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漫画の話です。

漫画で天才はどう描かれるのか、「ハチクロ」と「バガボンド」を例に考えてみる話

ハチミツとクローバー (10) (クイーンズコミックス―コーラス)

ハチミツとクローバー (10) (クイーンズコミックス―コーラス)

ハチクロ」のメインキャラクターは、竹本、真山、森田、山田、はぐの五人で、五人が五人とも何がしかに一角の才をもっています。竹本は細かい細工物、真山は作中で格別の描写はありませんが建築関係に水準以上の技術があると推察され、森田は彫刻・日本画・CG製作(歌もか?)と広範囲に亘り、山田は陶芸、はぐは特に油絵や塑像に才能を見せています。
ですが、この五人の中で森田とはぐの才能は明らかに抜きん出ています。教授から「育ててきた何千もの生徒の中でも一、二の才能を持つ男」と言われたり、一年近く放り込まれた映画制作で、色々と丸投げされたにもかかわらずモカデミー賞(アカデミー賞のパロディ、もちろん)の視覚効果賞を受賞したりする森田と、高校のときからその才能を見込まれ、将来を嘱望されているはぐ。山田の陶芸も高い評価を得ていますが、二人に比べると見劣りする感は否めません。「ハチクロ」の中で天才と言えば誰か、という問いには、森田とはぐを挙げるしかないでしょう。
さて、この二人の天才ですが、彼らを「天才」たらしめているものは果たしてその才能だけでしょうか。その才能(作品)が社会的に広く認められるから、彼らは天才であると思われているのでしょうか。作品内だけならそれでいいかもしれませんが、現実世界の読み手にも彼らを天才であると認識させるには、他にも何か必要なものがあるのではないでしょうか。


天才を「積極的な価値感情を広い範囲の人々に永続的に、しかも稀に見るほど強く呼び起こすことのできる人格」と定義したのはクレッチマーですが、私は西尾維新が端的に表した「遠い人」*1という表現が気に入っています。それに関して「ハチクロ」内でも同様の表現があり、

私なんかに………彼女に何かしてあげられる事なんてあるんでしょうか!?
彼女を見ててふっと すごく遠くに感じたんです
背負ってるものが違いすぎる…
覚悟っていうか…
ありきたりなコトバなんだけど
ほんとうに
世界が違うんだ……って

ハチミツとクローバー 9巻 p118)

と山田が語っています。羽海野先生も、天才の在り方についてはこのように表現するようです。
このように親友からも「すごく遠くに感じる」「世界が違う」と言われるはぐですが、彼女、そして「なに考えてるかわかんねーよ」と竹本に言われ(当人はその言葉を聞いていませんが)、実の兄には「『持ってる』ヤツ」と言われる森田の描写には、他のメインキャラの三人と比べてある特徴があります。それは、心理描写、および過去の回想が極端に少ないんです。メインキャラが五人と分散し、また他の三人(プラス花本先生)にはかなりの量の心理描写や回想があるから一見わかりづらいかもしれませんが、実はこの二人、最後の最後になるまでほとんど客体としてしか描かれなかったんです。彼と彼女は、ほとんど全てのシーンで他のキャラの目を通してのみ読み手の前にあり続けました。
それを端的に表すのが、3巻での二人のお買い物とキスのシーンで、そこでは登場人物は二人しかいないにもかかわらず、心理描写(心の声)が一つもありません。他のキャラがいて人間模様に絡むシーンでは、前後も含めて必ず誰かの心の声が入っているのにです。
天才を「遠く」感じるのは、その人間が何を考えているか普通の人には解らないからです。森田もはぐも奇行が目立つ人間ですが、それを奇行と感じるのは他の人間は彼らの行動原理が読めないからです。もし、作品内で彼らが主体(語り手)になれば、彼らのモノローグが挟まれることになり、それは読み手にとって彼らの行動原理の解明につながります。「ああ、森田やはぐは、こういうときにはこういう風に感じるんだな」ということがわかれば、読み手は彼らに感情移入をすることができますから、その分普通の人間である私たち読み手と天才である二人の距離が縮まるわけです。回想も同様で、過去を知ることで読み手は、そのキャラが現在の人格を形成する一端を知ることができますから、キャラの内面に踏み込めるのです。
そして、二人は最終盤までそれらの描写がないために、読み手にとって「遠い」存在であり続けることができたのだと思います。


このような天才の描き方は、「バガボンド」にも裏返しの形で見ることができます。

バガボンド(29)(モーニングKC)

バガボンド(29)(モーニングKC)

バガボンド」の主人公・宮本武蔵は現実世界でも伝説的な存在であり、作中でも天才的な強さを誇っています。ですが私たちはこの作品を読んで、武蔵に天才的な強さを感じはしても、天才さは感じないのではないでしょうか。その強さの優劣はともかく、天才さを感じるとしたら小次郎や吉岡清十郎、胤舜、さらには彼らの上の世代の胤栄や石舟斎、一刀斎あたりなのではないでしょうか。
まず前者の武蔵と同年代の人間たちは、心理描写の少なさにその理由があるでしょう。小次郎などは5巻にわたって主役を務めながらも、聾唖の設定のために読み手に思考を理解させることができず、あくまで客体として描かれます(小次郎編の語り手は実質鐘巻自斎ですし)。武蔵は胤栄との初対決の時に、死を覚悟するほどに彼を恐れましたが、恐れとは即ち未知、不理解であり、武蔵にとって胤栄は、当初完全に「遠い」存在でした。それは清十郎も同様です。
後者の上の世代は、登場人物たちの師に当たります。師とは弟子にとって未知を有するもの。絶対的に弟子の先にいるものが師です。ですから、弟子にどんなに才能があろうとも、仮に弟子の方が師より強かろうとも、弟子の視点から見る限り師は絶対的に未知のものなのです。天才と目されるものたちが敬意を払う人間がゆえに(加えてその実力ゆえに)、師もまた「遠い」存在となるのです。
このように、天才か否かは才能の多寡で決定できるものではありません。もちろん才能がない人間を天才とすることはできませんが、清十郎や胤栄は武蔵に破れたにもかかわらず、その在り様に天才さを見出させるのです。秀でた才能の果てで天才か否かを線引きするのは、その人間の行動原理を理解できるか否かなのです。それゆえ読み手は、武蔵の才能がどれだけあることを知っていても、武蔵が主体となる「バガボンド」を読んでいる以上、彼を天才であると感じはしないのです。たぶん。


天才を描くというのは、実際に天才のキャラ造形をせずとも、ある種のテクニックで補えるもののようです。そこらへんが創作世界の勘所というかなんというか。








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*1:クビキリサイクル p173より