- 作者: 瀧波ユカリ
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2008/05/23
- メディア: コミック
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『カラスヤサトシ』と並ぶ、アフタヌーンの二大痛漫画だと思います。
これが実体験を基に描かれているのか、あくまで想像の産物なのかはわかりませんが、もし前者だとすれば、もはや心の自傷行為に近い作品です。その上でそれをギャグとして成り立たせているから素敵。
主人公は女性だし、そこから見た作中で「猛禽」と称される男性に好かれやすい女性への敵意や、そんな女の子に引っかかる男性への軽蔑や、あるいは自身のすれっからしの生活への自嘲と、完全に女性視点で描かれているはずなのに、なぜか男性読者がメインターゲットの雑誌で連載を続けられています(女性誌に出張したりもしているようですが)。
この面白さの根っこは、私の感覚としては、女性が「女性に擬した男性」に擬して描く、というスタンスで描かれているからではないかという気がします。
つまり、この作品を描いているときの瀧波先生は、極めて男性的な感覚を意識して描いているのではないでしょうか。
「女性の心情(特にアンチ『猛禽』である女性)に深く想像力を馳せられる男性が、そのような女性を主人公に痛い漫画を描く」と設定して描かれた漫画が、この『臨死!!江古田ちゃん』だと思います(もちろん公式にそんなアナウンスは一切ありません)。
それゆえに、女性が女性自身の本来隠して然るべきの心情を赤裸々に描いているにも拘らず、男性にとって笑いの対象となりうるネタに仕上がっているのです。
普通だったら笑う以前にひきますよ、本来知りたくなかった異性の隠れた領域を開けっぴろげに教えられても。
女性性がネタに絡むと笑えなくなる、というのは私の持論ですが、この作品では普通ならば女性性的と判断されるような描写が頻発します。なにより主人公が自室ではデフォルトで全裸ですから。
それでも笑えるのは、絵柄が劣情を催させるようなものではないというのも大きいですが(もし鳴子ハナハル先生が描いていたら、問答無用で劣情全開です)、それとともに、自身を低めることに、自分で自分を笑うのに躊躇がないからです。「嗤う」でも「嘲笑う」でも「哂う」でもなく、単に「笑う」です。面白がっているんです。
変にかっこつけようとしたり、ぎりぎりのところでセーフティゾーンを残しておいたり、過度の自虐に走ったり。そういうのじゃ人は笑えないんですよ。
笑わせる側の感覚は「笑わせてる」で、「笑われてる」じゃなくても、まず笑っている側の感覚は「笑っている」で「笑わせられている」ではないはずです。上下関係で言えば、本質的には逆でも、表面的には笑う側が上なんです。それを認めたうえで初めて、「笑われる」ことで「笑わせられる」んです。傲慢さがにじみ出る人間は笑えません。根本的にお笑いは謙虚なものであるはずです。
女性性がお笑いに向かないのは、自身を低めることを女性性が強く忌避するからです。良し悪しではなく、これは多分にそういうものだからだと思います。それは女性性の性質の一つであるというより、女性性の本質の一つなのでしょう。帰納的なものではなく、演繹的なものなのです。
そのような女性性を笑いに変えるために、瀧波先生は上記のようなスタンスを取ったのだと思います。
女性による女性性ではなく、男性による女性性と描くことを擬することで、本来笑いになりえない女性性を笑いものにする。
そういう形だと思うのです。
このようなスタンスは、紀貫之が『土佐日記』を、男性が「男性に擬した女性」として書いたのと同じです。この場合重要なのは主人公の性別ではなく、作者が想定したその作品の内容発信のポジションです。
本来のポジションから一回転捻りを入れることで、殆ど同じながらも僅かに境位の異なる元々の視座から作品を発信するという技法は、文学的に非常に高度な技法です。いっそ技術の無駄遣いと言ってもいいほどに。
とまあがっちり神輿を担いでみましたが、この類のネタでゲラゲラ笑えない人にお薦めしがたい作品なのは事実です。ボリュームもあるので、苦手な人はすぐに胃もたれしてしまうんじゃないでしょうか。
『カラスヤサトシ』がイケる人は是非どうぞ。非常にコストパフォーマンスの高い両作品です。
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