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漫画の話です。

「WORKING!!」に見る、フキダシのない手書き台詞のニュアンス

WORKING!! 5 (ヤングガンガンコミックス)

WORKING!! 5 (ヤングガンガンコミックス)

原則として、日本の漫画は絵と文字でできているとは何度か言っていることですが、その文字にもいくつかの種類があります。

まずは当然台詞。フキダシの中に写植で書かれた、登場人物の会話を表すものです。
続いて心裡独白。普通のフキダシとは区別されて、破線やベタフラなどのフキダシの中に写植で書かれていることが多く(フキダシを伴わないこともある)、登場人物の心の声、声には出されていない言葉を表します。
さらに地の文。神(=作者)の声とも呼ばれ、作品内の登場人物には聞こえず、枠線内、あるいは絵の上に直接写植で書かれます。
そして擬音。日本の漫画の場合、オノマトペもほぼ同義ですが、たいていのものは手書きで、絵の上に直接書かれます。

さて、主だったものはこんな感じですが、これらに該当しない文字群もあります。それがタイトルにも書いた、「フキダシのない手書きの台詞」。例えばこういうやつです。

FLIP-FLAP とよ田みのる p87)

「山田さんじゃない ホッ」
「ご用はナイですか〜」

ちょっと見づらいですが、フキダシでも枠線でも括られていない手書きの台詞があります。
これ自体は普通の台詞であるはずなのに、なぜこのようにあえてフキダシにいれず、写植も使わずに表現したのでしょうか。その手の台詞がかなり多い4コマ漫画、「WORKING!!」(高津カリノ)を例に挙げて考えてみましょう。

まず、大雑把にどういう意味があるのか。



このフキダシのない手書き台詞(以下、「手書き台詞」)が、フキダシのある普通の台詞(以下、「普通の台詞」)と比べてどんな意味を持っているのか、まずはざっくり言ってしまいましょう。大きく分けて、これには二つの意味があります。
α:普通の台詞と、発話の水準が異なる
β:普通の台詞より、意味が薄くなる
まずはαから説明しましょう。例えばこんなコマがあります。

「ちゃんとやんままっていったもんー」(種島)

WORKING!! 二巻 p85)
ここでの普通の台詞による会話は、右側の男性(小鳥遊宗太、主人公、小さいもの好き(ロリコンとは違う))と左側の女性(白藤杏子、店長、元ヤン)によるものであり、真ん中の隠れている少女(種島ぽぷら、ちっさかわいい)の台詞が手書き台詞となっています。この手書き台詞は普通の台詞となんらリンクしておらず(この手前のネタとはリンクしている)、会話の流れとしては、存在していなくてもまるで問題ありません。ですが、ネタとしてみた場合には、この種島の手書き台詞に意味があるのです。このように、普通の会話とは関係のないところで発話される台詞であるということが、「発話の水準が異なる」の意味です。
続いてβですが、このコマを見てください。

「やきもち?」(相馬)

(三巻 p33)
このコマでの普通の台詞は、右側の男性(佐藤潤、苦労人)と、左側の女性(轟八千代、帯刀百合キャラ)によるものです。ネタとしては、会話を同じくしていない二人の次の台詞が、オチでリンクするところが肝なんですが、そのオチとはつながらない発言として、真ん中の男性(相馬博臣、腹黒天然)が手書き台詞を言っています。この手書き台詞は佐藤の普通の台詞と呼応しているんですが、ネタ全体の流れとしては、佐藤の台詞は轟のそれと呼応しており、その轟の台詞よりネタ全体の中での存在感を薄めるために、相馬の台詞は手書きになっているのです。もし相馬の台詞が普通のものであれば、流れがごちゃついてオチがすっきりしなくなってしまいますから。このように、普通の台詞に比べて存在感、意味を薄くしているというのが、βの意味です。

さらに細分化してみようぜ。



このαとβはまるっきり別物というわけでなく、お互いがお互いの領域に足を踏み込みあっています(同じことを違う見方で見た、というほど重なり合ってはいないと思いますけども)。ですから、以下で列挙する細分化した特性も、どちらから派生したということを厳密に言うことはできず、どちらの影響も受けていますし、また、細分化した中でも、重なり合う部分がある上、その手書き台詞自体が、意味を重複して持っていることもしばしば、というかしょっちゅうです。そんな言い訳を踏まえつつ、細分化した特質を挙げてみましょう。

  1. 普通の会話とは違う流れを展開する
  2. 相手に伝える気のない言葉、独り言
  3. 声の小ささ、カメラの遠さを表す
  4. コマの見易さ、省スペース
  5. 普通の会話、または絵の補足

これも、実際にコマを提示しながら説明したいと思います。

1.普通の会話とは違う流れを展開する

「佐藤君 なんでいるの」(相馬)
「子守り」(佐藤)

(五巻 p54)
普通の台詞は、右の小鳥遊(女装中)と左の種島のものですが、中央の相馬と佐藤も、手書きの台詞で会話をしています。これは1(及び3)の効果を表しています。まあ細分化する前のαと変わりはないんですが、ここではそれが会話になっているということで一つご寛恕願いたい。ともかく、二種類の会話の流れを一つのコマで収めるのに、4コマという縛りはあまりにも大きいので、後ろの方で展開されているネタの本筋とは関係のない会話は、手書き台詞によって行われているのです(詳しくは後述しますが、3の効果として、二人の距離の遠さも同時に表しています)。

2.相手に伝える気のない言葉、独り言

「そーだ ああいう父親だった」(小鳥遊)

(三巻 p18)
このコマの各キャラのリアクションを説明すると、小鳥遊の普通の台詞は前のネタの最後のコマを受けて。真ん中の女性(伊波まひる、男を見ると殴ってしまう、「ボン坂」の真琴副部長のような娘、小鳥遊のことが好き)の「?」は、小鳥遊の普通の台詞の真意がわからないため。種島の普通の台詞は、前のネタの流れを受けて。そして小鳥遊の手書き台詞ですが、これは自分の父親の記憶(幼少時に、父親のせいで女物の服を着せられていて、それが苦い思い出となっている。ちなみに父親は既に故人)が蘇ってついこぼれてしまった言葉で、他の二人にとって知る由のない情報であり、また小鳥遊自身知られたくない情報なのです。ですから、他の二人に伝えるための台詞ではなく、ぽろっとこぼれた独り言だと解釈するのが妥当となります。主に、βの影響が強い性質ですね。

3.声の小ささ、カメラの遠さを表す

「きょーこさんにパフェ〜」(轟)

(五巻 p5)
後方にいる轟の手書き台詞が前の二人となんら関係がなく、完全に独立した台詞であることがわかります。これが手書きであるのは1の意味もそうですが、ここではむしろ3の意味の方が強いでしょう。ここで轟が登場したのは、佐藤関連のオチのためであり、「その場には居るけど、手前の二人とは無関係」という意味合いを出すために、轟のいる場所は少し離れた所であるということにしたいので、轟の声が小さい(=轟が離れたところに居る)という意味の出る手書き台詞を用いているのです。
なお、このキャラの「距離」というのは、必ずしも読み手からの距離というわけではなく、ネタの中で主となっているキャラからの距離ということもあります。

「先輩 お茶でも飲みます?」(小鳥遊)
「のみます」(種島)

このコマでは、最も読み手に近い位置に居るのは明らかに種島ですが、彼女の台詞は手書きとなっています。これがなぜかといえば、このネタでの主役は種島ではなく、後ろで隠れている女性(小鳥遊泉、小鳥遊家の次女、引きこもりの小説家)で、二人の会話の遠さは、直接的には泉が感じているものだからであり、読み手を泉と同一化させるために、手書き台詞で声の遠さを表しているのです。

4.コマの見易さ、省スペース

「しかしまさかここまでとは」(相馬)

(三巻 p65)
この相馬の手書き台詞は、普通の台詞に併合されていいはずなのですが、コマ全体の情報量(絵と文字両方)が多く、これ以上フキダシを作ることが難しいために、あえて手書きにしたと思われます。結果として、βのニュアンスが濃くなり、手書き台詞の意味合いも薄れたという効果もあります。それが意図的かどうかは、まあ判断の難しいところですね。

この4は、特に4コマ漫画で多く見られる気がします。普通の形態の漫画なら融通を利かせることは容易でしょうが、やはり4コマにおいてのスペースの制約は大きいです。「WORKING!!」は4コマの中でも台詞数の多い漫画だと思われますので(手書きも含めて)、おそらく多くの手書き台詞で4の効用は大きいでしょう。

5.普通の会話、または絵の補足

「なずなねちゃって」
「もう夜の10時だけど」(なずな)

(五巻 p102)
ここでの手書き台詞は、この少女(小鳥遊なずな、小鳥遊家の三女にして宗太の妹、発育はいいがまだ小六)の普通の台詞の下に書かれていますが、内容は普通の台詞を補足するものとなっています。できればいれたい情報なんだけれど、それ込みの台詞にしてしまうと尺がオーバーしてしまうので、脈絡にあまり沿わせず手書きで補足的に書き込んでいるのです。

また、この補足的な挿入の仕方は、キャラの台詞(普通のものも手書きのものもあわせて)を実際の人間の喋り方に近づける効果もあります。ディクテイトなどをするとよくわかるのですが、私たちの日常の会話は、決して理路整然としたものではありません。接続語や感動詞などでつぎはぎし、代名詞が乱れ飛び、論旨があっちゃこっちゃによろめいているもので、会話だけを単独で聞くと、本当にこれで意思疎通が図れているのかと不安になるようなものなのです。それでも会話が成立するのは、発話そのもの以外にも情報が発信されているので(身振り手振りであったり、表情であったり、あるいは会話の流れであったり)、きっちり筋道だっていなくとも、人は会話を続けることができるのです。 ですが、漫画や小説、ドラマや映画、演劇などでは、そのような情報を受け手全体と共有することが難しいので、受け手に伝えたい情報を整然とさせる必要があります。ために、それらの作品の会話は現実以上にすっきりしているのです。

まあ漫画内の会話を実際の会話に近づける必要自体は別にないんですが、むしろ、「理路整然としていなくとも、受け手に情報を伝える」ということを実践するために、手書き台詞があるとも言えます。もしこのコマの例で、手書き台詞をそのままフキダシに入れたら、フキダシ内がひどく雑然としてしまい、発話情報の伝達に齟齬をきたすでしょう。そう考えると、手書き台詞による普通の台詞の補足は、極めて合理的であるとも言えるのではないでしょうか。




さらに発展系として、かなり複雑なコマの例をあげてみましょう。

「やっぱやめときます?」(小鳥遊)

(四巻 p23)
まず小鳥遊の普通の台詞は、前のネタの流れを受けて、伊波と種島、双方に向けて(というか双方に聞こえるように)発されます。小鳥遊の台詞を受けて、伊波は「ガーン」とショックを受けています。その流れを受けて、種島は普通の台詞で否定をします。小鳥遊の心裡独白は、自身の普通の台詞の真意として書かれています。では手書き台詞はどうかというと、自身の普通の台詞の補足(5)とも言えますし、省スペースのため(4)とも言えます。また、伊波の「ガーン」が特に小鳥遊の手書き台詞を受けている(おまけに「ガーン」自体も手書き)ことを考えれば1と言えなくもないですし、大声の種島の台詞との兼ね合いを考えれば、声の小ささ(声が発された方向の違い)を表している(3)とも言えるのです。うーん複雑。




このように、分類することはできても、かなり多義的に解釈しうる手書き台詞。高津先生は、それをかなり自在に操っています。そう考えると高津先生って、かなりの漫画巧者だと言えるのではないでしょうか。

余談。



ここまで書きましたが、実は、上のどれで解釈してもしっくりこないような事例があります。まあそれは高津先生ではなく、むんこ先生なんですが、このコマです。

らいか・デイズ 七巻 p48)
このネタでは、4コマの中で普通の台詞は一回しかでてきません。それ以外は全てこのような手書き台詞によるんですが、この手書き台詞の効果は、上に列記したものではどうにも説明がつかないのです。そもそもフキダシはほとんどないし、明らかに相手に向かって発されているし、声を小さくしたり視点を遠く置く必要もないし、コマの見易さも関係ないし、補足する台詞がないし。難しいです。ギリギリで3を拡大解釈して、発話の方向性の散漫さ(読み手にはっきり向いていない)を手書きで表し、一種のショー(見世物)っぽさを表現しているのかな、ってくらいです。
むんこ先生の4コマつくりの上手さは、また日を改めて書きたいと思います。
(追記;むんこ先生の手書き台詞については、こちらをどうぞ 2008-11-19 - ポンコツ山田.com






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