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鬼頭莫宏の描く「子ども」と「力」と「理念=倫理=正義」の話 前編

先日発売された鬼頭莫宏先生の新作『なにかもちがってますか』。

なにかもちがってますか(1) (アフタヌーンKC)

なにかもちがってますか(1) (アフタヌーンKC)

レビューはこちらの記事で書いていますが、その内容を乱暴を承知でごくごく簡単にまとめてしまえば、社会に相容れない「正義」を持った少年と社会に相容れない「力」を持った少年による、ボーイ・ミーツ・ボーイのお話。この、「子ども」と「理念=正義=倫理」と「力」というのは、これまでの鬼頭先生の長編連載、すなわち『なるたる』と『ぼくらの』でも見られたものでした。
なるたる(1) (アフタヌーンKC)

なるたる(1) (アフタヌーンKC)

ぼくらの 1 (IKKI COMIX)

ぼくらの 1 (IKKI COMIX)

これら二作品で鬼頭先生が「子ども」と「理念=正義=倫理」と「力」をどのように描いてきて、『なにかもちがってますか』においてどのように変奏されているのか、ちょっと考えてみようと思います。前編では、『なるたる』について。
この作品では、子どもたちが「竜の子」と呼ばれる超自然的な存在とリンクすることで、「力」を手に入れました。作中に「竜の子」は何体も存在しますが、それらは皆、リンク者である子どもたちの意思によって動き、高速飛行、無からの物体の創出あるいは複製、直接的な破壊行為などが可能です。ある「竜の子」は、毒ガスを精製し撒布することで大規模殺人も為しえました。「竜の子」が受けた衝撃はリンク者に伝わるものの、「竜の子」そのものには生命が存在しないため、高度に操られる「竜の子」に対しては軍ですら撃退されえます。「竜の子」は非常に強力な「力」なのです。
主人公であるシイナは「竜の子」ホシ丸と出会いましたが、彼女はホシ丸に対してペットかあるいは友人のように接し、その「力」を他者に対して揮うことなく、溺れることもありませんでした。
ですが、そうではない子どももいます。それが、須藤直角を筆頭とする「黒の子供会」の面々でした。彼らは「竜の子」とリンクすることで得た「力」で以って、世の中を変えようとしたのです。

「やりたいことがありますから」
「なんだ? やりたいことって」
「僕は 奉仕活動をしたいと思います 平等な社会のために」
なるたる 7巻 p20)

先生は僕達人間に 未来があると思いますか?
誰もが 実は不安を抱きながら気づかないふりをしている問題 いつか誰かがどうにかしてくれるはずだと楽観的に振る舞おうとする問題
それでもただ楽をするためだけに浪費を繰り返す生活を僕達は続けています
(中略)
地球全体で1年間 石油採掘資源に頼らない生活をしたらどうなると思います?
一度やってみたら面白いと思いませんか 試しに 
それで10億人くらい 死者が出ても
(中略)
権利というものはその個人の能力に対して与えられるものであって 等しい権利がどんな能力の人間にも与えられるのは平等ではありません
(中略)
そもそも能力が違うのに同権であるわけがないでしょう 言うなら 女は女であることによる能力に対して それに見合う権利を受けるんです
そして個人はその個人の能力によって権利を得る
それが平等な社会です
(同 p29〜31)

ちょっと長いですが、これでもそこかしこをはしょりながら、須藤の「理念」を引用しました。彼が目指すのは、彼の言う平等な社会。すなわち、個人の能力によって個人の権利が決定される、いわば能力平等主義社会です。ただ、能力の低いものは相応に権利が制限されるために、実際にはそれは、能力によって決定される階級社会ですが。
須藤の理想は、同志である高野文吾からも「非現実的」と言われるものでしたが、それを実行するための腹案はあり(そしてそれは高野も「それを実現させる現実的な方法なんて おそらく一つしかない」と考えていたことですが)、彼は「竜の子」の「力」によって現実のものとしました。
「子ども」である彼らには、本来世界を変革できるような地位も、権力も、軍事力も、名声も、お金もありません。それらが持てる存在は分別のある(とされている)「大人」であるように、世界は構築されています。そして、たいていの場合、世界を変革できるような「力」は、それが強くなればなるほど、世界自身のルールによって勝手に使えぬよう縛られているのです。わかりやすい例を出せば、アメリカ合衆国の大統領は、その権力にしろ、名声にしろ、資産にしろ、軍事力にしろ最強レベルのものですが、実際に彼がそれを世界を変革するために行使するには、諸々の手続きが必要です。一度動けばその影響が計り知れないために、それが動かぬよう様々な制約があるのです。世界は流動性を失えば衰える一方ですが、中身が複雑になればなるほど急進的な変化も好まないものです。*1
ですが彼らは、「力」を手に入れました。そして、そのカードをちらつかせることで、国家の中枢にいる「大人」たちに近づき、理想の実現のための足がかりとします。「黒の子供会」は(少なくともその首長の須藤は)、自分たちだけの手で世界を変革できるとは思っていませんでした。いえ、変革は不可能ではないものの、より短い距離でそこに辿り着くために他者の力を借りることを厭わなかった、と言う方が正確でしょうか。
つまり、彼らは自分たちが「子ども」であることを自覚していた。「竜の子」の「力」はあるものの、それだけでは理想の実現は難しいことを理解していた。己の不自由さを知る。これは間違いなく「大人」への第一歩です。
「子ども」である彼らには「理念」があった。そこに「力」が転がり込んできた。そして「理念」を実現させるために、「大人」への道を歩み始めた。これが『なるたる』の「黒の子供会」です。
そして主人公であるシイナは、最終盤になるまでその「力」を身の丈を越える以上=社会に強く影響及ぼすようには使わず、世界をどうしたいという「理念」も、やはり出てきたのは最期の最期でした。彼女の行動はほぼ全編、自分の手が届く範囲の世界に向いていて、いわば彼女は、ずっと「子ども」のままだったのです。自分の有り様に満ち足りており、ただその世界が続けばいいと思っていた。彼女の友人であり、同じく「竜の子」の力を持っていた佐倉明や貝塚ひろ子は、世界に怯え、世界を憎み、自分の感情と自分が得た「力」のバランスに恐々としていたのに。
元々「理念」がなかったところへ「力」が転がり込み、そこから「理念=倫理」を考えざるを得なかった『ぼくらの』の「子ども」たちとは実に対照的ですが、それは勿論、『ぼくらの』の「子ども」たちを待ち受けていた運命の故でしょう。後編で詳しく触れますが、彼/彼女らは自分らの運命を知ってしまった。それゆえ、自分たちの「力」について考えざるを得なかった。対してシイナは、彼女にもまたある運命が待っていたにもかかわらず、彼女はそれを知らず過ごし続けた。それゆえ、考える必要がなかった。
「子ども」とは、端的に無知であるものです。他人に、社会に、世界に、そして何より自分に無知であること。「無知の知を知る」「汝自身を知れ」の言葉どおり、己の無能を自覚することが「大人」への第一歩なのです。「黒の子供会」のメンバー、特に須藤を高野は己の無力と無知を知り、それゆえ「理念」の遂行には他人の協力が必要だと知っていました。ですがシイナは、父親に、母親に、鶴丸に、ずっと過保護にされてきました。無知であることを気づかされずにいられてしまったのです。そんな彼女が己の無力さを知ったのは最終巻、自分の大切な人を次々と喪っていく中でした。彼女は喪い続けることで己の無知を知り、「大人」になっていきました。そこには後編で触れる『ぼくらの』における関海尉や田中空尉のようなメンターはいなかったのです。
その結果、彼女が得た「理念」=世界変革の意思は、彼女が得た「力」に相当するほどに凶悪なものだったのです。


とまあ前編はひとまずここまで。後編で『ぼくらの』、そして『なにかもちがってますか』に触れていきたいと思いますので、よろしければ乞うご期待。
※1/11追記 後編書きました。
鬼頭莫宏の描く「子ども」と「力」と「理念=倫理=正義」の話 後編



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*1:ただ、人間がそう思っていたところに起こったのが9.11テロでした。自らの命を顧みないテロにより、世界に代償以上の影響を与えうること、そして熱狂=狂信さえあれば権利ががんじがらめにされている大統領でも、多大な影響を与える「力」を容易に実行できることが示されてしまったのです。