エルシィがかわいい!ただしアニメ版の!
どうも山田です。
心の叫びはさて措いて、アニメも好調の『神のみぞ知るセカイ』。この度発売された最新刊では、旧悪魔側の勢力の一端が垣間見えたり、あのキャラが実はああなことが発覚したり、桂馬にちょっとした変化がみられるようになったりと、次巻に向けて一つのターニングポイントになりそうな巻でした。
で、その11巻の裏表紙に書かれているフレーズ「女の子がいてエンディングがあれば… 僕にとってはすべてがギャルゲーなんだよ!!」。これはFRAG.104「とりあえずトリアージ」の中に出てきた桂馬の台詞なのですが、これ、なかなかに意味深だと思うのですね。
- 作者: 若木民喜
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2010/12/17
- メディア: コミック
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「女の子がいてエンディングがあれば」ギャルゲーだと桂馬は言いますが、それは裏を返せば、ギャルゲーにはエンディングが常に存在するという事です。ギャルゲーのエンディングとは何かといえば、それはとりもなおさず、女の子キャラとの恋愛成就となります*1 *2。
けれど現実の恋愛では、恋愛成就、つまり告白して(されて)オッケーで恋愛が終わるわけではなく、むしろそれが始まりなわけです。なら現実の恋愛(に限らず、人間関係全般ですが)のエンディングは何かというと、ある意味でそれはバッドエンドしか存在しないようなもんです。即ち、恋愛関係が破綻するか、死別するかで、二人とも存命で恋愛関係も持続しているのであれば、そこにエンディングはありません。どうしてもグッドエンドが欲しいというのなら、不慮の事故で二人同時に死亡とかですかね。だって「エンド」なんですから。恋愛は関係が続いている限りエンディングの設定は出来ず、エンディングの到来は関係の終了と同義です。
で、駆け魂狩りの重要な点は、あくまで心のスキマを埋めて、駆け魂を追い出すこと。その埋め方は、「成功を望む人に成功をさせてあげたり、病気で悩んでる人がいたら治したり」「恋に悩む人には相手を見つけてあげたり」もしくは「その人にとってジャマな人間を、消したり」と、多種多様。というか、スキマさえ埋まれば何でもオーケー。そうやって追い出した駆け魂を即拘留すればいいのだから、駆け魂が潜んでいた女性のその後がどうなっても、まあ極論しちゃえばどうでもいいわけです。実際、ノーラなどはそうやって事後のことを考えないやり方で勲章レベルの数の駆け魂を捕まえていますし(ただし、失敗も多いようですが)。
なものだから、本来的に駆け魂狩りは、ハクアの言うように「恋愛」と相性の悪い行為のはずなんです。駆け魂を追い出すために対象女性と恋愛をして、それが成功したとしても、また他の駆け魂を狩るために他の女性と付き合い出せば、最初の女性との恋愛関係の意地は難しくなるでしょう。よしんば二股三股くらいまではなんとかなったとしても、万単位の駆け魂を全部捕まえるまでに、いったい何股をかけなければならないのか。ムカデ? それで結局恋愛関係が破綻すれば、ふたたび駆け魂が心のスキマに入りかねず、終わらないイタチゴッコです。
そんなわけで、桂馬が駆け魂狩りに使っているのは、「恋愛」というより、「ギャルゲーメソッド」という「恋愛」とは似て非なるものだと言えるでしょう。
じゃあそのギャルゲーメソッドとは何かってことですが、それは異性との関係性に一つのエンディングを設定する、とでも言えましょうか。各女性キャラクターの攻略の最後には常にキスがありますが(例外は幽霊だった梨枝子おばあちゃん)それはあくまで象徴的な行為であって、設定されたエンディングではありません。女性を攻略している時に桂馬は、その女性が目を背けている心のスキマに正面から向き合うようにさせ、それを乗り越える一歩を踏み出すように背中を押している。それが恋愛的な感情に発展(あるいは勘違い)し、その発露としてキスに繋がる、という形になっています。*3桂馬の設定するエンディングは心のスキマを埋めることであり、それは心のスキマを自覚させ、自ら乗り越えられるようにすることなのです。ですから、ノーラなどがするような外的刺激によるスキマの充填ではなく、当人が自発的に埋められるよう仕向けているのだと言えます。
で、このギャルゲーメソッド、面白いのはそれは攻略でしか使えない、つまりエンディングを設定できる相手じゃないと使えないってとこです。
FLAG.102「devil May Cry」で、前話までの楠攻略で最後の大事な場面で活躍できなかったことに落ち込むエルシィを柄にもなく励まそうとする桂馬ですが、いままでさんざん現実の女性に対してその心情を推測しながらスキマに向き合わせ続けてきたくせに、ことエルシィに関してはそれができません。なぜか。
我ながら驚いた…… どう元気づけていいか… まったくわからん!!
いつもは攻略ルートに基づいて行動してるから、パターンでなんでも読めてきたが…
エルシィは攻略じゃない!! となると、全然わからん!!
(11巻 p104)
桂馬が現実の女性に接するのは、攻略のためだけです。攻略するからにはエンディングがあり、エンディングがあるからこそ攻略法がパターンとして存在しています。ですが、エルシィにエンディングは設定できません。なぜって、仮にエルシィにエンディングを設定し、その攻略に成功したとしても、エルシィとはその後も関係性を続けなくてはいけないからです。
作品の設定として、駆け魂を追い出された女性は、攻略に関する記憶を改変されることになっています。ですから、桂馬がどんなことをしようと、駆け魂さえ追い出してしまえば、その記憶はまるっと別物になり、桂馬との関係性は攻略前後でほとんど変化しません。だからこそ、桂馬は学校という狭く閉鎖的なフィールドの中で、とっかえひっかえ女性を攻略できるわけです。もし記憶がそのまま残るとしたら、血で血を洗うような修羅場になってしまうことでしょう。それはまさに、画面の向こう側で行われるギャルゲー世界と現実世界のプレイヤーが直接関係を持たないとの一緒で、桂馬は現実世界でギャルゲーをプレイしているのと同じなのです。ただし、「セーブロード不可 バックログなし ファーストプレイのみ」で、攻略に失敗したら現実の死という、怒首領蜂大往生デスレーベルも真っ青の超難度ですが。
けれどエルシィは、いわば桂馬と同じプレイヤー側の人間で、彼女を攻略したとしても記憶がなくなることはありません。仮に駆け魂が彼女の心に入ったとしても、同じく駆け魂にとりつかれたハクアが、追い出した後も記憶を保ったままだったことから、記憶が改変されることはないと考えられます。エンディングの存在しない攻略とは、まさに現実の恋愛のことであり、前述したように、現実の恋愛のエンディングとは破局か死別のバッドエンドのみ。そしてそれは、地獄との契約に反することになるので、桂馬にとって死の宣告とイコール。
ですから桂馬は、エルシィにエンディングを設定し、攻略してはいけません。それゆえ桂馬は、歩美とちひろに「エルシィが元気になって、しかも
桂馬が作れる関係性は、あくまで期間限定のもの。エンディングを設定し、その攻略の最中までは神の名に相応しいほどに緻密に関係性を構築できますが、そのエンディングの先の関係性について彼はまるで興味がありませんし、いざやれと言われても何をしていいかわからないでしょう。
けれど、そんな桂馬も変わってきたのだと、彼の母親である麻里はいいます。
エルちゃんのおかげよ!! ありがと!!
桂馬、今まで誰かと話したり出かけたりすること全然なかったのよ。
でもエルちゃんが来て…… あの子変わってきたわ!!
(11巻 p131)
ゲームの世界は、データをリセットすれば元のタブラ・ラーサに戻りますが、現実にそれをプレイする桂馬には、経験が蓄積されていきます。ましてや桂馬が命を賭けてプレイしているのは、自分自身の肉体を使った体験。一つ攻略を終えるごとに周囲がリセットされても、彼の中には現実に女性と触れ合い言葉を交わした記憶が残ります。いままで二次元のゲームにしか興味がなく、外界と没交渉だった彼が曲がりなりにも他人と交流を持つようになったのは、エルシィと駆け魂狩りに参加するようになってから。エルシィが来てから桂馬が変わりだしたというのは、その通りなのです。
桂馬の使うギャルゲーメソッドと、本質的にそれが不可能な現実の人間関係。けれど、それを可能にしている設定。そして、変化していく桂馬。
そこらへんの諸々が、「女の子がいてエンディングがあれば… 僕にとってはすべてがギャルゲーなんだよ!!」には秘められているように思うのですな。
それにしてもエルシィがかわいい。ただしアニメ版の。
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