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漫画の話です。

『HUNTER×HUNTER』ネテロの遺志とゲームを楽しむための土俵の話

先日発売された、『HUNTER×HUNTER』35巻。
この密度の作品が年に2冊刊行なら何も文句はないのですがそれはともかく、濃い内容のせいで既刊を読み返さなきゃ継承戦がどんなもんだかすっかり思いだせないでいたので、会長選挙編あたりから再読していたのですが、その中で、寄り道ながら選挙戦の最中にジンの言った「前会長の遺志」について考えたのでその記事です。
HUNTER×HUNTER モノクロ版 35 (ジャンプコミックスDIGITAL)
ネテロの遺志、そしてそれを継いでるとされるパリストンの意志の共通点と相違点については、既に何年も前に面白い記事が別の方の手によって書かれております。
blog.livedoor.jp
それを踏まえつつ、二人の意(遺)志の共通点と相違点を考えてみたいと思います。

「楽しさ」を求めるやつら

さて、上記リンク先の記事で、ネテロとパリストンについて「両者は、同じく善悪・利害より「楽しさ」を優先してしまう素質があ」ると書かれています。優先「してしまう」という表現まではともかく、「楽しさ」が自身の行動に際する基準にあることは同意します。
二人(とジン)が、「楽しさ」を好むことは、他者からの評価という形で随所に現れています。

まるで邪魔や障害を楽しんでいる節さえある…
そんなとこだけネテロ会長に似てる…
(31巻 p62)

アイツ(引用者註:パリストン)はただ楽しみたいんだ
オレ(引用者註:ジン)や会長ネテロといっしょだよ …ま オレは飽きっぽいけどな
(32巻 p117)

面白いと思ったら何でもする人(引用者註:ネテロ)さ
(中略)
前会長が息子ビヨンドに与えた制約にしても むしろ息子ビヨンドが自分の命を狙ってくる事まで期待していたのではとすら思える
(中略)
元会長はクレイジーだ 洒落にならない難題を 自分にも他人にも笑ってふっかける
まあ… そこが魅力だったわけだが
(33巻 p113

このように、ネテロやパリストン(とジン)が、楽しさ、面白さを求めて行動していると他人から評価されていることがよくわかります。それをしてジンに、選挙の終盤で、「今残ってる4人(引用者註:パリストン、レオリオ、チードル、ミザイストム)で前会長ネテロの遺志を継いでるのは パリストンだけだ」と言わしめるのです。
これは、ジンとパリストン以外の十二支んらが、選挙を終えた後も、既に故人となった前会長ネテロの意向を忖度する形でハンター協会の方向性を考えていること(33巻での、ネウロが遺した2枚目のDVDを確認した直後の言い争いが象徴的です)と、自分だけがさんざっぱら楽しんだ選挙をネテロの手向けに、さっさと十二支んを辞めたパリストンという、非常に対照的な姿で現れています。付言すれば、ジンも同じタイミングで十二支んを脱退していますね。サン=テグジュペリの言葉を借りれば、十二支んはネテロばかりを見つめ、パリストンやジンはネテロと同じ方向を見ていた、というところでしょう。十二支んは楽しんでいるネテロが好きで、パリストンやジンはネテロと同じく楽しむことが好きだったのです。

「楽しさ」を求める奴らの違い

では、その共通点を確認した上で、ネテロとパリストン(とジン)の意(遺)志、すなわち楽しむことを追い求める姿勢は、どのように異なるのでしょうか。
上記引用ブログではその点を、『HUNTER×HUNTER』世界において、「ゲームを楽しむ」ことが重要なテーマになっていることを前提に、「パリストンはゲームを楽しむがそれを共有しようとしないソロプレイヤーであって、ネテロはゲームを楽しむがそれを共有できる相手がいないソロプレイヤーとの違いがあります」と表現しています。
私なりに両者を端的に表すなら、ネテロは、プロセスが楽しければゴールの結果にこだわらず、パリストンは、プロセスを楽しむためならゴールに辿りつかなくてもいい、と言えるでしょうか。
両者の違いは二点。まずは楽しさについて、ネテロはそれを結果とし、パリストンは目的としていること。そしてゴールについて、ネテロはそれを必要とし、パリストンは不要と考えていること。

ゲームを「楽しむ」ためには何が必要かーネテロの場合

一人ずつ説明していきましょう。
ネテロが楽しさを求める時、そこには結果が明確に出されることを望んでいる節があります。象徴的なのは、かつてネテロが暗黒大陸へ行った際の思い出を語った言葉です。

ワシの求める「強さ」には相手が必要だった 言うなれば 勝ち負けのある個としての「強さ」じゃな
だが新世界にあるのは 個人の勝ちなど存在しない 厳しい自然との格闘のみじゃった
(33巻 p16)

「勝ち負けのある個としての「強さ」」を求めていたということは、そこには結果、別の言い方をすれば競う相手が必要だったと言えます。新世界で待ち受けていた「厳しい自然」と、それに対峙するネテロは対等ではありません。つまり、勝負ではありません。どちらが勝つか、ではなく、ネテロが勝つか負けるか(=生きるか死ぬか)であり、自然の側には勝ちも負けも無いのです。
ネテロはあくまで、相手のある、個としての勝負にこだわった。お互いが同じ土俵に乗っていないことには楽しめなかった。
だから、強くなりすぎてしまったことに退屈していた。倦んでいた。

一体 いつからだ
敗けた相手が頭を下げながら 差し出してくる両の手に
間を置かず 応えられるようになったのは?
そんなんじゃ ねェだろ!!
オレが求めた武の極みは
敗色濃い難敵にこそ 全霊を以て臨む事!!
(28巻 p15~19)

相手を必要とする「強さ」を求めていたネテロにとって大事なこと、つまり楽しいことは、「全霊を以て臨む事」。おそらく彼にとって、臨んだ結果の勝ち負けはあまり重要ではありません。もちろん勝つに越したことはないでしょう。勝った方が、より楽しい。でも、負けたからといって楽しくなかったかというと、決してそうではない。負けて悔しいから、次は勝つぞと意気込める。負けた経験があるから、勝つことがとても嬉しくなる。
たとえば子供相手にルールを教えながらするゲームや、相手を勝たせるためにする接待ゲームは、少なくともそのゲームをすることそのものに楽しさはありません。それは、プレイヤーが同じ土俵に立っていないからです。
同じ土俵に立つとは、同じ目的でゲームに参加するということです。ゲームの目的が勝敗を決することではなく、ルールを教えるとか、相手をいい気持ちにさせるとかの、いうなればゲームそのものに対して不純なものでは、勝っても負けてもそこには不純なものが混じります。

同じ土俵に立つことの重要性

ネテロの経験した「敗けた相手が頭を下げながら差し出してくる両の手に 間を置かず応え」るという状況は、その両者が同じ土俵に立っていないことをまざまざと表しています。敗けた相手に悔しさはなく、勝ったネテロに嬉しさはない。おそらくそこには、「敗けてもともと」という相手の諦念と、「勝って当然」というネテロの倦怠があり、前者は後者によって見下ろされているのです。両者は同じ土俵にいない。
勝ち負けというゴールがあるからこそ、その勝負、すなわちゲームに意味が生まれます。ゲームがゲームとして成立するのです。
ネテロは、誰かと同じ土俵でゲームを行い、最終的にゴールに到達する、という一つの流れをクリアすることで、結果として楽しさを覚えているのだと言えるでしょう。目的はゲームのゴールに辿り着くことで、楽しさは結果としてやってくるのです。楽しさを求めるためにゲームを終らせる、と言ってもいいでしょうか。

余談。ネテロの最後の闘いについて

ところで、ネテロがメルエムと闘った際、「敗色濃い難敵にこそ 全霊を以て臨」んでいた彼は確かに楽しくあったでしょうが、しかし心の底では、100%楽しめなかったと思うのです。なぜって、彼の身体にはミニチュア・ローズが埋め込まれていたから。
蟻に対して負けることを許されていなかったネテロは、たとえ王に敗れ死んだとしても、王を道連れにできるよう、心臓が止まったら作動する爆弾を自らの身体に仕掛けていました。つまりそれは、メルエムと同じ土俵に立てていなかったということ。ネテロの至上目的は、あくまでメルエムを滅することであり、純粋に闘うことではありませんでした。その意味で、ネテロのゲームは不純だったのです。
もっともそれを言うなら、メルエム自身も闘うために闘ったわけではなく、人間代表のネテロと言葉を交わすために、その前段として闘ったまでのこと。闘うために闘うという、ネテロの望む純粋なゲームには程遠いものだったのです。「敗色濃い難敵にこそ 全霊を以て臨む」こと自体は楽しくとも、ゲーム自体は、到底100%楽しめるような代物ではなかった。
自らの指で心臓を貫く直前にネテロが浮かべた邪悪な笑みには、折角のゲームを汚してしまった自身に対する深い嘲りの感情も込められていたことでしょう。初めから負けることのない、初めから相手が「詰んでいた」ゲームなんて、その途中がどれだけ面白いものであれ、ゲームに対する冒涜以外の何ものでもないのですから。

「楽しさ」はゲームのどこにあるのかーパリストンの場合

翻って、パリストンはどうでしょう。
彼について、ジンはこういいます。

アイツ(引用者註:パリストン)は勝つ気も負ける気も無い
(中略)
アイツはただ楽しみたいんだ
オレや会長ネテロといっしょだよ …ま オレは飽きっぽいけどな
(32巻 p117)

ここにすべてが集約されているのですが、パリストンは「勝つ気も負ける気も無い」のです。つまり、ゲームを終わらせる気がない。ゲームが終わらなくても、遊んでいる最中が楽しければそれでいい。楽しみたいがためにゲームをしている。楽しむことが目的であり、ゲームはその手段でしかない。ゲームが続けば続くほど楽しみも続くのであれば、勝ち負けを決める気なんてさらさらない。
それは選挙の途中でチードルも理解し、

勝ち負けなんて眼中にないから 損得勘定抜きで無機質かつ冷静に…
他者の感情を操りルールを利用して 私たちが最も嫌がる事を選択出来るのだ!!
(32巻 p74,75)

と、パリストンを評価するのです。
このときゲームを楽しんでいるのは、パリストンだけです。他の人間は基本的に、勝つことを目的としてゲームに参加しています。ゲームと表現するのが不謹慎だとしても、参加したものを縛るルールがあり、勝敗が決まるゴールがあるなら、それはゲームと表現して差し支えありません。実際、チードルは、ジンが選挙を「票取りゲーム」と表現したことに不快感を示しますが、選挙には十二支んで決めたルールがあり、会長をきめるというゴールがあります。ゆえに、ゲームです。

「楽しさ」の土俵に立つのは誰なのか

ルールがあり、ゴールがある以上、そこには最善手があります。唯一ではなくとも、「こうすべきだ」と考えられる作戦が存在します。そしてその作戦は当然、ゴールに到達するためのもの(選挙なら、会長になるためのもの)。ルールが明確であればあるほど、とりうる作戦も明確になります。だから、チードルの手の内は「読まれ易い」。手の内を読んだうえでパリストンは、チードルの作戦を邪魔します。
厄介なのは、パリストンの目的がゴールすることではないこと。チードルとは違う思惑で、ゲームに参加しているのです。パリストンにしてみれば、ゲームで楽しめればいい。勝とうが負けようが関係ない。勝ちも負けもないままゲームが楽しいまま続くのであれば、それこそがベスト。ゲームが終わらないために=相手がゴールしないために、ルールの内でなんでもします。
原則的にルールとは、ゴールへ到達するために何をすべきか、何をしてはいけないかを決めているものです。ゴールを目的としていない者を想定したルールなど、普通はないのです。だから、チードルと噛み合わない。チードルが空回りしてしまう。目的が違うのだから、同じ土俵にいない。
ただ、同じ土俵にいるかいないかは、正確には、チードルの目からはそう見える、と言うべきでしょう。ゴールを目指すチードルにとっては、同じゴールを目指してはいないパリストンは、当然違う土俵ですが、パリストンにしてみれば、チードルも含めたゲームの参加者全てを巻きこんで、自分が楽しむことを目的としているのだから、他の参加者がゴールを目指そうがなんだろうが、ゲームに参加してさえいれば彼の土俵にいるのです。自分が「楽しむ」という彼だけの土俵に。

パリストンの「楽しさ」の根っこにあるもの

では、パリストンがゴールを目指さずに他人を邪魔して、いったい何を楽しんでいるのか。実はそれは「楽しさ」は他者に嫌がらせをすることそのもの、すなわち他者の嫌がる姿を見ることから生まれているのですが、彼自身その図式をよく自覚しています。

人は普通愛されたり愛したりすると 幸せを感じるらしいですね
僕は人に憎まれると幸せを感じ 愛しいものは無性に傷つけたくなるんです
(33巻 p52)

だから彼は、自らが幸せになるために、楽しむために、ネテロの嫌がることをしていたのでした。

……ボクはね 会長になりたくて副会長を引き受けたんじゃない
会長のジャマがしたかっただけ… ネテロさんはね ボクが面白い茶々を入れると本当に嬉しそうに困ってた……
もっと会長と 遊びたかったなァ
(32巻 p104)

そしてネテロ自身、パリストンの茶々を楽しんでいたのですから、ある意味で二人は非常にいいコンビだったのでしょう。

ワシが最も苦手なタイプ ワシが隣に置いときたいのはそんな奴じゃよ
(31巻 p15)

ここには、困難に対処することに楽しさを見いだしているネテロの姿があり、それは「敗色濃い難敵にこそ 全霊を以て臨む事」と通じるものがあります。思い通りにいかないから楽しい。他人の意思とぶつかりあうから楽しい。
いうなればネテロとパリストンは、あるゲームにおいて、ゴールに向かうプレイヤーとそれを邪魔するプレイヤー、という形で参加していたのです。同じゴールにどちらが先に着くかというゲームではなく、たとえば野球のバッターとピッチャーのような、目指すものは違くとも(バッター側の目的は得点すること、ピッチャー側の目的は失点しないこと)一つのルールの中で同じ土俵に立っているゲームで楽しんでいたのでしょう。

まとめ 彼らの土俵には誰がいるのか/誰をのせているのか

改めてまとめれば、ネテロもパリストンも、「楽しさ」を自身の行動原理に据えているという点で共通しています。ですが、ネテロはルールのあるゲームで同じゴールを目指す、すなわち同じ土俵で勝負することの結果として生まれる「楽しさ」を求めますが、パリストンは、誰かの嫌がる姿を見ることが「楽しく」、そのために、ゲームでゴールを目指す他のプレイヤーの邪魔をし、その姿を延々見るべく、自身はゴールを目指さず、それどころか自身も含めて誰もゴールに到達しないように行動するのです。そのとき、他のプレイヤーからしてみればパリストンは同じ土俵にいませんが、パリストンとしてみれば、すべてのプレイヤーは彼自身が楽しむために彼の土俵の中にいるものなのです。
トランプでたとえれば、ネテロはポーカーなどの対戦ゲームで誰かと勝負するのですが、パリストンは他者はカードとしてソリティアなどの一人で楽しむゲームをしている、と言えるでしょうか。
態度は違えど「楽しむ」ことへの情熱を燃やす二人を考えれば、クソ真面目にネテロのやってきたことを踏襲しようとしている他の十二支んではなく、たしかにパリストン(あるいはジン)こそがネテロの遺志を継ぐ者なのでしょう。

予告

まとめ以外でもちょこちょこと触れていたように、ジンもまた「楽しさ」を行動理念に据えるものとしてネテロの遺志を継ぐものなのですが、すでに7000字にも迫ろうという馬鹿げた文字数になってしまったので、ジンおよびその息子であるゴンについては後日別稿ということでご勘弁願いたい所存。
ジンと別れクジラ島に戻ったゴンが言った

上手く言えないけど…オレ… ジンに会いたいって思ってたんじゃなくって
ジンを見つける事が目的だったんだって… 会ってみて気付いたって言うか
(33巻 p90)

という言葉が長いことよくわからなったのですが、本記事を構想している最中、ジンのことを考えていたらはっと閃くものがあったので、それについて書きたいと思います。



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