- 作者: 施川ユウキ
- 出版社/メーカー: 秋田書店
- 発売日: 2008/10/08
- メディア: コミック
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心中湧き上がるのは、心待ちにしつつも見たくはなかったその最後、といったところでしょうか。
この作品で描かれている世界はいわゆる「磯野家時空」。季節が移ろいはしても歳月は経ない、繰り返される一年の日常がゆるゆると過ぎていきます。
全体に筋の通ったストーリーがあるわけではなく、その回その回のテーマ(お題)に沿った4コマが展開されます。
だから、最終回が一体どのように描かれるのか、繰り返される時間がどのように幕を引かれるのかが気にはなっていたのです。現実にはなって欲しくなかったけど。
結局最終話は、何か特別なことがあるわけでもなく(めったにない非4コマではあったけど)、いつもどおりのサナギさんたちの日常でした。
いつもどおりのなんでもない日常で、なんでもないものがちょっと面白くて、なんでもないままにまた日常が続いていく。
いままで続いてきた連載は、あくまで「サナギさん」ワールドの日常を週一で切り取っていただけで、連載が終わっても「サナギさん」ワールドは変わらず続いていく。そんなことを十二分に感じさせてくれる最終話でした。
この感覚は決して独りよがりなものではなく、作者の施川先生自身が、そのような最終回になるようにと意識して描かれたものなのです。
あとがきを引用すれば
連載を始めた時、ネタを作っていく上でぼんやりと頭に描いていたのは、「日常のなんでもない一瞬を抜き出して永遠まで引き伸ばした世界」だ。それは連載中もずーっと意識にあって、最終回はいつもの感じにして突然終わるつもりでいた。雑誌には載らないだけで、この先も同じような世界が淡々と続いていく、みたいなイメージだ。実際、その世界観から外れていない最終回を描いたんだけど、少しだけ「終わり」を含ませてみた。(後略)
て感じです。
私はこれを読み、実に狙い通りの素晴らしい最終回になっていると感じました。
さて、ここで少し書いてみたいのが、施川先生が含ませた「終わり」は、どのように見られるのか、ということです。
上でも書きましたが、最終話の中のネタそのものは、今までのものと大きく違いはありません。ネタのまとめ(オチ)が主人公であるサナギさんとその親友であるフユちゃんとの友情であるというのは、今までにも何度かありました。非4コマ形式、つまり普通の漫画のコマ割であるというのも、回数は多くありませんが、一つの巻に数話はあります。
では、果たしてそれでも感じさせるこの回特有の「終わり」らしさとはなんなのでしょうか。
第一にそれは、読者のポジションの遠さだと思います。
ポジションというか、視点というか、この回ではどうも読者がサナギさんたちから離れているように思われるのです。
より具体的に言えばそれは、コマの中でのサナギさんたちの大きさであり、像の描かれ方なのです。
普通の回と比べて、最終回のサナギさんたちの姿は一回り小さいです。コマに対してではなく絶対的なサイズの比較で、これは見比べればわかりますが明らかに小さい。
そしてそれに拍車をかけるのは、バストアップの少なさ。4コマの特性なのか、この作品の特性なのか、「サナギさん」の中でキャラのバストアップが頻出しますが、この回はキャラの全身像が多いです。バストアップの絵と全身像の絵が同じサイズで描かれていれば、当然バストアップの絵のほうが全身が大きいと認識され、それはイコールカメラの近さ、アップの多さです。つまり逆に言えば、全身像の多さはそれだけカメラの距離が離れたということ意味するのです。
この二点を考えれば、読者の視点、カメラの位置がいつもの回より遠いということに頷いていただけると思います。
このカメラの位置の遠さは、私たちが読んできた「サナギさん」ワールドが今までより少しだけ俯瞰になったということです。言ってみれば、遠ざかる世界。離れゆく世界。楽しんできたこの世界から、もうお別れしなくてはならないことを暗示しているかのようです。
カメラの遠さが醸し出すこの「さよなら感」が、施川先生がもぐりこませた「終わり」の一つだと思います。
もう一つは、流れる時間です。
この点もおそらくこの回に特に顕著なもので、今までの回に比べて、この一話の中で連続して流れる時間が非常に長く感じられます。話の中で、夕暮時にバスが二本通ったという状況なので、流れた時間はおよそ30分ほどでしょうか。普段の4コマ形式なら、その回の4コマの初めの一本と終わり一本の時刻を見ればその時間を越えるかもしれませんが、4コマ一本分はあくまで切り取られた日常の一こま(四こまか?)であり、その時間はせいぜい数十秒です。そして各4コマ間でまた時は流れており、それらは瞬間瞬間の積み重ねでしかありません。非4コマの回もやはり瞬間の積み重ねが殆どで、そこに連続性は強く見られないのです。
ですが、この回に限っては、サナギさんは確実におよそ30分を体感し続けていたのです。
それは、ネタとネタとの間にある、「待っている時間」の故でしょう。普段は省略されるその時間、つまり一人でいる時間、つまりネタがない時間をあえて描くことで、そこではある意味「無為」な時間が現れています。
漫画としては不必要ともいえる「無為」の時間。描いてもなんら意味を生み出しえない時間こそ「無為」の時間です。
サナギさんは、一人でいるときでも何かを発見して、それに喜んだり驚いたり悲しんだり怖がったりしていて、それでネタを構成していることも何度もあります。ですが、ここで描かれているのはただ本を読んでいるだけのサナギさんです。ハラハラ本を読んでいるだけで、そこからネタには何一つつながっていません。普段なら、ここからネタの一つや二つが出ているだろうに。
つまりこれは、今まで切り取ることでネタとなっていた日常が、もとの流れるままの日常に回帰したということではないでしょうか。
今までは、切り取られた日常だけをネタとしてカメラ越しに見ていた読者が、もうそれを許されなくなってきている。「サナギさん」ワールドは読者のカメラから離れていき、切り取られぬままの日常を続けていく。
それが流れる時間ということであり、瞬間(ネタ)の積み重ねからの解放ということ。すなわち、「サナギさん」ワールドからのさよならです。
読者のカメラが「サナギさん」ワールドから遠ざかり、今まで切り取られていた時間が流れ始める。ああ、本当に「終わり」っぽいなぁ。
でも、こうして描かれた「サナギさん」の最終回は、「終了」ではなく「別離」なのです。
世界が閉じられてしまったのではなく、カメラが世界から離れただけ。連載が終わっても、「サナギさん」ワールドは変わらず続いているようにしか思えません。こうして感じられる作品(及び最終回)は非常に稀有だと思います。だから「有終の美」というのも少し違うんですよ。だって世界は終わってないから。
別れはしたけれど、それが今生の別れなのかどうか。そんな気がどうもしないのです。
最終巻の表紙は、夕暮れの街角で別れるサナギさんとフユちゃん。「また明日ね」と再会をまるで疑わずに別れを告げていることでしょう。そして裏表紙を見れば、二人が別れた後の同じ街角。これはきっと、最後の最後に読者のカメラが捉えていた絵だったと思えるのです。
二人が背を向けて家路に着き、カメラはそこでじっと止まっている。日が暮れて街が夕闇に沈んでいくと共に、誰もいない街角を写したままカメラもゆっくりブラックアウトしていく。そんな感じです。ああ、本当に「終わり」っぽい。
きっと二人はまた明日会うことでしょう。そして日常を繰り返していくでしょう。そうして続いていく日々をまたいつかひょっこり覗けるんじゃないか、そんな気がしてなりません。
何度でも言いましょう、本当にいい作品、本当にいい最終回でした。
なにはともあれ施川先生、お疲れ様でした。そしてありがとうございました。
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