『ワンダンス』吃音とリズムとダンスの話

まだまだ書くよ、『ワンダンス』の話。今日はカボの吃音にスポットをあてた話。
ワンダンス(1) (アフタヌーンKC)
本作の主人公カボこと小谷花木には吃音の症状があり、それが彼のコンプレックスとなっています。
吃音とは、簡単に言えばどもること。症状のパターンとして、
・連発型:一つの音が連続して発声される(「たまごを」と言おうとするところを「たたたたたたたまごを」など)
・難発型:発話するまでに時間がかかってしまう(「たまごを」と言おうとするところを「――――――――――たまごを」など)
・伸発型:発話の途中で音がのびる(「たまごを」と言おうとするところを「たまーーーーーーーーーーごを」など)
などがあり、これらが複合して存在することもしばしばです。
カボは連発と難発の併合で、どうしても会話がぎこちなくなってしまい、慣れない人と喋ることに気後れし、ひいては自己主張にも苦手意識を持っていたのですが、同級生の湾田光莉に触発されて、言葉がなくても表現できるものとしてダンスを始めました。で、意外なことに、この吃音とダンスは、あるキーワードで通ずるものがあるのです。
そのキーワードとはリズム。リズムがあることで、吃音のどもりはなくなり、ダンスには美が生まれます。
それを教えてくれたのはこの本。
どもる体 (シリーズ ケアをひらく)
同書で著者は、吃音=「どもる」を、発話の際に「体のコントロールが外れ」「思ったのと違う仕方で、言葉が身体が出てくる」もの、と捉え、当事者はどのようにしてコントロールが外れた体に対処しようとしているのか、技術(身体)面と心理面から、二元的に述べています。
その同書の中で、吃音の当事者たちがどもらない例として、こんなことが言われています

「歌うときはなぜかどもらないんです」。
当事者たちが口をそろえて言う「吃音の不思議」のひとつです。人によって症状の個人差がきわめて大きい吃音ですが、この点に関してはみんなの意見がぴたりと一致する。
(中略)
リズムと演技。どもりが出にくいこの二つのシチュエーションに共通しているのは、それに没頭しているあいだ、彼らが「ノっている」ということです。「ノる」とは単にハイテンションになることではありません。「ノる」は、意図と体のあいだに生まれる独特の関係のことであり、この関係が運動をたやすくするのです。
(どもる体 p148,149)

リズム。
同書の引用部分では歌に備わるものとして触れられていますが、これはまた、カボが始めたダンスにおいても極めて重要なものです。その上で、「ノる」ことも同様に、魅力的なダンスをする上でもっとも重要なものの一つでしょう。
もう少し、『どもる体』の内容を追ってみましょう。
同書では、リズムについてこう述べています。

まず、リズムに不可欠な要素は「反復」でしょう。
(中略)
ただし、注意しなければならないのは、「反復」といっても、まったく同じものが繰り返されているわけではないことです。たしかに、時間の刻み幅は同一です。同じ間隔をあけて、アクセントが訪れます。
(中略)
違うけど同じ、同じだけど違う。この相反する特徴をあわせ持つことがリズムの特徴です。つまり、リズム的反復とは事細かに細部を指定する規則ではなく、異なるものをざっくりと束ねる寛容さを持った規則なのです。
(前掲書 p154,155)

変化を含んだ反復としてのリズム。変化していくからこそ、逆に「刻む」働きが重要になります。適切なタイミングで「ここだ」と区切れを入れる。「ノる」とは端的に言って、この「刻む」働きにほかなりません。音などを実際に出す側だろうが、それを聴いたり見たりする受け手の側だろうが、リズムにノっている限りこの「刻む」働きに区別はありません。
(前掲書 p156)

「違うけど同じ、同じだけど違う」「反復」。
「適切なタイミングで「ここだ」と区切れを入れる」「刻む」行為。
この2点をリズムの重要事項として著者は挙げています。この2点が備わっている歌をうたうときは、吃音者でもどもらずに(著者の言葉を借りれば100%)発話できるというのです。
そして、ダンスもまた、基本的な動作のパターンを基に、音楽に合わせて反復的に、そして基本パターンを変奏しながら振り付けを増やしていきます。「違うけど同じ、同じだけど違う」「反復」です。
また、『ワンダンス』の中でも「形を合わせなくても 同じ音を 同じアクセントで取れば ダンスは揃う」と言われているように、アクセント、すなわち「適切なタイミングで「ここだ」と区切れを入れ」「刻む」ことで、ダンスには躍動が生まれます。
当たり前のことですが、ダンスはリズムにノって踊ることで、美を生み出す芸術なのです。
さて、そんなリズムですが、さらにこんなことも言われています。

詩人としてリズムの力を探求していたフランスの文学者ポール・ヴァレリーも、この点について指摘しています。「リズムが十全に作用するとき、存在は自動的であり、外部の偶発的な条件は破棄され、排除されたかのようである。」
(前掲書 p160)

「リズムが十全に作用する」、すなわちリズムにノっている状態では、覚えたものが意識せずとも自然と現れ、体を動かしているかのようである、というのが「自動的であり、外部の偶発的な条件は破棄され、排除されたかのようである」の意でしょう。
このヴァレリーの引用は、リズムについてのものであり、詩についてのものであり、そして吃音にも関係するものですが、ここで登場する「自動的」という言葉からは、『ワンダンス』内のカボの言葉を想起させます。

動かなくていい
音楽に動かされていればいい
何も考えなくていい
(ワンダンス 1巻 p179,180)

「音楽に動かされる」。「何も考えなくていい」。それはまさに自動的ということです。
リズムに乗ったカボは、今まで学んできた動作を「自動的」に行い、華のあるダンスを見せています。

再びヴァレリーの言葉を引用しましょう。
リズムにおいては、「先行するものと後続するもののあいだにつながりがある」とヴァレリーは言います。そのつながりとは「すべての項が同時に存在し、活性化されているかのような、けれども継起的にしかあらわれないようなつながり」です。
(どもる体 p162)

ここで言われている「継起的」とは、先行するものがあるから後続するものが生まれる、と言えるでしょう。カボのダンスも、ある動作をした後にその動作から上手くつながるような次の動作が「自動的」に決定され、滑らかに切れ目なく(あるいは適切な「刻み」でもって区切られ)連続する動きとなっています。そしてその一連の動作の総体=ダンスは、「すべての項が同時に存在し、活性化されているかのよう」であるため、一つ一つの動作は難しいものではなくとも、とてもノれるものとなり、カボがその瞬間において生み出した、独立した芸術として現れるのです。


リズムにノることで、どもらなくなる吃音と、美しい動きを生み出せるダンス。このように、両者はリズムという考えを通じてつながったのです。
付け加えれば、カボが中学時代にやっていたバスケットボールも、球技の中ではもっともリズミカルなスポーツだと言えそうです。一定のパターンで、手でボールを弾ませる、バスケの基本動作であるドリブルは、リズムのある反復的動作として屈指のものでしょう。カボ自身、ダンスを踊る際の音の取り方について、バスケットボールをイメージしていると言ってますしね。
カボの吃音という特徴が、このような形でダンスと関係してくるというのは、意外であり面白いなと思います。



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