『銀河の死なない子供たちへ』マッキの問いと、星になったπの話

下巻の発売からしばらく経ってしまいましたが、『銀河の死なない子供たちへ』の話。
上巻発売時のレビューはこちら。
yamada10-07.hateblo.jp
銀河の死なない子供たちへ(下) (電撃コミックスNEXT)
不老不死の二人の姉弟とその母が暮らす、他に人間のいない地球。三人だけの世界。永遠の生を健やかに享受するπと対照的に、物憂げにその意味を探すマッキはこんな問いを常に抱いています。

…π 僕は長い間ずっと探しているんだ
"生きている人間"を
(中略)
まだ死んでいない人間に会って 直接聞いてみたいんだよ
いずれ死ぬことについて
死なないことについて

この作品はある面で、この問いに対する答えを探す旅でもありました。何万年も不死の三人だけで生きてきて、他の人間を一度も見てこなかった地球で、それでも人間に、死すべき存在にあって直接問うてみたい。いずれ死ぬことについて。死なないことについて。
本記事では、その問いを中心に改めて本作を読み直してみたいと思います。

第二の問い「死なないことについて」 それは別れの答え

前述のように、三人以外に誰も人間がいなくなってしまった地球。上巻の中盤までは、それでも続いている他の生命の営みと、そこから疎外された孤独が描かれていますが、途中で地球の外から闖入者がやってきました。かつて地球を離れた人間たちの子孫の一人である妊婦が、生まれる寸前の我が子をなんとか生かそうと、地球に帰還してきたのです。不時着の衝撃で妊婦は瀕死でしたが、πとマッキの手によって無事取り上げられた子はミラと名付けられ、二人によって育てられることになりました。
二人の母には内緒の、三人の疑似家族。こうしてマッキは、いつか問いを向けうる存在、有限のもの、いつか死ぬもの、すなわち人間と暮らすことになったのです。
結論を言ってしまえば、ミラが死ぬまで、マッキはずっと抱いていた問いを彼女に直接問うことをしませんでした。ですが、間接的、婉曲的には、この問いとそれに対する答えの短い問答を聞いています。それは、死ぬ寸前の孤独を独り噛みしめているミラの前に現れた、マッキら二人の母が、二人のため、就中πのために不死になれと自分の血を飲ませようとしたシーンです。

飲め そうすればあなたも不死になる 今の苦痛から解放される それに
πも喜ぶ …私は
そのためにここへ来たんだ

いわばこれは、「死なないことについて」の問いです。死ぬ寸前の状態で、現に身体を蝕んでいる致死の苦痛を消してあげる、でも代わりに不死になる。不死になること、すなわち死なないこと。お前はこれを選び取るのか。極限の二択を迫る問いに、ミラは一言で答えました。

嫌だ

誤解の生じる余地のない、単純な拒否。ミラは「死なないこと」を明確に否定したのです。

私は人間として生きて 人間として死ぬ

これは、拒否した後に続くミラの言葉です。彼女は「死なないこと」は「人間ではない」と言い切ったのです。人間であるためには、不老不死ではいけない。老いなくてはいけない。死ななければならない。つまりは、変化しなくてはいけない。人間のあらゆる変化の終着点が死であり、そこに辿り着くことができない変化の拒否、すなわち不老不死は、人間であることの拒否であると、死の寸前の彼女は断じました。
回答者のすぐ近くにいながらずっと聞くことのできなかったマッキの問いは、期せずして答えられたのです。

死なない二人 部外者の二人

ミラのこの言葉は、育ての親であるπやマッキを人間ではないと断じることと同義ですが、それについてはπらも自覚的でした。上巻の前半で、まだ地球上にいるかもしれない人間を探す旅の途中、二人が語る人間は、常に客体、第三者としての存在でした。

人間はあんなにたくさんのことを考えたり書いたり物を作ったり壊したりしていた…

一緒に探す! マッキと一緒に人間探す!!

マッキ 人間ってどうやって探すの?

二人が「人間」と口にするとき、それはたとえば私たちが「ネコ」や「車」、「メタセコイヤ」などと口にするときと同じように、自分をその中に含まない、客体の概念として扱っていました。不老不死であり、獣に食われてもいつの間にか再生している自分達は「人間」と呼べる存在ではないと、二人は当たり前のように考えていたのです。
そして二人は同時に、人間ならずとも、老いて、子をなして、死んで、生の営みを繰り返していく生命たちを、美しいもの、世界に組み込まれているものとして憧れていました。

そーいえばママが言ってた
生き物は死んだら星になるって だから…
星空は死で埋めつくされてるんだよ きっとももちゃんも…
どの星だと思う?
あのピンクの星だったらいいな
美しくて
とても手が届かないや

「でもみんな交尾して赤ちゃん作って 楽しそーだなー」
「いのちをつないでいく場所なんだ この世界は
僕たちは所詮 この世界とは無関係な部外者んだよ」
(中略)
「む むかんけーなぶがいしゃなんて…ヤダ 
み みんなと一緒がいい」

死ぬこと。変わること。それは二人にとって手の届かないものであり、それゆえ二人は世界の部外者だったのです。

第一の問い「いずれ死ぬことについて」 星と人と

しかし物語の最終盤で、二人が死ぬ方法がわかりました。実は二人は母の実子でなく、母の血液によって不死の呪いを与えられた、元は人間だったものたちだというのです。なので、母から物理的に離れればその呪いは消える。地球から出ていくほどに離れられれば。
ミラから遺された情報端末を元に、マッキは地球のあらゆるところを探し、まだ使えるロケットを見つけ出して、使用に耐えうる状態にまで修復しました。地球から出る、すなわち不死の呪いから抜け出て、人間に戻る準備ができたのです。
自分が人間に戻れることを知ったπは言います。

ミラちゃんが言ってた 海の向こうに行ってみたかったって
πも行きたい 星の海の向こうへ…
だから 人間になる!!!

かつて「美しくて とても手が届かない」と言っていた星の世界。そこは、死せる人間だけが行ける世界。πはそこへ行くと強く表明したのです。
地球からの脱出前夜、πとマッキは焚火を前にして、未知の世界について話をします。

「宇宙に行ったら π達も成長して死ぬ身体になるんだよね
死んじゃうのかー」
「…π 今どんな気持ち?」
「すっごくドキドキする!」

このときマッキが発した問いは、まさに彼が永年抱いていた問いの、残された一つでした。死ぬことができるようになる直前の、人間になる直前の、まだ死んでない人間=πへ聞いた、「いずれ死ぬこと」についての気持ち。その答えが、「すっごくドキドキする!」でした。
はたしてこれは、どういう意味なのか。
かつて病床にあったミラは、πにこう言いました。

ちっちゃい頃は自分も永遠に死なないって思ってた
もしかしたらかつてこの星にいた子供たちもみんな思ってたのかもしれない
幼いってそういうものだから
いつか死ぬってわかった時 私は人間になったんだ
そんな気がする

幼いものは、自分が永遠に死なないと思っている。しかし、自分は死ぬのだとわかったとき、人は人間になる。つまり、幼さを捨てたとき、人は人間になるのだと言えます。
人は幼さを捨てると何になるのか。大人の階に手をかけるのです。永遠の子供だったπは、自分が死ねるようになる、人間になると知りました。それは、自分が変化できる、大人になれると知るのと同義です。
彼女の「ドキドキ」は、死ぬことへの恐怖ではありません。自分が大人になれることへの興奮なのです。
ロケットの出発直前、母のために自分は地球へ残ると明かしたマッキは、πへこんな餞の言葉を送りました。

宇宙は広いけど
大丈夫だよ
πはいつだって
星を見ていたんだから

そう。昔からπは人間に憧れていたのでした。美しくてとても手が届かないと言いながら、πはいつも星に、まだ見ぬ人間に目を向けていたのです。
一人光芒の流れる星の世界へπが突き進んでいった最後のシーンは、彼女が人間へと変わっていく、実に象徴的なラストだと言えるでしょう。

残された二人 永遠の命と永遠の親子

マッキが永年抱いていた問いの答えは、ミラとπによってもたらされました。
その彼はなぜ地球に残ることを選んだのでしょうか。
彼は変化することを、大人になることを、人間になることを拒否しました。永遠の死なない子供であることを選んだのです。それは同時に、永遠に母の子であることを選んだという意味でもあります。
永遠の母と永遠の子。それは、永遠に変化の訪れない、不自然で歪な親子関係。変化するミラとの家族関係を知ってしまったマッキにとって、それはいっそう意識されたはずです。
でも、どんなに不自然でも、どんなに歪でも、それは永遠のひとりぼっちよりはマシ。おそらくマッキはそう考えたのでしょう。

永遠の時間を持っていても 大切なものを失う準備なんてできないって
それを知っているだけだ

これは、ミラの死病に気づいた時の、πとマッキ自身に向けたセリフですが、これはそっくりそのまま母にも当てはまります。歪とはいえ家族として過ごした永遠にも近いような時間。自分自身もミラを失い、大切なものをなくした痛みがいかほどなのか、それを知ってしまったのでしょう。

あなた達三人はここで幸福な時間をひたすら積み上げている
積み上げれば積み上げる程 私には崩せなくなる
突き崩すのはあなた わかってるの?
あなたは成長し やがて勝手に死んでいく
ふたりを… πとマッキを永遠に置き去りにして ありったけの幸福を持ち逃げするの
これが正しい命のあり方だと見せつけるように
そしてその通りだから だから憎いの
与えて奪うのは 何も与えないよりずっと残酷

これは、母がミラに向けて放った言葉です。そして、この言葉をマッキは聞いていないはずです。でもマッキは、一人で同じ結論に至ってしまった。自分とπが母を残して地球を去れば、母は「ありったけの幸福を持ち逃げ」され、一人取り残される。母が自分で自分に与えた仮初めの家族と、自分で教えてしまったそれを奪える方法。言わなければ、二人は気づかなかったのに。自分で積み上げ、自分で突き崩す、幸福な時間。永遠の置き去り。そんな結論に至ってしまった。
その結論から、残留の決心まで、マッキにどれほどの葛藤があったかはわかりません。ですが終局的に彼は、母との無限の円環に閉じられることを選びました。何万年何億年、地球が太陽に呑みこまれるその時に彼らがどうなっているのか、呑みこまれたその後に彼らがどうなるのか、永遠ならぬ余人に知る術はありませんが。

物語は終わって されど永遠に続いて

物語の序盤にマッキが抱いていた問いは、明確にそれとは知られぬ間に、登場人物たちの口から答えられていました。
実のところ、マッキ自身は、その問いに答えがあったらどうこうということを一言も言っていませんでした。ただ彼は知りたかった。聞いてみたかった。それはただの好奇心に過ぎなかったのか。
いつだって星を見ていたπと違い、マッキはいつも俯いていました。それはまるで、己の裡を覗き込んでいるかのように。手の届かない人間に憧れていたπのような願望は、マッキにはなかったのかもしれません。森羅万象への問いと、それへの答え。あるいは、答えを求める過程。あとは、寂しい時にそばにいてくれる母。それがあればよかった。のかも。
人間を選んだπの命はいつか必ず尽きますが、不死を、母を選んだマッキの生は永遠に続きます。それは物語が終わっても。πが星になっても。ひょっとしたらその時だけは、マッキも空を見上げて、手の届かない星の美しさに何かを思うのかもしれません。



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『へうげもの』価値の相対化と「清然」の話

最終巻が発売されてしばらく経ってしまった『へうげもの』。
へうげもの(25) (モーニング KC)
衝撃的な古田織部の最期(?)に拙者の固き丹田も緩み候えば、何を書いていいものやらと思案していたのですが、全巻再読して、ようやくいくつかポイントが見えてきたので、それをまとめていこうと思います。
今回はタイトルのとおり、

戦国の世と『へうげもの』の価値観

本作の主人公である古田織部の生き様を通して描かれていることとに、価値観の相対化、あるいは絶対的な価値観の否定、というものがあります。
そもそも本作の舞台である戦国時代といえば、まさに戦国の名のとおり、戦で勝つことが武士の命題であり、そのためにどう生きるか、武士とはいかにあるべきかという「武」の価値観が幅を利かせている(少なくとも、創作物ではそう描かれる)ものですが、『へうげもの』では第1話から、主人公の織部が、武で成り上がり大大名を目指すと同時に、物(名物)に対し並々ならぬ価値を置いているのが見て取れます。

戦国の世に武人として生まれた以上…… やはり目指すは天下にその名を轟かす大大名……
そう 次々と他国を我がものにし…… 帝より「蘭奢待」という香木まで譲り受けた……
主君・織田信長様のように
俺も…… 俺も欲しい…… 「蘭奢待」が……!!!
(一巻 第一席)

主君・信長に憧れつつ、信長の持つ「蘭奢待」を欲する。さらにそこから流れるように、信長のお召し物と家臣の具足を品評し始めるあたり、「武」と同時に「数奇」にも心をやっているのがよくわかります。
このような織部を筆頭に、話を追うごとに登場する武人たちの多くが、「武」以外に「数奇」に価値観を見いだしています(「数奇」が何を指しているかはかなり多岐にわたるのですが、今はひとまず、物や所作、術理に見いだす美、としておきます)。
つまるところ本作は、戦国時代にステレオタイプで考えられる「武」という強い価値観に対するカウンターとして、「数奇」という価値観を置き、価値観を相対化している、あるいは絶対的な価値観などないとしている、と言えるでしょう。

価値観の変容

価値観が相対的であるとは、異なる複数の価値観が永続的に存在し続けるというものではなく、時が流れるにつれ、どのような価値観(「数奇」)が世間に、あるいは個人に好まれるかも変化しうるということだと言えます。本作では、そのような価値観の変遷が多くの個人において見られます。
たとえば主人公の織部は、まず「武」と「数奇」の間でもふらふらしていました。利休と強く接すれば「数奇」に寄り(「あの茶碗はお譲り致す 代わりにそれがしを弟子にして頂きたい」(一巻 第四席)、信長に強く接すれば「武」に寄り(「俺は…… 茶の湯以上の興奮を得てしまった……」(一巻 第五席))と、短い期間で心は簡単に揺れています。
また、信長から賜った南蛮漆器蒔絵箱にも、最初はその「鮮やかな緑の光沢」に目を奪われるも、信長亡き後は「華に浮かれ「箔」好みに走った己が……(中略)尻の青さをのぞく心持ちになる」という思いに駆られ、わび数奇に留まらぬ「数奇」の面白さを自覚した後には「この鮮やかな螺鈿の緑が…… 今は地より吹き出る芽の如く心地良う見える……」と、後の緑への傾倒の萌芽を見せています。
後には筆頭茶道として「数奇」の第一人者と目される織部ですが、その生涯を通じ、何に価値を見いだし何を価値なしと見るのか、ふらふらぷらぷらと揺蕩っているのです。
その他、それがどういうものかわかっていなかった明智や、派手好みの秀吉が、「死に近づけば近づくほど」「はっきりとわかってくるもの」である「わび」に開眼する様子も描かれています。わび数奇こそ至上の価値であるという業に囚われていた利休も、筆頭茶道の辞職を願い出た後は「憑き物が落ちたよう」に、かつての「面白きもの」を求めた自分の姿を思い出しました。
また個人を離れた世間も、利休好みのわび数奇、秀吉や伊達の華、織部のへうげなど、目立った者が発信した価値観に簡単になびいていきます。
このように、個人の内でも、世間でも、また「数奇」の中でも、なにを良しとするかは時流によって変わっていくのです。

清然というあり方

大事なことは、主人公である織部自身が、この価値の相対性について強く自覚的であることです。
利休を介錯した後、筆頭茶道となった織部は、師である利休が考えたわび数奇の按配を改めました。

殿下が信長公の御志を時流に合わせて実現されておるのと等しく…… それがしも数奇において同じことをしておるのです
利休居士は…… 作庭をはじめあらゆる作事の良い配分を渡り六分景四分としました
それをそれがしが時流に合わせて改めたのです 渡り四分景六分と
(十二巻 第百二十五席)

時流に合わせて改めるということは、また時が流れれば、織部の考えた渡り四分景六分も、変わりうるということです。それも織部は承知しています。

場の雰囲気面白さとは…… 刻と共に移ろいゆくもの……………
なれば型とて移ろいに合わせ変わらねば……… 私の創りし今の型を不動にしたら……… 後世の者は茶席に面白さを感ずる事ものうなりましょう
変幻自在 融通無碍 かような「茶の湯」で良いのでござる
(十七巻 第百八十四席)

自分の創った「今の型」は不動でなくてよい。面白くなるのであれば変幻自在に変えればよい。自分の価値観が一時的なものである=絶対的なものではないということをよく自覚している織部の心がよく出ている台詞です(かつて出会った丿貫の影響も強く見られます)。
そして、そのような織部の心を一言で表した言葉こそ、望覚庵に飾られた「清然」です。

清く然るがままに…… 禁欲しつつ我がままにという事よ
利休居士の草庵の定石の中に己が好みの我がままを入れる……
この矛盾が「乙」と化し 一笑へとつながるのだ
(十一巻 第百十五席)

この考え方には、価値観の相対性、一時性以外にも、重要なポイントがあります。それは、価値の変化が漸進的であるをよしとする、ということです。
既に存在する定石を全否定するのではなく、それを活かしつつ、己の好みも我がままに入れていく。定石を単に全否定し、それを無視した自分の我がままだけで創ったもてなしは、相手への一方的な価値観の押しつけにしかなりません。あくまで、主人と客の間で共通見解としての定石があり、その中へ己の好みをそっとまぜることで違和感が生まれ、そこに座の一笑が起こるのです。
織部の好み「へうげ」や「一座建立」などにもその考えは見られますが、長くなるのでそれはまた別の機会で。

清然と政

さて、清然は数奇に限った話でなく、政にも適用できると織部は考えました。少なくとも、彼を師と仰ぐ秀忠はそう考えました。
いよいよ織部切腹の沙汰が下される段になり、かねてより父・家康のやり方に不満を持っていた秀忠は、父を手にかけてでも織部切腹を止めようとしましたが、すんでのところで織部からの手紙を受け取り、そこに書かれていた「清然たらん事を」の言葉に身を引き裂かれそうになりました。

禁欲しつつ我がままに……
政においても………… 所々は我を出し新しうを変えるとて……………
父の体制を保てと申すのか………!!?
(二十五巻 第二百六十八席)

織部がそう書いたのは、想像するに、体制=価値観の根底的な変化は、国内に大きな波紋を呼ぶと考えたからでしょう。おそらくそれは、秀吉から家康、織豊から徳川への変化の渦中にいた織部が、芯から実感していたことのはずです。
形は違えど「数奇」を政の中に活かしていた織豊時代と違い、徳川政権となってからは、数奇は蔑ろにされ、武家とそれ以外の峻別、平和のためには民は愚かでよいという家康の価値観でもって、「毒」を排した政が行われました。しかしそれは、「数奇」を好む他の大名の反感を買い、反徳川の機運を高めるもので(家康自身がそれを企図していたとしても)、国内に火種を残すものでした。
ここでまた秀忠が父・家康のやり方を全否定しては、今の火種が消えてもまた別の火種がくすぶるだけ。まがりなりにも一応の安定を見たのだから、みだりにそれを乱すようなことをすべきではない、変えるならあくまで清然に。家康の体制を保ちつつ、所々に我を出し新しくしていく、漸進的な変化が良かろうと、織部は考えたのでしょう。「その場その場で己が都合の良い方につき」、戦国時代を生き抜いた乙将の織部は。

おわり

以上、価値観の相対性について、織部と「清然」をキーワードに概観してきました。
これ以外にも「数奇」や「わび」「へうげ」「一座建立」など、ポイントとなりそうなキーワードはまだあるのですが、とりあえずここまでとしておきます。『へうげもの』は読み返すのにすっごい疲れる……



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『HUNTER×HUNTER』「道草」の楽しさと、「会いたい」と「見つける事」の違いの話

前回書いたハンタについての記事で、ネテロの遺志とそれを受け継ぐパリストン、二人の共通点と相違点を考えました。
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今回の記事では、前回の最後に触れた、二人と同じく「楽しさ」を行動理念に据えているジンについてと、それを考える中でピンと来た、ゴンの

上手く言えないけど…オレ… ジンに会いたいって思ってたんじゃなくって ジンを見つける事が目的だったんだって… 会ってみて気づいたって言うか

という言葉の意味を考えてみたいと思います。

ネテロ、パリストンとジンの「楽しさ」の違い

まずは、ジンの「楽しさ」についての考え方を、ネテロやパリストンと比較する形でまとめてみます。
前回の記事で、二人については

ネテロは、プロセスが楽しければゴールの結果にこだわらず、パリストンは、プロセスを楽しむためならゴールに辿りつかなくてもいい、と言えるでしょうか。
両者の違いは二点。まずは楽しさについて、ネテロはそれを結果とし、パリストンは目的としていること。そしてゴールについて、ネテロはそれを必要とし、パリストンは不要と考えていること。

と端的にまとめました。
この表現に沿って表すなら、ゴールを設定することでプロセスを楽しむのがジン、と言えるでしょうか。それを彼の言葉で言えば、「道草を楽しめ」です。

「道草」とはなにか

息子であるゴンへのはなむけともいえるその言葉は、自分自身の生涯を振り返って出てきたものです。ゴンに語った、自分がハンターを志すきっかけとなった王墓の話は、まさに「道草を楽し」んだ具体例でした。
当時のジンが望んでいたのは、ある王族の埋葬施設(とされる場所)へ行くことでした。ハンターになることはそのための手段の一つであり、それ以外の条件をクリアするために同好の士を募り、数年をかけて無事王墓へ足を踏み入れることができました。ですが、その時のジンにとって一番嬉しかったのは「ずっと願ってた王墓の「真実」を目の当たりにした事じゃなく いっしょに中へ入った連中そいつらと顔を見合わせて握手した瞬間だった」のです。
それをまとめてジンは、「大切なものは ほしいものより先に来た」と言いました。もちろんジンは王墓へ入ることを望んでいたし、そもそもそれがスタートだったのですが、その中途で生まれた仲間こそが、たどりついたゴールそのものよりも大切なものだった。それを、ゴールにたどりついてから初めて気づいた。「ほしいもの」を手に入れて初めて、それより前に「大切なもの」が来ていたことがわかったのです。
ここでの「ほしいもの」とは、この思い出話をするきっかけとなった、ゴンの「ジンがほしいものって何?」という質問が踏まえられています。そしてその質問については、ジンは「今目の前にないもの だな」と答えています。
またジンは、「オレはいつも現在いまオレが必要としてるものを追ってる 実はその先にある「本当にほしいもの」なんてどうでもいいくらいにな」とも言っています。

ほしいもの/大切なもの・必要なもの

ここでジンの行動をチャートにしてみると
1,「今目の前にないもの」をほしがる

2,「本当にほしいもの」へ辿りつくために「必要としてるものを追」う

3,「大切なもの」が(ほしいものより先に)来る

4,「本当にほしいもの」を得る
となります。
つまりジンは、(what I) wantと(what is) important、wantとneedを明確に使い分けています。ほしいもの/大切なもの、ほしいもの/必要とするものという二項は、別物としてはっきり区別され、そして「大切なもの」と「必要とするもの」は、イコールで結ばれうるのです。
「道草」とは一般に、回り道や目的から逸れたことのような、ネガティブさをともなったニュアンスで解されますが、ジンの場合は、そうではありません。すなわち、目的に到達するためには、それに応じた様々な手順を踏む必要がありますが、それらは、自分の思うままに目的地まで真っ直ぐいけない以上、広義の回り道、道草には違いありません。でも、それを惜しむな、面倒くさがるな、むしろ楽しめ、というのがジンの考えです。
臆断の域にも踏み込んでしまいますが、ジンはおそらく、自分が「本当にほしいもの」へ本気で辿りつこうとすれば、それに同調する本気の仲間、同士が得られると考えているのではないでしょうか。この王墓発掘の話もそうですし、G.I.のエピソードも、レイザーの回想から彼がジンを強く信頼していることが見て取れます。そしておそらく、ジンからレイザーの信頼もまた同様なのでしょう。暗黒大陸編だって、当初は敵対していたビヨンドの仲間らとも、彼らが本気で暗黒大陸を目指していることを理解してからは、ジンは彼らに胸襟を開き、彼らもまたジンと積極的にかかわろうとしています。

後から振り返って気づく「大切なもの」

ジン自身の言葉で「大切なものは ほしいものより先に『来た』」、「ほしいものより大切なものが きっとそっちに『ころがってる』と表現しているのは示唆的です。なぜって、「来た」や「ころがってる」という表現は、ジン自身が能動的に得た、というニュアンスではないからです。
自分自身が「ほしいもの」を追い求めている途上で、「大切なもの」に予期せぬ形で出会った、というのがこれの意味するところでしょう。予期していなかったからこそ、それが後から振り返って、実は「大切なもの」だったのだとわかるのです。というよりは、途中でたまたま出会った者達と最後まで道を同じくできたからこそ、そこに価値を見いだせた。つまり「ほしいもの」を得たという一つの区切り、ゴールがあったから、道中で出会った者達の価値が確定した、と言えるのかもしれません。
ですから、上のチャートには
4,「本当にほしいもの」を得る

5,「大切なもの」が来ていたことに気づく
と5を入れるのが正解なのでしょう。
とまれ、ジンの考えでは道草を楽しむべきなのです。道草を楽しむから、手間を惜しまず、手間と思わずやるべきことをやるから、途中で来たものが、ころがっていたものが、あとから「大切なもの」だったと思えるようになるのですから。

ゴンの言う「会いたい」と「見つける事」の違い

さて、ここまでジンの「楽しさ」についてまとめたところで、ゴンの話にいきましょう。
冒頭でも引用した、33巻No.345「署名」でのゴンのセリフですが、これを読んでからつい最近まで、何を言っているかいまいちつかめませんでした。「ジンに会いたい」と「ジンを見つける事が目的」って、いったいなにが違うんだと。
でも、このジンの言う「道草」という考え方を踏まえると見えてきたものがあり、そしてその結果、やはりカエルの子はカエルなのだなと思わずにはいられませんでした。
まず端的に違いを言えば、「会いたい」とはジンという人間それ自体がゴールであり、そのプロセスは考慮されていません。それに対して「見つける事が目的」とは、その字義通り、「見つける事」という行為それ総体、すなわちジンというゴールにたどり着くプロセスを味わうこともひっくるめてが目的だと考えます。
これはその後の、

オレ 「親だからずっといっしょにいたい」とは考えなかっただろうけど
もしも念が使える状態で ジンの強さや凄さを肌で感じてたら「ついて行きたい」って思ったと思う
(33巻 p91)

もあわせて考えることで、より深められます。
「親だからずっと一緒にいたい」とは、親=ジンと一緒にいることが目的であり、一緒にいればそれだけで常に目的はクリアし続けられます。ですから、一緒にいる間中何が起ころうが、それが面白かろうがつまらなかろうが、ジンと一緒にいるだけですべてオールオッケーとなります。それはジンの言葉を少し借りれば、「今目の前に」あるものしか求めていない、ということであり、「今目の前にないもの」をほしがるジンとは正反対のあり方です。
それに対して「ついて行きたい」とは、ジンの行く道を自分も一緒に歩いてみたい、ということです。つまり、ジンと一緒にいることではなく、ジンが味わうであろう経験も自分も味わいたい、ジンが楽しむであろうことを自分も楽しみたいということです。
わざわざ「念が使える状態で ジンの強さや凄さを肌で感じていたら」と断りを入れているのがその証左と言えます。この断りは、ジンが体験することを自身も同様に体験するためには、相応の能力が必要ということを理解していたから出てきたものでしょう。念を使えない今のゴンでは、ジンと一緒にいたところでジンと肩を並べられない。お荷物、足手まといにしかならない。ジンが楽しむことをジンのように楽しめない。道草を、楽しめない。
ゴンが「ジンを見つける事が目的だったんだって… 会ってみて気づいた」のも、上で書いたジンの、「後から振り返って、実は「大切なもの」だったのだとわかる」というものと見事なほどに軌を一にしています。ジンを見つけるというゴールに辿り着いたから、ゴンもそこまでの道程を振り返ることができました。そして、ジンという「ほしいもの」より先に、キルアやクラピカ、レオリオといった「大切なもの」が来ていたことがわかったのです。
まさにカエルの子はカエル。誰に教わるでもなく、ゴンはジンと同様の行動理念に至っていたのです。

むすび

ということで、ジンの考える「道草」の楽しみ方と、それと重なるゴンの思いの話でした。かれこれ3年以上引っかかっていたゴンの微妙な言い回しが解きほぐせて、魚の小骨がとれたようなスッキリした気分です。
本誌ではクラピカが主役になって絶賛連載中ですが、果たして今後ゴンが登場する機会はあるのか!?



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『HUNTER×HUNTER』ネテロの遺志とゲームを楽しむための土俵の話

先日発売された、『HUNTER×HUNTER』35巻。
この密度の作品が年に2冊刊行なら何も文句はないのですがそれはともかく、濃い内容のせいで既刊を読み返さなきゃ継承戦がどんなもんだかすっかり思いだせないでいたので、会長選挙編あたりから再読していたのですが、その中で、寄り道ながら選挙戦の最中にジンの言った「前会長の遺志」について考えたのでその記事です。
HUNTER×HUNTER モノクロ版 35 (ジャンプコミックスDIGITAL)
ネテロの遺志、そしてそれを継いでるとされるパリストンの意志の共通点と相違点については、既に何年も前に面白い記事が別の方の手によって書かれております。
blog.livedoor.jp
それを踏まえつつ、二人の意(遺)志の共通点と相違点を考えてみたいと思います。

「楽しさ」を求めるやつら

さて、上記リンク先の記事で、ネテロとパリストンについて「両者は、同じく善悪・利害より「楽しさ」を優先してしまう素質があ」ると書かれています。優先「してしまう」という表現まではともかく、「楽しさ」が自身の行動に際する基準にあることは同意します。
二人(とジン)が、「楽しさ」を好むことは、他者からの評価という形で随所に現れています。

まるで邪魔や障害を楽しんでいる節さえある…
そんなとこだけネテロ会長に似てる…
(31巻 p62)

アイツ(引用者註:パリストン)はただ楽しみたいんだ
オレ(引用者註:ジン)や会長ネテロといっしょだよ …ま オレは飽きっぽいけどな
(32巻 p117)

面白いと思ったら何でもする人(引用者註:ネテロ)さ
(中略)
前会長が息子ビヨンドに与えた制約にしても むしろ息子ビヨンドが自分の命を狙ってくる事まで期待していたのではとすら思える
(中略)
元会長はクレイジーだ 洒落にならない難題を 自分にも他人にも笑ってふっかける
まあ… そこが魅力だったわけだが
(33巻 p113

このように、ネテロやパリストン(とジン)が、楽しさ、面白さを求めて行動していると他人から評価されていることがよくわかります。それをしてジンに、選挙の終盤で、「今残ってる4人(引用者註:パリストン、レオリオ、チードル、ミザイストム)で前会長ネテロの遺志を継いでるのは パリストンだけだ」と言わしめるのです。
これは、ジンとパリストン以外の十二支んらが、選挙を終えた後も、既に故人となった前会長ネテロの意向を忖度する形でハンター協会の方向性を考えていること(33巻での、ネウロが遺した2枚目のDVDを確認した直後の言い争いが象徴的です)と、自分だけがさんざっぱら楽しんだ選挙をネテロの手向けに、さっさと十二支んを辞めたパリストンという、非常に対照的な姿で現れています。付言すれば、ジンも同じタイミングで十二支んを脱退していますね。サン=テグジュペリの言葉を借りれば、十二支んはネテロばかりを見つめ、パリストンやジンはネテロと同じ方向を見ていた、というところでしょう。十二支んは楽しんでいるネテロが好きで、パリストンやジンはネテロと同じく楽しむことが好きだったのです。

「楽しさ」を求める奴らの違い

では、その共通点を確認した上で、ネテロとパリストン(とジン)の意(遺)志、すなわち楽しむことを追い求める姿勢は、どのように異なるのでしょうか。
上記引用ブログではその点を、『HUNTER×HUNTER』世界において、「ゲームを楽しむ」ことが重要なテーマになっていることを前提に、「パリストンはゲームを楽しむがそれを共有しようとしないソロプレイヤーであって、ネテロはゲームを楽しむがそれを共有できる相手がいないソロプレイヤーとの違いがあります」と表現しています。
私なりに両者を端的に表すなら、ネテロは、プロセスが楽しければゴールの結果にこだわらず、パリストンは、プロセスを楽しむためならゴールに辿りつかなくてもいい、と言えるでしょうか。
両者の違いは二点。まずは楽しさについて、ネテロはそれを結果とし、パリストンは目的としていること。そしてゴールについて、ネテロはそれを必要とし、パリストンは不要と考えていること。

ゲームを「楽しむ」ためには何が必要かーネテロの場合

一人ずつ説明していきましょう。
ネテロが楽しさを求める時、そこには結果が明確に出されることを望んでいる節があります。象徴的なのは、かつてネテロが暗黒大陸へ行った際の思い出を語った言葉です。

ワシの求める「強さ」には相手が必要だった 言うなれば 勝ち負けのある個としての「強さ」じゃな
だが新世界にあるのは 個人の勝ちなど存在しない 厳しい自然との格闘のみじゃった
(33巻 p16)

「勝ち負けのある個としての「強さ」」を求めていたということは、そこには結果、別の言い方をすれば競う相手が必要だったと言えます。新世界で待ち受けていた「厳しい自然」と、それに対峙するネテロは対等ではありません。つまり、勝負ではありません。どちらが勝つか、ではなく、ネテロが勝つか負けるか(=生きるか死ぬか)であり、自然の側には勝ちも負けも無いのです。
ネテロはあくまで、相手のある、個としての勝負にこだわった。お互いが同じ土俵に乗っていないことには楽しめなかった。
だから、強くなりすぎてしまったことに退屈していた。倦んでいた。

一体 いつからだ
敗けた相手が頭を下げながら 差し出してくる両の手に
間を置かず 応えられるようになったのは?
そんなんじゃ ねェだろ!!
オレが求めた武の極みは
敗色濃い難敵にこそ 全霊を以て臨む事!!
(28巻 p15~19)

相手を必要とする「強さ」を求めていたネテロにとって大事なこと、つまり楽しいことは、「全霊を以て臨む事」。おそらく彼にとって、臨んだ結果の勝ち負けはあまり重要ではありません。もちろん勝つに越したことはないでしょう。勝った方が、より楽しい。でも、負けたからといって楽しくなかったかというと、決してそうではない。負けて悔しいから、次は勝つぞと意気込める。負けた経験があるから、勝つことがとても嬉しくなる。
たとえば子供相手にルールを教えながらするゲームや、相手を勝たせるためにする接待ゲームは、少なくともそのゲームをすることそのものに楽しさはありません。それは、プレイヤーが同じ土俵に立っていないからです。
同じ土俵に立つとは、同じ目的でゲームに参加するということです。ゲームの目的が勝敗を決することではなく、ルールを教えるとか、相手をいい気持ちにさせるとかの、いうなればゲームそのものに対して不純なものでは、勝っても負けてもそこには不純なものが混じります。

同じ土俵に立つことの重要性

ネテロの経験した「敗けた相手が頭を下げながら差し出してくる両の手に 間を置かず応え」るという状況は、その両者が同じ土俵に立っていないことをまざまざと表しています。敗けた相手に悔しさはなく、勝ったネテロに嬉しさはない。おそらくそこには、「敗けてもともと」という相手の諦念と、「勝って当然」というネテロの倦怠があり、前者は後者によって見下ろされているのです。両者は同じ土俵にいない。
勝ち負けというゴールがあるからこそ、その勝負、すなわちゲームに意味が生まれます。ゲームがゲームとして成立するのです。
ネテロは、誰かと同じ土俵でゲームを行い、最終的にゴールに到達する、という一つの流れをクリアすることで、結果として楽しさを覚えているのだと言えるでしょう。目的はゲームのゴールに辿り着くことで、楽しさは結果としてやってくるのです。楽しさを求めるためにゲームを終らせる、と言ってもいいでしょうか。

余談。ネテロの最後の闘いについて

ところで、ネテロがメルエムと闘った際、「敗色濃い難敵にこそ 全霊を以て臨」んでいた彼は確かに楽しくあったでしょうが、しかし心の底では、100%楽しめなかったと思うのです。なぜって、彼の身体にはミニチュア・ローズが埋め込まれていたから。
蟻に対して負けることを許されていなかったネテロは、たとえ王に敗れ死んだとしても、王を道連れにできるよう、心臓が止まったら作動する爆弾を自らの身体に仕掛けていました。つまりそれは、メルエムと同じ土俵に立てていなかったということ。ネテロの至上目的は、あくまでメルエムを滅することであり、純粋に闘うことではありませんでした。その意味で、ネテロのゲームは不純だったのです。
もっともそれを言うなら、メルエム自身も闘うために闘ったわけではなく、人間代表のネテロと言葉を交わすために、その前段として闘ったまでのこと。闘うために闘うという、ネテロの望む純粋なゲームには程遠いものだったのです。「敗色濃い難敵にこそ 全霊を以て臨む」こと自体は楽しくとも、ゲーム自体は、到底100%楽しめるような代物ではなかった。
自らの指で心臓を貫く直前にネテロが浮かべた邪悪な笑みには、折角のゲームを汚してしまった自身に対する深い嘲りの感情も込められていたことでしょう。初めから負けることのない、初めから相手が「詰んでいた」ゲームなんて、その途中がどれだけ面白いものであれ、ゲームに対する冒涜以外の何ものでもないのですから。

「楽しさ」はゲームのどこにあるのかーパリストンの場合

翻って、パリストンはどうでしょう。
彼について、ジンはこういいます。

アイツ(引用者註:パリストン)は勝つ気も負ける気も無い
(中略)
アイツはただ楽しみたいんだ
オレや会長ネテロといっしょだよ …ま オレは飽きっぽいけどな
(32巻 p117)

ここにすべてが集約されているのですが、パリストンは「勝つ気も負ける気も無い」のです。つまり、ゲームを終わらせる気がない。ゲームが終わらなくても、遊んでいる最中が楽しければそれでいい。楽しみたいがためにゲームをしている。楽しむことが目的であり、ゲームはその手段でしかない。ゲームが続けば続くほど楽しみも続くのであれば、勝ち負けを決める気なんてさらさらない。
それは選挙の途中でチードルも理解し、

勝ち負けなんて眼中にないから 損得勘定抜きで無機質かつ冷静に…
他者の感情を操りルールを利用して 私たちが最も嫌がる事を選択出来るのだ!!
(32巻 p74,75)

と、パリストンを評価するのです。
このときゲームを楽しんでいるのは、パリストンだけです。他の人間は基本的に、勝つことを目的としてゲームに参加しています。ゲームと表現するのが不謹慎だとしても、参加したものを縛るルールがあり、勝敗が決まるゴールがあるなら、それはゲームと表現して差し支えありません。実際、チードルは、ジンが選挙を「票取りゲーム」と表現したことに不快感を示しますが、選挙には十二支んで決めたルールがあり、会長をきめるというゴールがあります。ゆえに、ゲームです。

「楽しさ」の土俵に立つのは誰なのか

ルールがあり、ゴールがある以上、そこには最善手があります。唯一ではなくとも、「こうすべきだ」と考えられる作戦が存在します。そしてその作戦は当然、ゴールに到達するためのもの(選挙なら、会長になるためのもの)。ルールが明確であればあるほど、とりうる作戦も明確になります。だから、チードルの手の内は「読まれ易い」。手の内を読んだうえでパリストンは、チードルの作戦を邪魔します。
厄介なのは、パリストンの目的がゴールすることではないこと。チードルとは違う思惑で、ゲームに参加しているのです。パリストンにしてみれば、ゲームで楽しめればいい。勝とうが負けようが関係ない。勝ちも負けもないままゲームが楽しいまま続くのであれば、それこそがベスト。ゲームが終わらないために=相手がゴールしないために、ルールの内でなんでもします。
原則的にルールとは、ゴールへ到達するために何をすべきか、何をしてはいけないかを決めているものです。ゴールを目的としていない者を想定したルールなど、普通はないのです。だから、チードルと噛み合わない。チードルが空回りしてしまう。目的が違うのだから、同じ土俵にいない。
ただ、同じ土俵にいるかいないかは、正確には、チードルの目からはそう見える、と言うべきでしょう。ゴールを目指すチードルにとっては、同じゴールを目指してはいないパリストンは、当然違う土俵ですが、パリストンにしてみれば、チードルも含めたゲームの参加者全てを巻きこんで、自分が楽しむことを目的としているのだから、他の参加者がゴールを目指そうがなんだろうが、ゲームに参加してさえいれば彼の土俵にいるのです。自分が「楽しむ」という彼だけの土俵に。

パリストンの「楽しさ」の根っこにあるもの

では、パリストンがゴールを目指さずに他人を邪魔して、いったい何を楽しんでいるのか。実はそれは「楽しさ」は他者に嫌がらせをすることそのもの、すなわち他者の嫌がる姿を見ることから生まれているのですが、彼自身その図式をよく自覚しています。

人は普通愛されたり愛したりすると 幸せを感じるらしいですね
僕は人に憎まれると幸せを感じ 愛しいものは無性に傷つけたくなるんです
(33巻 p52)

だから彼は、自らが幸せになるために、楽しむために、ネテロの嫌がることをしていたのでした。

……ボクはね 会長になりたくて副会長を引き受けたんじゃない
会長のジャマがしたかっただけ… ネテロさんはね ボクが面白い茶々を入れると本当に嬉しそうに困ってた……
もっと会長と 遊びたかったなァ
(32巻 p104)

そしてネテロ自身、パリストンの茶々を楽しんでいたのですから、ある意味で二人は非常にいいコンビだったのでしょう。

ワシが最も苦手なタイプ ワシが隣に置いときたいのはそんな奴じゃよ
(31巻 p15)

ここには、困難に対処することに楽しさを見いだしているネテロの姿があり、それは「敗色濃い難敵にこそ 全霊を以て臨む事」と通じるものがあります。思い通りにいかないから楽しい。他人の意思とぶつかりあうから楽しい。
いうなればネテロとパリストンは、あるゲームにおいて、ゴールに向かうプレイヤーとそれを邪魔するプレイヤー、という形で参加していたのです。同じゴールにどちらが先に着くかというゲームではなく、たとえば野球のバッターとピッチャーのような、目指すものは違くとも(バッター側の目的は得点すること、ピッチャー側の目的は失点しないこと)一つのルールの中で同じ土俵に立っているゲームで楽しんでいたのでしょう。

まとめ 彼らの土俵には誰がいるのか/誰をのせているのか

改めてまとめれば、ネテロもパリストンも、「楽しさ」を自身の行動原理に据えているという点で共通しています。ですが、ネテロはルールのあるゲームで同じゴールを目指す、すなわち同じ土俵で勝負することの結果として生まれる「楽しさ」を求めますが、パリストンは、誰かの嫌がる姿を見ることが「楽しく」、そのために、ゲームでゴールを目指す他のプレイヤーの邪魔をし、その姿を延々見るべく、自身はゴールを目指さず、それどころか自身も含めて誰もゴールに到達しないように行動するのです。そのとき、他のプレイヤーからしてみればパリストンは同じ土俵にいませんが、パリストンとしてみれば、すべてのプレイヤーは彼自身が楽しむために彼の土俵の中にいるものなのです。
トランプでたとえれば、ネテロはポーカーなどの対戦ゲームで誰かと勝負するのですが、パリストンは他者はカードとしてソリティアなどの一人で楽しむゲームをしている、と言えるでしょうか。
態度は違えど「楽しむ」ことへの情熱を燃やす二人を考えれば、クソ真面目にネテロのやってきたことを踏襲しようとしている他の十二支んではなく、たしかにパリストン(あるいはジン)こそがネテロの遺志を継ぐ者なのでしょう。

予告

まとめ以外でもちょこちょこと触れていたように、ジンもまた「楽しさ」を行動理念に据えるものとしてネテロの遺志を継ぐものなのですが、すでに7000字にも迫ろうという馬鹿げた文字数になってしまったので、ジンおよびその息子であるゴンについては後日別稿ということでご勘弁願いたい所存。
ジンと別れクジラ島に戻ったゴンが言った

上手く言えないけど…オレ… ジンに会いたいって思ってたんじゃなくって
ジンを見つける事が目的だったんだって… 会ってみて気付いたって言うか
(33巻 p90)

という言葉が長いことよくわからなったのですが、本記事を構想している最中、ジンのことを考えていたらはっと閃くものがあったので、それについて書きたいと思います。



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『ショート・ピース』監督の「想像の域を出」る魅力と、「本音」の肯定の話

前回の記事でレビューした『ショート・ピース』。
世界よ、この素晴らしき人間たちに喝采を 『ショート・ピース』の話 - ポンコツ山田.com
そこでの置き土産で、人が根っこのところで抱えている感情の肯定と、主人公キヨハルの「映画が俺の、想像の域を出ない」という言葉についての関連性についての話を残していました。今回はそれを掘り下げた話。
ショート・ピース(1) (ビッグコミックス)
さて、上でも挙げた「映画が俺の、想像の域を出ない」というキヨハルの言葉。この言葉は妙に私の心に刺さったのですが、これは第5話にて、写真家の父を持つ男子高校生にカメラを持たせて撮影をさせた後に出たセリフです。
その高校生・服部要は、著名な写真家である父を持っていますが、父は家庭を顧みることなく仕事仕事&仕事、妻や息子(すなわち要)が病気であろうと入院しようとかまわず仕事に出かけてしまう仕事一筋の人間で、それ以外の姿を見せぬまま客死し、そんな彼の背中しか見られないで育った要は父を憎み、将来人と変わらない仕事をしようと心に決めました。
けれど、たまたま林間学校で撮った写真をキヨハルに見られ、お前にはカメラの才能があると、強引に撮影に誘われました。写真家であった父を憎んでいる要のこと、当然勧誘を拒絶しますが、無理やり渡されたキヨハルの過去作品を見て心揺さぶられ、自分に才能があるといったキヨハルの真意を知りたく思い、撮影に参加することにしたのです。
撮影当初は、たった数枚の写真の出来がたまたま良かっただけなんじゃないかと、要の腕に半信半疑だった映研部員も、実際に彼の手によって撮られた作品のカメラワークに驚嘆し、誉めそやしますが、要を誘った当のキヨハルはなぜか気の抜けた顔。撮影中止をつまらなそうに宣言し、そそくさと帰り支度です。こうなったら聞かない彼の性格を知っている部員たちは、諦めて素直に撤収作業を始めますが、要だけは理解できません。「僕の撮った映像に何か文句があるのか」と食ってかかりますが、キヨハルは即座に絵コンテを切って、要も納得せざるを得ないほどのより良いカメラワーク案を溢れさせます。そして、ぐうの音も出ない要が悔しまぎれに言った「君が自分で撮ればいいじゃないか」というセリフを受けての、「映画が俺の、想像の域を出ない」なのです。
少し長くなりましたが、これがこの言葉が出た文脈です。この言葉がどうして、人が根っこのところで抱えている感情の肯定につながるのでしょうか。
そもそも映画とは、一つの作品を完成させるために非常に多くの人間がかかわる媒体です。脚本を作り、舞台に相応しい場所をロケハンし、許可が必要なら取り、登場人物にふさわしい役者をキャスティングし、スポンサーを集め、カメラマンや照明、録音など、表に出ずとも撮影に必要となるスタッフを集め、カメラの前に立つ役者には衣装をあつらえ髪形を整え、撮り終ればそれを編集し……と、ざっと思いつくだけでもこれだけ出てきますから、実際にかかわっている人から見れば、もっとはるかに膨大な人員が挙げられるのでしょう。それがプロではなくアマチュアでも、小説や漫画、音楽といった他の媒体に比べ、圧倒的に多くの人間が必要なことに変わりはありません。
多くの人間がかかわる以上、そこにはそれぞれの思惑というものが、意図したものであれ偶然であれ、顔を出します。脚本をどれだけ読みこんで、監督の指導を受け、その通りに演技し、カメラを回し、音をかぶせ、光を当てようとも、書いた脚本家やそれに基づいて作品を構成する監督当人でない以上その解釈には振る舞う人間の主観が混じります(そも、脚本家や監督当人でさえ自分の脚本や構成を全て理解しているわけではないでしょうし)。それゆえ、作られたものには、監督の意図していなかったものが必ず混じります。それはもう、複数人で制作している以上宿命的に。
意図しなかったものが混じる。にもかかわらず、キヨハルの想像の域は出ない。それはどういうことなのか。
思うに、人が想像できることとは、理の内側にあるものだけなのではないでしょうか。
理。それはたとえば科学のように、ある一定の条件下では常に適用できる法則や体系です。人はその法則や体系を構築することで、一定の知識や技術に一般性を持たせ不特定の多数の人間に同水準のものを学べるようにし、また学ぶ側は自分一人で考え編みだすよりも遥かに速いスピードで、一定の水準に達することができます。そのサイクルによって、人間は飛躍的な技術の発展を可能しました。
ですが、その理は、「常に適用できる法則や体系」であり、「不特定多数の人間が同水準のものを学べる」のであるため、その理を知っている者の間では、理にしか基づいていない産物はその形を容易に想像できるものとなってしまいます。つまりは、「想像の域を出ない」。
事実、キヨハルにダメ出しをされる直前の要は、他の部員がベタ褒めをしてくれている自分のカメラワークに対し、「何ミリ単位の工夫」「構図を記号化して最も美しく映える画を消去法で見つけ出す」とその要諦を述べていますが、それこそが理です。言語化された技術こそ、他者に伝達可能であり、共有可能な理なのです。そして、それが理であるがゆえに、キヨハルにはそれが「想像」できてしまいます。1巻時点で明確な描写はありませんが、第4話でひかりが演技を模した役者を即座にいくつも挙げているあたり、彼は自身の天賦の才だけでなく、既存の技法や作品、役者について人並み以上の勉強をした上で監督・脚本をしているのでしょう。だから、即座に言語化できる程度の勘やセンスに基づいた技巧(=理)だけで撮られた要のカメラワークなど、「想像の域を出ない」。自分の知っている理の範疇に収まってしまう。
ならば、「想像」を越えたものを生み出すにはどうすればいいのか。キヨハルを納得させるためにはどうすればいいのか。
理を越える。一言でいってしまえば、それです。
理。それは一般性を持たせたもの。不特定多数の人間が学べるもの。ならば理を越えるとは、一般性がない域、不特定多数の人間には共有できない域まで行くということです。
ここで、当初のテーマにリンクします。そう、「人が根っこのところで抱えている感情」です。作中の言葉で簡潔に言えば、「本音」ですか。
人が生きる中で、様々な人に会い、様々な目に遭い、様々な思いを抱く。そうして培われる、他の誰とも共有できない、他の誰にも模倣できない、芯となる感情、思い、「本音」。それが、理を越えたところで発露するものに、キヨハルは強く反応するのです。
たとえば要の、人間への執着。
たとえばひかりの、演技そのものへの好きという気持ち。
それらは理として他者に伝達可能なものでなく、当人の中で渦巻くしかない感情です。けれど、それらが演技やカメラワークという形で表出するときに、理と混ざり合い、理だけでは到達できないものが生み出されます。それこそが、「想像の域を出」るもの。キヨハルが求める、その人の「本音」であり、「そうさせた衝動」です。
こうして、キヨハルが「想像の域を出」るものを求めることと、人が根っこのところで抱えている感情への肯定がつながります。キヨハルの作品は、それにかかわる人間が根っこに抱えるものを衒わず怯まず発露し、「本音」をさらけだすことを求めるのです。
ここまで書いておいてなんですが、もちろん、ただ「本音」をさらけだしただけでいいものができるわけではありません。そのプリミティブな感情がどれだけオンリーワンであっても、それを他人が受け入れられる水準で形作るには、相応の理が必要となります。深く掘り下げれば掘り下げるほど、他者と共有できず模倣もできないのが「本音」というものである以上、演技やカメラワークなどの形で他者に向けて理解できるよう表現するためには、そのためのツールである理が不可欠です。理と「本音」の高度なマリアージュこそが、キヨハルをして「魅かれた」と言わしめるものなのです。
本作を読んだ後に湧いてくる爽快感は、人間へのこのような視線が大きく関係していると思うのですね。


さて、1巻時点では、フォーカスされたキャラクターは要にしろひかりにしろ、基本的に才能のある者、すなわち「本音」以外に理も備えた人間なのですが、映研にはそうではない(少なくともそういう描写のない)、普通の高校生レベルの高校生が所属しています。彼や彼女が今後どういう風に描かれるのかも、注目していきたいところです。2巻はいつになるんだろう……



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世界よ、この素晴らしき人間たちに喝采を 『ショート・ピース』の話

地方でそこそこの人気を博しながらも、上に行けないでいるバンドのボーカル・月子は、後ろ盾をしてもらっているライブハウスの社長からもっと売れ専の曲を作れと言われ、くさっていた。新曲のPVを作ろうとするも、予算も無いので、地元の高校の映研が賞をとったという話を聞きつけ、彼らに制作を依頼する。だが、その映研こそ、奇才の監督・恩田清治が所属している部活だった。彼の作品とその制作過程を目の当たりにし、壁にぶつかりもがいていた月子たちの心もぶすぶすと燻りだす……
ショート・ピース(1) (ビッグコミックス)
ということで、小林有吾先生の新作『ショート・ピース』のレビューです。
奇妙な振る舞い、奇矯な言動。奇人変人を地で行く人間なれど、ひとたび見れば誰もが黙らざるを得ない作品を生み出す男、恩田清春。高校の映研で監督兼脚本を務める彼が、研ぎに研いで、良くも悪くも尖ったその感性で生み出す作品とその過程に、あたかも、途方もなく大きな質量に他の物体が引きつけられるように、他の人間も引き込まれていく。そんな大きな渦を描いているのが本作です。
壁に当たってもがき、目をかけてもらってるライブハウスの社長からは方針変更を迫られているバンド。
華やかな活躍をした過去を心の奥底に押し込め、普通の暮らしをしようとしている元有名子役。
親子のつながりを持とうとしなかった有名写真家の父親に反発するように、一人で働ける小説家を目指した少年。
自分の心を押し殺して現実を受け入れようとしている彼や彼女は、キヨハルの作品を見て、制作に関わって、取り繕わない自分の気持ち、目を背けていた本音をさらけだすことを受け容れるのです。
自分のやりたいことをやる。自分の気持ちを肯定する。背けていた感情に目を向ける。
ともすれば青臭いといわれそうな言葉ですが、本作はそれらの心の動きを、映像作品制作という、多くの人間がかかわる共同作業である創作行為と、それを中心となって指揮する一人のとんがった人間を通じて、ドラマチックに描き出しています。
たとえば、かつて有名子役だった少女、足立ひかり。彼女は幼少期に何本もの映画やドラマ、CMに出演しながらも伸び悩み、ついにはある映画監督に「君には何もない」と言われてしまいました。他の子なんかより自分の方が絶対うまい。そう強く思うも、落ち目の評価を覆すことができぬまま、彼女は引退しました。
それから6年後、ひかりはキヨハルのいる高校に転校してきます。周囲はかつての天才子役がやってきたと大騒ぎしますが、当の本人は騒がれることを望まず、過去の栄光を淡々と語り、普通に接してくれと話しました。栄光も所詮は過去の話。そう思ってきた彼女ですが、ふとした拍子に映研とかかわりを持ち、部員から作品に出演してくれないかと勧誘される中、当の監督であるキヨハルから「必要ない」とすげなく言われたことで、心の奥底に封じ込めてきた感情を引きずり出されました。彼曰く、「あんたには、あんたというものが何もない。」その言葉は、かつてプロの監督から言われた言葉の記憶と絡み合い、普段彼女が意識すらせずにしている演技がかった振る舞いを剥ぎ取り、絶望と恐怖に抉られた彼女の素顔をさらけだしたのです。
キヨハルの言葉の真意を質すため、映研の作品に出演させてもらうよう頼んだひかり。彼女の演技は、他の部員や出演している演劇部員が大はしゃぎするくらいに「うまい」ものでしたが、当の本人だけは浮かぬ顔。自分にだけはわかる自分の演技の至らなさを自覚し、人の輪から離れ俯いていました。いや、それに気づいていたのはもう一人。ひかりと二人、モニターチェックをする監督のキヨハルにより、彼女の演技が失速した瞬間は的確に指摘され、以降も彼女の演技や内心の推移を余さず説明されていきます。それにより、かつての監督と、そしてキヨハルの「何もない」の言葉の真意を悟り、とうとう彼女は、その言葉に向き合わず逃げ出した自分の弱さを自覚したのです。
ここまで、演技の仮面に覆われたひかりの日常の姿と、その彼女が目を逸らし続けてきた自身の過去と弱さを、キヨハルというフィルターを通すことで対比的に描き出してきて、ついには絶望に崩れそうになった彼女が露わになるのですが、その露わになった彼女こそ、キヨハルの求めていた、誰かのコピーを脱ぎ捨てた、一人の役者としての足立ひかりだったのです。裸の彼女に言葉を投げかけ、もう一度立ち上がらせるキヨハルと、自分の根っこのところにある気持ちに気づくひかりの姿こそ、この話のクライマックスなのですが、そのシーンは実に爽やかで、そして胸が熱くなるものです。
上にも書いたように、人間の根っこにある気持ちへの強い肯定、第1話のセリフを借りるなら「あんたは素晴らしい」と、飾らず、衒わず、素直に誰かを(あるいは自分を)祝福することが、この作品には強いテーマとして存在しています。それは第5話での、上手くはあっても面白くはないカメラワークを見ての、「映画が俺の、想像の域を出ない」と言ったキヨハルの言葉にも、一見無関係のようで通じることだと思えます。
それを考え出すとさらに長くなるので詳しくは後日の別稿として、ざっくり要点だけを言えば、彼の「想像の域を出」る作品を生み出すために、作品に関わる人間たちは、理屈や技巧、知識を越えた先にある、否、呑みこんだ先にある、否否、呑み込んだ大元にある「自分」というものを出す必要があります。それは、呑みこんだ当人以外には、外に現れるまで決して知れないもの。それどころか、当人すら外に現れて初めて知れるもの。当然、キヨハルにもわからないもの。だから、「想像の域を出」る作品のためには、作品に関わる人間が己を肯定しなければいけない。自分の本心を認めなければいけない。自分自身を祝福しなければいけない。自分は自分でいいのだと。そこには、とても素朴な人間賛歌がある。
とまれ、奇人監督を中心とした高校生たちによる映画制作に溢れる、自己を肯定するドラマには、読んでいて前を向きたくなる強さと明るさがあります。発売が昨年の11月だったのに読んだのが先月末で、発売すぐに読んでいれば俺マンに滑り込んでいただろうに、申し訳ない……
まずは第1話を読んで、その熱さと爽やかさを味わってください。
ショート・ピース 1/小林有吾
あと、女の子がかわいいの、いいよね……



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