読切コンペが掲載されたときにレビューをした、イシコ先生の『邪神の弁当屋さん』の1巻が発売されました。
そのレビューは去年の6月でしたが、まっこと時の経つのは早いものよのぉ。元神様で今は弁当売り 『邪神の弁当屋さん』の話 - ポンコツ山田.com
物語は、実りと死を司る神・ソランジュが、戦争の原因を作った罰として人間に零落してしまったので、お弁当屋さんをすることで善行を積み、神の力を取り戻そうとする中、かつて彼女を信仰していた人間たちと交流し……というもの。
元神様のレイニーが見せる人間離れした振る舞いのコミカルさや、街で暮らす人々の明るさの影に、かつての戦争の爪痕や、信仰がもたらす悲劇、零落したものの哀愁などが漂っており、ドライな読み心地の中に玄妙な味わいが入り混じっています。
人間に堕とされたレイニーが選んだ生計にして善行を積む方法はお弁当屋さん。なぜそれか。
彼女にとって、お弁当を作ることは隙間を埋めること。
人には必ず隙間がある。その隙間は、隙間を作ってるそれ自体では埋められない。別のもので埋める必要がある。愛の隙間をお金で。心の隙間を肉体で。でも、空腹は食べ物でしか埋められない。だから彼女はお弁当を作る。人の隙間を埋めるため。弁当箱の隙間を埋めるため。
彼女は、隙間を埋めたいのだ。
高さを出す事 隙間を埋める事
丸い形も歪な形も 型に入れば同じ事
これは彼女がお弁当を作りながら考えていることだ。ひょっとしたら、レイニーにとってお弁当と人間は同じなのかもしれない。
丸い食材も歪な食材も、高さを出して隙間を埋めて、箱に入ればお弁当になる。仕入れる食材が毎日違っても、弁当箱という箱に詰めればそれはお弁当だ。
人間だって同じこと。丸い体験、歪な感情、それらをうまくそろえて隙間を埋めて、枠の中に収めれば、それは人になる。それで人ができる。中身が違っても、人という枠に収めれば、それは人になる。
彼女は、隙間を埋めたいのだ。
レイニーは人間が憎い。勝手に彼女を崇め、勝手に彼女が原因で戦争を起こし、彼女の思いとは無関係に勝手に殺し合った。それが原因で神の座から堕ちた。
そして、レイニーは人間を愛している。それはもう、うんざりするほどに。人間たちが勝手に戦争を起こして勝手に殺し合った事実を、自分の存在と引き換えになかったことにしてもいいと願うほどに。
世界の創造主から戦争の責任を取るよう迫られたとき、彼女は自分が消えてもいいと言った。でも、創造主は彼女を人間に堕とし、存在を残した。それこそが罰なのだと。
神様として存在を終えるのは誇り高いことかもしれない。人間に零落して存在を永らえるのは無様かもしれない。彼女は前者を選んだ。でも、その選択は覆された。それこそが罰なのだと。
罰としての生を生きるレイニー。いつもうっすら笑顔を浮かべている彼女の真情は計り知れない。
かたや、先の戦争の一因となったまた別の神は、存在を消され、戦争の終結を導いた。その一柱の抹消はその神自身が願ったことなのか、それともレイニーと同様、自身の願いの逆を創造主によってもたらされたのか。それこそが罰だったのか。
なぜかレイニーだけは、その神のことを覚えている。自分が願っていたことを叶えたその神をレイニーはどう思っているのか。
ソランジェは人間を愛している。人間はソランジェを信仰している。だがソランジェが人間となった今、神としての彼女の存在は街の似姿にしかなく、それを仰ぐ人間たちを、同じ人間となったレイニーはどう思っているのか。
信仰の意味。信仰が生み出した悲劇。自らが引き金となった罪。贖罪。自分とは違う贖罪。罰。自分とは違う罰。人間の営み。人間の日々。人間の隙間。人間の喜び、怒り、憎しみ、哀しみ。そして愛。そして、レイニーが作るお弁当。彼女が埋める隙間。
人が人として、神が人として生きる中で出会うものを、乾いた空気で、シニカルに、それでにいてコミカルに、でも少しだけ愁いをまじえて描くこの作品。読み味の余韻は軽く、それでいて郷愁を帯びた後味。キャラクターのかわいらしさの裏にいる無慈悲さ、残酷さが、読む者を惹きつけるのです。読切コンペを勝ち抜いて連載をもぎ取るのも納得の作品。
yanmaga.jp
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