面白いぞ『葬送のフリーレン』アニメ。
ケルティックなBGMがマッチしているのが意外で、20~30年前にちょっとケルトミュージックブームが起こったのを思い出しました。エンヤとか。それはそれとして、アニメを見ていて気になったこと、より正確には、漫画を読んでいて少し気になっていたけどアニメになって明確に意識したことがありまして、それは、フリーレンたちの旅装です。いくらなんでも軽装すぎやせんかと。
続きを読む 原作漫画が完結し、アニメもスタートした『ダンジョン飯』。
そして本日発売されたのが、九井諒子ラクガキ本『ディドリームアワー』。
2部は、やはり『ダンジョン飯』の主にラクガキっぽいイラスト。本編に活かすというよりは、気分転換に描いてみた感じの各種イラストです。
現代の服を着た各キャラや、海で遊ぶちびデフォルメされた各キャラ。ハロウィン絵やサンタコスの絵。魔物着ぐるみを着たマルシル。プレゼント交換をするとしたら各キャラは何を用意するか、そして各々にランダムで配られたプレゼントに対してどういう反応をするか、なんて絵もあります。
オマケ感というか、お祭り感というか、ビックリ箱感というか、「これを描くと気分転換になるぜ!」という感じの楽し気なイラストばかり。
拙者現パロ大好き侍、現代の服を着る各キャラの姿にニッコリで候。
3部は漫画。隊商で働いていた時のライオスや、タンス夫妻に育てられていたカカとキキの子供の頃の一幕、欲を翼獅子に食べられ救出されたばかりのミスルン、お化粧を買いに行く魔法学校時代のファリンとマルシルなどの、各キャラの過去の話もあれば、夏の町を歩いたり夏祭りを楽しむセンシとイヅツミや、お好み焼き屋に行くライオス・カブルー・シュロー、現代料理に舌鼓を打つカナリア隊などの現パロもあります。
1~2ページの短い紙幅できちんと抑揚がついた漫画として仕上がっていて、各キャラもよく立っている。読むと、キャラ立ちに必要なのは説明のための言葉ではないのだなとよくわかりますね。表情や仕草、態度でいかに説明的な台詞を省けるかで、漫画ってのはすごく読みやすくなるんだなと。
4部はデビュー前からデビュー直後まで個人サイト上で公開していた各種イラストです。水彩風の人物画もあればファンタジーなデフォルメ絵もあり、漫画もあり、なぜか料理の手順のイラストもありとごった煮。
カラーで描かれてる幻想的な風景画のドチャクソなうまさに腰が抜けました。原画が欲しい。
特に1部のイラストを見てて不思議な気分になってくるのが、ノームやドワーフ、あるいはオーガやオークなどの魅力。頭身が低くて肉付きが良くて、私たちの思う一般的な人間(トールマン)とは明らかに違う身体つきで描かれながら、そこにたしかに彼女らの種族としてのかわいらしさを感じられることです。
(トールマンと違うという意味で)デフォルメの効いた、ろうたげなかわいさではなく、その種族内での成長した姿として描かれた上で、かわいさ、美しさがあります。トールマン基準の美しさ(等身や体の凹凸など)を各種族に当てはめた評価ではなく、その種族特有の体型から感じられるバランスの良さ。
2巻のおまけ漫画でライオスがオークの女たちの美しさについて、人間と「基準はそんなに違わない」と言っていますが、鼻筋とか目の大きさとか乳房や尻の形とかについて、それがオーク内での美しさの基準になるという意味で、人間の美しさの基準をそのままオークに当てはめている(美しいオークは人間と同じ美しさを持っている)わけではないと思うんですよね。
その意味で、なんか『異種族レビューアズ』を連想しちゃいましたね。フラットな視点で見れば、どの種族もその種族としての魅力があるんだなと(『異種族レビュアーズ』は単にフラットではなく、徹頭徹尾スケベという意味でのフラットですが)。
ちなみに私の一番好きなイラストは、1部に掲載のイラスト番号042(45ページ)の踊るマルシル。微妙にダサいダンスを実に楽し気に踊るマルシルが実に楽しそうで本当に楽しそうで、もう最の高。
【九井諒子ラクガキ本 デイドリームアワー】
— ハルタ (@hartamanga) 2024年1月14日
(1月15日発売)より
マルシルにはいつも笑っていてほしいですよね!#九井諒子ラクガキ本
さて、10日間お付き合い頂いてありがとうございました。… pic.twitter.com/mwTe1YgwUc
1980円と少々お高い本ではありますが、満足感は半端なじゃないです。一日中見てられる。イラスト自体の魅力もさることながら、そのイラストから感じ取れる(気がする)九井先生の絵の描き方のスタンスであるとか、キャラ立ての考え方とか、そういうのを考えてもどんぶり三杯いけます。
ファンならずとも、ぜひ紙の書籍で手に入れたい逸品。
あけましておめでとうございます。毎年恒例、年の初めの去年の総括です。
すでに本家の俺マンは企画を休止しているようですが、毎年恒例ですのでそのまま続けていきます。
勝手に決めた俺ギュレーションは
1,2023年中に発表された、もしくは単行本が出た作品で
2,その中でも特に心をつかまれた作品で
3,5作品
3,今まで選んだことのある作品はなるべく除外する(なるべく)
となっています。
それではどうぞ。
●正反対な君と僕/阿賀沢紅茶
陽キャなギャルと、「興味ないね」風なメガネ。パット見テンプレ的なキャラ付けをされそうな二人だけど、その心の中は、当然テンプレに回収されるものではなく、周りに流される自分が嫌だったり、自分にかまってくるギャルにドキドキしたりと、意外なことを考えては自分とは違う相手に惹かれて、自分とは違うからこそ何かの感受性が同じであることに心躍らせて。とかく、人の心は外からではわからないものなのです。●隣のお姉さんが好き/藤近小梅
隣の家の高校生のお姉さんに恋した中学生男子のラブ模様。先月に無事全4巻で完結。●異世界サムライ/齋藤勁吾
「武士道とは死ぬことと見つけたり」は『葉隠』が有名ですが、それを地で行くような女侍・月鍔ギンコ。関ヶ原の戦いで死にきれず、徳川の太平の世で強者と戦って死ぬことも許されず、自分の生きる意味に懊悩していた彼女がふとした拍子に飛ばされたのが、魔法とモンスターがはびこる異世界。凶悪なモンスターに人類が脅かされているその世界は、ギンコにとって己の命を賭けるに相応しいものでしたが、そんなギンコの性根は異世界の人間にとって完全な異物でした。以上5作品でした。他のノミネート作品としては
◎ギャグ・コメディ部門
となりのフィギュア原型師/丸井まお
限界煩悩活劇オサム/ゲタバ子
腐女子高生除霊師オサムが、オタクの霊の話を聞き、知らない分野であれば学び、時には拳でわかり合い、時には自分の煩悩に負けかけたりと、ドタバタハチャメチャしたコメディ。これまた会話運びやシーンのテンポの良い作品。◎異世界部門
科学的に存在しうるクリーチャー娘の観察日誌/KAKERU
◎グルメ部門
ヤンキー君と科学ごはん/岡叶
◎ホラー部門
怖い話はキくだけで/原作・梨 漫画・景山五月
とまあこんな感じの2023年でした。今年もまた面白い漫画に出会えますように。
お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。メリークリスマス!!
閑話休題、先日発売された『BLACK LAGOON』13巻。前巻から2年以上空いていますが、それ以前がよっぽど空いていたので、むしろ早いと思ってしまいますね。不思議不思議。
さて、そんな13巻では、前巻から始まった〈五本指〉編がちょうど終わりました。黒人の大男ばかりを狩るスーツ姿の女五人組、〈五本指〉が起こした事件の中で、ラグーン商会のボスにして知的なタフガイ・ダッチの知られざる過去が仄見えたり、レヴィの意外な面倒見の良さが現れたり、表の世界にシマを広げようとしてるバラライカが苦労したりと、血と硝煙でけぶるロアナプラに、また新たな一面が見えてきました。で、そんな事件もケリがつき、〈五本指〉の一人だったルマジュールをロアナプラに引き込んだレヴィ。仲間に見捨てられたルマジュールを生き残らせ、ホテル・モスクワとの和解を仲介し、街での生計や商売道具も見繕ってやるという、普段のガラッパチで刹那的な彼女からは思いもよらない面倒見の良さに、ロックも驚きました。
「随分と彼女の世話を焼くじゃないか。何が気に入った?」
「別に。」
「やっぱり慕われちゃ放っておけないか?」
「……殺しで飯を食ってるからよ。一つ、決めてることがある。
星の廻りで敵味方になるのは運命だが——良くしてくれるやつには良くしてやる。邪険にして無駄に恨まれることはねえ。
正面から撃たれても、背中から撃たれることはねえという—— ちょっとした願いだ。」
(13巻 p95,96)
きったはったの緊張感の中で生きているからこそ、その緊張を緩めて精神を休めさせられる関係性が必要だ。レヴィはそう言うのです。
彼女のそんな考えにロックは、「孤独じゃないと生きていけないタイプなのかと思ってた」と冗談半分本気半分で軽口をたたきますが、それをレヴィは静かに訂正しました。
何処に居たって孤独は毒だ。
それに――
信用と信頼は似てるが少し違う。頼るのは好かないし、頼られても困る。
(13巻 p97)
信用と信頼。
この二つのが違うものであると評するのを私が見たのは、これが二回目です。一度目は、往年のライトノベル『無責任艦長タイラー』の中でした。
信用と信頼の違い。
当時『タイラー』を読んだ私は、「能力には信をおくが、心根にはおけない」というニュアンスを、幼心に感じ取っていました。
アウトローな感じ。能力ゆえに素行の悪さが見逃される感じ。悪友同士が軽口をたたき合う気の置けない感じ。そういう諸々もひっくるめてなんかカッケェと思い、いまだに記憶にガッチリ刻み込まれています。
ですが、レヴィの言わんとしているところは、そんなブロマンス的ハードボイルドさとは違うようです。
「俺はお前を頼るし、頼られたいと思ってる。信頼しろよ。」
「おう、信用してるよ。」
(13巻 p98)
ロックの「信頼しろよ」という言葉に「信用してるよ」と、わざわざ傍点を振って違いを強調して返すのです。ここには、『タイラー』のそれよりだいぶ虚無的で冷血的なものがあるように感じます。
彼女の言わんとしているところは、まさに「信『用』」と「信『頼』」の違いで、「用いる」というのは自分を主体にして補佐的にあるいはビジネスライクに相手に信を置くこと。それに対して「頼る」というのは、ある場面での主導権を相手に任せた上で信を置くこと。そんな、自分と相手のどちらに主体・主導があるのか、という点に差異があるように思えるのです。
それはとりもなおさず、このロアナプラという明日をも知れぬ危険な街で、彼女がどう生きてきたか、どう生きていたいかという信念、生き様を表しています。
一人では生きていけないが、自分や場面の主導権を誰かに握らせてはいけない。「一個きっかり」の命、どうせ死ぬなら後悔しない死に方で、「正面から撃たれ」た方がマシ。
群れてはいても一匹狼。そんなアウトローの生き方をまざまざと感じさせます。
レヴィの言葉のの使い分けに、ロックがどう反応をしているのかは描かれていませんが、少なくとも先に「信頼」という言葉を使ったロックは、その言葉を彼女と同様にはとらえていないだろうし、あるいは彼女と同じような信念では生きていない。
ならばロックの信念は何か。生き方は何か。
ロベルタ編が終わったときの記事でも書きましたが
yamada10-07.hateblo.jp
yamada10-07.hateblo.jp
端的にロックは、「面白さを求める」という享楽的な信念のために命を張っています。その命は、自分のものもだし、他人のものも。
その後も各エピソードが描かれるたび、ロックのそのような面は表現されていますが、本エピソードのエピローグでも、張とカジノでルーレットに興じているときの問答で以下のようなものがあります。
「……依頼人に言われた。俺は——誰かの運命の、その行方が見たいんだと。」
「裁くのか? 泰山府君の様に。」
「それは俺の柄じゃない。だが、俺が指を添えることで——その人の運命のその先へ、辿り着くことができるかも。」
(13巻 p126,127)
ロックの望む「面白さ」とは、誰かの運命の行く末。それがどこにいくか。自分が面白いと思えるところに収まるのか。それを見たい。
ロックは何でも屋のラグーン商会に属する中で様々なトラブルに首を突っ込み、当事者のどちらにも肩入れせず、あるべきところに収めたい。それが彼の「面白さ」。昼でも夜でもない「夕闇」に立ち続けることでロックは、人の運命の行方を砂かぶりで見ようとするのです。
でもそれは、非常に危うい立ち位置。
こう考えることはないか? 誰かの運命を変えたら――
お前自身も飲み込まれるかもしれん、傍観者ではなく… その当事者になって。
俺は慎重なタチでな。そういう賭けは好ましくない。
(13巻 p128)
張の忠告とも警告ともつかない言葉ですが、それにもロックは、例の悪い顔で返すのです。
ミスタ・張。そこまで肉薄しなけりゃ――… 誰かの人生のその先は、見えないんですよ。
(同上)
彼自身は当事者になりません。あくまで、運命と対峙している誰かに指を添える傍観者。場の主役は相手に任せたまま、複雑な力場にほんの少し力を加えて状況を動かそうとするもの。
だから彼は人を頼ります。場の主役は自分じゃなくていいから。
主役なんてくそくらえ。自分はそれを最前列で楽しめる観客でありたい。
あくまで自分は傍観者でいる。でもそれは当事者のすぐ隣。他人を呑み込む運命のすぐ隣。一歩踏み外せば簡単に奈落へ転落する際であろうと、そこでなければ楽しめないものがあるなら、自分はそこに立つ。
それがロックの信念なのです。
「信用」と「信頼」の違いから、ロックの信念にまで話が脱線していきました。おかしいな…タイラーの話をしてるときはこんな風になるとは思ってなかったんだけど……
とまれ、また一歩ロアナプラのトラブルバスターにして、地獄の舞台のVIPシートギャラリーに近づいたロック。さあ14巻はいつになるかな……
11月の頭と終わりで気温が10度も違いますね。あっという間に冬。
どうも、御無沙汰してました。
それはそれとして、今日はモーニングの読み切りで掲載されたこちらの作品の感想です。
comic-days.com
人生に空虚を感じている高校生が、フリマサイトでたまたま目に留まった、とある男性の子供時代の写真を購入するところから始まる、なんとも玄妙な味わいの物語。何か奇跡が起こるわけでもない、不思議なことが起こるわけでもない、でも読後に心の癒しとささくれを感じるような、えも言われぬ作品なのです。
一言で言えば、夢のような読後感。
でもそれは、明るさに満ち溢れた、とか、自分の思いがかなう、とかいうようなポジティブなものではなく、文字通りの意味。すなわち、地に足のつかない落ち着かなさ、ディティールがはっきりしないのに状況がすっかりわかってしまっているような謎の全知感、思い返してあれは何だったのかと首をひねってしまうような不可解さ、そんな、まさに寝ているときに見るあの夢を起きながらにして見たような読後感なのです。
主人公の男子高校生・青木が、なぜかもわからず男児の写真に猛烈に惹かれること。
その男児本人(が成長した大人)である出品者・ちひろと、フリマサイト上の売買だけで奇妙なコミュニケーションが成立すること。
ちひろから写真と一緒に直筆の手紙が送られてくること。
奇妙なコミュニケーションと写真で、少しだけ青木の生き方が変わったこと。
ちひろの身に起きていた出来事。
その出来事の後にまた起こった二人の交流。
この一連の流れが読み手には、大抵の夢がそうであるように、シーンの状況が限定的にしかわからないのになぜか全体が把握できてる気になったり、シーンとシーンの間が大きく跳ぶのにその間に何が起こっていたのか了解できてる気になったり、そんなこと早々起こらんやろって普通なら思うことでもまああるよねと納得した気になったりという風に受け止められます。
それはキャラクターの情報が最低限に抑制されている、でも想像させる必要な分は描写されているためなのかもしれません。
キャラクターの行動に脈絡はなくとも筋は通っているからかもしれません。
ちひろが一度も直接登場することなく、すべて青木のフィルターを通す形で現れ、すべて青木の独り相撲であるからかもしれません。
あるいは絵の面で言えば、カケアミが多用され、暗くて重いのに明るくて軽いという相反する絵の印象があり、それもまた、夢のようなどこまでも広がる閉塞感を生み出していると言えるでしょう。線の疎密で濃淡を表すカケアミには、黒い(濃い)部分にも白(何も描かれていないところ)があるため、完全に塗りつぶされていない限り光が含まれています。そのため、色のついている部分でもどこか空気を含んだような軽さがあり、同時に線を描きこまれているが故の重さもあるのです。
特に、ちひろから手紙をもらった後の青木の夢は、他の人が登場しないこともあり、二人だけの閉じた世界、という印象が強くあります。
すべてが夢の中のようなふわふわした物語は、そこに喜びや怒りや哀しさや楽しさがあっても、薄膜一枚隔てたようでどこか現実感がありません。でもそれは決して悪い意味ではなく、実生活ではまず味わえない、「漫画を読む」という、物語の鑑賞を通さなくては味わえない類の体験なのです。
この作品から意識して何か意味を汲み取ろうというのはきっと野暮なことで、まずはこの物語の空気に身を浸し、生身では早々得られない感覚を楽しんでほしいものです。夢と違って、何度でも繰り返し味わえるのが漫画の良いところなのですから。
でも、きっと何度か読んだ後に、心の中に不思議な癒しと、どこかひっかかるささくれができていることに気が付くと思うのです。私がそうでしたから。