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漫画の話です。

「がんばれ酢めし疑獄!!」に見る、「顔」のないキャラによる不条理の世界

がんばれ酢めし疑獄!! (5) 少年チャンピオン・コミックス

がんばれ酢めし疑獄!! (5) 少年チャンピオン・コミックス

「顔」に関する昨日の記事
「ディエンビエンフー」に見る「顔」のもつ存在感 〜「顔」のある者は殺せない - ポンコツ山田.com
ここから思いついた話を少々。


漫画の中には、時折意図的に眼を描かれないキャラがでてきます。

らいか・デイズ/むんこ 7巻 p16)

(12月生まれの少年/施川ユウキ 1巻 p10)

サナギさん/施川ユウキ 1巻 p11)
いくぶんか例を偏らせてはあるので、探せばもっとあるでしょう。ですが、今回はこれらの例から考えられるパーシャルな仮説を論じてみたいと思います。
らいか・デイズ」の来華の父親。「12月生まれの少年」の柊に父親。「サナギさん」のハヤムラ君。彼らに共通するもの、それは彼らはみな謎を蔵した登場人物であるということです。

眼を描かれないことによる「謎」の創出。



「謎を蔵す」というとちょっと抽象的ですので、一人一人説明していきましょう。
まず来華父。彼は作中で明示されている中で恐らく唯一の、来華よりもハイスペックな頭脳を有するキャラです。*1もちろん来華より器用なキャラもいるし、芸術的な才能をもつキャラもいます。ですが、技能的な面で来華が最も秀でている学業面で彼女を凌駕しているのは、父親ただ一人なのです。来華は自分のスペックについて自覚しています。勉強ができるポジティブな面もそうですし、不器用、音痴、恋話が苦手などといったネガティブな面もです。作品の初期から読み手には来華の優秀な頭脳について何度も意識に刷り込まれます。父親の頭脳について言及されるのは2巻の冒頭ですが、それまでに来華は作品内の頭脳ヒエラルキーにおいて間違いなくトップを占めているのです。そして、ピラミッドの頂点に位置する来華のさらに上に位置する来華父は、作品の枠内において次元が一つ違うところに存在しているのです。この量的ではなく質的な階層の違いが、来華父の蔵する謎の意味です。
柊父については、まだ登場回数がそれほどないので確たることも言いづらいのですが、彼は柊にとって「よくわからないこと」を言うキャラとして登場します。柊母や幼馴染の葵たちは、発言の素っ頓狂さなどについて柊にツッコまれる役割なのですが、柊父は彼の頭に「?」を残して去っていくという、いわば柊の理解の埒外にいる存在なのです。理解の埒外、すなわち謎です。
サナギさん」のハヤムラ君ですが、彼は作中で「ほのめかしキャラ」というなんとも珍妙なキャラ付けをなされていますが(まあ「サナギさん」の登場人物は一様に珍妙ですが)、「ほのめかし」という性質そのものが言葉の裏側になにかを隠していることを意味しています。つまり彼の発言には(程度はどうあれ)謎があるのです。


このように、「作中に堂々と登場としているにもかかわらず眼を隠されているキャラ」には謎がつきまとっていることがある、換言すれば、そのキャラの人間性について詳らかにしていない部分があることがある、という風にいえると思うのです。昨日書いた、「眼が見えることによる人間性の顕現」の裏側ということですね。
一般的に眼が隠されていたりする場合は、眼の部分が何かの影になっていたり、あるいは写真などで光の反射で眼が隠れているという状況が多いでしょう。特に遮蔽物がないにもかかわらず眼が見えないというのは、あまり見られるものではありません。
とはいえ、遮蔽物もなしに眼を隠せるというのはデフォルメの強い画風の特権のようなもので、ある程度リアルな画風になってしまうとそのような描写をするのは酷く不自然であり、そこにはもはやホラー的な要素が入り込んできてしまうでしょう。そう考えるとこれは、デフォルメの強い作品、言ってしまえばコメディ色の強い作品で使える方法なのだと思います。というかさらに言ってしまえば、施川先生によく見られるやり方なんですよね。

「がんばれ酢めし疑獄!!」の中の匿名性。匿名だからこその不条理。



「酢めし疑獄」では、しばしばハヤムラ君のような眼の省略されたキャラが登場しますが、オムニバス的な「酢めし疑獄」の作風・構成でこれが意味するところは、そのキャラの個性をなくすことでしょう。不条理な展開、シュールな会話を身上とする「酢めし疑獄」では、ある意味で使い捨てであるキャラたちに個性などいりません。匿名性の高いキャラによる不条理な展開だからこそ、その不条理さは一般に還元したくてもできないユニークさをもつのです。
個性をもつキャラが不条理な展開をくりひろげ、シュールな会話をするというのは昔からあるコメディ形式ですが、ここ十年ほどでのそれの金字塔といえば、なにはさておき「マサルさん」でしょう。「マサルさん」では個性的なキャラが縦横無尽に不条理の限りを尽くし、不条理のままにストーリーは進んでいきます。そして、同一のキャラが不条理な振る舞いを繰り返すことで、作品内にはその不条理さを内包する世界が構築されます。「マサルさん」の世界においては、その不条理ささえも世界の中の一つの確かな要素となるのです。その世界は我々読み手の世界とは直接関係のない、作品内で完結しうる世界となります。
ですが、「酢めし疑獄」では登場人物は基本的に使い捨てです。レギュラーキャラもいますが、彼らはたいがいの場合において、不条理さではなく「サナギさん」などに通じるような「日常のちょっとひねった視点」を表します。*2「酢めし疑獄」内での不条理さは、無名のキャラ、匿名のキャラたちによって立ち上げられているのです。
匿名のキャラによる不条理さは、作品内の世界を構築することに貢献しません。誰でもありそうで誰でもない彼らは、作品内に固有の世界を立ち上げることはせず、読み手の世界、外の世界に対して道を開いているのです。
誰でもありそうで誰でもないキャラたちは、私たち読み手の隣人であるかもしれず、友人であるかも知れず、家族であるかも知れず、恋人であるかもしれません。そうではないと言い切れないのが、「顔」のないキャラたちの匿名性の効果なのです。
作品内に世界を作れない「酢めし疑獄」の不条理さは読み手の世界に流れ込みますが、それが不条理であるがゆえにこちらの世界との融合を拒みます。それが、「一般に還元したくてもできないユニークさ」の意味です。そしてその馴染まない不条理さは、おかしさと共にある種の不気味さを形作ると思うんです。私が「酢めし」を読むときに感じる妙な居心地の悪さ(悪い意味でなく)は、そこら辺に起因しているような気がします。
「酢めし」以降の作品では不条理さは鳴りを潜めだし、基本的に登場人物たちは「顔」を持ち出して、その作品ごとの世界を作っています。「サナギさん」の世界。「もずく」の世界。「12月生まれの少年」の世界。それぞれの作品ごとに「顔」を持った登場人物たちが固有の世界を形作り、読み手の世界とは独立しているのです。ネタの方向性はもちろん大きく影響していますが、「酢めし」以外の作品にある閉鎖しているがゆえに安穏とした雰囲気は、それらの作品ではみな「顔」を持っているからということもいえるんじゃないでしょうか。
「眼の不存在」による匿名性。施川先生はそれを物語の中のちょっとした伏線などではなく、ギャグにある種のニュアンスを付加するために使っているのだと思います。意識的にか無意識にかはわかりませんが。








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*1:2巻p5「来華<父」

*2:特に後期においてそれは顕著です。前期の渋沢警部などは、不条理さ、シュールさを体現していました。ちなみに彼も眼が描かれていないキャラです