ポンコツ山田.com

漫画の話です。

『葬送のフリーレン』雪山手ぶら一人旅で気づいた、アニメと漫画で違う想像の余地の話

 面白いぞ『葬送のフリーレン』アニメ。

 ケルティックなBGMがマッチしているのが意外で、20~30年前にちょっとケルトミュージックブームが起こったのを思い出しました。エンヤとか。

 それはそれとして、アニメを見ていて気になったこと、より正確には、漫画を読んでいて少し気になっていたけどアニメになって明確に意識したことがありまして、それは、フリーレンたちの旅装です。いくらなんでも軽装すぎやせんかと。

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楽しさに満ち溢れたラクガキの時間 九井諒子『デイドリーム・アワー』の話

 原作漫画が完結し、アニメもスタートした『ダンジョン飯』。
 そして本日発売されたのが、九井諒子ラクガキ本『ディドリームアワー』。

 『ダンジョン飯』の筆慣らしや、キャラ固めのための習作イラスト、漫画がちょこちょこ、その他デビュー前から描き溜めていたイラストやスケッチなど、九井先生曰くの「私が私のために描いた絵や漫画」です。
 表紙・裏表紙で花散る中で踊るキャラクターたちを見ればわかるように、楽しさに満ち溢れたラクガキ集。九井先生が楽しく絵を描いてるんだなというのが読んでて伝わってくる、伝播性の高い楽しさです。ウキウキしちゃうね。
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 本は4部構成。
 1部が『ダンジョン飯』のキャラ練習やキャラ固めのために描いたイラスト。
 各種族ごとにまとめたバストアップイラストや、キャラクター間の衣装交換、チェンジリングによる種族変化、髪型変化といった個人イラストもあれば、女性キャラクターの化粧のステップ、朝の支度など、流れのあるイラストもあり。また、一緒に飲んでるチルチャックとナマリなど、本編では絡みのなかったキャラのイラストもあり。
 パーティーのリーダー(ライオス、カブルー、シュロー、ノームのタンス、若かりしセンシが所属していた坑夫団のギリン、カナリア隊のミスルン)がメンバーとどういう距離感で接していたかを表すイラストなんかもあって、なるほど、こういう絵を描くことで自分の中で関係性が練られていくんだな、というのが感じられます。
 まず頭で考えたり具体的に言葉にするのでなく、まず直観的に絵で描いてみて、そこから逆算的にキャラクター性や関係性を言葉にしていく。勝手な想像ですが、そういう漫画の作り方もしている気がします。

 2部は、やはり『ダンジョン飯』の主にラクガキっぽいイラスト。本編に活かすというよりは、気分転換に描いてみた感じの各種イラストです。
 現代の服を着た各キャラや、海で遊ぶちびデフォルメされた各キャラ。ハロウィン絵やサンタコスの絵。魔物着ぐるみを着たマルシル。プレゼント交換をするとしたら各キャラは何を用意するか、そして各々にランダムで配られたプレゼントに対してどういう反応をするか、なんて絵もあります。
 オマケ感というか、お祭り感というか、ビックリ箱感というか、「これを描くと気分転換になるぜ!」という感じの楽し気なイラストばかり。
 拙者現パロ大好き侍、現代の服を着る各キャラの姿にニッコリで候。

 3部は漫画。隊商で働いていた時のライオスや、タンス夫妻に育てられていたカカとキキの子供の頃の一幕、欲を翼獅子に食べられ救出されたばかりのミスルン、お化粧を買いに行く魔法学校時代のファリンとマルシルなどの、各キャラの過去の話もあれば、夏の町を歩いたり夏祭りを楽しむセンシとイヅツミや、お好み焼き屋に行くライオス・カブルー・シュロー、現代料理に舌鼓を打つカナリア隊などの現パロもあります。
 1~2ページの短い紙幅できちんと抑揚がついた漫画として仕上がっていて、各キャラもよく立っている。読むと、キャラ立ちに必要なのは説明のための言葉ではないのだなとよくわかりますね。表情や仕草、態度でいかに説明的な台詞を省けるかで、漫画ってのはすごく読みやすくなるんだなと。

 4部はデビュー前からデビュー直後まで個人サイト上で公開していた各種イラストです。水彩風の人物画もあればファンタジーなデフォルメ絵もあり、漫画もあり、なぜか料理の手順のイラストもありとごった煮。
 カラーで描かれてる幻想的な風景画のドチャクソなうまさに腰が抜けました。原画が欲しい。

 特に1部のイラストを見てて不思議な気分になってくるのが、ノームやドワーフ、あるいはオーガやオークなどの魅力。頭身が低くて肉付きが良くて、私たちの思う一般的な人間(トールマン)とは明らかに違う身体つきで描かれながら、そこにたしかに彼女らの種族としてのかわいらしさを感じられることです。
 (トールマンと違うという意味で)デフォルメの効いた、ろうたげなかわいさではなく、その種族内での成長した姿として描かれた上で、かわいさ、美しさがあります。トールマン基準の美しさ(等身や体の凹凸など)を各種族に当てはめた評価ではなく、その種族特有の体型から感じられるバランスの良さ。
 2巻のおまけ漫画でライオスがオークの女たちの美しさについて、人間と「基準はそんなに違わない」と言っていますが、鼻筋とか目の大きさとか乳房や尻の形とかについて、それがオーク内での美しさの基準になるという意味で、人間の美しさの基準をそのままオークに当てはめている(美しいオークは人間と同じ美しさを持っている)わけではないと思うんですよね。
 その意味で、なんか『異種族レビューアズ』を連想しちゃいましたね。フラットな視点で見れば、どの種族もその種族としての魅力があるんだなと(『異種族レビュアーズ』は単にフラットではなく、徹頭徹尾スケベという意味でのフラットですが)。

 ちなみに私の一番好きなイラストは、1部に掲載のイラスト番号042(45ページ)の踊るマルシル。微妙にダサいダンスを実に楽し気に踊るマルシルが実に楽しそうで本当に楽しそうで、もう最の高。


 ノリノリの表情もそうなんですが、指先の開きや手首の反り、膝の折れ、首の傾きなど、各部位の描写と全身の絶妙なバランスがあいまって、緻密に描かれているわけではないのに身体が躍動に溢れているんです。もちろんマルシルの体は服に隠れているんですが、その下の筋肉は正確無比の配置でイメージされているんだろうなと思ってしまいます。知らんけど。いやでもこの絵の人体のバランスと躍動感は感動的。

 1980円と少々お高い本ではありますが、満足感は半端なじゃないです。一日中見てられる。イラスト自体の魅力もさることながら、そのイラストから感じ取れる(気がする)九井先生の絵の描き方のスタンスであるとか、キャラ立ての考え方とか、そういうのを考えてもどんぶり三杯いけます。
 ファンならずとも、ぜひ紙の書籍で手に入れたい逸品。

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『葬送のフリーレン』「ヒンメルはもういないじゃない」人類と魔族を分かつ死者への思いの話

 正月の暇に飽かして『葬送のフリーレン』第1期を一気視しました。

 特に日常パートは、原作のシンとした雰囲気を活かしている、いいアニメ化ですね。

 ところで、放送以来マッハでオタクどものオモチャと化した断頭台のアウラ様ですが、フリーレンの怒りを買った彼女の言葉といえば、「ヒンメルはもういないじゃない。」。その言葉を聞いたフリーレンは、「やっぱりお前たち魔族は化物だ。容赦なく殺せる。」と殺意をあらわにしました。
 「ヒンメルはもういないじゃない」を聞いたフリーレンの反応から見れば、アウラが当たり前のように言ったこのセリフは、人類と魔族を決定的に分かつ思想の違いなのでしょう。

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『2.5次元の誘惑』コスプレ衣装を作る動機の言語化とその意味の話

 今年のアニメ化も決定している『2.5次元の誘惑』の最新刊。

 19巻で一番好きなコマはこれでした。

(p26)
 ひとり脚が上がりきってないマリ姉ェ……
 アリアの脚だけ筋肉質なのもいいですね。

 閑話休題
 19巻の後半から、夏コミでまゆらになんとかラスタロッテのコスプレをさせようとする話が始まりますが、その中で、各キャラクターに各々のコスプレをする理由、「なんでコスプレをしたいのか」を聞くシーンがあります。いわば動機の言語化。もともと本作では、意識や感覚の言語化をするシーンが何度となく登場しますが、19巻ではそれが顕著に描かれています。

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俺の俺マン2023の話

 あけましておめでとうございます。毎年恒例、年の初めの去年の総括です。
 すでに本家の俺マンは企画を休止しているようですが、毎年恒例ですのでそのまま続けていきます。
 勝手に決めた俺ギュレーションは

1,2023年中に発表された、もしくは単行本が出た作品で
2,その中でも特に心をつかまれた作品で
3,5作品
3,今まで選んだことのある作品はなるべく除外する(なるべく)

 となっています。
 それではどうぞ。

ダンジョン飯/九井諒子

 無事去年完結した作品。何はなくとも今年はこれは外せない。
 妹を助けようとダンジョンへ潜るために、持ち込む食材の節約をすべく(その実、昔からモンスター食に興味があったのですが)モンスターを食べるという、連載当時波が来はじめていたグルメ漫画のバリエーションかと思いきや、ギャグも理屈もストーリーの起伏も素晴らしく練りこまれており、終盤に行くとともに、生と死であるとか、欲望であるとかといった人の根源的な部分に踏み入っていく気配に楽しくも慄いていました。なんであの第一話からあんな最終盤につながれるんだ……
 各キャラクターが秘めていた過去が明らかになるにつれ、欲望というテーマとも相まって、暗い気持ちになるような描写も増え、それでいてその緊張を一瞬だけ消し去るギャグもこまめに挟まり、物語のテンポが絶妙。あんなにかわいくて面白いエルフは今後現れないんじゃないだろうか。
 全14巻で完結しましたが、これは全後世に語り継ぐべき作品。アニメも楽しみ。

●正反対な君と僕/阿賀沢紅茶

 陽キャなギャルと、「興味ないね」風なメガネ。パット見テンプレ的なキャラ付けをされそうな二人だけど、その心の中は、当然テンプレに回収されるものではなく、周りに流される自分が嫌だったり、自分にかまってくるギャルにドキドキしたりと、意外なことを考えては自分とは違う相手に惹かれて、自分とは違うからこそ何かの感受性が同じであることに心躍らせて。とかく、人の心は外からではわからないものなのです。
 主人公である陽キャギャル鈴木とクールメガネ谷以外にも、素直なネアカ山田、ノリ軽ギャル東、高校デビュー平といった個性豊かなサブキャラたちがいて、こんなテンプレ紹介には収まらない彼や彼女の内心が丁寧に描かれているのも至極よいですね。
 一言で言いきれない何とも言えない気持ちを表す(あるいは直截的に言うと角が立つので婉曲に不快を表現する)「モヤっとする」。いつの間にやら人口に膾炙するようになったこの超絶便利ワードは、どんな微妙な心の機微も一言で表現できてしまいますが、そのあまりにも広汎に使える便利さゆえにもはや具体的な意味を有さない言葉。でも、本作はその「モヤっとする」感情にきちんと具体的な言葉を補って言語化しようとしているので、強く読み手の「腑に落す」力があります。そこがいい。
 
●令和のダラさん/ともつか治臣 某怪談(2chの怖い話「姦姦蛇螺(かんかんだら)」|恐怖の泉)をベースにした化物と、令和を生きる子供たちとの心温まる交流譚。温まるか?
 山の神として畏れ崇められてきた荒魂・屋跨斑(やまたぎまだら)が、その山の守り人の家系である三十木谷日向・薫のきょうだいと出会い、「ダラさん」などという不敬極まりないあだ名をつけられその神威をメリメリと剝がされていくコメディで、傍若無人なきょうだいとそれに振り回されるダラさんのドタバタが楽しいです。
 でもただのドタバタコメディにとどまらないのが、各話の冒頭に挿入されている、かつて人間だったある女性がいかにして屋跨斑に成り果てたのかという過去の話そ。の凄惨さがダラさんの存在に凄みと悲壮を与えていて、だからこそ、適度な畏敬と適度な雑さで自分に接してくれる三十木谷きょうだいにダラさんの心根が救われているのが、物語に深みを与えているのです。

●隣のお姉さんが好き/藤近小梅

 隣の家の高校生のお姉さんに恋した中学生男子のラブ模様。先月に無事全4巻で完結。
 相手の心を推し量るには幼すぎる男子中学生・佑(たすく)は、初めはストレートに自分の感情をお姉さんに押し付けていたのを、自分の心情や相手の感情を言語化していくことを少しずつ覚えていき、その上で自分の心を再確認していく。
 他人に心を許すのが苦手な女子高生・心愛(しあ)は、初めはただのお隣さんとしか見ていなかった男の子のこっちの気持ちを考えない態度にうんざりしていたけど、鬱屈した自分にはないそのまっすぐな気持ちに少しずつほだされていく。
 大人になれば何でもないけど、中学生と高校生の三歳差はあまりにも大きい。それは、精神的にも、社会的にも。じゃあそれがどうやって詰められていくかというと、時間と成長なわけです。学生時代の三歳差が大人に比べて大きいのと同様、学生時代の一年というのはとても得るものが多い。それは、精神的にも、肉体的にも。男子三日会わざれば刮目して観よ、ではないですが、ふとした瞬間にたーくんの成長に、そして自分の気持ちの変化に気づいた心愛さんのかわいさったらないですね。
 『好きめが』に続き、こちらもワンちゃんアニメ化あるか?いや、コンプラ的にギリか……?

異世界サムライ/齋藤勁吾

 「武士道とは死ぬことと見つけたり」は『葉隠』が有名ですが、それを地で行くような女侍・月鍔ギンコ。関ヶ原の戦いで死にきれず、徳川の太平の世で強者と戦って死ぬことも許されず、自分の生きる意味に懊悩していた彼女がふとした拍子に飛ばされたのが、魔法とモンスターがはびこる異世界。凶悪なモンスターに人類が脅かされているその世界は、ギンコにとって己の命を賭けるに相応しいものでしたが、そんなギンコの性根は異世界の人間にとって完全な異物でした。
 ある者は彼女の強さに憧れを抱き、自分を助けてくれたことに感謝をし、またある者は世界の秩序を乱すものとして疑惑の目で見、疎んじる。善かれ悪しかれ目立つギンコ。で、当のギンコは、自分の腕を試せるモンスターを相手に惨殺三昧でご満悦。
 全き異物が異世界をどう掻きまわすのか。そして、ギンコの宿願は果たせるのか。血しぶく派手なアクションと、自分の信念に基づき何の罪悪感もなく刀を振るうギンコのせいで、妙な爽やかさのある作品です。現時点で2巻までなので、簡単に追いつけるぞ。

 以上5作品でした。他のノミネート作品としては

◎ギャグ・コメディ部門
となりのフィギュア原型師/丸井まお

 安心して読めるストーリー系4コマ。登場人物であるフィギュア原型師他のエッジの尖り方がいい塩梅で、心に負荷をかけずに楽しめます。
 ギャグでもストーリーでもエッジが効きすぎた作品て、面白いのはわかってても手を延ばすのにガッツがいることがありますが、そういうのが不要な本当にいい塩梅。癒し。

限界煩悩活劇オサム/ゲタバ子

 腐女子高生除霊師オサムが、オタクの霊の話を聞き、知らない分野であれば学び、時には拳でわかり合い、時には自分の煩悩に負けかけたりと、ドタバタハチャメチャしたコメディ。これまた会話運びやシーンのテンポの良い作品。

異世界部門
科学的に存在しうるクリーチャー娘の観察日誌/KAKERU

織津江大志の異世界クリ娘サバイバル日誌/原作・KAKERU 作画・瀬口たかひろ 前者の連載がスタートし、人気が出たところでサブキャラクターを主人公としたスピンオフがスタートした、同じ世界観の作品。簡単に言えば、R18の『Dr.STONE』です。魔法もチートスキルもなしに、ただ現代知識と技術だけもって亜人やモンスターが跋扈する世界に放り出されたら、その知識と技術でどう生きるか、という話です。まあ現代知識と言っても、両作の主人公は理系の大学に通って一般常識以上の基礎的な科学知識を持っていますし、後者の主人公は一人でも生き抜ける技術満載の古武術の使い手だったりするので、一般人が身一つ、というわけにはいきませんが。
 それはそれとして、とある事情で一定水準以下の科学技術にしなければいけない制約がある中で、主人公たちは水車や製紙や冷蔵庫などを異世界にもたらすのですが、そういう、私たちの身の回りに当たり前にある技術やモノの仕組みや成り立ちを教えてくれるのは、そういうの大好き侍なのでとても楽しいのです。
 R18なのは、前者の作品の主人公・栗結大輔の子供の頃からの夢が「クリーチャー娘のハーレムを作ること」なので、無事(?)クリーチャー娘(略してクリ娘)のいる異世界に飛ばされハーレムを作る、すなわちアッハンウッフンなことをしまくるからです。
 前者に時折ぶっこまれる、フェミニズムに対する強烈な敵意は読んでて消化のいいものではありませんので、そこだけは注意。

◎グルメ部門
ヤンキー君と科学ごはん/岡叶

 料理が「食材に、その特性に応じた科学的成分の付加、温度変化、その他物理的作用等を加え、人間の生体的システムに好感するよう作られたもの」であるならば、これまでの常識とは違っていても、科学的なアプローチによって美味しいものを作れるのではないか。そんなコンセプトの料理漫画です。
 高校を舞台に化学の教師とヤンキー学生が、化学実験のノリで作る料理は難しいものではなく、実際に作ることも容易。たぶん今まで読んだ料理系漫画で、揚げ物に対するハードルを一番下げてくれる気がしました。
 この作品は、料理を科学で、というアプローチで、感覚に理屈を与えているわけですが、「モヤっとした」気持ちに適切な言語を、というアプローチをしている『正反対な君と僕』とある意味で通じるものがあって、私はそういうものが好きなんでしょうね。

◎ホラー部門
怖い話はキくだけで/原作・梨 漫画・景山五月

 ふだんはエッセイ漫画を描いている作者が、編集者を通じて広く募った怖い体験談をもとに漫画を描いていく。初めは「怖い話って関わると本当になっちゃうから」と冗談半分にいうくらいに乗り気でなかったけれど、いろんな人のいろんな話を集めて、聞いて、描いていく、バラバラだったはずのものつながった線が見えてきたり、自分に身に変なことが起こるようになってきたり…という体のモキュメンタリー。
 聞いた話として描かれる怪談は、何かその土地に元々曰くがあったり、怪奇現象が能力者によって解決されるような、起承転結のはっきりしたものではなく、その中の「承転」だけが描かれるような、不条理感漂うもの。怪奇現象を聞き取りする作者は、その投げっぱなしの怖い話を聞いては、すっきりしないものを抱えながら怪談漫画に仕立て上げていくのですが、その不条理さが作者に忍び寄ってくる不穏さが、ぞっとさせてくれます。
 また、作画面でも、線の細い女性向け漫画調の絵と、エッセイ漫画的なデフォルメを利かせた絵が、語られているシーンの水準(作者が怪談を聞いている等の作者自身が描かれているシーンなのか、それとも誰かによって語られた怪談が作者によって漫画化されている(=作者がそこにはいない)シーンなのか)で使い分けられていることで、これは聞いた話を元にした創作物に過ぎないのだ、という体裁を出しつつ、それに過ぎないはずの不可思議な状況に作者が飲み込まれていく感じが出て、とても良いのです。こわいぞ。

 とまあこんな感じの2023年でした。今年もまた面白い漫画に出会えますように。

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『BLACK LAGOON』「信用」と「信頼」の違いと、「頼」るロックの信念の話

 メリークリスマス!!

 閑話休題、先日発売された『BLACK LAGOON』13巻。前巻から2年以上空いていますが、それ以前がよっぽど空いていたので、むしろ早いと思ってしまいますね。不思議不思議。

 さて、そんな13巻では、前巻から始まった〈五本指レ・サンク・ドワ〉編がちょうど終わりました。黒人の大男ばかりを狩るスーツ姿の女五人組、〈五本指〉が起こした事件の中で、ラグーン商会のボスにして知的なタフガイ・ダッチの知られざる過去が仄見えたり、レヴィの意外な面倒見の良さが現れたり、表の世界にシマを広げようとしてるバラライカが苦労したりと、血と硝煙でけぶるロアナプラに、また新たな一面が見えてきました。

 で、そんな事件もケリがつき、〈五本指〉の一人だったルマジュールをロアナプラに引き込んだレヴィ。仲間に見捨てられたルマジュールを生き残らせ、ホテル・モスクワとの和解を仲介し、街での生計や商売道具も見繕ってやるという、普段のガラッパチで刹那的な彼女からは思いもよらない面倒見の良さに、ロックも驚きました。

「随分と彼女の世話を焼くじゃないか。何が気に入った?」
「別に。」
「やっぱり慕われちゃ放っておけないか?」
「……殺しで飯を食ってるからよ。一つ、決めてることがある。
星の廻りで敵味方になるのは運命だが——良くしてくれるやつには良くしてやる。邪険にして無駄に恨まれることはねえ。
正面から撃たれても、背中から撃たれることはねえという—— ちょっとした願い・・だ。」
(13巻 p95,96)

 きったはったの緊張感の中で生きているからこそ、その緊張を緩めて精神を休めさせられる関係性が必要だ。レヴィはそう言うのです。
 彼女のそんな考えにロックは、「孤独じゃないと生きていけないタイプなのかと思ってた」と冗談半分本気半分で軽口をたたきますが、それをレヴィは静かに訂正しました。

何処に居たって孤独は毒だ。
それに――
信用と信頼は似てるが少し違う。頼るのは好かないし、頼られても困る。
(13巻 p97)

 信用と信頼。
 この二つのが違うものであると評するのを私が見たのは、これが二回目です。一度目は、往年のライトノベル無責任艦長タイラー』の中でした。

 C調スペースオペラの優として(ほかに追随した作品があるかは知りませんが)、リブート作品も含め50冊以上、漫画化にアニメ化もされた名作。さすがに30年も前の作品ですので正確にどの巻だったか記憶は定かではないですが、準主人公の一人であるススム・フジが、彼の副長であったミツル・スナガによって、アンドリュー・バーミンガムを紹介されたときのエピソードだったはずです。
 脱法的な輸送任務を依頼するにふさわしい人材として、スナガは悪友であるバーミンガムをススムに紹介するのですが、そのバーミンガムは「ちょろまかしのバーミンガム」とあだ名される、物資横領の常習犯。有能ではあっても遵法意識の極めて低い彼を紹介するときにスナガは、「信頼はしても信用はしない。そんな相手」(大意)と冗談めかして言ったのです。

 信用と信頼の違い。
 当時『タイラー』を読んだ私は、「能力には信をおくが、心根にはおけない」というニュアンスを、幼心に感じ取っていました。
 アウトローな感じ。能力ゆえに素行の悪さが見逃される感じ。悪友同士が軽口をたたき合う気の置けない感じ。そういう諸々もひっくるめてなんかカッケェと思い、いまだに記憶にガッチリ刻み込まれています。

 ですが、レヴィの言わんとしているところは、そんなブロマンス的ハードボイルドさとは違うようです。

「俺はお前を頼るし、頼られたいと思ってる。信頼・・しろよ。」
「おう、信用・・してるよ。」
(13巻 p98)

 ロックの「信頼・・しろよ」という言葉に「信用・・してるよ」と、わざわざ傍点を振って違いを強調して返すのです。ここには、『タイラー』のそれよりだいぶ虚無的で冷血的なものがあるように感じます。
 彼女の言わんとしているところは、まさに「信『用』」と「信『頼』」の違いで、「用いる」というのは自分を主体にして補佐的にあるいはビジネスライクに相手に信を置くこと。それに対して「頼る」というのは、ある場面での主導権を相手に任せた上で信を置くこと。そんな、自分と相手のどちらに主体・主導があるのか、という点に差異があるように思えるのです。
 それはとりもなおさず、このロアナプラという明日をも知れぬ危険な街で、彼女がどう生きてきたか、どう生きていたいかという信念、生き様を表しています。
 一人では生きていけないが、自分や場面の主導権を誰かに握らせてはいけない。「一個きっかり」の命、どうせ死ぬなら後悔しない死に方で、「正面から撃たれ」た方がマシ。
 群れてはいても一匹狼。そんなアウトローの生き方をまざまざと感じさせます。

 レヴィの言葉のの使い分けに、ロックがどう反応をしているのかは描かれていませんが、少なくとも先に「信頼」という言葉を使ったロックは、その言葉を彼女と同様にはとらえていないだろうし、あるいは彼女と同じような信念では生きていない。
 ならばロックの信念は何か。生き方は何か。
 ロベルタ編が終わったときの記事でも書きましたが
yamada10-07.hateblo.jp
yamada10-07.hateblo.jp
 端的にロックは、「面白さを求める」という享楽的な信念のために命を張っています。その命は、自分のものもだし、他人のものも。
 その後も各エピソードが描かれるたび、ロックのそのような面は表現されていますが、本エピソードのエピローグでも、張とカジノでルーレットに興じているときの問答で以下のようなものがあります。

「……依頼人に言われた。俺は——誰かの運命の、その行方・・が見たいんだと。」
「裁くのか? 泰山府君の様に。」
「それは俺の柄じゃない。だが、俺が指を添えることで——その人の運命のその先へ、辿り着くことができるかも。」
(13巻 p126,127)

 ロックの望む「面白さ」とは、誰かの運命の行く末。それがどこにいくか。自分が面白いと思えるところに収まるのか。それを見たい。
 ロックは何でも屋のラグーン商会に属する中で様々なトラブルに首を突っ込み、当事者のどちらにも肩入れせず、あるべきところに収めたい。それが彼の「面白さ」。昼でも夜でもない「夕闇」に立ち続けることでロックは、人の運命の行方を砂かぶりで見ようとするのです。
 でもそれは、非常に危うい立ち位置。

こう考えることはないか? 誰かの運命を変えたら――
お前自身も飲み込まれるかもしれん、傍観者ではなく… その当事者・・・になって。
俺は慎重なタチでな。そういう賭けは好ましくない。
(13巻 p128)

 張の忠告とも警告ともつかない言葉ですが、それにもロックは、例の悪い顔で返すのです。

ミスタ・張。そこまで肉薄しなけりゃ――… 誰かの人生のその先は・・・・・・・・・・見えないんですよ・・・・・・・・
(同上)

 彼自身は当事者になりません。あくまで、運命と対峙している誰かに指を添える傍観者。場の主役は相手に任せたまま、複雑な力場にほんの少し力を加えて状況を動かそうとするもの。
 だから彼は人を頼ります。場の主役は自分じゃなくていいから。
 主役なんてくそくらえ。自分はそれを最前列で楽しめる観客でありたい。
 あくまで自分は傍観者でいる。でもそれは当事者のすぐ隣。他人を呑み込む運命のすぐ隣。一歩踏み外せば簡単に奈落へ転落する際であろうと、そこでなければ楽しめないものがあるなら、自分はそこに立つ。
 それがロックの信念なのです。

 「信用」と「信頼」の違いから、ロックの信念にまで話が脱線していきました。おかしいな…タイラーの話をしてるときはこんな風になるとは思ってなかったんだけど……
 とまれ、また一歩ロアナプラのトラブルバスターにして、地獄の舞台のVIPシートギャラリーに近づいたロック。さあ14巻はいつになるかな……

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男児の写真から始まる「夢のような」読後感の物語 『遠い日の陽』の話

 11月の頭と終わりで気温が10度も違いますね。あっという間に冬。
 どうも、御無沙汰してました。

 それはそれとして、今日はモーニングの読み切りで掲載されたこちらの作品の感想です。
comic-days.com
 人生に空虚を感じている高校生が、フリマサイトでたまたま目に留まった、とある男性の子供時代の写真を購入するところから始まる、なんとも玄妙な味わいの物語。何か奇跡が起こるわけでもない、不思議なことが起こるわけでもない、でも読後に心の癒しとささくれを感じるような、えも言われぬ作品なのです。
 一言で言えば、夢のような読後感。
 でもそれは、明るさに満ち溢れた、とか、自分の思いがかなう、とかいうようなポジティブなものではなく、文字通りの意味。すなわち、地に足のつかない落ち着かなさ、ディティールがはっきりしないのに状況がすっかりわかってしまっているような謎の全知感、思い返してあれは何だったのかと首をひねってしまうような不可解さ、そんな、まさに寝ているときに見るあの夢を起きながらにして見たような読後感なのです。

 主人公の男子高校生・青木が、なぜかもわからず男児の写真に猛烈に惹かれること。
 その男児本人(が成長した大人)である出品者・ちひろと、フリマサイト上の売買だけで奇妙なコミュニケーションが成立すること。
 ちひろから写真と一緒に直筆の手紙が送られてくること。
 奇妙なコミュニケーションと写真で、少しだけ青木の生き方が変わったこと。
 ちひろの身に起きていた出来事。
 その出来事の後にまた起こった二人の交流。

 この一連の流れが読み手には、大抵の夢がそうであるように、シーンの状況が限定的にしかわからないのになぜか全体が把握できてる気になったり、シーンとシーンの間が大きく跳ぶのにその間に何が起こっていたのか了解できてる気になったり、そんなこと早々起こらんやろって普通なら思うことでもまああるよねと納得した気になったりという風に受け止められます。
 それはキャラクターの情報が最低限に抑制されている、でも想像させる必要な分は描写されているためなのかもしれません。
 キャラクターの行動に脈絡はなくとも筋は通っているからかもしれません。
 ちひろが一度も直接登場することなく、すべて青木のフィルターを通す形で現れ、すべて青木の独り相撲であるからかもしれません。

 あるいは絵の面で言えば、カケアミが多用され、暗くて重いのに明るくて軽いという相反する絵の印象があり、それもまた、夢のようなどこまでも広がる閉塞感を生み出していると言えるでしょう。線の疎密で濃淡を表すカケアミには、黒い(濃い)部分にも白(何も描かれていないところ)があるため、完全に塗りつぶされていない限り光が含まれています。そのため、色のついている部分でもどこか空気を含んだような軽さがあり、同時に線を描きこまれているが故の重さもあるのです。
 特に、ちひろから手紙をもらった後の青木の夢は、他の人が登場しないこともあり、二人だけの閉じた世界、という印象が強くあります。

 すべてが夢の中のようなふわふわした物語は、そこに喜びや怒りや哀しさや楽しさがあっても、薄膜一枚隔てたようでどこか現実感がありません。でもそれは決して悪い意味ではなく、実生活ではまず味わえない、「漫画を読む」という、物語の鑑賞を通さなくては味わえない類の体験なのです。
 この作品から意識して何か意味を汲み取ろうというのはきっと野暮なことで、まずはこの物語の空気に身を浸し、生身では早々得られない感覚を楽しんでほしいものです。夢と違って、何度でも繰り返し味わえるのが漫画の良いところなのですから。
 でも、きっと何度か読んだ後に、心の中に不思議な癒しと、どこかひっかかるささくれができていることに気が付くと思うのです。私がそうでしたから。

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