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漫画の話です。

説得力とはなにか

どこぞの友人が「説得力とはなんぞや」と言っていた。
説得力と言う言葉は、日常でなんの疑問もなく使われている。確かにその言葉自体には特に疑問を挟む余地はない。「相手を納得させるだけの力。その力のある話し方や論理の展開のしかた」(大辞林より)と、意味が明白な言葉だ。
しかし、それが何に由来するかとなると、途端に確たることが言えなくなる。上記の引用の後半には「その力のある話し方や論理の展開のしかた」とあるが、経験上、同じような話し方をされても、その話に説得力がある人とない人というのは確かに存在する。
この説明では、「話し方」や「論理の展開のしかた」と、かなり抽象性の高い表現をしている。つまり、それだけ一義的な説明をしづらいと言うことだ。
今回、あえてその抽象性に具体的な事例を付加していき、説得力と言うものの詳細を考えてみようと思う。

個人的には、説得力の強さに大きく寄与するものとして、「声」があると思う。
「顔の悪い詐欺師はいても、声の悪い詐欺師はいない」とは内田樹氏の言葉だが、自分はそれに深く賛同する。
どんなに論理展開が上手くても、話の筋道が通っていても、それだけで説得力が生まれるとは言い難い。
例えば、会社の会議で企画説明をするときに、わら半紙やチラシの裏に手書きで汚く書かれた書類を渡されては、どんなにその企画の内容がよかろうとも、それを通すことにひどく抵抗を感じるだろう。その抵抗は、企画の内容そのものではなく、実際に企画が通ってプロジェクトが始動した際に、その内容を的確に実行できるのかという疑念から生まれるものだ。
同じ企画なら、きちんとパソコンで清書したものをプリンター用紙で配ってくれたほうが、よっぽど信頼が置ける。会議に臨むに当たり、TPOを弁えて振舞える人間なら、いざ企画が実行に移されたときも理に適った采配を振るってくれることが期待できる。

これは文章によるケースだが、口頭の場合にあてはめてみても事情はさして変わらないことは経験上頷けるのではないか。どんなに論理展開が巧みで、話の筋がわかりやすくとも、話す人間の声が悪ければいまいち説得力に欠ける。その話を信じてみようという気にはなれない。翻って、声がよければ論旨が荒くとも引き込まれるところ大であろう。

上で「声が良い/悪い」と抽象的な表現を使ってしまったので、さらに具体的に言い直したい。
声の良い悪いは、つまりある話に説得力があるかどうかとは、その話に現実性、実効性をかんじられるかどうか、ということだ。

つまり、ある話を誰かから聞いたときに、
「確かに今の話はわかりやすかった、論理も妥当だった。ならばその話をしてくれたこの人は今してくれた話を実行できるのか、実際性を信じているのか」
このような問いかけを自問自答した上で、YESと答えられるような人間の話には説得力があると言えるのではないか。話し手の確信がにじみ出ている声をして、いい声と言えるのではないか。

これだけ書くと、説得力というもの、声の良し悪しは強く属人的であるような印象を受ける。
確かにその側面は十分あるのだけれど、それを属人性と大雑把にくくりきるのは正しくない。人間個人一般とは言い切ることはできず、その個人の状況、性質により、説得力は増減しうると思う。

どういうことかといえば、全く同じ話をしても、その話をした時期によっては、話の実効性、実際性を当人が信じているかどうかで、説得力は変化するのではないかということだ。

例えば、コンサートをするのに広報活動の一環としてチラシを配るとする。チラシの配布を提案した人間は、講義で習った内容を引用して、「チラシによる広報の効果はおよそ10%。1000枚配れば、直接自分たちのことを知らない人でも100人は来てくれるはずだ」と主張したとする。

例えばと書いたが、これは実際に私の身に起きた話だ。この話を聞いたとき私は、その話し手の言葉に全く賛同する気が起きなかった。彼は流暢にそれを説明したのだが、私の感想は「ふーん(ホジホジ)、あっそ(ピン)」程度のものだった。周囲の反応も特別関心高いものではなかったように思う(脳内変換が行われている可能性は否定できないので。断言は出来ないが)。
なぜそう思ったのか、今考えてみれば、彼自身がその理屈に納得していなかったからではないかと推測できる。授業で聞きかじった頭でっかちな言葉を振りかざすだけで、言葉に体感がおっついていなかったのではないか。

もし仮にその理論の説明がたどたどしくても、かつて自分がその理論に従い行ったビラ配りで理論どおりの結果が出てさえいれば、彼の言葉は他の人間を納得させるに足る説得力があるはずだ。論理性に多少の瑕疵があっても、声に帯びる真実味は、それを補うに足るものであると思う。

逆に言えば、いくら立て板に水で話をしたところで、自分自身でその理論に疑いを持っていれば、それは必ず声に現れる。自分で自分の言葉を信じていない軽薄な態度は、声を中心に表出してしまうものだ。

話の間の取り方や視線の配り方なども、説得力の要件として重要であるかもしれない。しかしそれも、私は論理性や話の筋道などと同様、話の上でのテクニカルな要素であると思う。テクニカルであると言うことは、後付けであるということだ。付加的なものであるということだ。声と説得力は必要十分の関係にあるが、テクニカルな要素は説得力の十分条件でしかない。声がよければ説得力はあるけれど、テクニカルな面に秀でていれば説得力もいや増すということだ。

ここで先に挙げた詐欺師の話になるが、詐欺師は自分の話したことが嘘であることを理解している(そうでなければ詐欺師ではない。自分の話が嘘であることを知らずに間違ったことをしゃべる人間は、ただのはた迷惑なお馬鹿さんだ)。理解したうえで、その嘘は本当であると自分に信じ込ませて他人に話すのだ。それゆえ、詐欺師の言葉には説得力がある。当座のこととはいえ、その話を自分自身で信じているのだから、声の中に真実味が生まれざるをえない。ハイエンドの詐欺師とは、相手を騙す前に、自分自身を騙しているのだ。
さらに言えば、詐欺師は嘘をつくことを生業としているので、テクニカルな部分の修練も怠らない。無理のない論理展開、相手の目を見た会話、呼吸を計った間の取り方を巧みに使いこなす。超一流の詐欺師の手口は、もはや芸術と称しても差し支えないだろう。

閑話休題、この声の良し悪しというものが、物理的に検証しうるものかは私にはわからない。内田樹氏は、自分が納得していない声と言うのは、自分の身体がそれを言うことに賛成しないので口先からしか出ていないが、逆に実感の篭った声と言うのは頭のてっぺんから身体全体を震わせて響くので、倍音成分が多く含まれている、それゆえ人の身体に響きやすいのだ、と主張している(はず)。だから、説得力のある声には物理的、あるいは生理学的に違いがあると言う。
私自身は、物理的な面まで実証しうるとは考えていない。それを断言するには、データもなければ、自分自身の納得、確信もない。だから、もし私が上記の内田氏の主張を正しいものとして言おうとすれば、その声には真実味が含まれておらず、誰かを納得させるにはいたらないだろう(理屈で言い表すことはできないが、納得させることはできないだろうとうことは、私自身の上記の主張から言い得る。あくまで実体的なデータが伴っていない、言葉の上のみの理屈だが)。
しかし、それでも人の声には、語義、文脈を越えた力が内在していると私は思う。「説得力」を左右するものの根源には「声」があるのだ。


付記:この理屈では、例えば「マルチ講には騙される人間と騙されない人間がいる。特に、胴元から派生した人間(つまり胴元にいったん騙された人間、マルチ講を詐欺ではなくまっとうな商売だと信じ込んでいる人間)から説明を受けて、それにさらに乗っかる人間もいれば、ちゃんと詐欺であることを看破して引っかからない人間もいる。その差異はどこから生まれるのか」と言ったような事例には直接答えられない。
つまり、ある人間の同様の説明(心裡状況に変化もない)を複数の人間が受けても、緒の話の説得力には効果の増減がある場合があるということだ。
これには別の理屈を援用して説明する必要があるが、今日はもう疲れたので、気が向いたときにまたいずれ。

ま、明言しておくべきは、この理屈は全く無謬のものではない、ということです。
科学者の幸せは、自分の説が、より包括的な理説の中で限定的に通用しうるものであると証明されることだ、という話を聞いたことがある気がしますが(やっぱり内田樹氏だと思う)、そういうことです。
突っ込みようのない当たり障りのない文章、理屈なんてつまらないぞ、と。
意見は批判されることで止揚し、より洗練されていくものだと思います。

以上









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