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漫画の話です。

文章の手ざわり

今、少年サンデー誌上で、伊坂幸太郎原作の漫画が連載されている。

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魔王 juvenile remix」というタイトルで、ちろっと読んだだけなので違ったら申し訳ないけど、物語のベースは既刊「魔王」で、その世界のパラレルワールド(第一部の十年ほど前)で、そこに「グラスホッパー」の世界が混じりこんでいる形。


以前から強く主張していることだが、伊坂作品は映像化に全く向いていない。
映像化というよりは、具体的な視覚化と言うべきだろうか。実際に登場人物が動く姿がそぐわないのだ。

これは伊坂氏の作風に強く由来するものである。
氏の作品は、おそらく全て一人称、つまり登場人物が語るスタイルをとっている。その語りは現在のことでもあるし、回想でもあるし、あるいは信条、信念の告白でもある。
一人称というスタイル自体はありふれたものだが、重要なのは、その文章の手ざわりだ。

文章の手ざわりというのも、現実性に欠けた表現であるが、私は小説に限らず、文章にはそれぞれ固有の手ざわりと呼びうるものがあると思っている。この表現方法は抽象的ではあるが文学的な用語から離れるため、時と場合によってはその文章の性格、イメージを抽象的なまま余計な変化をさせずに伝えることが出来る。と思う。

「手ざわり」というカテゴリーの中には、温度(熱い、冷たい、人肌etc)、湿度(潤いがある、乾燥した、しけったetc)、感触(つるっとした、ざらついた、荒いetc)、重量感(どっしりした、軽々しいetc)などの要素がある。この要素の組み合わせで、文章の性格は抽象的に表現しうる。
これを踏まえて、氏の作品の手ざわりを表現すると、「うっすらと温かみのある、乾いた」文章となると思われる。
温度と湿度が重要な二点のため、他の要素については省いたが、あえて付加すれば、「木綿のような」「素知らぬ顔でのんびり歩くような軽さ」(もはや手ざわりの表現ではないが)と言いたい。だが、この二点については異論が起こりやすい表現であると思われるので、今は論を措く。大事なのは「うっすらとした温かさ」と「乾いた」、特に後者の「乾いた」である。

私は氏の文章を「乾いた」と表現する。これは、梅雨時の湿気のような、そこにまとわりつくような存在感がないということである。
自身を強く主張することなく、その場に静かに立ち、読者に情景の解釈を委ねるような文章、そういうものをして、「乾いた」文章と表現しうる。

もちろん、氏の文章には情景描写や心理描写、人物描写などは存在している。当たり前だ。それが書かれていない小説など存在しない。そのような描写で、物語の枠、筋はしっかりと存在している。
だが、氏の文章はそこからが違う。他の「湿気の強い」文章とは一線を画す。
「乾いた」文章である氏の作品は、読者に物語の進むスピードを委ねているのだ。
奇妙に聞こえるであろう表現を許してもらえれば、氏の文章は一文一文のつながり、行間にある状況、つまり文章では表現されていない状況の自由度が極めて高いのだ。

登場人物が三人いる。道を歩いている。おしゃべりをしている。一人ぼんやりと考え事をしている。

このような状況が文章で表現されている時に、もちろん書かれていない動作、思索などは物語の中で存在しているが、読者の前には現れていない。それを読者は好きに想定できる。自由度が高いとはそういうことだ。
読者には本来見えない部分を読者が自由に想定できるので、そこにはそれぞれの読者ごとにおのずと歩調の違いが出てくる。行間の補完の量が多ければ読み進めるスピードは遅くなるし、文章を素直に追っていくだけならば、すいすいと先に進んでいける。それが委ねられたスピードの意味だ。

ここで、冒頭の具体的な視覚化という話に戻るが、いったん絵、あるいは映像にしてしまったものは、文章以上に想像の自由度を奪ってしまう。視覚の情報量は非常に大きい。他の五感に比べ圧倒的だ。それゆえ、視覚から入力された情報には脳内で補正のかかる余地が少ない。読み進めるペースは一定になりやすく、想像補完の自由度は大きく減ずる。

無論小説の視覚化がまずいといいたいのではない。問題なのは、「乾いた」文章、自由度の高い文章が売りであった氏の作品が視覚化されることで、その持ち味が失われてしまうことだ。
誌上で読んだその漫画は、はっきり言って氏が原作である意味が一切なかった。ただ、物語の設定を氏が考えただけ。原作というよりは、原案と言う方が正確であろう。
その作家自体の力量が足りていないというのもあろうが、あの作品に氏の名前がクレジットされるのは、ファンとして忍びない。
そのほか、「陽気なギャングが地球を回す」や「終末のフール」、「オーデュボンの祈り」も漫画化され、映画化、ドラマ化された作品もいくつかある。というか、視覚化されていない長編は、「ラッシュライフ」と「陽気なギャングの日常と襲撃」、「砂漠」ぐらいである(「魔王」と「グラスホッパー」は正確には視覚化された訳ではないが)。仮にこれらの作品が良作だったとしても、それにはもはや原作者伊坂幸太郎に資する所が少ない。あくまで漫画家、監督の手柄だ。

氏のような乾いた文体をもつ人間は極めて少ない。私は氏以外にそのような文章を書ける人間を知らない。
乾いた文章がもっともすばらしいなどと言いたいわけではない。私自身が湿度の高い文章より乾いた文章を好むことは事実だが、それが絶対的な評価基準になろうはずがない。

ただ、視覚化にむかない文章をむりやり視覚化することに、メディアの側が自重してもらいたいということだ。
氏の作品が好まれる理由は、多くはその「乾いた」文章に由来するのだと思う。少なくとも、私の周りの人間のほとんどがそうだ。その感覚を大事にして、楽しみうるものを楽しみ、自重すべきところを自重する。もし視覚化するのであれば、「乾いた」絵を作れる人間を見つけてからにして欲しい。








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