スタンスの違いなのです。もちろん両スタンスを並列させた文章もありますが、それは、一つの論の中に感想と批評が並存しているだけです。むしろそれは、作り手にも読み手にも嬉しい文章だといえるでしょう。
作品と自分の間に立ち、作品を見るのか、自分を見るのか方向付ける。それが、"how"と"why"の壁だと思います。








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