「リア充」って何者なんだ?と最近思っていたところでこんなまとめが。というわけで、「リア充」について少し考えてみたいと思います。
まずは前提。
「リア充」とは「リアル(現実世界)が充実している人」の略。これは動かしようのない当為のものです。
そこからさらに定義云々という議論が発生するのは、「ではリアルの充実とは何を指すのか?」という点に共通理解を得られていないからです。
スレの意見を見てみると、そのほとんどが外形的な属性について言及しています。
曰く、恋人がいる。
曰く、友達がいる。
曰く、イケメンである。
曰く、社交的である。
曰く、休日がプライベートの予定で埋まっている。
なるほど、このような属性を全て備えている人がいれば、その人はリア充といわれるかもしれません。
ではここで一つの例をあげてみましょう。
ある24歳の男性。眼光の鋭い痩身のいい男。某難関国立をストレートで入学、卒業。同法科大学院入学、卒業。
新司法試験を受験し、現在結果待ち(そのため、社会的地位はニート)。付き合って数年経つ彼女もいて、友人にも恵まれている。
さあ、このような人間が目の前にいたら、あなたはその人をリア充と呼ぶでしょうか。
実はこの男性、私の現実の友人だったりしますが、彼をリア充と呼ぶ人間はおそらく一人もいません。彼が身に纏う空気には、彼をリア充と呼ぶことを思いもよらせないのです。
他にも高学歴であったり彼女持ちであったり、上の属性を満たすような友人はいますが(イケメンはあまりいないかも)、いずれもリア充かと問われると首を傾げざるを得ないような人間ばかりです。
勿論上記の属性を満たした上でリア充といえるような友人もいるので、単純に私がリア充に対する鼻が鈍いというわけではないと思います。
鈍いのではなく、そもそも狂っているという可能性も否定できませんが、外形的には同系統の属性を持っている人間たちにも、リア充っぽいかぽくないかと区別している以上、やはり単に外形的な属性以外にリア充か否かを差別化しているものがあると思うのです。
ではそれはなにか。
スレの一番最後に書かれている
154 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。[] 投稿日:2008/05/04(日) 00:35:57.52 ID:39u2jRQK0
つまり周りから今を楽しくいきてるように見えりゃリア充だろ?
これがかなりいい線を突いているんですが、それをさらに敷衍して、「周りに自分の人生の楽しさを吹聴している人」というのが、私はリア充の定義だと思います。
外形的な指標、つまり、高給取りだとか、高学歴だとか、恋人がいるとか、プライベートが忙しいとか、そのようなものの高低はリア充かどうかについては関係なく、それについて自分がどう受け取り、さらに外界に向けてどうアピールしているかが問題なのだと思うのです。
かといって、外形的な指標が完全に蔑ろにされるのかというと、そうでもない。
例えば、イケメンで美人の彼女持ち、高学歴の25歳。彼女の惚気をやたらとしたり、趣味のサーフィンでは人気者で、職場でもその話題についてよく喋る。で、その職場はコンビニのアルバイト、という場合、彼をリア充と呼ぶのは難しい気がします。
この時彼をリア充と呼ぶことを難しくしているのは、「コンビニのアルバイト=フリーター」という職業面での指標です。いくら彼が自分の人生の楽しさを言い立てても、それを聞く人間、特に一流企業の正社員に就いていたりするなど、社会的指標が高いとされている人間(もしくは、相対的に彼より高いとされている人間)にとっては、「でもフリーターだしなぁ……」というある種相手を下に見るような気持ちで以って、彼をリア充と呼ぶことを避けてしまうと思うのです。
とすると、ここで新たな仮説が生まれます。
リア充という呼称は、社会的指標が自分と同格以上の人間にのみ使っているのではないか。
この場合の社会的指標とは、学歴や職(社会人になると、学歴以上に職歴が重視されますが)などオフィシャルな性格を持つものであり、容貌や恋人の有無などのプライベートな性格を持つ指標と対になるものです。
そもそもリア充という言葉は、2chなどで自分たちの仮想敵に対して使われた侮蔑的なニュアンスを含むものであり、その侮蔑は、自分にはないものを持っている人間を羨ましがる、いわばルサンチマン的な性格のものです。
そのため、この言葉を使うのは、社会的に上の立場と認識される人間が目下のものを馬鹿にするためではなく、「すっぱいブドウ」のキツネのように、「どうせあいつらは俺たちみたいな人間のことも知らず、視野の狭い世界で生きるんだ」というように、対象を貶めたふりをして自分を安心させるために使うのです。
ここで、また例を挙げてみましょう。
顔は十人並み。性格や人当たりがいいので友人は多いが、恋人には恵まれない。いわゆる有名大学ではないが一流企業に就職。趣味のバンドはそれなりに好評で、職場や学生時代の友人たちもよく来てくれる。
さあ、この彼はリア充と呼べるでしょうか。
これはかなり意見が分かれるところだと思います。
「性格がいい」ということで、自分の人生の充実具合をおおっぴらに言い立てる人間ではないということになり、そうすると上の定義からリア充ではないということになってしまいますが、そこには目をつぶってみると、判断に迷うところではないでしょうか。
その迷いのもとは、恋人がいないという指標と、一流企業社員という指標の拮抗でしょう。つまり、私的な指標と公的な指標の拮抗です。
前述のフリーターの彼の例では、多くの肯定的な私的指標と、フリーターという唯一の否定的な公的指標が対峙したわけですが、そこではわりとすんなり公的指標の負の側面が勝ちました。
今回は十人並みの容貌、恋人なしという負の私的指標、多い友達、好評な趣味という正の私的指標、一流企業社員という正の公的指標(学歴は正も負もない一般的なレベルとしましょうか)ということで、フリーターの例に比べて数的な差は少ないにもかかわらず、結論に差が出るのです。
ということでまとめてみると、「リア充とは、自分の人生の楽しさを吹聴する、社会的に高い指標を有する者」と言えるのではないでしょうか。
そのような人間に対して、相対的に社会的指標の劣る者が、私的な指標の優劣にああだこうだ言っているのだと思います。
んで、ここまで述べてきてなんですが、私としては、社会的指標にしろ私的指標にしろ、それに優劣を論じるのはあまり品のいいことだとは思っていませんし、また優れた指標を持っていると思っている人間がそれを吹聴することも、良識ある行為だとは思いません。
指標とはつまるところタグであり、外形的に確認できる解りやすいものでしかなく、抽象的な単純な説明にすぎないものです。タグはあくまで目安であり、そのタグが付けられていても、実際にその人間がどんな人間かが説明されているわけではありません。タグをいくら積み重ねたところで、それで人間が出来るわけではないのです。タグで多少は人間性の見当がつくことは否めませんが、それは本当に目安以下のものでしかなく、ともすればただのステレオタイプの丸呑みになってしまう危険性もあります。
なので、リア充である、つまり、(社会的指標はおいといても)自分の生活をことさらに吹聴する人間が好ましいとも思いませんが、リア充であることに難癖をつける、つまり、指標で以ってのみ他人にあーだこーだ言う人間がいいとも思いません。
根本的には、このような言葉が作り上げられてしまった社会の土壌にこそ、今の日本の問題の根っこがあるような気がしてなりません。
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