大学のサークルでは、特に女子の間で「サシ飲みで語る」ことが流行っていた。仲良くなるための儀式みたいなもんだ。その行為そのものはともかく、その行為に「語る」という言葉をつけるのが大嫌いだった。「普段は隠している私の気持ち、あなたにだけ明かしちゃいます!」アピールがむんむん感じられ、心底反吐が出た。特にそれを公衆の面前で発言するやつ。そんなに「私とこの子は仲がいいんです。キャハ☆」アピールがしたいのかと。
以来、「語る」と「騙る」は同じことだと皮肉全開で思ってた。要はお前、仲良くなるために、漏らせる程度の秘密を打ち明けてるだけだろうと。本心を言うつもりなんかさらさらなくて、誰かと仲良くなるためならいくらでも自分の感情やら考えやらをでっちあげるつもりだろうと。
皮肉で考えていた「語る」=「騙る」だけど、それは間違っていない。ある起こったことを基にして誰かに何か話す時、そこに主観が必ず混じる。100人同じものを見れば、100通りの解釈が生まれる。神の視点から言うところの「真実」ではない以上、それは厳密には嘘だと言える。「騙られた」ものだと言える。
それが自分内部の感情や考えでも同じことだ。誰かに伝えるために、理解してもらうために言葉を重ねる。身振り手振りを駆使する。相手が理解できるようにするということは、相手の考え方にあわせて言説を変容させることだ。相手が変われば、それに応じて言説も変化する。その意味で、統一的な・根源的な真実は存在しない。表明された真実は常に場当たり的で、永遠不変のものではありえない。
とはいえ、それは何も間違ったことではない。というか、客観的に正しい/間違ってるの話ではなく、それはそういうものという前提なのだ。1+1=2が合ってる間違っているといっても始まらない。それはそういうものとして話は進んでいく。
誰の「語った/騙った」ものが客観的に正しいものだと確定できないのと同様、誰のは悪い、間違っていると客観的に断じることもできない。主観は客観に照らされると、常に嘘をついていることになってしまうが、客観を抽出して現前させることのできる存在はない。「語られた」ことは、主観的には嘘ではない。共時的には嘘ではない。限定的には嘘ではない。
つまり、「語る」=「騙る」を皮肉で考える俺の方が間違っているといえる。それは皮肉の対象になる意味もなく、そういうものだ。彼女らは好きなだけ語って、好きなだけ騙ればいい。それは自然なことだ。
だが、果たして「サシ飲みで語ろ☆」などと言っていた彼女らに「語る」=「騙る」の自覚はあったろうか。彼女らにとって「語る」とは、ありもしない不変の、唯一の、純粋な「本心」を伝えることだったのではないか。
彼女らのキラキラした(気持ち悪い)眼からそんな幻想を感じ取っていたために、俺はひどく気分悪くなっていたと思うのだが、それは言ってみれば、自覚なく嘘をつきまくっていたようなものだ。騙っていることに気づかず語り続けていたということは、そういうことだ。無自覚な詐術だよ。
嘘は「武」と同じ「不祥の器」、必要悪みたいなもんで、使わなきゃいけないときもあるけどなるべく使わないほうがいいものだと俺は思ってる。どうしても嘘をつくなら罪悪感も一緒に抱えるべき。罪悪感をなくした嘘にはいつか強烈な竹箆返しが来る。ただの心構えの話だけど、そんな的外れではないと思う。
無自覚に「騙っている」彼女らは、俺の感覚からすれば罪悪感のない嘘つきだ。「語る」度にに罪悪感を持てとまでは言わないが、その「語った」内容は場当たり的なものでしかないとは感じていてほしい。もちろん余計なお世話だし、そんな彼女らが嫌いな俺は、いっそさっさと竹箆返しが来ればいいのにと思ってるとてもよくない人間なのだけど。もしかしてもう来てるかしら。だったらいいな。
なーんて。嘘嘘。ほら、山田さんてば「いい人」の代名詞になるくらいの、マザー・テレサもかくやの人格者じゃないですか。
みーんな幸せになーれ☆
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