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突然辞めるファンの気持ちと人間の一貫性の話

最近読んでいる本で『影響力の武器』があるのですが、その中で、人間は自身の行為を一貫性のあるものにしたい、あるいは他人からそう見られたいという欲求があるという記述がありました。

影響力の武器[第二版]―なぜ、人は動かされるのか

影響力の武器[第二版]―なぜ、人は動かされるのか

まとめ部分からその理由を端的に引用すれば

この欲求は、三つの要素によってもたらされる。第一に、一貫性を保つことによって、社会から高い評価を受ける。第二に、公的なイメージに及ぼす影響は別にしても、一貫性のある行為は、一般的に日常生活にとって有益である。第三に、一貫性を志向することで、複雑な現代生活をうまくすり抜けられる貴重な簡便方略が得られる。すなわち、以前の決定と一貫性を保つことで、類似した状況に将来直面したときに、関連するすべての情報を処理する必要が少なくなり、以前の決定を思いだして、それに一貫するように反応しさえすれば良いことになる。
(p180)

ということだそうです。
で、それを読んでつながるなと思ったのが、伊集院光氏が昔ラジオで言っていた話です。
いわく、ある番組の放送後、ファンから手紙が届き、そこには「あんなことを言う人だとは思いませんでした。もうファンを辞めます」と書いてあった。けれどそれは、その番組を見たから急にファンを辞めたわけではなく、それ以前からもう好きの気持ちが薄れていたところに、たまたま自分の気に入らないことを言った番組があって、それをきっかけ、というよりは口実にファンを辞めたのだ、と。
氏が語ったこのエピソードの中に、上記の一貫性を求める人間の性質が潜んでいると思うのです。すなわち、思想や趣味志向の大きな転向には一貫性の原理が隠れているのだと。
先に触れたように、人は自分が一貫していることを望みます。ですから、ひとたびある人のファンであることを広言したならば、自分がそのファンらしくあることを維持しようとし、たとえ自分にとって不都合なことが起ころうとも、それを無視、あるいは曲解してさえファンであり続けようとするのです*1
ですが、その不都合が余りにも重なったり、ファンであるという自分の気持ちがどうしようもないところまで薄れてしまったりしたら、さすがにファンであり続けることが心の大きな負担となってしまいます。その、もうファンでいたくない心と、一貫性のある自分でいたいと思う心のバランスが危うくなっているところに、たまたまファンの対象となっている人物が自分の気に入らない言動をすると、それを好機とばかりに勇んでファンであることを辞めるのです。こうして、ファン感情が何となく薄れていって自然消滅的にファンでなくなるのではなく、今までずっと熱心なファンであり続けていたけれどたった一つの出来事でそれを辞めるという、大きな転向が起こるのです。
こうして人は、一貫性の原理に従って思想・嗜好の大きな転向を遂げるのですが、現に外に現れたものの急激さとは裏腹に、その中身の変化はじわじわと進んでいたのでした。表面上は、今まで大ファンであったものを突然やめるという大きな転向が起こっているのですが、その実、自分が目を逸らしていたところでは着々と意識の変化は起こっており、それが臨界点を越えて表に発露したのであって、いわばコップの中へたまりにたまった水が最後の一滴で溢れたようなもの、その最後の一滴が何であるかは大きな問題ではありません。変化をもたらす要因は、既にいくつもあったのです。
さて、転向をする際のポイントは、あくまで、対象が自分の気に入らないことをするという点です。自分ではなく対象がネガティブな行為をしたから、自分はもうそれ以上ファンであり続けることができない。そう考えるのが一貫性を傷つけない上で大事なところです。
なにしろ自分ではなく対象が悪いことをしたのだから、自分がもうそれ以上ファンでなくなっても仕方がない。悪いのは相手。それまで好きだった自分は悪くなく、むしろそんな相手を好きでなくなった自分は価値判断に優れている。
自身の一貫性の変更を自ら認めることは、過去の自分を否定すること、自分を傷つけることと言えますが、一貫性が変わったのはしょうがないことであり自分には責任のないことと考えられれば、それはとっても都合がいい。自分の愚かさが自分の責任でないと思えれば、これほど楽なこともそうありませんから。


実は、当の伊集院光氏自身も、ファン側と同様の経験があります。氏はかつて落語家でしたが、二枚目だった頃に故・立川談志師匠の落語を聞き、「こんなすごい落語をする人がいるのなら自分がこれ以上落語をする必要はない」と考え、廃業の決心をしたというのです。後年、落語家を廃業し正式にタレントとなった後に談志氏と対談した際、上記のエピソードを語ったところ談志氏から、「うまい理屈が見つかったじゃねえか」と言われたそうです(のはなし/伊集院光 「好きな理由の話」より)。以下、反論しようとした伊集院氏を制止しての談志氏の言葉。

本当だろうよ。本当だろうけど、本当の本当は違うね。まず最初にその時のお前さんは落語が辞めたかったんだよ。『あきちゃった』のか『自分に実力がないことに本能的に気づいちゃった』か、簡単な理由でね。もっといや『なんだかわからなけいけどただ辞めたかった』んダネ。けど人間なんてものは、今までやってきたことをただ理由なく辞めるなんざ、格好悪くて出来ないもんなんだ。そしたらそこに渡りに船で俺の噺があった。『名人談志の落語にショックを受けて』辞めるんなら、自分にも余所にも理屈が通る。ってなわけだ。本当に本当のところは『嫌ンなるのに理屈なんざねェ』わな
(p99,100)

のはなし

のはなし

慧眼の言葉です。
伊集院氏自身はこの談志氏の発言について、本書中では大方認めつつも、後にラジオでは「これが全て正しいとは思わない」と語ってはいますが、本人の自意識の上ではともかく、外形的にはこの理論がぴたりと当てはまってしまいますし、そもそも一貫性の志向(に限らず人間の心的な指向性)は本人の意思とは関係のないところで動いてしまうものです。伊集院氏は、落語そのものが嫌いになったわけではないでしょうが、落語家を目指すという目的意識においては、一貫性の志向に縛られていた自分の気持ち(「落語家を辞めたい」)を、談志氏の落語というきっかけによって枠から溢れさせたのだと言えるのです。
伊集院氏は卒業間際の高校を中退してまで圓楽一門に入門しました。それが非常に思い切りのいることであったのは想像に難くありません。註1にで触れたように、強いコミットメントによって始められた物事は一貫性の志向を強固にしますから、高校を中退して落語の道を進み始めた三遊亭楽大(=伊集院光)は、その道を自分が生涯進むべき道と深く信じたでしょう。ですが、理想と現実は徐々に食い違いだし、そのまま落語家であり続けることが次第に負担になっていった、あるいはもっとやりたいことが見つかった。でも、最初に選んだ落語家の道を辞めてしまえば一貫性から逸脱してしまう。そうして大きくなっていった心の齟齬に最後の一押しを加えたのが、談志氏の落語であった,と。そういうことなのかなと思います。


もちろんのこと,これらのエピソードのような趣味嗜好の転向が悪いわけはありません。単に、人間は一貫性を志向するゆえにそのような行動をとりがちだ、という話です。
「好きなものに飽きたり、好きなものを嫌いになったりするのって――つらいじゃないですか。つまらないじゃないですか」と言ったのは八九寺真宵です。「普通なら、十、嫌いになるだけのところを、十、好きだった分、二十、嫌いになったみたいな気分になるじゃないですか。そういうのって――凹みますよ」(化物語/西尾維新 まよいマイマイ より)。そういう気持ちも含めて人は一貫性を持ちたくあるのでしょうが、それでも抗しきれない飽きや嫌いが膨れ上がったときに、くるっと、ね。



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*1:『影響力の武器』ではこのような心的傾向について、コミットメントの重要性についても述べています。「コミットメントを伴う決定は、それは間違っているときでさえ「自分を支える脚を作る」ことができるので、人はその決定に固執するようになる。つまり、多くの場合、人は自分がしたコミットメントについて、それが正しいということを示す新しい理由や正当化を付け加えるのである。(p181)」