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剃毛する女性に興奮する友人の心的理路を考えてみる話

※今日は性にまつわる話をするよ。別にエロくはないけど、露骨な表現があったりするので、嫌いな人は注意してね。
友人が大学時代から主張していた「女性が剃毛をしているところを想像すると興奮する」という性的嗜好について、分かり合うことのできないまま何年も経ったのだけど、このほどようやく彼の言わんとするところをまとめることができた。
友人曰く、「剃毛するときは基本的に薄着、もしくは裸だろうけど、そういうことではない。どんなかわいい女の子でも年頃になれば、性器周辺や腋の下には毛が生えていて、みだしなみとしてそれを処理しているという事実が俺を興奮させるのだ」だそうだが、もう小指の甘皮一枚分でさえ理解できなかった。
だが、それはどうやらこういうことらしい。(以下の話で言う「女性」は男性としての友人、及び論者である俺から見た女性、という意味になる。男性という対から見た女性と思っていただきたい)
普段コミュニケーションをとっている女性は、エデンの園ヌーディストビーチに住んでいるわけではないので、もちろん服を着ている。コミュニケーションをとっている場というのは、当時で言えば、学校のクラスであったり、サークルであったりと、性的な文脈は非常に薄いものであって、つまり、基本的にそのとき女性は、性的な対象としては捉えられていなかったといえる。*1
しかし、そんな場でも女性に対して「かわいい」と思うことはある。思うことはあるというか、よく思う。この時、「かわいい」は性的なものとは直接的には結びついていない。「かわいい」は性的なものから乖離していて、ある意味では非常に観念的な感覚だと言える。
ここで「かわいい」が観念的だと言えるのは、翻って性的なものとは肉体的である、ということに他ならない。
性的なものとはなにより、性行為の対象になりうるということだ。友人は「恋人になれるかどうかは、とどのつまり、その人の前で裸になれるかどうかだ」とも言っているが、これについては私は同意する。身も蓋もなく言えば、セックスできるかどうかなわけだが、セックスするためには服を脱ぎ、身体を重ね、肌を触れ合わせなければならない。なにより、穴の中に棒が入らなければならない。それは極めて肉体的な行為だ。
性的興奮や猥褻ということ、フェチズム、身体的快楽と性的快楽の重なりながらもずれる点など、細かいところまで触れれば膨大な文章にならざるを得ないので、ひとまず「性的なものの根底には肉体がある」という点で話を止めそれ以上の深入りを避けるが、普段のコミュニケーションの場における女性は基本的に観念的に捉えられている、ということで了承してもらいたい。
しかし、そんな観念的な対象である女性にも、当然肉体がある。年頃の子の肉体である以上、乳房の発達、骨盤の肥大化、陰毛の発生など、第二次性徴期に見られる身体的変化、早い話、生殖・出産のための成長が顕れているわけだけど、そのような現実の肉体の変化は、観念的存在においては端的に服によって隠されている。というか、そのような生殖・出産のための身体的特徴が隠されているために、女性を観念的存在として捉えることができる、と言った方がいいのかもしれない。セックス・アピールの強い服とは多くの場合、肌を露わにした服や、ボディ・コンシャスな服を指すが、つまりそれらは、生殖・出産のための身体的特徴をより明瞭に顕す服装ということだ。
服によって隠されているその下には、生殖・出産のための肉体がある。観念に隠れた肉体がある。観念的な「かわいさ」の下にも、必ず生殖・出産のための肉体がある。
そのギャップが彼を興奮させるのであり、彼にとって陰毛こそが生殖・出産のために成長した肉体の象徴なのだそうだ。
陰毛こそが性的肉体の象徴であるということについては平行線だが、そこに到るまでの話は納得できる。普段のコミュニケーションにおいては、相手が男性であろうと女性であろうとそこに性差はほとんど意味がなく、相手の個体差に回収されてしまうのが大部分だ。なにより普段のコミュニケーションは言語に基礎を措いているために、肉体的な意味情報が主となるケースは非常に少ない。声質で男性的/女性的というのはあるし、日本語には男性的語法/女性的語法というものはあるが、それらはあくまでコミュニケーション主体に観念的な意味での性差をつけるのであって、それは社会的・文脈的な意味での性でしかない。立場としての性と言ってもいいのだが、この時その主体が実際に男性であろうと女性であろうと関係はないのだ。男性として/女性としての立場で交話している、男性/女性の立場を表明しているという、肉体から離れたメタ的な性と言ってもいい。再び身も蓋もなく言えば、その性の表明とセックスの相手になるかどうかは無関係、ということだ。
しかし、性的なコミュニケーションにおいては、肉体こそがベースとなる。逆に言えば、肉体がなければ性的なコミュニケーションは難しい。それをもう一歩踏み込めば、相手の肉体を意識することで初めて相手を性的なものとみなすことができる、と言えるのだ。
友人言うところの「剃毛」に触れれば、剃毛中はどうしても毛が生えている自分の肉体を意識しなければいけない。つまり、男性が性的なものとして意識するところの女性の肉体を、女性自身が性的な(生殖・出産の準備が整った)ものとして意識する瞬間なのであり、その「性的な対象」としての一致が彼の興奮を催すのではないだろうか。俺にはよくわかんないけど。


とまあこんな具合の友人の性的嗜好だ。この理路はともかく、「剃毛に興奮する」という嗜好に同意した人間は、俺の知っている限り一人しかいない。とりあえず、この記事を淀みなく書くために「剃毛」を辞書登録しなければならなかった事態について、友人には一言物申したい。
まあなんだ、書いて思ったけど、非常に「D.T.(@みうらじゅん)」的な考え方だと思うよ。女性に対して観念と肉体で考えるとか、えもいわれぬほどにD.T.
さて、次回はこの話を前段として、「高杉さん家のおべんとう」のキャラクターのかわいさとセックスアピールのなさについて書こうと思う。よもや「剃毛」をキーワードにする話を踏まえて作品を語られるとは、柳原先生も想像だにしていなかっただろう。本当にすいません。




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*1:これはあくまで「基本的には」であり、例えば混みあったエレベーターの中で密着するであるとか、屈んだ拍子に胸の谷間が見えたであるとか、その場に性的な要素が入り込むことは多分にある