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漫画やアニメ、小説などについて、思ったことを恬淡と。

「キャラ」的な喋り方を聞くとなんで気恥ずかしいのか

この前久しぶりに電車に乗ったときに、背後にいたカップルの会話を聞くともなしに聞いていたんですが、男女ともに喋り方に特徴があったんです。特徴というか、テンプレ的というか。
男性のほうはまあなんというか「マニア」的で、女性の方はまあなんというか「キャラ」的。
「マニア」的喋り方とだけ言って、全員に同じような喋り方が思い浮かぶかはわかりませんが、私は「早口で」「相手の言うことを封じようとする」「畳み掛けるような」喋り方を聞いて、「マニア」的だなぁと感じました。
「マニア」的の理由付けには、自分の知識に対する自負心とか、相手より上に立ちたい優越願望とかがわりと聞かれる感じですし、今のところ特に異論はないのでそういうタイプなんだろうなと思ったわけです。*1 *2
それより気になったのは女性の方なんですが、「キャラ」的というものです。わざとらしく語尾に「にゃあ」などとつけていたわけではないですが(電車内でそんなことを言う人間にはグーパンでも情状酌量の余地がありますが)、「〜じゃないのぉ?」「〜だよぉ」「でもねぇ」のように表すことで伝わりますかね。「アニメ」的と言ってもいいんですが、まあそういう感じなわけです。
そういう喋り方って何かに似てるよなと思うと、こどもの喋り方なんですよね。

ちょっとめんどい説明になる、幼児の言語習得。



幼児が言葉を覚える時は、日本人が学習課程の途中で英語を教わるように、改まっていちいち文法などを教わるわけではありません。自分は一切言葉を喋れないにもかかわらず、日本語を使う家族の中で育つことで、自然に学んでいくんです。ある言語体系の中に何も知らないまま投げ込まれて、他の人の言葉遣いを模倣することで言語を習得していきます。繰り返し言葉を聞かされて「もの」に名前があることを覚えて、そして「もの」の名前を認識するのと同時に、名づけられた「もの」が幼児の認識する世界から分化されるのです(裏を返せば、それ以前の幼児にとっては世界は未分化なのです)。
単純に物体に対して名前をつけるのならそれでいいのですが、非物体的な概念も学ばなければいけません。つまり「感情」ですね。「喜んでいる」「怒っている」「悲しい」「楽しい」の喜怒哀楽の基本的な感情から、成長に伴い複雑になっていくわけですが、そもそもまだ名づけられていない感情、物体的な言葉では表しようのない感情をどうやって幼児が学べるのでしょう。
それは発話者の表情であったり、声質であったり、ボディタッチの優しさ/激しさなどの身体的なレベル、快/不快のレベルで、幼児は少しずつ言語と一緒に自らの感情にラベルをつけていくと考えられます(そして、長じるにつれ、ラベルはより細かく貼られなおしていくわけです)。
身体的なレベルで言葉に伴う感情を理解させるということは、そこには大袈裟さがどうしても必要になります。既に感情に名前がついている人間相手であれば、言葉を選ぶことで、感情を強く表出させずとも自分が今抱いている感情を伝えることができますが、そもそもその感情がなんだか知らない幼児に伝えるには、身体的なレベルでわかりやすく「怒ったり」「喜んだり」してみせてあげなければいけないんです。例えば怒る時に怒鳴ったり手を上げたりして相手に不快な感情を与えたり、喜ぶ時に笑顔になったり頭を撫でてあげたりして相手が快を感じるようにしてあげたりするってことです。
てことで、幼児相手のコミュニケーション、概念(物体/非物体を問わず)に名前をつけきれていない人間相手のコミュニケーションは大袈裟にならざるを得ないんですが、先に書いたとおり、幼児の言語習得は模倣であるので、幼児自身が他者とコミュニケーションをとるときも、どうしても大袈裟になります。貼ったラベルの糊が乾ききっていない内は何度か繰り返し上からこすってやる必要があるように、模倣したものは繰り返し使うことでようやく自分の中でこなれてくるんです。
ここまでが、幼児段階の言語用法です。

成長することでの言語運用の変化。



成長するにつれて、自身の中で概念と名前の対応の仕方がはっきりしだし、言葉遣いも落ち着いたものになりだします。大袈裟さが薄らいでくるってことです。それが男子で言えば第二次性長期、家族に対して照れくささを覚える時期と一致するんじゃないでしょうか。「自分の言葉遣いが大袈裟だったのだな」と気づくと同時に、ずっと自分の言葉遣いを見てきた家族に対して恥ずかしさを感じるのだと思います。たぶん。
で、言葉遣いが非常に醒めたもの、素っ気無さが過ぎれば乱暴にさえなるようなこの時期を越えて、自分の感情をより的確に伝えたくなるようになって、言葉遣いに複雑さが増すのだと思うんですよ。
それは大袈裟になるのではなく、複雑になる。揺れ幅が大きくなるんじゃなくて、揺れ幅の中の最小単位が細かくなるんです。
ここまでが、青年期までの言語用法。

「キャラ」的と幼児的の近似性。



で、「キャラ」的な喋り方に戻るわけですが、ここで見られるある種の過剰さは、複雑性のゆえではなく、むしろ幼児期のそれに近いものだと思います。幼児期の感情を過剰に表出しているあの喋り方が、すなわち「キャラ」的なのではないかと。
そもそも「キャラ」的、「アニメ」的な喋り方というのは、作品のストーリー、状況を受け手になるべく誤解のないように伝えるためのものです。現実の面と向かった双方向的なコミュニケーションと違い、作品を味わうというのは一方通行のもの、少なくとも互いが同時に情報を発しあい影響を与え合えるものではないのです。
となると、受け手に誤解を与えないように台詞から発せられる情報は、現実のそれより過剰になる必要があります。常に時間が流れる映像作品ならなおのことです。送り手による一方的な作品のスピードに受け手の情報処理(解釈)が遅れては、受け手は十全に楽しめませんから(読むスピードが受け手に委ねられている本であれば、求められる過剰さは映像作品ほどではありません)。
情報を言葉の量で補おうとすれば説明口調になってしまい興醒めですので、アニメの口調が大袈裟になってしまうのは致し方ないところです。
その意味では、幼児期のコミュニケーションは充分に双方向的ではない、とも言えるわけですね。


つまり、ともに情報伝達を確実にするための過剰な大袈裟さてことでの、「キャラ」的な喋り方=幼児的な喋り方なわけです。複雑さを増すことによる高度(濃度が高い)だけど難度も高いコミュニケーションと、過剰な大袈裟さによるわかりやすい分だけ単純なコミュニケーション。そりゃあ始終複雑(語彙選択で情報の確実性を高めているという意味ですが)な言葉遣いをしていれば疲れますが、公共の場ではある程度そうする態度が望まれるもんだとは思います。
それが真実望まれているかどうか、実際誰にアナウンスされたわけでもないのにそれをどうして実行しなければいけないのかと言い張られれば、確かにそれはある種のフィクションというか幻想ではあるんですが、「その幻想を受け入れることが実効である」ということに同意し、実際に受け入れることにしたのがロックやホッブズの言う近代社会の始まりだと思うんですよ。「弱肉強食はもうやめませんか」ということへの同意ですね。話が飛んだようですけど、根っこは同じ。「『大人』になりましょう」が近代社会の始まりだったわけです。
ま、最後はいささか蛇足でしたけど、公共の場では相応しい振る舞いをしたほうがいいですよというお話。








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*1:トリビアルな知識や稀覯品などでもって他の同好の士との優劣をつけたがる(愛の大きさを競いたがる)「マニア」的な気質が、それとは直接関係ない男女関係でも見出せたってことでしょうか。

*2:マニアが須らく「マニア」的であるというわけではなく、何かに執着していても、特に他人とその愛を競うことを頑張らない人もいます