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漫画の話です。

『アオアシ』想像の先の世界を楽しむために必要なものの話

 先日の『アオアシ』最終巻に寄せた記事にて。
yamada10-07.hateblo.jp
 ここでは「想像を超える楽しさ」について書きました。曰く、想像力を持つことで人は成長できるが、その想像の枠を超えることで未知の面白さに辿り着けると。
 ですが、ここでは言及していなかったことがあります。
 すなわち、想像を超えた先を楽しむには、相応の準備がいるのだと。

 バルサユース戦で印象的だった「想像を超えた」人物は、福田監督と栗林です。
 福田は、目の当たりにしたバルサユースの実力に世界との差を痛感し、意気消沈しかかりました。
 栗林は、バルサユースの猛攻の中、今までずっと一致してきた福田の思考をトレースできず、一瞬困惑しました。
 二人とも、自分が今まで「想像」通りにやってきたサッカーの世界で、(作中の現在の時間軸では)初めて想像から外れた事態に見舞われたのです。

 でも二人は、現実が自分の想像からずれていったとき、それに置いていかれるわけではありませんでした。
 福田は、アシトから「やりたい手がある」と提案を受けたとき、今までになかった戦術(阿久津はリベロ、栗林はゼロトップ、アシトはフリーマンの司令塔)をアシトの発案と同時に思いついていました。
 栗林は、アシトが発案し、阿久津も手探りで進めようとしている上記の戦術に、「未知の世界を見せてくれるんだな!?」と理解できないまま嬉々として乗ってきました。
 福田にしろ栗林にしろ彼らには、想像の埒外のケースに出くわしても、即座にプランを出したり、対応するだけの能力がありました。そう、想像を超えた先を楽しむには、それに即座にアジャストできるだけの蓄積が必要なのです。

 この逆のケースとしては、たとえばアシトや冨樫、大友が初めてAチームの練習に参加したときのこと(12巻)。
 ついに認められたと喜び勇んで参加した彼らは、Aの人たちはどんなにすごいもんなんだろうでもきっと食らいついてやるぞ、と自分の想像の中のAチームを基準に練習にへ臨みました。しかし蓋を開けてみれば、自分たちとAチームの能力の差に愕然とするばかり。想像を超えた先にあったものに対応できるほどのなにかが無かったために、練習後の冨樫や大友は俯きっぱなしでした。
 そんな中、アシトだけは違いました。持ち前の空間認識能力に加え、Aでの練習以前から習慣にしていた首振りによる状況把握のおかげで、多少なりともAチームについていけたということもありますが、そもそも自分が下手だという思いの強かった彼は、できない自分を素直に受け止められ、その意味で、自分の現状が「想像の外」ではなかったのかもしれません。足下の技術は低くとも、状況把握能力の分だけアシトには想像の先に対応できるものがあったのかもしれないし、そもぞも想像が冨樫や大友よりも広かったのかもしれません。

 でも、そんなアシトが船橋学院戦で出会った、トリポネという世界基準のフィジカルを持つプレイヤー。想像を超えてきた彼の圧力は、自分の限界を超えられるかもしれないという自分への期待に酔ってしまったアシトから冷静な思考を奪い、最悪の一つ手前のプレイを選択させたのです(ちなみに最悪のプレイは、怪我をしてもかまわないとつっこむ強引なスライディング)。そのときのアシトには、想像を超えてきたトリポネに対応できるものがありませんでした。
 この苦渋を味わったアシトが「あんな惨めな思いは、もうしたくねえ」と「守備の意識をまっさらな状態からやり直す」と意識改革を始めたのは、言い換えれば、今まで「本当に楽し」く試合に臨めていた想像力をいったんぶち壊して、より大きな想像力の枠を作るようにしたということです。

 想像力を駆使して臨めるのは楽しい。その想像を超えたものに出くわせるのはもっと楽しい。でもそれを楽しむためには、相応の準備がいる。


 ところで話の矛先は変わりますが、この「想像の先の楽しさ」、私の趣味のジャズでも感じるものなんですよね。
 『アオアシ』とジャズのアドリブの共通点は以前も記事にしましたが(『アオアシ』サッカーとアドリブの、言語化の先の身体化の話 - ポンコツ山田.com)、アドリブというのはたいていの場合、メインの楽器がソロをとり、それをリズム隊(ドラム、ピアノ、ベース、ギター)が支えるのですが、アドリブ楽器がソロをとっている一方で、リズム隊はただリズムを刻んだりコードを鳴らしたりするのではなく、ソロのフレーズに応じて、ドラムはシンバルを入れたり、ピアノやギターはは合いの手の音を変えたり、ベースはコードラインを変えたり、全体で勢いを盛り上げたり抑えたりしています。
 で、それを聴いてまたアドリブ楽器のフレーズは変わっていくのですが、思いもよらなかった(でもかっこいい)合いの手を入れられたりしたときに、そこでキョドってしまってアドリブが散漫になるのか、その面白さを受け取ってよりソロを盛り上げていくのか、それはソロプレイヤーの懐の広さ次第なわけです。
 十分な想像力があれば、様々な合いの手にも余裕を持って対応できるし、引き出しが多ければ、想像の外の合いの手にも面白がって新しいフレーズを追うことができる。ここにもまた、想像力と、その先にのために備えるものが必要になります。

 まあ正直こんな話は、私のことよりも『BLUE GIANT』シリーズを読んでもらう方がウン百倍も面白く実感してもらえると思うんですがね。
 とまれ、想像を超えた先にあるものを楽しめるのか、それもとも打ちひしがれるのか、そういうところを見てみるところで、キャラクターの内面がまた深く読めるんじゃないかなと思いましたですよ。

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『アオアシ』未知との遭遇 初めて気づかされるもの 想像力を超えた先にある楽しさの話

 最終巻となる40巻が発売された『アオアシ』。

 この先を見たい気持ちは起こりつつも、育成をテーマに描くのであればここでこう終わるのがベストだという判断は間違いないところ。当初は描く予定のなかったというプロ練習編も、育成の先を示すものとして、描いて良かったエピソードだと思います。

 さて、作品の最終戦となったエスペリオンvsバルサユースの戦い。終盤になってついに本性を露わにしたデミアン率いるバルサユースの猛攻にエスペリオンの面々が心折れかけ、監督である福田すらも勝ち方でなく終わり方を模索し始めたそのとき、ファウルで試合が止まったタイミングでアシトは福田に問いかけました。

――オッチャン、超えた?
バルサ――... オッチャンの想像…超えた?
(39巻 136p)

 問われた瞬間福田は、その言葉をどう受け取ったでしょう。今までずっと彼を導いてきた自分にすら手に余る、想像すらしていなかった事態。それに困惑していることを見透かされたのか。それを見透かしてしまったアシトの心が折れてしまったのか。しばしの逡巡の後に福田は苦渋と共に肯定しますが、意外なことに、アシトの反応は喜びと感謝でした。

それって…初めてだ。
だって...ずっと、オッチャンに出会ってからずっとオッチャンの世界で、オッチャンの想像の中で…俺サッカーやってきたと思う。
そこから出られた。これが…世界!!
俺は、飛び出せた…!!
ありがとうオッチャン。約束を守ってくれて…!!
(39巻 137、138p)

 アシトの喜悦。それは飛び出せたこと。日本から世界へ。福田の想像の中から枠外へ。

 想像。それは様々な場面で登場する、『アオアシ』を象徴するタームの一つですが、この「想像を超える楽しさ」というのも折に触れ登場します。

 そもそも物語の最初の最初の第1話。たまたま墓参りに行っていた福田はアシトが出場している試合を目にし、その後にふとした気まぐれで、彼にアドバイスをしました。が、数時間やってもアシトはそれを身につけられず、見切りをつけようと福田はアシトに再び話しかけたのですが、そこでのアシトの言葉に度肝を抜かれました。なんとアシトは、その日の試合の最後の得点シーンで、フィールド上のプレイヤーすべての位置を把握していたのです。
 初めはちょっとしたグッドプレイヤー程度としか思わなかったアシトが、実はたぐいまれなる能力を持っていた。自分の想像を超えたアシトに福田は興味を覚え、彼なら世界を目指せるかもしれないとエスペリオンに誘い、物語はそこから始まりました。
 想像を超えたことこそ、この作品の出発点だったのです。

 他にも、プロで活躍するエスペリオンのベテラン司馬。海外でも活躍できたであろう彼は、後進の育成のためにエスペリオンに骨を埋めていますが、そんな彼は言います。

現役20年の俺にとって… 育成において、「至福の瞬間」があった。
何十人、何百人と見てきた中で... その至福の瞬間はごくわずか。
教えてきた選手が、俺の想像を超えてきたときだ。
(30巻 79~81p)

 プロの練習に初参加したアシトが、初日では散々だったにもかかわらず、二日目にはもうプロのやり方にアジャストしてきました。そこまでは司馬の想像の範囲内。今までにもこいつは伸びると思った選手は、アシトのように格上の人間相手にも臆すことなく主張をしてきた。そこまではわかる。そんなやつはこれまでもいた。でもアシトはわずか三日目に、司馬から別のアイデアを引き出した。経験の蓄積と特殊な脳の構造から、考えるまでもなく視るまでもなく、ベストなプレイを選択してきた司馬に、新たな選択肢を選ばせた。
 そんなアシトのプレイと練習後の言葉に、司馬は気づかされました。

俺が教えてると思っていた。
でも本当は、俺の想像を超えていった、あいつらに――
俺は教えられてきたんだ。
(30巻 106、107p)

 これに気づいた司馬は引退を撤回し、現役の続行を決めたのです。想像を超えたアシトのプレイが、司馬にサッカーの楽しさを再び燃え上がらせました。

 また、高校生でありながらプロの試合に参加し、エスペリオンユースの中でも隔絶した存在感を放つ栗林。彼にとって同年代のプレイヤーのほとんどは相手にならず、プレイもやりたいことも見透かすことができました。見透かせるということは、想像の範疇だということ。日本のユースでのプレイは自分の想像の枠を超えない。そう達観していたも栗林も、日本を離れたバルサ相手ではそうもいかず、たとえ一対一では負けなくとも、11人対11人のサッカーというゲームで勝てるとは限らない。実際、バルサ戦の後半、デミアンに引っ張り上げられたバルサメンバーの猛攻になす術がありませんでした。
 打開策も想像できず、敗北という想像がリアルに頭をよぎりだしたそのとき、福田から届いた指示は、栗林の想像の埒外、そうするとなにがどうなるのか、さっぱりわからないものだったのです。

初めて… 福田さんと思考が一致しなかった…!!
なんだ…!? 一体どんなサッカーをしようというんだ。青井…阿久津!?
(39巻 19p)

 今まで福田の指導の下で成長してきた栗林は、その過程で福田の思考を追えるようになり、作戦も十分に理解して試合に臨むことができていました。しかしこのとき初めて追えなくなった福田の思考。アシトと阿久津はそれに同調できているのに。
 栗林だけでなく、敵も味方も、アシトと阿久津以外のすべてが混乱した状態で阿久津がゴールを決めて一点差。混沌未だ続く中で、その困惑を承知の阿久津からの目の訴えに栗林は何を思ったのか。

『そんな顔すんじゃねえよ、栗。こっちも手探りなんだよ。
だが、乗ってくれ。お前が乗らねえと、全員が乗らねえと、バルサの野郎どもを仕留め切れねえ。
理解できねえと思ってもこの作戦… 俺と青井にのってくれや。栗…!!』
「喜んで。」
(39巻 86~88p)

 自分の想像を超えた試合。それを味わえる戦術に、栗林は嬉々として乗っかりました。

違ったものが見れるんだな!?阿久津、青井、お前達が見せてくれるんだな!?
あいつじゃなく… 同じチームのお前らが、未知の世界を見せてくれるんだな!?
(39巻 91p)

 今までずっと栗林は、自分が世界のトップで活躍するところを想像して、それを逆算するように練習も試合もそれ以外の日常生活も取り組んできました。ある意味で、すべてが未来に通じる想像の中。でも、それから外れるものを仲間が見せてくれる。知らなかった自分の力を引き出してくれる。それが、とても楽しく思えた。

 想像力とは力です。
 監督はそれがあるから、試合の戦術を事前に立て、それに基づいてメンバーを決め、試合中に修正できます。
 指導者はそれがあるから、教え子達にあった指導をして伸ばし、あるいは限界と判断すればそれを通告できます。
 選手はそれがあるから、相手の裏をかき、相手の行動を阻み、周りを動かし、試合を作ることができます。
 想像力が強ければ強いほど、それらがより適切に行えますが、想像から外れたことを見ることが少なくなります。
 すべてが想像の内。それは物事が思い通りに行く楽しさでもあり、同時に物事が思ったとおりにしか行かないつまらなさでもある。だから、それが裏切られることもまた楽しい。自分の知らないことに出会える。思いも寄らなかったことを味わえる。未知との遭遇は恐怖であり、同時に愉悦。

 想像することの強さ。そしてそれを超えることの楽しさ。ある面でそれは、「育成」の要でもあるものです。想像するから監督は指導ができるし、選手は成長できる。想像を超えるから、監督も選手も、それまでの枠を超えたものを得ることができる。
 アシトも福田も栗林も、想像を超えたものに出くわしたとき、身を震わすほどの喜びを得ていました。彼らはその先に、今まで出会ったことのない何かがあることを知っているから。

 漫画のカタルシスも、想像力の先にあるものです。この展開はどうなるのか、ハラハラしながら読み進め、たとえ結末をなんらか想像していようとも、そこに至るまでの道のりに心を奪われていれば、そこはもう想像の外側の世界。
 そういうものを味わわせてくれる漫画というのは、とてもとても、すばらしいものです。

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『宇宙兄弟』『人間の土地』限界状況で見せる人間の美しさの話

 45巻の発売と同時に、次巻での完結が発表された『宇宙兄弟』。

 連載開始から早17年。第1話で主人公の六太が会社をクビになったのが2025年5月のことですから、連載開始時点ではだいぶ未来だったはずの出来事が、すでに過去になってしまうほどの連載期間なわけです。

 さて、月軌道上に一人投げ出されるという、人類が今まで体験したことのない危機を六太が迎えている45巻。この圧倒的な恐怖は本誌で読んだときも感じましたが、単行本で改めてまとめて読んで、改めてその状況を想像して、身が震えました。その状況に晒され、広大な虚空の中で死に直面している六太は当然ですが、そんな六太の状況をモニターしている地上のNASAの面々、帰還船オリョールに乗っているミッションクルーたち、既に地球へ帰還したジョーカーズ、なにより六太に助けられた当の日々人。どれだけ手を尽くしても六太を助けられるかわからない、でも手を尽くさずにはいられない彼や彼女が焼かれている焦燥感はいかほどでしょう。

 地上のNASAや日々人は、六太を助けるために一丸となっていますが、一方六太はただ宇宙服の酸素と電力が消費されていくのを待つしかなく、頭の中では、苦しむ前に死んでしまおうかという絶望と、ブライアンのように死ぬ直前まで未来のために何か残そうとする勇気が振り子のように行っては帰って揺れ動いていました。
 そこに飛び込んできたのは、月面基地経由で飛び込んできた、先輩宇宙飛行士である紫からのメッセージ。今NASAが、そして日々人が、六太を助けるために必死で計画を練っている。それを成功させるために、六太の方から日々人の乗るソユーズを見つけてほしい、と。

 これを読んで思い出したのが、サン=テグジュペリの『人間の土地』の一節でした。

 20世紀前半に生きたフランス人のサン=テグジュペリは『星の王子さま』で有名な作家ですが同時に飛行士でもあり、『人間の土地』はそんな彼の自伝的小説です。ライト兄弟が空を飛んでから20年も経たずに大西洋を渡るようになった飛行機ですが、彼が飛行士として活躍していた時代はまだまだ発展途上、飛行機本体も安定しなければ、GPSなどの座標を特定する技術もなく、現代のような「自動車より事故が少ない」などのような安全神話は影も形もない状況です。
 そんな時代に郵便飛行士として業務に就いていた彼は、あるとき、リビアの砂漠に不時着しました。その様子を後に著したのが『人間の土地』の中の「砂漠のまん中で」の章なのですが、砂漠のまん中で不時着した自分らの場所を航空会社は知る術なく、誰かが通りかかる可能性など万分の一以下、食料も水も尽き、もうどうしようもない状況の中、一周回って平穏な気分で眠りに落ちようとしたサン=テグジュペリの脳裏によぎったのは、自分たちを心配しているであろう人々のことでした。

耐えがたいのはじつはこれだ。待っていてくれる、あの数々の目が見えるたび、ぼくは火傷のような痛さを感じる。すぐさま起き上がってまっしぐらに前方へ走り出したい衝動に駆られる。彼方で人々が助けてくれと叫んでいるのだ、人々が難破しかけているのだ!
(略)
沈黙の一秒一秒が、ぼくの愛する人々を、すこしずつ、虐殺してゆく。はげしい憤怒が、ぼくの中に動き出す、何だというので、沈みかけている人々を助けに、まにあううちに駆けつける邪魔をするさまざまの鎖が、こうまで多くあるのか? なぜぼくらの焚き火が、ぼくらの叫びを、世界の果てまで伝えてくれないのか? 我慢しろ……ぼくらが駆けつけてやる!......ぼくらのほうから駆けつけてやる! ぼくらこそは救援隊だ!
(人間の土地 162,163p)

 自分を心配しているに違いない人々のためにこそ、今の自分をとりまく絶望的な状況を受け入れてはいられない。そう思って彼と僚友のプレヴォーは、不時着した飛行機の横でじっとしているでもなく、持っていた拳銃で自殺するでもなく、最後まで足掻くのです。

 六太もまた絶望の中にいました。地球上の砂漠どころではない、宇宙服のすぐ外側には絶対の真空。ヘルメットを外せば数秒で死ねるし、何もしなくても酸素不足で死に至る。メッセージを残すことでなんとか正気を保ちながら、も何度目になるのか、また絶望へ心の振り子が揺れたそのとき、月面基地のブギーを経由して、紫からのメッセージを聞くことができました。
 六太の絶望は、宇宙空間に一人放り出されたというものだけではありません。もうNASAは自分の救援を諦め、日々人を地球へ帰還させているのではないか。自分は見捨てられたのではないか。そんな思いを振り切ることができなかったから、絶望の縁に追いやられていたのです。そこへ飛び込んできた、紫からのメッセージ。今、NASAが全力を挙げて救出の準備をしていると。紫は言います。
「日々人からはムッちゃんを見つけ辛い だから――ムッちゃんがソユーズを見つけるんだ」
 誰かが自分を助けようとしてくれている。その事実が六太の気持ちを奮い立たせました。
 自分を助けに来る日々人を、ぼくのほうから見つけてやる! ぼくこそは救援隊だ!
 絶望的な状況の中で、紫のメッセージを機に前を向こうとする(実際はソユーズを見つけるため後ろを向きましたが)六太の姿に、つい『人間の土地』がオーバーラップしたのです。

 ついでに言うと、他にも『人間の土地』を思い起こすシーンはあって、フィリップと共に残った月面でシャロン天文台建設作業をしていたとき、作業の地道さと膨大さ、そして月面で二人きりになった心許なさでつい己の作業に無為を感じてしまったフィリップに、六太はこんなことを言っています。

「基地でやった”チェック”も含めて こういう途方もない作業をず~っとやってると これって意味あんのかなーってちょっと考えちゃったりさ」
(中略)
「俺たちの帰還船を打ち上げてくれた日本の技術責任者の一人に――福田さんっていう友人がいてさ…… 「ソユーズを日本のロケットで打ち上げる」っていう初の試みだったから ”絶対成功”のプレッシャーも相当あったと思うんだけど 振動重解析とか飛行安全解析とかしれこそ途方もないチェック項目を一つずつ 何回も何回もシミュレーションしたと思うんだよ 
おかげで打ち上げ成功して俺たちが助かるんだから 結果 すごい意味があったよね 福田さんの仕事は
俺たちもそれでいんだよ 自分のやっていることの”意味”を探す必要はない
やったことの結果が 誰かの”意味あること”になればいいんだ
(宇宙兄弟 35巻 #327)

 この会話で思い浮かんだのは、サン=テグジュペリの僚友ギヨメがアンデス山脈の山中の不時着、遭難し、救出された後に、病床の彼をサン=テグジュペリが見舞ったシーンでの文です。

彼の偉大さは、自分に責任を感ずるところにある、自分に対する、郵便物に対する、待っている僚友たちに対する責任、彼はその手中に彼らの歓喜も、彼らの悲嘆も握っていた。彼には、かしこ、生きている人間のあいだに新たに建設されつつあるものに対して責任があった。それに手伝うのが彼の義務だった。彼の職務の範囲内で、彼は多少なりとも人類の運命に責任があった。
(人間の土地 57p)

 彼の職務の範囲内で、彼は多少なりとも人類の運命に責任があった。
 今ここでしていることの意味ではなく、今ここでしていることに生じる責任。すぐに見えるものではなくとも、その結果の先には、人類の運命、とまではいわずとも、シャロン天文台に携わった人々の夢がある。彼らにとっての意味になる。そんなものが、『人間の土地』と『宇宙兄弟』で通じるように思いました。
 飛行機と宇宙ロケット、ともに(当時の)時代の最先端で限界状況を生きる人々を描いている作品ですから、通じるところも多いのでしょう。『人間の土地』は中学校に初めて読んで、未だに当時買った文庫本を持っている、私史上最も長く所有している本です。未読の人は是非読んどけ。これはジョジョにも負けない人間賛歌。

 本誌掲載分を考えると、早ければ今年中、遅くとも春までには完結しそうな『宇宙兄弟』。あれ、意外と先だな。まあ月一連載だし。それはそれとして、感動のクライマックスを超えた先の大団円がどう終着していくのか、今から楽しみです。
 45巻が出たタイミングで、六太が宇宙に行くあたりから20巻分くらい読み返しましたが、『GIANT KILLING』と同様、こちらも読み始めたら途中でやめるのが難しいですね。ジャイキリもそろそろ終わりが見えていますし、モーニングの二大柱(※俺調べ)の後を継いでくれる作品はちゃんと出てくれるでしょうか。

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米を食うまで異世界で死ねるか!『異世界メイドの三ツ星グルメ 現代ごはん作ったら王宮で大バズリしました』の話

 物心ついてから数年、少女シャーリィはある日、唐突に思い出した。自分が前世で日本人であったことを。そして同時に絶望の打ちひしがれる。日本で食べていたあの美食の数々を、もうこの世界では食べられないのかと。しかし彼女は諦めない。否、むしろ燃え上がる。もう一度あの絶品を味わってやると。
 そして試行錯誤を繰り返すこと数年、シャーリィのもとに、彼女が作る謎の料理のうわさを聞き付けた王宮のメイド長がやってきた。これが、彼女に新たな道が開ける最初の扉だったのだ……

 ということで、本日4巻が発売された、原作モリタ先生、作画U4先生の『異世界メイドの三ツ星グルメ 現代ごはん作ったら王宮で大バズリしました』のレビューです。

 もはやすっかりお馴染みになった感のある異世界転生もの、進んだ技術を持ち込んでの俺TUEEEEEEEEEものですが、その中でもこの作品に惹かれる理由は、コメディをベースにしているところです。私利私欲、親のすね、王宮の懐、さらには顔芸まで尽くして、性欲、睡眠欲とともに並び立つ人間の三大欲求の一つを満たそうと奮闘する姿は、コミカルでとても良いのです。

 そう、主人公シャーリィの原動力は、前世で食べていた美味しいものたちをもう一度食べたいという食欲。といってもその対象は、贅を凝らして一皿ウン万円という高級グルメではなく、ポテチだったりプリンだったりハンバーガーだったり立ち食いうどんだったりといった、街中にあるお店でも買える庶民向けのお安いもの。ですが、現に私たちが数百円も出せば口にできるそれらは、とんでもねえ企業努力や、名もない人々の研鑽の果てに生み出されている歴史の結晶です。個々人に好き嫌いはあっても、万人向けに調整された味を安定して、価格に大きな変動もなく提供できるようにしているのは、紛れもなく現代日本だからこそできることです。

 誰しも覚えがあるでしょう。夏の暑い日に食べたアイスや、冬のコタツで背中を丸めて食べたインスタントラーメン、映画を見ながらつまむピザ「とコーラ、たまの贅沢と注文するチョコやフルーツが盛られた、それでも1000円ちょっとで食べられるパフェ……。日常に親しみすぎているがゆえにかえって気づけない、安定してもたらされる食の楽しみ。

 なればこそ、異世界(しばしばナーロッパとも揶揄される程度の文明レベル)で現世日本の記憶をよみがえらせてしまったシャーリィの絶望はいかばかりか。知らないままなら幸せに生きられたものを、なまじ思い出してしまったばかりに、もう手に入れられないものを恋焦がれるしかないとは。
 しかしシャーリィは諦めない。商人として手広く活動している父親の脛をかじり尽くそうかという勢いで、あの手この手を費やして珍しい品物を取り寄せては試行錯誤し、浮いた話もないまま婚姻適齢期を迎えた自分への母親からの小言を馬耳東風と受け流し、なんとかかつての味を今世で蘇らせようとします。
 その結果、ポテチやプリンといった、比較的安価な材料と簡単な技術で作れるものは再現できたものの、この先に行くには材料も技術も道具も足りない。そんなシャーリィに降って湧いたのが、王宮でおやつをつくらないかというお誘い。当初は自分の時間が無くなってしまうことを理由に二つ返事で拒否したものの、メイド長から、王宮の食材や調理器具を使うこともできると言われた途端、ブレンダーかってくらいの手のひら返しクルクル。喜び勇んで王宮で働くことになったのです。

 そこで待っていたのは、一足飛びに王宮入りしたシャーリィを敵視する同僚メイド。おやつ作りを一段下に見る鼻持ちならないコック。女性から大人気だけど対面のため甘いもの好きを隠す騎士。食べるのが大好きなはずなのに浮かない顔でテーブルに着く幼い王子。シャーリィに嫉妬する王子の婚約者である貴族の娘と、よくあるといえばよくある登場人物たち。
 そんな彼や彼女から、よくあると言えばよくある絡まれ方をして話は転がるのですが、シャーリィのスタンスは基本的に食欲。おいしいものを自分で食べたい、そしてみんなにも食べてもらっておいしいと感じてほしいという思いで動き回るのです。

 安易なハーレム展開や成り上がり展開にはいかず、そういうものとは一線引いた、うまいもの食ったるでの精神でコメディを発露しながら、各エピソードで一さじの人情話もエッセンスでいれている感じが、なんといいますか、大人もあるいは男性も楽しめる、よくできた子供向けコメディのような作品スタイルになっていると思うのです。
 キャラクターがにぎやかに動き回る楽しさと、それが野放図にならずにまとまっているコンパクトさ。気軽な気持ちで読める後味の軽さ。いいんですよね。

 冒頭のとおり、現在4巻まで発売中。まだまだ手に取りやすい作品ですので、とりあえず試し読みからどうぞ。
https://comic.pixiv.net/works/8847
 しかし、この手の1話を過剰に分割する方式はやめてくれんもんかな。せめて無料話くらいは......。

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『BLUE GIANT MOMENTUM』コンペで際立つダイの、堂々として、悠々として、傲岸不遜でスペシャルなかっこよさの話

 5巻が発売された『BLUE GIANT MOMENTUM』。

 若手ジャズマンの登竜門であるインターナショナル・ジャズ・コンペティションに参加したダイは無事デモ審査を通過し、二次予選の舞台に立つべく、長距離バスに23時間揺られ、晴れてセントルイスの地を踏みました。
 13人の二次予選出場者には、アマチュアながら既に名の売れている者もいれば、父に著名なテナープレイヤーを持つ者もいる。唯一の女性プレイヤーや唯一のラティーノプレイヤー、車椅子のテナーマンなんかもいる。誰も彼もがデモ審査を通過した強者だらけの中で、ダイはどんなプレイを見せるのか、というのが5巻なわけですが、この巻の感想は、「面白い」というより「かっこいい」でした。いずれ劣らぬ若手プレイヤーの中で、堂々と、悠々と、そして傲岸不遜に立つダイの姿が、とてもかっこよかったのです。

 思えばこのNY編、というかアメリカ編からこっち、ダイの行程は山と谷で言えば谷ばかり。アメリカの広さ、人の多さ、物価の高さ、そしてジャズシーンの壁の高さと厚さに、さすがのダイといえど参ることもしばしばで、行く先々で出会う人々の心に強烈な印象を残しはするも、アメリカの広大さに比すればそれは、闇夜の砂漠で点々ととろうそくを灯すようなもの。鬱々とした空気をぶちぬいてスカッとさせるところにはなかなかいけません。
 でも、ついに掴んだこのIJCのチャンス。ジャズシーンへの参入の意味でも、バンドの財政の意味でも、ここで優勝する影響はあまりにも大きい。逆に言えば、ここで失敗すれば、今後のバンドの活動すら危ぶまれかねないほど。苦しい中で空からたれてきた蜘蛛の糸を掴んで登っていったのに、上まで登り切る前に切れてしまえば落ちたときの衝撃は低いところからのそれとは比べものになりません。たとえダイの心の糸は切れずとも、NYで待っているゾッドやアントニオの糸はどうでしょうか。つかみ損ねたチャンスとお金は、貧しい中で苦闘する人間には、本来以上に眩しく見えてしまいます(ジョーは酒さえあれば誰がどこでどうなっても変わらないでしょうが)。
 そんな崖っぷちの中でコンペに挑むダイは、上に書いたように、まるで自分のバンドのライブかのように堂々としていて、他の出場プレイヤーの演奏を楽しめるくらい悠々としていて、なにより、自分が勝つと疑わずに面を上げつつづける姿が傲岸不遜。そんな彼をかっこいいと言わずしてなんと言いましょう。
 
 しかし、そんなダイのかっこよさを際立つのは他の参加者たちがいるからです。
 レジェンドテナープレイヤーの息子であり、その重圧を感じた上で自分のプレイを磨いてきたスコット・エリングJr。
 男を超えるためにではなく、女性である私が私らしく吹けばいいと胸を張る唯一の女性参加者、ニーナ・ファウラー。
 子供の頃の事故で一生車椅子生活を余儀なくされながらもサックスを手に取り、パワフルでいて愛嬌のあるステージを見せたボビー・マクローリン。
 アントニオに負けず劣らずの困窮下でずっとサックスを吹いてきた、誰よりも切迫した音を出すラティーノ、ディエゴ・アルバエス
 他のプレイヤーの圧に晒されながらも、それをヒントに直前まで自分に演奏する曲の構成を練り直す、高い技術と臨機応変のアイデアを持つノア・デュベール。
 そして、リーダーアルバムこそ出していないものの既に各方面から高評価を得ていて、下馬評でもトップに付けている、実際に審査員も客も他のプレイヤーも唸らせる演奏をしたジーン・ヘイデン。
 当然彼や彼女にもこのステージで演奏できるだけの能力があり、このステージに立てるだけの能力を培ってきたバックボーンがある。そのバックボーンを限られたページの中で的確に描くから、彼や彼女のキャラクターが立ってくるし、それらとはまるで違うダイの姿がより際立つのです。

 コンペの大本命であるジーンは、登場したそのときから堂々とした姿を見せていました。自分がこの中で一番うまいに違いない。そう確信している、余裕のある姿です。
 ダイの堂々とした姿は、ジーンのそれとは少し違います。堂々として悠々としているダイには余裕も見えますが、それもやはりジーンと違うのです。何が違うように見えるのかと言えば、ジーンのそれは彼自身の確信に端を発しているものであり、ダイのそれは、ディエゴの言葉を借りれば、「ずっとずっと前に決まっていた結果」に端を発しているものだということ。
 チープな言葉を使えば運命というやつですが、ダイの見せるその堂々として、悠々として、傲岸不遜な姿は、その運命とやらに導かれているかのように、あるいは運命の確信の下にその場にいるかのように、とてもスペシャルなものを感じさせるのです。
 ダイ自身は、自分が運命に導かれているなんて思ってもいないでしょう。そんな超自然なものではなく、ジーン同様、自分自身を信じて日本からヨーロッパへ、そしてアメリカへと渡ってきたはずです。もちろん私自身、運命なんて三文安い言葉でダイの成功も挫折も語りたくありません。でも、ゾッドが「回り道こそ最強だと言わんばかり」と表現するように、他の人間ならとてもじゃないけど選ばないような道のりを歩き続けるダイの姿には、運命、というより運命的なスペシャルを感じます。これは、そう感じさせる物語なのです。

 コンペ二次予選も終わり、いよいよ次巻はコンペ決勝。ダイは優勝して、バンドにチャンスとお金をもたらせるのか。でもそれは、優勝という結果そのものよりも、その過程である決勝ステージでのダイのプレイがもたらすもののように思えてなりません。二次予選の評価が割れたように、決勝のダイのプレイが審査たち員に全肯定されるとは限りませんが、それが良いものであれ悪いものであれ、非常に大きなインパクトを残すに違いありません。そう、とてもスペシャルなやつを。
 そんなスペシャルを早く見たくてたまらないぜ。

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怪談を生んだ、自分も知らない心の奥底『こころの一番暗い部屋』の話

 ここは作家が集まるネットの通話コミュニティ。プロアマ問わず、作家なら誰もが参加できる通話ルームがいくつもあるけれど、その中の一つに、「キーワード怪談」が流行っている部屋がある。参加者がキーワードを一つずつ挙げ、それらを元に誰かが即興で怪談を作る「キーワード怪談」。即興で生まれた怖さの奥には、語った当人でさえ意識していなかったこころの部屋がある。そこにいったい何があるのか、それが知りたくて今日も誰かは怪談を語るのかもしれない……

 ということで、現在ジャンプ+で連載中、雨夜幽歩先生の『こころの一番暗い部屋』のレビューです。現在ジャンプ+で連載中の作品の中で、五指に入るお気に入りの本作。待ちに待った単行本発売です。

 本作は冒頭の通り、「キーワード怪談」をネット越しに語り合うという体裁。
 ホラーの一ジャンルとしての怪談、すなわち、自他問わず誰かの身に起こった怪奇体験を語るという作品形態なわけですが、キーワード怪談は即興で作るものであり、その意味で、創作であることが初めから明言されているようなものです。でも、創作だから怖くない、実体験じゃないからつまらないなんてことはなく、適切な語り口と想像の枠からはみ出ていくストーリー、そしてそのお話の中で登場人物(怪談の当事者)が何をどう感じているのかということが丁寧に語られれば、お話にどっぷりと入り込んで、えもいわれぬ恐怖を味わうことができます。

 たとえば、幼少期に大きな岩に魅入られかけた話。
 たとえば、交差点を写す定点カメラで見かけた怪しい女の話。
 たとえば、小学校で流行った男子のいたずらがエスカレートしていく話。
 たとえば、子供が巣立っていく大家族で最後に残ったものの話。

 いずれも、聞く者の心をそっと逆撫でて、波紋を深く残していく話ばかりです。
 
 でも、本作の特色は、怪談が語られたその後です。本作の主人公にして、このトークルームの常連である売れないホラー作家の朱雀奏、通称「かな」や、同じく常連の「なな」が、語れた怪談を聞いた後に話す感想。それこそが、本作をただの怪談漫画から外れたものにしています。

 「かな」や「なな」は、語られた話をちゃんと怖がります。その上で、その話の奥にあるものを感じ取ります。キーワードから即興で考え出した誰かの創作怪談の奥にある、怖さ以外のなにかを。
 比喩的に言いましょう。
 キーワード怪談を語るとき、語り手は聞き手を、恐怖が待つ部屋に案内します。そこには語り手が用意した、聞き手を怖がらせるためのお話が待っています。行ってみればお化け屋敷。聞き手はそこでワーワーキャーキャー怖がります。でも、よくよくその部屋を見れば、まだ奥に通じる扉があるのです。その先は、こころの一番暗い部屋。語り手自身も、そんなところにそんな部屋があるなんて知らなくて、何があるかわかっていません。だってそこは一番暗い部屋だから。何があるのか見えないから。
 その扉を見つけた「かな」たちは、部屋の中に感想という名の光を投げかけるのですが、そこで見えてくるものはなんなのでしょう。

 たとえば、自分の未来を良くも悪くも狂わせてしまった鮮烈な体験。
 たとえば、自分は世界から切り離されているのではないかと苛んでくる強迫的な孤独。
 たとえば、あのとき言ってしまった言葉と見つけられなかった言葉の後悔。
 たとえば、あたたかなものに憧れて、でも離れていってしまう寂寥。

 キーワード怪談を語った人たちは、「かな」たちの感想を聞いたときに、初めてそれらが見えてきた。確かに自分の心の中にあるのに、まるで見えていなかったそれらが。
 
 恐怖とは、未知です。人が何を怖がるかと言えば、自分の知らないもの、自分にわからないもの、自分にはどうにもできないものです。知覚も理解も干渉もできないものに出会ったとき、人はそれに己の意を通ずることができず、恐れ慄くのです。
 その意味で、恐怖とは未知の表層に現れたテクスチャー。それを剥がせば下からは、自分の知らないもの、自分にわからないもの、自分にはどうにもできないものが現れてきます。「かな」たちの感想は、テクスチャーに切れ込みを入れるのです。

 そして現れたそれは、「かな」の言うところの「肉声のようなもの」。

怖い話って 正直嘘じゃんって思うものも多いじゃん
でも時々 あ この部分『ほんとう』だ、って確信する事があるんだ
実際に起こった事って意味じゃなくて その人の心の中での真実…っていうか
(1巻 p45)

 知らないのに、わからないのに、どうにもできないのに、心の一番奥の部屋で鎮座しているもの。
 知らないからって、わからないからって、どうにもできないからって無視して放り投げることもせず、見ないようにして心の奥底に置いておかざるを得なかったもの。
 それから生じた話を聞いたときに、感受性の鋭い「かな」のような人間は、物理的な感触にも似た手触りがごとき「肉声のようなもの」を感じ取り、それがその人の「ほんとう」なのだと看取するのです。

 「かな」や「なな」の感想を聞いた怪談の語り手たちは一様に、まさにその感想がどのように作用して、今し方自分で語った話を生み出すに至ったかの心の機序を自ら辿ります。それはあたかもカウンセリングやセラピー。あることも気づいていなかった扉を開けて、その中に何があるのか、自らの目で見るのです。
 未知のものが怖いのは、それが未知だから。同語反復ではありますが、そこから抜け出すのはある意味簡単。知らないから怖いのなら知ればいい。目を逸らしていたものを見てやればいい。暗い部屋に光を当ててやればいい。
 でも、その部屋に行くには、まずその部屋の存在を知る必要がある。扉を指してもらう必要がある。たとえばそう、誰かに自分の怖い話を語ることで……

 てなもんで、ただ怖いだけにあらず、もう一ひねりして、その怖さがどこから生まれたのかを考えることで人の心の複雑な部分に触れることのできる本作、かなりのおすすめです。
shonenjumpplus.com

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推しに推されて愛が重い『VTuber草村しげみ ~遠くに行ってしまった気がした推しが全然遠くに行ってくれない話~』の話

 登録者数130万人。同時視聴者数1万人。ネットで彼女の名前を見ない日はなく、ライブをすればチケットは即完売。そんな今をときめく企業所属VTuber草村しげみだが、彼女には零細個人VTuber時代を支えてくれた古参視聴者がいた。その名はナナシノ(ユーザーネーム)。登録者第1号として彼女の成長を見守っていた彼は、今やトップVTuberとなった草村の成功を喜びつつ、古参ぶってうざいファンになってしまわないよう弁えた応援を続けていた。しかし当の草村は、ナナシノとの距離感を個人配信時代から変えず、彼が視聴を始めれば大喜びで挨拶し、コメントにはいちいち反応し、アンケート企画にはチョ●ワやイ●イレもビックリの不正を働いてナナシノの意見を通し、挙げ句の果てにはナナシノのSNSを監視してその動向に一喜一憂する始末。草村とナナシノの明日はどっちだ……

 ということで、さかめがね先生の『草村しげみ ~遠くに行ってしまった気がした推しが全然遠くに行ってくれない話~』のレビューです。
 本作はさかめがね先生がTwitter上にアップした単発の話(後の第1話)が反響を呼び、そこから話数を重ねて、気がつけば単行本化というシデレラストーリーまっしぐらの作品。その人気ぶりは、作者本人のTwitter以外には掲載されていないにもかかわらず次に来るマンガ大賞2024web部門で3位入賞、さらには単行本化というエピソードからもうかがえます。
 
 この作品の面白さは、大人気VTuber草村しげみと、その第1号登録者ナナシノの両片思い、と呼ぶにはあまりにも不釣り合いなクソデカ感情すれ違いコメディ。
 かたや草村の最初のファンだけどそれを鼻にかけず一視聴者として応援するナナシノ。かたや最初に自分を見つけてくれたナナシノを神と崇めストーカーばりの粘ちゃ……大きな愛情を寄せる草村しげみ。普通逆だろと思う好意と節度のアンバランスが、
 他のリスナーからのコメントに反応しながら配信をしていたのに、ナナシノが視聴を初めてコメントをした途端、大喜びして直接彼に向けて挨拶をする草村。犬だったらちぎれそうなしっぽが見える。そんな不公平な態度を心配したナナシノが「視聴者個人をかまうのよくないんじゃない?」と恐る恐るコメントすれば、ショックを受けて一気に落ち込む。落胆した草村の様子に他のリスナーは心得たもので、ナナシノさっさと慰めろとコメントで囃し立てる。悪ノリコメントに耐えられず、ナナシノがフォローのコメントをすれば、草村は再びテンション爆上がり。トランプに振り回される株価でもこんなに乱高下しないぞ。
 とにかくナナシノが絡めば脇目も振らず大暴走する草村。アンケート結果を改竄する。他のVTuberのチャンネルに出たときでもナナシノの名を叫ぶ。ナナシノの名を呼ぶボイスを無許可で販売する。バレンタイン企画で明らかにおかしいサイズのチョコを作る等々……やりたい方題するし、そんなナナシノに大暴走する草村が大好きなリスナーたち。そんな幸福な空間がとても楽しいのです。

 また、この作品は基本的に、現実世界のナナシノが画面の中のVTuber草村を画面上のコメント込みで視聴している、という体裁なのですが、そこで流れている無名の視聴者のコメントがまたよい。普通のコメントに、ネットミームや、オタク文法に則ったオリジナルコメントが混在しているのですが、それらがアレな草むらに対する適切なツッコミになったり、場を盛り上げる囃し立てになったり、ナナシノをけしかける悪ノリになったりと、コメディを成り立たせる要因となっています。「(玉に瑕の)傷が大きすぎてパックマン」すごい好きだったんですけどね、著作権的にアレがコレで、単行本では変わってますね。あと、コメントじゃないけど、VTuber泥猫シフの「ロゼッタストーンみたいな物体を延々とかじってたニャ」も好き。是非話の流れ込みで見てほしい。その手のコメントや台詞の切れ味がたまらない。

 1話が短くさくさく読めるのもいい感じ。第1話を読めば関係性が一発でわかるので、まずは是非そちらをどうぞ。
VTuber草村しげみ~遠くに行ってしまった気がした推しが全然遠くに行ってくれない話~ 第1話 | さかめがね
https://comic.pixiv.net/works/11633