『ワンダンス』ダンスの自由と動かされる感覚の話

三度あることは四度ある。『ワンダンス』のお話です。
今回は、ワンダの言うダンスの「自由」と、カボの感じたダンスの「動かされてい」る感覚の話。
ワンダンス(1) (アフタヌーンKC)
ワンダはカボからダンスが好きな理由を聞かれ、その一つとして「なんか「自由になれる感じがする」と答えました。その答えは、周りの目を気にして自由に振る舞えないカボにとってひどく魅力的に映ったようで、彼がダンス部に入る大きな一因となります。
そして、入部してしばらく。6月に行われるコンテストのオーディションで、他の部員の前でワンダと踊ったカボは、ワンダの踊りを見て、「音を聴く」という、当たり前のようでなかなか意識できないコツに気づき、「動かなくていい 音楽に動かされていればいい 何も考えなくていい」と感じながら気持ちよく踊ります。
さて、この「自由」と、「動かされてい」る感覚。一見正反対のもののようですが、両方ともがカボにとって腑に落ちているものであるというのは、どういうことなのでしょうか?
これを考えるのにもまた、前回の記事でも参照したこの本が参考になりそうです。
どもる体 (シリーズ ケアをひらく)
この本の、「ノる」ことについて書いた章でこんな記述があります。

「勢い」とは、まさにパターンを繰り返し使うことによって生じる、推進力のようなものだと考えられます。運動が単純に継起するのではなく、現在の運動のうちに過去の運動が含まれ、さらには未来の運動が予感されている。これが「勢い」です。
(どもる体 p165)

引用内で触れられている「パターンを繰り返し使う」という行為。これはまさにダンスです。基本単位となるようなパターン(振り付け)を組み合わせてダンスは行われますが、その組み合わせは単純なものでなく、それまで踊ってきたものを変奏、展開していき、表現の幅を広げていきます。よくできた変奏の仕方は、過去の運動を参照し、未来の運動を予感させ、出てきたものが意外な振り付けであろうと、見てるものにある種の納得を催させる関連性を内包しています。つまりは、「勢い」があるのです。
そして、そんなダンスが必然的に伴っているリズムについては、こう述べています。

バフチンはこう述べています。「リズムは、志向、行動、体験がある種のあらかじめ決定されたものであること(…)を前提としている。」。
つまり、リズムにおいてはベクトルのようなものが生まれ、自分ですべてを決めなくてもよい。法則の力によって、運動の進むべき方向がおのずと決められ、進んでいく。
それは決められているという意味では「絶望」かもしれませんが、運動そのものは、なかば「法則任せ」にできる。ヴァレリーも、リズムが十全に作用すると、存在が「自動的になる」と語っていました。ボールが物理法則にしたがって繰り返し弾むように、まさに弾みを得たことによって、リズミカルな運動はおのずと進んでいきます。
(同書 p165)

「自分ですべてを決めなくてもよい」。
「法則任せ」。
「自動的になる」。
ここで述べられていることは、カボの感じた「音楽に動かされていればいい」という感覚と見事に符合します。
たとえば私が趣味でやっているジャズのアドリブ。リズムセクションが演奏するリズムパートの上で、ソロ楽器がアドリブをとるのですが、このときリズムにノれていないと、自分のカッコ悪さが気になり、気ばかり焦り、次にどんなメロディをだせばいいかわからなくなり、今何を吹いているのかもわからなくなります。
それはまさに、『ワンダンス』で部長が言った、「早取り」が起きる状態。

人前に立つ 一斉に注目を浴びる カメラなんかも向けられる そして音楽が流れてくる 踊らなきゃならない
そうするともうテンパって 視界はどこ見てんだかわかんないし 聴覚はシャットダウンして何も聴こえない
そうすると頭の中はこんなことでいっぱい
「次どんなステップを踏めばいんだっけ?」「こっからあの動き どうやって繋げばいいの?」「あっ 練習したあの技も使いたい…!」
「てかこのポージングダサくね?」「てか今顔ブスじゃね?」
…と 身体ばかりに意識がいってとにかく焦る
そうすると何が起きるか
「早取り」が起きる
(ワンダンス 1巻 p153,154)

書いてて、アドリブでしくりまくったときを思いだしてブルっちゃうのですが、ノれてないと、こうなってしまうのです。
でも、勢いがあれば、リズムにノれれば(『ワンダンス』内の言葉を使うなら、音楽をきちんと聴ければ)、運動の進むべき方向を「法則」に任せられるので、その「方向」の中で、自分ができることに集中できるようになります。
実際カボは、きちんとリズムにノることで、手持ちの振り付けがまだまだ少ないながらも、簡単な動きをうまくつなぎ、魅せるダンスを踊ります。
このときのカボは、自分が次にどんな動きをしようか、具体的に考えていません(「何も考えなくていい」)。意識は音楽を聴く方に集中し、体の方が、次にどう動けば一番いいのか、手持ちの動きの中から「自動的」に答えを出しているのです。こうして彼は、音楽に「動かされてい」るのですな。


さて、ここまで述べてきた「動かされるてい」る感覚。ここから「自由」に飛躍するには、以前書いた記事がヒントになりました。
『バガボンド』『戦国妖狐』決定された運命と自由の話 - ポンコツ山田.com
この記事では、『バガボンド』、『戦国妖狐』、『極東学園天国』を例に出し、自由と決定された運命という、相反すると思われる二つのものについて書きました。
その中でも、沢庵の言う

それによると―――― わしの 
お前の 生きる道は
これまでも これから先も
天によって完璧に決まっていて それが故に――――
完全に自由だ
バガボンド 29巻 #256)

という言葉。
そして

人は無限だ
それぞれの生きる道は 天によって完璧に決められていて
それでいて完全に自由だ
根っこのところを天に預けている限りは――――――――――
(同 #257)

という言葉。
この二つをキーにしてみましょう。
思うに、ここで沢庵が言っている「天」は、リズムにノった状態に、そして「生きる道」はどう踊るかということに相当するのではないでしょうか。
すなわち、ある人間がどう踊るかは、ノったリズムによって決定されているのだ、と。
それがなぜ自由なのかと言えば、上で私が、カボは「自分が次にどんな動きをしようか、具体的に考えてい」なくて、「意識は音楽を聴く方に集中し、体の方が、次にどう動けば一番いいのか、手持ちの動きの中から「自動的」に答えを出している」と書いたように、リズムによって「完璧に決められ」た踊りとは、あるリズムに一対一で常に対応する唯一の踊りがあるのではなく、今・ここにおいて、あるリズムで踊っているある人間が、手持ちの振り付けの中で、その時点での習熟度に応じて、最善として導かれる動きが自動的に出てくることを意味するからだと思うのです。
つまり、常に変化する「今・ここ」と、常に変化する人間においては、最善とされる動きも常に変化するのです。ある「今・ここ」における最善が、他の「今・ここ」においても最善であるとは限らないのです。
踊る当人の状況次第で、無限に近い最善手がありうるという意味で、自由なのです。
これは、前掲の記事でも引用していた、『戦国妖狐』の足利義輝の発言にも通じるものでしょう。

時と可能性には無限の揺らぎがあり 選択は常に自由だ
同時に運命も全て決まっていて 決めたのはわし自身だ
戦国妖狐 9巻 p13)

「無限の揺らぎ」の中で、その揺らぎ(「今・ここ」)に応じた最善の踊りは一つしかない(=決まっている)けれど、どの揺らぎ(「今・ここ」)で踊るかを選択することに自由は存在している、ということです。


長くなったのでまとめますが、カボの感じた「動かされてい」る感覚とは、彼がリズムにノっている状態であり、その状態で踊れる最善手は、ある「今・ここ」においては一つしかないのですが、「今・ここ」とは常に変化し、「今・ここ」を選ぶ人間も常に変化し、そしてどの「今・ここ」を選ぶかはそれぞれの人間に委ねられているので、その意味で自由でもあるのです。
もちろん、常に「今・ここ」を自由で選べるものではなく、その意味でダンスの「自由」も、多くの場合、理想的な状態からはどこか欠けているものですが、それはそれとしても、一見相反しそうな二つの感覚はこのようにしてつながるのかなと考えます。



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『ワンダンス』吃音とリズムとダンスの話

まだまだ書くよ、『ワンダンス』の話。今日はカボの吃音にスポットをあてた話。
ワンダンス(1) (アフタヌーンKC)
本作の主人公カボこと小谷花木には吃音の症状があり、それが彼のコンプレックスとなっています。
吃音とは、簡単に言えばどもること。症状のパターンとして、
・連発型:一つの音が連続して発声される(「たまごを」と言おうとするところを「たたたたたたたまごを」など)
・難発型:発話するまでに時間がかかってしまう(「たまごを」と言おうとするところを「――――――――――たまごを」など)
・伸発型:発話の途中で音がのびる(「たまごを」と言おうとするところを「たまーーーーーーーーーーごを」など)
などがあり、これらが複合して存在することもしばしばです。
カボは連発と難発の併合で、どうしても会話がぎこちなくなってしまい、慣れない人と喋ることに気後れし、ひいては自己主張にも苦手意識を持っていたのですが、同級生の湾田光莉に触発されて、言葉がなくても表現できるものとしてダンスを始めました。で、意外なことに、この吃音とダンスは、あるキーワードで通ずるものがあるのです。
そのキーワードとはリズム。リズムがあることで、吃音のどもりはなくなり、ダンスには美が生まれます。
それを教えてくれたのはこの本。
どもる体 (シリーズ ケアをひらく)
同書で著者は、吃音=「どもる」を、発話の際に「体のコントロールが外れ」「思ったのと違う仕方で、言葉が身体が出てくる」もの、と捉え、当事者はどのようにしてコントロールが外れた体に対処しようとしているのか、技術(身体)面と心理面から、二元的に述べています。
その同書の中で、吃音の当事者たちがどもらない例として、こんなことが言われています

「歌うときはなぜかどもらないんです」。
当事者たちが口をそろえて言う「吃音の不思議」のひとつです。人によって症状の個人差がきわめて大きい吃音ですが、この点に関してはみんなの意見がぴたりと一致する。
(中略)
リズムと演技。どもりが出にくいこの二つのシチュエーションに共通しているのは、それに没頭しているあいだ、彼らが「ノっている」ということです。「ノる」とは単にハイテンションになることではありません。「ノる」は、意図と体のあいだに生まれる独特の関係のことであり、この関係が運動をたやすくするのです。
(どもる体 p148,149)

リズム。
同書の引用部分では歌に備わるものとして触れられていますが、これはまた、カボが始めたダンスにおいても極めて重要なものです。その上で、「ノる」ことも同様に、魅力的なダンスをする上でもっとも重要なものの一つでしょう。
もう少し、『どもる体』の内容を追ってみましょう。
同書では、リズムについてこう述べています。

まず、リズムに不可欠な要素は「反復」でしょう。
(中略)
ただし、注意しなければならないのは、「反復」といっても、まったく同じものが繰り返されているわけではないことです。たしかに、時間の刻み幅は同一です。同じ間隔をあけて、アクセントが訪れます。
(中略)
違うけど同じ、同じだけど違う。この相反する特徴をあわせ持つことがリズムの特徴です。つまり、リズム的反復とは事細かに細部を指定する規則ではなく、異なるものをざっくりと束ねる寛容さを持った規則なのです。
(前掲書 p154,155)

変化を含んだ反復としてのリズム。変化していくからこそ、逆に「刻む」働きが重要になります。適切なタイミングで「ここだ」と区切れを入れる。「ノる」とは端的に言って、この「刻む」働きにほかなりません。音などを実際に出す側だろうが、それを聴いたり見たりする受け手の側だろうが、リズムにノっている限りこの「刻む」働きに区別はありません。
(前掲書 p156)

「違うけど同じ、同じだけど違う」「反復」。
「適切なタイミングで「ここだ」と区切れを入れる」「刻む」行為。
この2点をリズムの重要事項として著者は挙げています。この2点が備わっている歌をうたうときは、吃音者でもどもらずに(著者の言葉を借りれば100%)発話できるというのです。
そして、ダンスもまた、基本的な動作のパターンを基に、音楽に合わせて反復的に、そして基本パターンを変奏しながら振り付けを増やしていきます。「違うけど同じ、同じだけど違う」「反復」です。
また、『ワンダンス』の中でも「形を合わせなくても 同じ音を 同じアクセントで取れば ダンスは揃う」と言われているように、アクセント、すなわち「適切なタイミングで「ここだ」と区切れを入れ」「刻む」ことで、ダンスには躍動が生まれます。
当たり前のことですが、ダンスはリズムにノって踊ることで、美を生み出す芸術なのです。
さて、そんなリズムですが、さらにこんなことも言われています。

詩人としてリズムの力を探求していたフランスの文学者ポール・ヴァレリーも、この点について指摘しています。「リズムが十全に作用するとき、存在は自動的であり、外部の偶発的な条件は破棄され、排除されたかのようである。」
(前掲書 p160)

「リズムが十全に作用する」、すなわちリズムにノっている状態では、覚えたものが意識せずとも自然と現れ、体を動かしているかのようである、というのが「自動的であり、外部の偶発的な条件は破棄され、排除されたかのようである」の意でしょう。
このヴァレリーの引用は、リズムについてのものであり、詩についてのものであり、そして吃音にも関係するものですが、ここで登場する「自動的」という言葉からは、『ワンダンス』内のカボの言葉を想起させます。

動かなくていい
音楽に動かされていればいい
何も考えなくていい
(ワンダンス 1巻 p179,180)

「音楽に動かされる」。「何も考えなくていい」。それはまさに自動的ということです。
リズムに乗ったカボは、今まで学んできた動作を「自動的」に行い、華のあるダンスを見せています。

再びヴァレリーの言葉を引用しましょう。
リズムにおいては、「先行するものと後続するもののあいだにつながりがある」とヴァレリーは言います。そのつながりとは「すべての項が同時に存在し、活性化されているかのような、けれども継起的にしかあらわれないようなつながり」です。
(どもる体 p162)

ここで言われている「継起的」とは、先行するものがあるから後続するものが生まれる、と言えるでしょう。カボのダンスも、ある動作をした後にその動作から上手くつながるような次の動作が「自動的」に決定され、滑らかに切れ目なく(あるいは適切な「刻み」でもって区切られ)連続する動きとなっています。そしてその一連の動作の総体=ダンスは、「すべての項が同時に存在し、活性化されているかのよう」であるため、一つ一つの動作は難しいものではなくとも、とてもノれるものとなり、カボがその瞬間において生み出した、独立した芸術として現れるのです。


リズムにノることで、どもらなくなる吃音と、美しい動きを生み出せるダンス。このように、両者はリズムという考えを通じてつながったのです。
付け加えれば、カボが中学時代にやっていたバスケットボールも、球技の中ではもっともリズミカルなスポーツだと言えそうです。一定のパターンで、手でボールを弾ませる、バスケの基本動作であるドリブルは、リズムのある反復的動作として屈指のものでしょう。カボ自身、ダンスを踊る際の音の取り方について、バスケットボールをイメージしていると言ってますしね。
カボの吃音という特徴が、このような形でダンスと関係してくるというのは、意外であり面白いなと思います。



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『ワンダンス』世界を分割して乗るダンスの話

5月にして今年の俺マンに食い込むことがほぼ決定の『ワンダンス』。
ワンダンス(1) (アフタヌーンKC)
レビューはこちら。
踊る彼女は自由に踊る『ワンダンス』の話 - ポンコツ山田.com
高校のダンス部を舞台にした漫画である本作では、ダンスのコツもそこかしこに出てくるのですが、その中でフックがあったものの一つが、リズムのとり方の話。

初心者がダウンに比べてアップのリズム取り(引用者註:ダウンは伸びた身体を屈ませることでリズムをとること、アップは逆に、屈ませた体を起き上がらせることでリズムをとること)が難しいのはね
1(表)&(裏) 2(表)&(裏) 3(表)&(裏) 4(表)&(裏)
ってリズムがあるでしょう?
表のカウントをダウンで取る場合 こう直立した状態から
予備動作なしで沈めば音に乗れる
ダウン
でも 表で浮かぶアップで乗ろうと思ったら
まず一回予備動作として沈まなきゃいけない つまり
アップで踊る場合は「1」から入るんじゃなく 実はその前の「&」から入らなきゃいけない
これはつまり 普段から「&」カウントを意識してないとむずかしい
よく「日本人は表のビートで踊りがち」って言われてて 黒人ダンサーなんかは&から入るって言われてる
慣れれば意識しなくても&から音にはいれるから
ひたすらリズムトレーニングね
(1巻 p137~139)

これは、部内でも頭一つ抜けた実力者と見られている、恩ちゃんこと部長の宮尾恩の説明ですが、ここのなにが引っ掛かったかと言えば、リズムにかっこよく乗るためには、ただの「1・2・3・4」ではなく、「1・&・2・&・3・&・4・&」に分解する必要があるということ。音楽にあわせて単に「1・2・3・4」と感じるのではうまく乗れず、「1・&・2・&・3・&・4・&」と、「&」の裏拍を各表拍(=1・2・3・4)のあいだに入れることで、より細かいリズムを感じて、より本場らしい裏のビートで踊れるというのです。
これを記譜的に表現するなら、4拍(四分音符4つ分)を四分音符4つではなく、八分音符8つで感じる必要があるということなのですが、このような、感じ方をより細かくすることで精度を上げる、という考え方は、ダンスや音楽に留まらないものだと思うのです。
たとえば映像の話。4k8kと進歩たゆまぬテレビも、その画素数が増すことで、映像がより美麗に、より精緻にり、大画面にも堪えるものとなっていきます。これも上の考え方とある意味では同様です。四分音符一つを八分音符2つに割るように、画面内にある画素をより細かく割ることで、映像をより美しくしているのです。
さらに言えば、人間の世界の見方・感じ方・捉え方。語彙を増やすことで、世界をより細かく、より精緻に見ることができるようになることとも同様です。ある現象を説明する言葉が1個なのか5個なのか10個なのかそれとももっと多いのか。その言葉が多ければ多いほど、その人間にとってその現象がより細かく、より精緻に感じ取れていると言えます。
今の自分の感情は「ヤバイ」や「エモい」の一言で説明しきれてしまうものなのか、それともそれ一言ではとても言い切れぬ複雑な何かなのか。自分の感情を正確に捉えるには、相応の語彙が必要です。別の言い方をすれば、「ヤバイ」や「エモい」についてそれがどのような感情なのかいろんな言葉を尽くして説明できるかが、その人の感情の深さと言えるでしょうか。
比喩的に言えば、ある対象にどれだけ多くのラベルをつけられるかが、その人の語彙の多さだと言えるでしょう。このラベルは対象の説明だけでなく、その対象を想起する際にも使われます。たとえば「リンゴ」を思い出すとき、「果物」という分類、「赤い」という見た目、「甘酸っぱい」という味、「パイ」という調理法、「青森」という産地、「富士」という品種、「apple」という他言語での表現など、ラベルが多ければ多いほどリンゴが思い出される機会が増え、その認識が役立つことが増えます(もちろん、稀には邪魔をすることも)。
分野をまた近づけて音楽の話。私が趣味でやっているバンド活動でも、メンバーで演奏の細かい点を詰めるときには、「そこの八分音符二つをもっとはっきりと」や「音のダウンは2拍目の裏まで」、「十六分音符のひっかけを溜め過ぎないように」など、メロディやリズムを細かく割ることで、感覚的でしかなかった個々人の感じ方を、理屈で、あるいは数値で、デジタルで理解できるようにします。
また、演奏の曲想、合わせ方をそろえるためにも、音楽関係にとどまらないいろいろな言葉を費やして、各人のニュアンスを統一していきます。ここでも語彙が多ければ多いほど、各人の考え方を漸近的に統一させられるのです。
音楽を、世界を細かく割ることで、よりかっこいい、イカシた演奏にしていくのです。
あえて意識をしたことはありませんでしたが、ダンスも音楽(リズム)に乗って行われるものである以上、器楽演奏での感じ方と似通るのは当然ともいえましょう。
ダンスという一つのアクティビティからも、深く考えることで、他の分野にも通じるなにがしかの本質とでもいえるようなものが見えてきます。それをさらっと気づかせてくれた本作。他にも、即興でのアクセントの考え方なんかも、ジャズのアドリブとの考え方にも通じてて、考えを新たにさせられるところがあったんですよね。
『ワンダンス』、いい漫画やでぇ……



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踊る彼女は自由に踊る『ワンダンス』の話

東京の流行が5年遅れて入ってくるような田舎の高校生活。吃音に悩む高校一年生・小谷花木(こたにかぼく)は、目立たず、周りに逆らわず、普通であることを自分に強いて人生を送ってきた。でも、そんな彼が出会ったのは、同級生の湾田光莉(わんだひかり)。人目も気にせず、周りに合わせず、自分がやりたいことを好きにやる彼女が踊る姿は、花木に「普通」じゃなくなる一歩を踏み出させた……
ワンダンス(1) (アフタヌーンKC)
ということで、珈琲先生の新作『ワンダンス』のレビューです。悩める少年のボーイ・ミーツ・ガールにして、熱い部活漫画。読んでいる時に音楽がかかっていれば、知らず知らずにリズムを感じようとしてしてしまうような、そんな吸引力を持っている作品です。


主人公の小谷花木、通称カボは、吃音のために誰かと話をすることが苦手です。吃音にも種類がありますが、彼の場合は、単語の一部の音を連続して発声してしまう連発型と、発声するまでに時間がかかってしまう難発型の併合。そのため、誰かと話すのが得意ではなく、会話の輪の中では、周りをよく見て、話を聞いて、空気をよく読んで、言いたいことがあっても結局何も言わないままというのもしばしば。ひいては周りから注目されたり、人前で目立つことも苦手でした。
なものだから、「変に目立たず逆らわず 普通にしなきゃ なにもいいことなんてない」と、自分を殺すような振る舞いが身についてしまっています。
けれど、高校に入学して間もないある日、校内の人気のない場所で、ガラスに向かって一人踊る少女がいました。後に知ることになる彼女の名は湾田光莉。ダンスには苦手意識しかない自分でもわかるような動きのキレに、カボは目を奪われました。
たまたま移動教室で隣り合ったワンダと話をするうちにカボは、ダンスが大好きな、というかダンス以外には全然興味がないかのような彼女に、そして彼女のダンスに強く惹かれます。吃音ゆえに口頭での表現にコンプレックスを感じるカボにとって、非言語表現であるダンスは、言葉がなくても伝わってくるワンダのダンスの自由さは、とても魅力的に映ったのでした。
周りを気にして自分の気持ちを押し殺し、頑張って「普通」でいようとする自分と、周りの目なんか気にせずに自分のやりたいことを真剣にやるワンダ。
そのあっけらかんとした、自由を感じさせる態度に心動かされたカボは、彼女と一緒にダンス部へ入ることを決めたのでした。


「自由さ」。これがこの作品に強くあるテーマかなと思います。
吃音のせいで上手く口で表現ができないカボ。周りの目を気にして窮屈にしか振る舞えないカボ。自分がどうしたいのかもよく分からなくなってしまったカボ。
そんな彼が、上手に、楽しそうに、奔放に、なにより自由そうにダンスをするワンダを見て、自分もそうありたいと強く望む。
たとえば作中で、カボが誰かに見られながら踊る時、「根が張ったみたいに足が地面から離れ」ないとプレッシャーに苦しむシーンがあります。一旦それを自覚すると負のスパイラル。自分の動きがどんどん不自然に感じてきて、それがまた焦りを増幅させ、いっそう体が動かなくなって、となったところに、「(流れている)音楽のことだけを意識してみて」とアドバイスを受けます。偶然その音楽が彼の知っている曲だったので、そのおかげもあってか音楽を意識して聴け、それにのって体も自然に動くようになりました。
緊張という桎梏から解き放たれて、「自由」に踊れるようになったカボ。それは彼にとって、一つのカタルシスであり、壁を越えた瞬間でもありました。
他人の目からの自由。緊張からの自由。自分を圧し殺す抑圧からの自由。少しずつ、行きつ戻りつしながら「自由」を獲得していくカボの成長の姿が楽しいし、その成長が、ビートを感じさせるダンスシーンと同時に描写されるので、読んでてスコンと気持ちいいところに物語がはまるのです。
自由になった瞬間の解放感、気持ちよさ。そういうものが、この作品には横溢しています。その何よりの象徴が、ワンダの言う、彼女がダンスをやる理由。それは「自由になれる感じがする」から。
なにをやってもいい。どう表現してもいい。自分の体一つで、自分の思いを形にする。そんな自由さ。
とどのつまりは、楽しいから踊る。気持ちいいから踊る。そんな自由さ。


また、ちょっと目先を変えた話をすると、バスケをやっていたもののダンスは大の苦手だったカボが、目覚ましいスピードで上達していく理由づけがいいなと思うのです。
その理由付けが何かと言えば、彼の耳の良さ。部内でも一目置かれている部長から「ちゃんと音楽のニュアンスを汲もうとしている「意思」が見える」と評されているのカボの耳ですが、それはきっと、カボの性格、というか性質に由来していると思うのです。つまりは、上でも書いた「周りをよく見て、話を聞いて、空気をよく読」む彼の性質。それが人の話だけでなく、音楽にも当てはまって、曲想のニュアンス、テンポの緩急、リズムのアクセント、ビートの振幅、音質のイメージを自分の中で十分に咀嚼して、それをどうダンスに活かすか、ということを考えている、あるいは無意識にダンスへ反映されているのです。
こういうところ、うまく説得力になっているなと思うし、そういう、ある意味で理屈に拠っているカボのダンスの上手さと、ワンダの感覚的なダンスの上手さが、効果的に対比されているなと感じられます。


作中でも「同じ音を同じアクセントで取ればダンスは揃う」と言われていますが、この作品自体が、ストーリーのアクセントと、描写のアクセントが、気持ちいいタイミングでビシビシと当たっていくような印象で、読んでいてワクワクと気持ちが弾んでいくのです。
前々作の『のぼる小寺さん』もそうですが、珈琲先生はひたむきな人間、わき目を振らない人間の描き方がとてもよいですね。そして、それに引っ張られる周りの人間の描き方も。
初心者のカボに、それと一緒になって踊るワンダ。メンターの部長。そしてライバル候補のキャラクターも存在感を出してきているので、登場人物にも色がついてきました。続きがすげえ楽しみ。
第一話はこちら。
ワンダンス/珈琲 第1話「湾田さんのダンス」 - モーニング・アフタヌーン・イブニング合同Webコミックサイト モアイ



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気になる相手は一つ屋根の下の26歳OL でも彼女は……『水は海に向かって流れる』の話

熊沢直達は、遠方にある高校への進学を機に実家を出た。下宿先はおじさんの住む家。しかし、春雨の中、降りた先の駅で待っていたのは、おじさんではなく、榊と名乗る妙齢の女性だった。彼女とおじさんの関係を邪推し、自分がおじさんの家に住んでいいのかと不安がる直達だったけど、話を聞いてみれば、どうやらその家とは、シェアハウスだった模様。一安心して新生活を始める直達だけど、実はそのシェアハウスには、彼と榊の家族の過去にまつわる秘密があって……
水は海に向かって流れる(1) (KCデラックス)
ということで、田島列島先生の新刊『水は海に向かって流れる』のレビューです。
前単行本の『子供はわかってあげない』からはや五年。待ちに待った新刊です。うひょー。
前作は高校生同士のひと夏のボーイミーツガールだったわけですが、今作は高校一年生男子と26歳OLが主役二人。ボーイからガール(ガール?)への色恋めいた感情はあるようですが、フレッシュで甘酸っぱい恋愛感情が瑞々しく描かれた前作とは違い、今作は二人のあいだに、当人らの与り知らぬ因縁があり、すっきりした青春ラブストーリーとはいかないようです。
それは、上でも書いた「家族の過去にまつわる秘密」。その中身とは、10年前に直達の父親が、榊の母親とW不倫をしたこと(ネタバレにつき白字反転)。この事件を直達は知りません。それがあったことすら知りません。彼の叔父(母の弟)である茂道は、事件自体は知っていますが、榊がそれの関係者であることを知りません。榊も茂道と同様に、その事件は知っていても、直達や茂道がその関係者であることは知りません。つまり、茂道と榊は、過去の事件についての近しい関係者であったけれど、お互いがそれであることは知らなかったのです。直達が来るまでは。
茂道が榊に直達を迎えに行くよう頼んだ際のやりとりで、榊は直達が事件の関係者であることを知りました。この瞬間、シェアハウスは小さな爆弾を抱え込んだのです。
この事件に関する各人のスタンスや動きを軸に物語は進んでいくのですが、この作品で面白いなと思うのは、登場人物たちの間にある情報格差が、読み手に対して詳らかにされている点です。
直達は事件について何も知らない。茂道は事件があったことを知っている。榊は、直達や茂道が事件の関係者であることを知っている。この三者情報格差は明確に描写されており、その格差があるゆえに、ある出来事について、三者三様の振る舞いをし、それがどういう思惑によるものなのかが、読み手には理解できるようになっているのです。
物語が進み、情報格差にも変化が生まれ、登場人物は、この人はこれを知っていることを知ったり、あの人はあれを知っていることを知らなかったりしだします。さらに言えば、事件に近しい関係者であるこの三人以外の登場人物も、様々な形でその過去の事件について知り、三人についてどう振る舞おうかと色々悩んだり悩まなかったりします。
事件の存在や各人の思惑がここまで明白に描かれていると、読んでてついつい登場人物も自分と同じように、描かれたことはすべて知っていると思ってしまうこともあるので、「あれ、なんでこのキャラクターはこんな悩み方してるんだっけ」と訝しむこともありますが、読み返すことでちゃんと理解できます。その意味で、連載を一話ずつ追うのではなく、単行本という形でまとめて読めるのはありがたいです。
また、キャラクターの造形で好ましいのは、主人公である直達です。彼は榊から何度となく「いい子」と形容されるような人間で、事件の存在や、榊がそれの関係者であることを知っても、自分が事件について騒ぎ立てることで榊や叔父の茂道、ひいてはシェアハウス全体の空気が悪くなってしまうのではないかと心配し、事件の追求について非常に抑制的です。
この態度について、そりゃあそうだよなあ、と私などは思ってしまうのです。ぴちぴちの男子高校生が親元を離れてシェアハウスに放り込まれて、むやみにそこへ波風立てるようなことはできませんよ。
ですが、ミスター自制心ともあだ名される直達も、少しずつ事件について知り、榊がどういう立場だったかを知り、その立場ゆえにどういう行動をとったかを知り、どういう行動をとらなかったかを想像することで、あえて動き出そうともします。この、少しずつ、でも確実に、まさに水が海に向かって流れていくように、一人の人間の心や行動がある方向へと形を成していく様。ここに、直達というキャラクターの立体感が強く現れます。あたかも実在する人間の内面の変化を具に見てとれたような、納得感があるのです。
直達のまわりの人間たちも、事件についてなんらかの形で知り、その特異点になっているシェアハウスの人間関係を少しでも良くしようと、当人なりに考え、動き、働きかける。その様相は決して突飛なものではないですが、突飛でなかろうと平凡であろうと、描写に十分な丁寧さが備わっていれば、それだけでとても上質なドラマになるのです。うん、すごい上質。
丁寧な描写の中にも、前作からおなじみの軽妙な地口やとぼけた台詞回しがするりと入っていて、物語は重苦しくなりません。「26歳OLがフツーにうろうろしている家に住んでるから 何かいろいろにぶくなってきているのかな……」とかすごいいいですよね。俺もいろいろにぶくなりたかった……
あくまで静かに、穏やかに、でも軽妙に、そして非常に丁寧に描かれる、男子高校生と26歳OLの関係性。1巻では直達が主に描かれていたから、次巻では榊の内面や過去によりスポットが当たるのでしょうか。とても楽しみです。2巻は2019年12月発売予定!!
試し読みはこちら。
水は海に向かって流れる - 田島列島 / 【#1】雨と彼女と贈与と憎悪 | マガジンポケット

P.S.
子供はわかってあげない』の記事 を以前書いた時に、キーワードとして出てきた「ポトラッチ」や「レヴィ=ストロース」が、本作の序盤で(本筋とは関係なくですが)登場したので、「オレは間違ってなかったんだ……」という気になりましたね。
『子供はわかってあげない』交換によって生まれる人と社会のつながりの話 - ポンコツ山田.com



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文学の世界と世界の中心の女の子『児玉まりあ文学集成』の話

校舎の隅っこ、地学部の部室を乗っ取った文学部。そこにいるのは唯一の部員、児玉まりあ。まるで詩のような話し方をする児玉さん。彼女が言葉を紡げば、そこには文学が生まれる。文学部に入部するため、僕こと笛田君は部室まで毎日通う。彼女の入部テストは厳しく、笛田君はなかなか入部できない。なんとか合格すべく、今日も今日とて笛田君は、児玉さん直々の入部テストに付き合うのです……
児玉まりあ文学集成 (torch comics)
ということで、三島芳治先生の新作『児玉まりあ文学集成』のレビューです。
いつも難解な言葉を口にする謎めいた美少女・児玉まりあと、信奉するかのように、崇拝するかのように、彼女のいる文学部へ通う笛田君。ある時は比喩、ある時は語彙、ある時は記号、またある時は語尾。いつも彼女は、煙に巻くかのように、楽しむかのように、文学に関する難解な話をあふれさせ、笛田君はなんとかそれを理解しようと躍起になる。でも、いくら頑張っても児玉さんの影すら踏めず、彼は文学の前に崩れ落ちるばかり。
この物語は、笛田君がひたすら児玉さんから文学の薫陶を受け、文学の真理の一端に触れ、文学の難解さに愕然とし、そして一人の女の子である児玉さんがかわいい漫画です。
この作品における文学。それは以下のセリフで端的に示されています。

木星のような葉っぱね」
「それはどこが」
「意味はなかった でも今私が喩えたから この宇宙に今まで存在しなかった葉っぱと木星の間の関係が生まれたの 言葉の上でだけ これが文学よ」
(p6,7)

文学とは、言葉で意味を生み出すもの。言葉で関係を創造するもの。
この宇宙に今まで存在しなかったものも、言葉にすることで生み出せる。それが文学だというのです。
世界は言葉によって認識されている、言葉によって構成されている、言葉によって形作られている。ならば、世界にない言葉が生まれれば、世界にはその言葉に対応するモノコトを生み出すのではないか。
ある話の中で、児玉さんがありもしない言葉を口にしたせいで、世界に新たな物質が生まれました。
児玉さんは言います。
「案外神様もこんな風にこの世界を作ったのかもね」
その昔、神様は天地を創造した後に「光あれ」と世界を形作っていったそうですが、本当は「言葉あれ」とおっしゃったのかもしれません。
そんな絵空事、あるいは文学が、軽妙にそして玄妙に、なによりかわいらしく描かれている作品です。
児玉さんは、笛田君が文学部へ在籍するに足る人間であるかどうか、テストをしては彼を落とし、そしてまたテストを繰り返します。そんなことをもう一年ばかりも繰り返していたりして。彼女が笛田君に向けて発する言葉、あるいは文学は、世界に意味を与え、世界のモノやコトに新たな関係性を与え、時には新しい存在だって生み出したりして、笛田君の世界をどんどん複雑にしていくのです。
でも、その中心にいるのは、ただの女の子。少し変わっていて、少しかわいい、たまに不思議な言葉を口にする、その他大勢から見ればどこにでもいるような女の子。
でもきっと、文学部に入りたくてたまらない笛田君にとっては、彼女はまるで文学のように、あるいは世界のように、複雑で、難解で、神秘的で、超常的な、唯一の女の子。世界でたった一人の女の子。
誰にでもある勘違い。どこにでもある特別な感情。ひょっとしたら文学は、そんな気持ちを表すために生まれたのかもしれません。
なんちゃって。
難しいことを言っているようで、大事なことを言っているようで、空疎なことを言っているようで、哲学的なことを言っているようで、その実ありふれたエンターテインメント、でも唯一無二のエンターテインメント。まさに文学。それがこの作品です。
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トーチweb 児玉まりあ文学集成
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めがねを忘れてあの子が近い『好きな子がめがねを忘れた』の話

クラス替えで隣の席になった三重さんは、いつもぼうっとしている、めがねの女の子。いつもぼうっとしていて、口を開けば少しずれたことを言って、でも、そんな彼女のことが気になってしかたがない。そんなある日、三重さんはめがねを忘れて登校してきたのでさあ大変。文字通り距離感のつかめない彼女の一挙一動に小村君はもう目が離せないのです……
好きな子がめがねを忘れた(1) (ガンガンコミックスJOKER)
ということで、藤近小梅先生『好きな子がめがねを忘れた』のレビューです。
内容はタイトルそのまんま。隣の席の好きな子が眼鏡を忘れたせいで(おかげで)、男の子がドッキンバクバクするラブ(?)コメです。
まあこのコメディの何がいいって、ド近眼の三重さんがめがねを忘れるものだから、そして三重さんが小学校低学年レベルで恋愛感情が育ってないものだから、小村君に近い。とにかく近い。鼻と鼻が触れ合いそうな距離まで顔を近づけてくるし、それどころか平気で手まで握ってくる。純情な中学生男子が、そんな攻撃に抗えるわけがありません。自分の好きな人の顔が、文字通り、目と鼻の先にあって正気を保てる男子が何処にいましょう?そりゃあ焦点をぼやけさせて意識を半分飛ばして、機械的に受け答えをするしかない。
やってる三重さんにしてみれば、目が悪いんだから相手の顔を認識するために顔を近づけるのは当然だし、道案内してもらうのに手は握ってもらわなきゃだし、待ち望んでいたケーキはは「あーん」てしてもらわなきゃ食べられないし、授業中居眠りして寝ぼければ隣の男子をお父さんと間違えて肩に寄りかかって眠るくらい当たり前です。そうか?
いちいち心臓が跳ね上がり、顔も真っ赤になる小村君と、涼しい顔で目つきの悪い(めがねを忘れたから)三重さん。このギャップこそコメディですね。
さらにこの作品、セリフ回しが妙に癖になります。
ちょっとしたことをしてもらって「このお礼はいつか必ず」だの、めがねを忘れたままドッヂボールの内野に入って「敵も味方もわからない」だの、給食当番を代わろうかという申し出に「私がやる…ううん 私にやらせてほしいの」だの、やけに武士めいた言葉遣いをする三重さんに、三重さんの手を握った自分の手を見つめて「手を洗わないわけにはいかないけど今日の手の皮脂を綿棒などで拭って保存しておきたい」だの、三重さんと一日遊んだ後に「この星の言葉では伝えくれないくらい楽しかった」だの、ちょいちょい気持ち悪いことを口にする小村君。
基本的には、男を惑わす三重さんのド天然思わせぶりワーディングとそれにあたふたする小村君なのですが、その中グッとくるセリフをするっと入れてくるのが楽しいです。
まああとは、毛量の多いスッとした顔の女の子はかわいいという一般常識に踏襲しつつ、めがねを外すとやぶにらみになって、顔を近づけて焦点距離が合うととたんに柔らかい表情になる(目と鼻の距離で)という、宇宙の真理に触れた三重さんはとてもかわいいですよね。必要以上に、と言ってもいいほどに、カメラに近い三重さんの顔が描かれるのは、めがねを忘れてドッキンバクバクという本作の趣旨にのっとっているのです。
試し読みはこちらから。
magazine.jp.square-enix.com
つい何度も手に取って、うふふふふとニヤニヤしてしまういいラブ(?)コメ。おすすめどす。



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