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日本語話者の言語処理と、漫画の台詞と映像の処理

街場の教育論

街場の教育論

昨日の記事(参考;むんこ作品に見る、フキダシのない手書き台詞のニュアンス(そしてそこから見るむんこ作品の特徴) - ポンコツ山田.com)の補足の様なものですが、先日発売された内田樹先生の新刊「街場の教育論」の中で、こんな話がありました。

日本語は表意文字表音文字を並行利用している世界でも例外的な言語なのですから、それが日本人の言語音感に影響を及ぼしていないはずがない。
これは養老猛司先生からの受け売りですけれど、表意文字表音文字は記号を処理する脳内部位が違うのだそうです。表意文字は「画像」処理し、表音文字は「音声」処理するのですから、担当する脳内部位が違って当然ですね。
(中略)
脳内の二箇所で言語記号処理をするというような「変なこと」をしているのは日本語話者だけです。そこから「マンガ」という世界でも類例を見ない表現が生まれてくるのですが(中略)その話はいずれまた。
(街場の教育論 第10講 国語教育はどうあるべきか p232,233)

これを読んで、内田先生は、確か別なところでも似たような話をしていたなと思い(内田樹先生は、同工異曲の言説を大量におっしゃっているが、これは別に先生の話がワンパターンというわけではない。大事なところは、根本的なところでそれも似通っているということである)、蔵書と先生のホームページのバックナンバーを引っ掻き回したら、こんな話が見つかりました。
ショコラ・リパブリック言語論 内田樹の研究室
そこで言及されているのはこんな感じ。

養老孟司先生は「だから、日本でマンガが発達した」という説を述べられている。
マンガの「絵」は表意文字であり、「ふきだし」は表音文字である。
これを組み合わせることは日本人にとってはごくナチュラルなことである。
だが、欧米人にとっては絵はあくまで絵であり、表音文字は言語である。
彼らには、このふたつを「同じ記号」としてすらすらと読む習慣がない。

「絵」が表意文字、「ふきだし」が表音文字。このような説を、両先生は支持していらっしゃいますが、これは、昨日の私の論と通じるところがあると思われます。
私は、絵を視覚情報、文字を聴覚情報と、漫画の中の情報発信源を二種に分けましたが、これは、前者を表意文字、後者を表音文字という風に分けるのと、ぴたりと一致します。ですから、普通の台詞から手書き台詞へと、文字情報の水準を変えることは、表音文字的解釈(文字の解釈)から表意文字的解釈(絵の解釈)へと、情報解釈の水準を変えることと等しいのです。


正確には、ここでの解釈水準は三段階存在します。つまり

1.普通の台詞の、「『表音文字』としての『文字』」の解釈水準

2.手書き台詞の、「『表意文字』としての『文字』」の解釈水準

3.絵の、「『表意文字』としての『絵』」の解釈水準

です。フキダシをなくし絵の上に直接書かれた台詞は、同じ台詞(文字)であるにも関わらず、フキダシ内にある普通の台詞と解釈の水準とを異にし、絵に近い水準で解釈がなされると思うのです。


ただ、この説を採用すると、以前の記事(参考;「WORKING!!」に見る、フキダシのない手書き台詞のニュアンス)で論じた手書き台詞のニュアンスもひとしなみに飲み込んでしまいかねないのですが、それについてはこのように説明することで、事なきを得ましょう。つまり、あくまでこの説明は、手書き台詞について包括的に説明するものなのだと。ですから、個別にさらに意味を詳述するためには、以前の記事のような説明が必要なのです。
私は手書き台詞のニュアンスを
α:普通の台詞と、発話の水準が異なる
β:普通の台詞より、意味が薄くなる
と分けましたが、ここでさらに、むんこ先生に強く見られるものとして
γ:文字情報を背景に落とし込む
という特徴を付け加えることにしましょう。この三点を、暫定的に手書き台詞のニュアンスの三類型とします。
βとγが、この説明だけでは似通ってしまいますが、両者の違いは一線によりしっかり区切られており、βは上の三段階の解釈水準の中で、1と2の間に存在している、つまり、表音文字としての解釈を基調とするわけですが、γははっきりと2以下に属し、その解釈は表意文字を基調とするのです。これが両者の大きな違いですね。
以上、補足でした。








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